13
稲荷がくれた苺は、お菓子に入れても美味しかったが、そのまま食べてもとても美味しかった。濃厚な甘みに、僅かな酸味、瑞々しい果肉。七緒は高級な苺を食べたことがないのだが、きっとこんな感じなのだろうと思えるくらいの質の高さだった。
家族も食べる手が止まらなかったようで、大量にあった苺は二日ほどで無くなってしまった。
稲荷からはお礼として貰ったものだが、美味しい苺のお礼にと七緒は先日も行った和菓子屋で団子や餅を買って稲荷の元に向かった。
「稲荷さん、こんにちは」
祠の裏に入り、そう声を掛けたのだが、いつもと違ってどこか静まり返っているような気がした。
七緒は辺りを見回す。
生い茂っている苺の苗はいくつもの実が付いている。赤く色付いたものもあれば、まだまだなり始めたばかりなのか、白っぽかったり青っぽかったりしているものもある。
いつものなら稲荷か管狐が世話をしているのだが、どちらの姿も一向に見当たらなかった。
何処かに出掛けているのだろうか。それとも、老婦人に苺をあげるという目標は達成したからもう世話をする必要がないのだろうか。
そんなことを考えながら苺畑の縁に沿って歩いていると、やや奥まった所に白い毛の塊が見えた。
「あ、稲荷さん、苺のお礼に和菓子を持って――」
そう声を掛けて、何か様子がおかしいことに気付き、七緒は言葉を途切れさせた。
最初は地面で丸くなって眠っているのかと思った。だが、力なく四肢を投げ出している様は眠っているというよりも倒れているかのようで――。
何より、耳も尻尾も、胴体さえも、全く動いていないのだ。
「稲荷さん……?」
嫌な予感が胸を満たし、七緒は無意識の内に駆け出していた。
「稲荷さん! あの、大丈夫ですか!?」
声に反応してくれないだろうかと大きな声を上げるが、いつも音に反応して動く耳もぴくりとも動かない。
「稲荷さんっ」
七緒はしゃがみ込んで狐の姿をしている稲荷へと手を伸ばす。
無闇に触れてはならないと、陵の忠告が咄嗟に頭をよぎったが、それでも確認せずにはいられなくて恐る恐るその胴体に触れた。
(あ……)
七緒が触れても、稲荷の身体は何の反応も返さなかった。
外気に触れていたからか、白い毛皮はほんのり冷たく、じっと触っていても温もりは伝わってこない。鼓動も、呼吸に合わせて胸が上下する感覚も、全く感じられない。
目の奥から、涙が溢れてくるのが分かった。
七緒は震える手でバッグから携帯を取り出す。渉に連絡をしようとメールを開いて、けれども手が震えて文字が打てず、緊急時にと教えてもらっていた電話番号に電話を掛けた。
まだ店は営業中だ。迷惑になるとは分かっていても、通話終了のボタンを押すことができず、だったらもうこのまま留守電に繋がって欲しい等と思ったが、七緒の期待とは裏腹に、暫くコール音が続いた後電話が繋がった。
「――もしもし? 相模さん?」
携帯越しに渉の声が聞こえ、七緒は「あ……」と一瞬言葉を詰まらせる。
「あの……すみません……お仕事中なのに……」
「ちょうど手が空いてたから大丈夫だよ。急に電話なんて、何かあった?」
電話の向こうからは雑音など聞こえない。きっと静かな場所に移動したのだろう。
更に申し訳なくなりながら、電話が繋がってしまった以上、ちゃんと説明しなければと七緒は口を開く。
「あの、稲荷さんが……全然……その、動かなくて、それで……」
自分で言葉にすれば更にそれが身に染みて感じられ、目から涙が零れていった。
ぐす、と七緒は軽く鼻をすする。
「私……どうしたら、いいか……」
分からなくなって電話したのだと、最後まできちんと説明もできないまま、七緒はぼろぼろと涙を零す。
「ごめ、なさい……」
僅かな沈黙の後、携帯越しに「今から行くから、そこにいて」と渉の声が聞こえた。
店があるのに、と断ろうとしたが、それよりも早く通話が切れて、無機質な機械音が断続的に耳元で鳴る。
更に迷惑を掛けるなら電話なんてしなければ良かったと後悔しながらも、他に頼れる相手もいないだけに、どこかほっとしている自分もいた。
ごめんなさい、と呟いて、七緒は通話終了のボタンを押した。
それから程なくして、渉が祠の裏へとやって来た。気持ちを落ち着かせて涙を拭う時間は十分にあったが、平静を装うには少し時間が足りず、七緒は最後にもう一度目元を擦った。
「相模さん、稲荷は?」
「あ、えっと、ここに……」
渉の位置からは苺畑に隠れて見えなかったのだろう。七緒は足元を示す。
「すみません、お仕事中だったのに……」
「いや、いいよ。今日はお客さんも少なかったし、陵君もいたから」
渉はそう言いながら屈み、すっと表情を真剣なものに変えて稲荷の身体に触れた。
「……あの、稲荷さんは……死んでしまったんですか……?」
「極僅かにだけど、まだ神気が感じられるから、死んではいないよ……多分、力を使い切って休眠しているような状態なんだと思う……」
「じゃあ、大丈夫ってことなんですね……?」
安心したくて七緒はそう尋ねるが、渉は難しい顔をしたままだった。
「さぁ、そこは何とも……元々、信仰が薄れて力をほとんど失ってる状態だったからね。兄さんが清めただけで人の姿を取れるようになったことが、僕としては驚きだったから……相模さんが言ってた人にお礼をしたい一心で無理をしてたんだろうね……」
稲荷は、消えるならば老婦人にお礼をしてから消えた方が良いと言っていた。たとえ無理をしても、苺を育てることの方を優先したのだろう。
「稲荷さん、誰も祀らなくなったから、消えるかもしれないって言ってました……神様は死ぬと消えてしまうんですか……? でも、逆に言ったら、稲荷さんは今ここにいるから、大丈夫ってことなんじゃ……」
「僕も、神様が亡くなるところに立ち会ったことはないんだけど、稲荷が言ったように、亡くなる時は多分消えるんだと思う。ただ、この稲荷は元が狐だったから、身体はここに残ったまま神格だけ消える可能性もあると思う……」
「神格……」
「稲荷を神様たらしめている力、って言うのかな……それが無くなると神様でなくなるんだけど、他の神と違って、稲荷の場合は消えずにただの狐に戻る。ただ、狐としてはあり得ない程の寿命になるから、そのまま狐として身体はここに残して死ぬかもしれない……」
稲荷の身体がここにあるからと言って、安心はできないということだ。
「そん、な……」
「取り敢えず、ここに寝かせておくのはあんまりだから移そうか……寝床はあそこかな?」
渉が視線を向けている方向を見れば、一番大きな木の根元に洞があるのに気付いた。
渉は躊躇う素振りも見せず稲荷の身体を抱き上げて、木の洞の中に寝かせる。
そうして、何かを探すように辺りを見回した。
「管狐もいた筈だけど見当たらないな……相模さんが来た時はいた?」
「いえ、今日は見てないです……」
七緒も辺りを見回すが、黄色い毛玉は見当たらないし、苺の苗が不自然に揺れている場所もない。
「気配も感じられないし、管狐の方は消えたかな……」
「え……」
「あれは稲荷と違って元が狐という訳ではなさそうだったからね……」
「死んじゃったって、ことですか……?」
「元々生き物じゃなくて稲荷の力に依存してる存在だから、稲荷の力が戻ればまた現れるかもしれないけど……稲荷が弱ったままだともう現れないかもしれないね……」
「そう、ですか……」
稲荷と違って話をしたわけではないが、小さい身体で懸命に苺を育てたり収穫したりしていた姿を思い返すと、遣る瀬無い思いが胸を満たす。
「あの、店長さん、私に何かできることないですか……?」
「今まで通り、祠の管理をするうことかな……小さくても神様だから、人々の信仰や祈りが糧になる。ただ、それでどうにかなる確証はないから、それだけは覚えておいて」
人々の信仰や祈り――。それは稲荷が既に失ったものだ。
老婦人が祠の掃除などはしていたようだが、稲荷が徐々に力を失っていったことを考えると、人一人の祈りでは足りないということだろう。そしてまた、七緒も一人だ。
「あの、店長さんは……!」
稲荷の為に何か力を貸してくれないだろうか。そう声を掛けたかったが、渉は困ったように微笑うだけだった。
「ごめんね。僕は神社の人間だから……神様って意外と嫉妬深いから、縁も所縁もない神様に良くしちゃうと良い顔されないんだ……」
「あ……そういうの、ありますよね……すみません、お家の事情とか、よく分かってなくて……」
「家が神社とか、特殊な方だから分からなくても仕方ないよ」
渉はそう言って苦笑する。
以前、陵が渉の感覚がずれていると言っていたが、きっと渉本人はある程度自覚しているのだろう。
他に何か方法はないかと七緒は考えるが、地域の住人に呼び掛けて協力してもらえるかと言えば、きっと期待はできない。
近くに住む七緒ですら、ここに稲荷の祠があることを知らなかったのだ。この通りの住人なら兎も角、関心がなければ存在すら知らないだろう。仮に七緒が呼び掛けて祠のことを知ったとしても、住宅街であるこの辺りの住人には、稲荷に祈る理由がない。
自分一人しかいないのだ、稲荷の為に祈ることができるのは。
「稲荷さんの力になれるかは分かりませんが、それでも何もしないなんてできないと思うので、自分にできることはしたいと思います……」
「うん。稲荷も喜ぶと思うよ」
せめて、そうあって欲しい。七緒はそう思いながら渉の言葉に頷いた。
その日以降、七緒は毎日のように稲荷の祠に通った。
周囲を掃除し、花瓶の水を替え、お供え物をして、稲荷が目を覚ますようにと祈る。暇を持て余しているというのもあるかもしれないが、稲荷のことを考えると他のことをしようという気分になれない。
七緒は祠の裏の空き地に入る。
苺の苗は変わらず青々としていて実も付けているが、何処か違和感があった。
(赤い実が増えてない……?)
先日も白かった実が、未だに白いような気がするのだ。恐ろしい程成長が早かった苺が、今は時が止まってしまったかのように少しも変わっていないように見える。
(でも、それが普通か……)
苺の育て方を改めて調べたが、本来は花が咲いてから苺が赤くなるまでに一月程かかるらしい。
オガタマも七緒の元に戻ってきたし、稲荷も眠っている状態であれば、成長も早まったりしないのだろう。
七緒は空き地の奥まで歩いていき、洞のある木の根元にしゃがみ込む。
稲荷は、昨日と変わらず四肢を投げ出した状態で眠っている。
七緒はそっと手を伸ばして稲荷の身体に触れた。気安く触れてはいけないというのは分かっているが、確かめずにはいられないのだ。
朝の冷気で冷えてしまったのか、触れた毛皮はいつも以上にひんやりとしていた。鼓動も全く伝わってこない。
稲荷がこのような状態になって一週間。七緒は来る日も来る日もこうして稲荷の様子を確認したが、少しも快方に向かう気配はなかった。
やはり、一人だけでは何の力にもなれないのだ。
無力だと分かっても何もせずにいるのは忍びなく、七緒は首に巻いていたマフラーを外して稲荷の身体に掛ける。
これで少しでも身体が温かくなってくれれば、と願っていると、不意に後ろから陵の声が聞こえてきた。
「あんた、まだここに出入りしてんの?」
七緒は後ろを振り返りながら立ち上がる。
「はい……稲荷さんのことが気になって……」
さっき稲荷の身体に触れていたのも見られていたのだろうか。少しばつが悪い気持ちになっていると、陵は盛大に溜め息を吐く。
「やっと苺の件が片付いたってのに……ここから出られなくなっても知らないからな」
(出られなくなる……?)
七緒は内心首を傾げた。
ここは道路に面した空き地だ。入り口は祠があるので少し狭くなっているが、それ以外に門などはなく、常に自由に出入りできる。
稲荷のことが気になりすぎて、気持ち的に出たくなくなるという意味だろうか。
「家にはちゃんと帰ってますけど……?」
そういう意味じゃねぇよ、と陵が呟く声が微かに聞こえた。
「毎日ここに来てんのか」
「えっと、そうですね……特にやることもなくて、暇なので……」
はぁ、と陵はもう一度溜め息を吐いてから口を開いた。
「ちょっと来い」
そう言って空き地の外へと向かう陵に、何か話があるのかもしれないと、七緒は慌てて付いていく。
先に通りへと出た陵は、誰かに電話を掛けていた。
「今から相模連れて行きます」
突然自分の名前を出され、「え?」と困惑していると、陵は近くにあったオートバイの荷物入れからヘルメットを一つ取り出した。
「バイク……?」
原付バイクではない、自動二輪と呼ばれるタイプのものだ。
「陵さんのですか?」
普段は電車を使っているのではないかと、以前の会話を思い返しながら頭を捻る。
「ちょっと出掛ける用事があったから」
そう言いながら、陵は取り出したヘルメットを七緒の方へと投げてくる。
「えっ、ちょっ……!」
どうにか落とさずに受け止めていると、その間に陵はフルフェイスのヘルメットを被ってバイクに跨っていた。
「それ被って後ろ乗って」
陵は顎で後部座席を示すが、七緒は話に付いていけておらず、その場で固まる。
「あの、陵さん、どこに――」
「いいから乗れ」
有無を言わさない口調に、七緒は思わず身震いをした。フルフェイスのヘルメットで陵の顔は見えていないのに、何故か陵の顔を見た時のような怖さを感じた。
「早くして」
更に催促され、七緒は慌ててヘルメットを被り、バイクの後部座席に跨る。
バイクなんて乗るのは初めてだ。乗り方はこうでいいのかと自問自答している間に、陵はエンジンをかけてアクセルを回している。
「掴まってて」
「えっと、どこに……」
「腰」
触っていいのか? と七緒の中で疑問が頭を擡げた。
カフェに来る女性客がちょっと見ただけで騒ぐようなイケメンだ。腰とか、普段触らないようなところを触ってもいいのだろうか。
「落ちたいならそのままでもいいけど」
「それは困ります!」
七緒の些細な葛藤は、陵の言葉で打ち消された。
そもそも自分は何故こんな状況になっているのだろうか。少し冷静になった頭で七緒は考える。
「あの、陵さん、一体どこに……」
「カフェ」
カフェ。カフェとはもしかしなくても陽だまりカフェのことだろうか。
「あ、あの、私、財布持ってきてないんですけど……!」
「気にしなくていい」
いや気にします! と突っ込む前に、バイクは走り出していた。
「――それで、いきなり連れて来られたんだ?」
カウンター席で渉にそう言われ、七緒は「はい」と首を竦めながら頷く。陵は仕事があるのか、七緒を下ろすとすぐに店の裏へと入っていった。
携帯しか持っていない状況で飲食店にいる事実が何とも心地良くない。
「あの、ここって、キャッシュレス決済とか……」
「してないね。そこまでお客さん多くないから」
「そうですか……」
七緒はしょんぼりと肩を落とす。
「連れて来たのは陵君なんだし、陵君に奢ってもらえば?」
「い、いいえ、そんな……! そこまで迷惑は……!」
「先に陵君が迷惑かけてるんだけどね……」
まあ、と渉は少し口調を変えた。
「偶には気分転換した方が良いと思うよ? 陵君から聞いたけど、ずっと稲荷の所に通ってたんだって?」
「は、はい……」
「神様を大事にすることは良いことだし、僕は家の都合であんまり手が出せないから、相模さんが色々としてくれるのは嬉しいけど、ちょっとのめり込み過ぎてるかなと思うよ」
七緒はその言葉に何も返せなかった。
自覚はある。家にいても、ふと気が付くと稲荷のことを気にしているし、漫画や小説どころかいつも観ているテレビ番組さえ楽しめなくなっている。
「少し顔色も良くないように見えるけど、ご飯とかはちゃんと食べれてるんだよね……?」
「はい、それは……」
「じゃあ、丁司さんに何か作ってもらおうか。今度来た時はご飯も食べる約束したって丁司さんから聞いたよ?」
(あ……)
鴉を追い払ってもらった時に丁司とした約束だ。この前苺を届けに来た時は兎も角、今日は昼前で丁司もまだ店にいる。渉に言われるまで忘れていたことに気付き、七緒は更に落ち込む。
「あ、でも、お金……」
約束は守りたいが、今日は財布がないのだ。今度来た時に延期させて貰えないだろうかと思ったが、ちょうど奥から陵が出てきて、「貸しにする」と短く言った。
「今度来た時返して」
そう言って、陵はテーブル席を拭きに行ってしまった。
奢られるよりも良いと、七緒は「はい」と小さく返事する。
「じゃあ、丁司さんに言ってくるね」
メニューを見てあれこれと選ぶ気分ではないのが分かったのだろうか。渉はそう言うとキッチンの方へと言ってしまった。
カウンター席に座ったまま、ぼんやりと待つこと十数分。
「はい、お待たせ」
という言葉と共にカウンターテーブルに置かれたのはオムライスが載った皿だった。オムライスは以前にも注文したことがあるが、今日はトマトソースではなく深い茶色のソースが掛かっている。
一瞬デミグラスソースかと思ったが、バターの香りはそれ程なく、ソースはやや赤みがかっている。
「ハヤシライスのソースですか……?」
「そう、オムハヤシ。オムライスは前に注文してたから好きかなと思って」
ちゃんと色々気にして注文してくれたようだ。
「ありがとうございます」
七緒は、いただきます、と手を合わせてスプーンを手に取る。
端から一口分スプーンで掬うと、卵の中からケチャップライスが見えた。
湯気の立つそれに軽く息を吹きかけてからスプーンを口の中に運ぶ。
まず口の中に広がったのは濃厚なハヤシソースだった。バターのコクに牛肉や玉葱の旨味、そこにほんのりとトマトの酸味が交ざり合っている。
(美味しい……)
一口でそう感じる程にソースが、卵とケチャップライスで少しまろやかになる。
トマトソースのオムライスも美味しかったが、このオムハヤシも絶品だ。
そう思ったのに、いつもならもっと感激して早く食べたいと手が動くのに、いつものように感じられない自分がいるのに気付いて、七緒は手を止めた。
これでは丁司さんに申し訳ない、そう思った瞬間、目から涙が零れていた。
「えっ、相模さん、大丈夫……?」
渉が驚いたように声を掛けてくる。
ぽろぽろと涙が更に二、三粒落ち、七緒は反対の手で目を拭った。
「ごめんなさい……美味しいんです……美味しいけど、なんか、気持ちが……」
どうしても、付いてこないのだ。
稲荷があのような状態で、自分は少しも稲荷の力になれなくて、このままでは稲荷が消えてしまうかもしれないのに、七緒は無力でいるしかないのだ。
「いや、急に連れてきたのはこっちだし、気分転換してもらえたら良かったんだけど、ご飯の気分じゃない時にご飯出されても困るよね……」
七緒は涙を零しながら首を横に振る。
陵の行動には戸惑ったが、渉達の気遣いは嬉しいのだ。鬱々としているのは確かだったから、今思い返せば陵の行動にだって気が紛れていた。
もっと上手に切り替えられたらいいのに、それが出来ずに結局こんな風に泣いてしまっているところが情けなくて仕方ない。
「そんなこと、ないです……美味しいご飯、作ってもらったのに……私、ぜんぜん――」
楽しく食べられていないのだ、と口にしようとしたところで、頭の上に誰かの大きな手が乗った。
「無理をしなくていい」
丁司だった。いつの間に奥から出てきたのか、丁司は七緒の頭をぽんぽんと数度叩く。
「食事は毎日のことだ。気分が乗る時もあれば乗らない時もあるだろう。食べて心が慰められる時もあれば、そうでない時もある。常に楽しんで食べる必要がある訳ではない」
その言葉に更に涙が流れる。
「陵、顔を拭くものを渡してやれ」
丁司は言いたいことを言って満足したのか、そう言って奥へと戻っていった。
礼を言うこともできず、ただ鼻を啜っていると、陵がカウンターに布のおしぼりを置いた。
「あんた、気にし過ぎなんだよ。稲荷はやりたいことやれたから満足だろ。ほとんど力もないのにそれを無理やり使ったんだ、こうなることも分かった上だろう」
陵の言う通り、稲荷は分かっていたのかもしれない。
一度は失敗して、成功する望みも薄い状態でオガタマを見付けたが、それだけでは不十分なことも、七緒が祠の掃除などをしたところで力が戻るわけではないことも、稲荷は知っていたのだろう。
七緒が責任を感じることではない。きっとその通りだ。
それでも、懸命に苺を育てていた姿が健気で、七緒の手伝いを心から喜んでくれていた姿が微笑ましくて、もうそんな姿が見れないかと思うと寂しくてたまらないのだ。
「分かってます……でも、私が、稲荷さんに消えて欲しくないんです……!」
他の誰でもない、自分がそう望んでいるのだと口にしたが、結局、稲荷に執着してしまっていることに変わりはない。それは分かっていないのと同じではないか。
自分で言った言葉に対してそんな考えがよぎるが、何であれ、思いを言葉にして出したのが良かったのか、胸の中が幾分かすっきりとしていた。
「だったら好きにしたら。出られなくなっても知らないって忠告はしたし」
陵はそれだけを言うと、店の奥へと去っていった。
呆れたのだろうか。七緒が気にしないようにと陵はあんな言葉を掛けてくれたのだろうが、七緒は結局気持ちを切り替えることはできなかった。
「陵君、あれで結構心配してるから、言い方が優しくないのは気にしないであげて。本当に無関心なら、相模さんをここに連れて来たりしないし」
「はい……」
七緒は鼻を啜りながら渉の言葉に頷く。
「僕の予想なんだけど、多分、相模さんに吐き出させたかったんだと思う。気持ちでも考えでも、全部自分の中に溜め込んでると心が重くなる一方だから」
そう言われて、先程自分思いを吐露した時に少しだけ胸が軽くなったのを思い出した。
「稲荷の話とかは、視えない人達には言い辛いだろうし、吐き出したい時はいつでもおいで。稲荷のことで力にはなれないけど、話なら聞けるから」
「はい、ありがとうございます……」
気持ちが落ち着くまで待ってから、七緒はちまちまとオムハヤシを口にし始めた。
少し冷めてしまったが、それでも丁司の作った料理は美味しい。
まだ食事を楽しむこと自体はできないが、先程と違って少し心が慰められているような気がした。
その後、渉に紅茶を淹れてもらい、ほっとしたところで家に帰ることになった。
最初は電車で帰ると言ったのだが、七緒を載せる準備をして待っていた陵がヘルメットを投げて寄越すので、結局陵に家まで送ってもらうことになった。
店でのやり取りで、七緒としては少し気まずかったのだが、陵は気にしていないのか、特に何も言わずにバイクを走らせている。
(いっぱい、気を遣ってもらった……)
気にし過ぎだという言葉も、やはり、七緒の気持ちが軽くなるようにと思ってのことだろう。七緒があの言葉に納得しても良かったし、渉が言っていたように気持ちを吐き出せればそれで良いと思ってくれていたのかもしれない。
七緒はあの時、陵に呆れられたと思ったが、本当に呆れて見放したのであれば、こんな風に送り届けてくれたりしないだろう。
「あの、陵さん……」
赤信号でバイクが止まり、七緒は背中越しに陵に声を掛ける。
「何?」
「ありがとうございます、たくさんしてもらって……今日の分のお金、今度持って行きます。あと、お礼もきちんとしたいので、させて下さい……」
この前みたいなことになっては、と先にお願いをすれば、陵は軽く溜め息を吐いた。
「断っても、諦めなさそうだな……」
「もちろんです」
「じゃあ、内容考えとく。要らないものとか貰っても仕方ないから、それに合わせて」
かなり前向きな返答が帰ってきて、七緒は密かに驚く。
「はい、分かりました。いつでも言って下さい」
バイクはいつの間にかよく見知ったエリアへと入っていた。
七緒はバイクから下りた後、陵に礼を言って陵がバイクで走り去っていくところを見送る。
家を出る時には、こんなことになるとは全く想像していなかった。
予想外の遅い帰宅になったが、あのまま鬱々とした気持ちを抱えているよりは遥かにましだ。
(少しだけ、前向きになれたかもしれない……)
明日はもう少し違う気持ちで稲荷のところに行ってみよう。
そんな風に思えて、七緒は自然と笑みを浮かべていた。
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