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 一口に鴉対策と言っても、手段は色々あるようだった。

 一番効果がありそうなのは鳥除けのネットを張ることだが、あの広さの空き地を覆うネットがすぐに手に入るとは思えないし、設置も困難だ。

 他には音を鳴らしたり、反射材を設置したり、点滴の動物の置き物を置くという方法もあるようだが、普通の鴉よりも賢そうなあの鴉達に効くのかと思うと不安が残る。

 兎にも角にも、再び鴉が襲ってきていないか心配で、七緒は翌日も朝から稲荷の元へと赴いた。

 祠の裏の空き地へと入り、まずは鴉がいないことに安堵したが、苺畑の様子を見て七緒は数度瞬きをした。

 まだまだ青かった苺が、赤く色付いている。半分以上はもう赤くなっているだろうか。

 ここの苺の成長の速さは分かっているつもりだったが、こうして目の当たりにするとやはり言葉を失ってしまう。

「そなた! 今日も来てくれたのか!」

「稲荷さん、おはようございます……苺、赤くなってますね……」

「ああ! 最初になり始めたのは昨日から赤くなっておったが、今日はこの通りじゃ!」

「そうだったんですね……」

 昨日既に赤くなっている実もあったようだ。鴉を追い払うことで精一杯で、全く気付かなかった。

(真ん中らへんは本当に密集してるから、できるだけ入らないようにしてたしな……)

「もうすぐ収穫できますかね?」

「ああ。まだ最初の実も熟れておらぬが、明日か明後日には熟れておるじゃろう」

 一日だけで良いのだろうか、と不安になるが、稲荷が言うのだから大丈夫なのだろうと七緒は自分に言い聞かせる。

「収穫するなら籠か何か、入れ物が要りますよね? 稲荷さん、持ってますか?」

 稲荷は七緒の顔を見上げて固まる。何を言っているのか分からない、とその目が語っている。

「あ、えっと、お婆さんにあげるのは一粒ですか? それだったら、そのまま持って行っても大丈夫だと思うんですけど……」

「否! たくさんじゃ! ここの苺全部は無理じゃろうが、最初に熟れた実は全部あの者にやろうと思っておる!」

「じゃあ、籠か何か要りますね……」

「そ、そうじゃな……失念しておった……」

 稲荷はしゅんと耳を伏せて項垂れる。

 元が狐な上に神様になってからも籠が必要となるような場面もなかったのだろう。使ったことがなければ思い付かないのも仕方ない。

 童話で出てきた狐は、大きな葉の上に獲った物を乗せていたな、と七緒は幼い頃の記憶を思い出した。

「籠か……籠編みは昔皆がやっておったから作り方は分かる……竹を何処かで手に入れれば良いか……?」

「え、自分で作るんですか!?」

 思わずそう口にしたが、そうだ、稲荷には店で買うという発想もないのだ。

 普通に言葉が交わせるため失念しがちだが、稲荷は人ではなく神だ。それも古くから存在している神である。必用な物は作るのではなく買うという現代社会の感覚はおよそ持ち合わせていないに違いない。

 何を言っているのだ、と稲荷は不思議そうに首を傾げる。

「ええと、竹から仕入れて作ってたら、明日中に籠が完成しないと思うんです……家にある物とか、安い物とかで良ければ、私が持ってきますよ……?」

「おお! 持ってきてくれるのか! 竹を取りに行くのにも難儀すると思っておったのじゃ!」

 小さな稲荷が大竹を引き摺って道を行く姿を想像して七緒は苦笑いを浮かべる。

「鴉も来てないみたいですし、ちょっと探しに行ってきますね」

「ああ、頼むぞ!」

 七緒は一旦稲荷に別れを告げ、家へと帰った。

 台所や居間などを探したが、取っ手の付いたちょうど良い大きさの竹籠はなく、安価な商品が並ぶ雑貨店へと向かった。

 形や大小が様々な竹籠を眺めながら、そういえばお遣いをしていたあの柴犬が持っていたのも竹籠だったと思い出す。

 あの籠は柴犬が銜えて運び易いように大きさや取っ手の長さなども考えられていたように感じられる。

(稲荷さんは人の姿をしているけど、身長は子供と変わらないし、少し小さめの方がいいよね)

 あとは苺を何個も積み重ねると重みで潰れてしまうだろう。籠の部分は深くなく、広めの方が良いかもしれない。

 ああだこうだと悩みつつ籠を決め、更に竹の網目で苺が傷つかないよう、籠に敷く柔らかめの布も購入した。

 その二つを稲荷の元に届ければ、それで今日の七緒の役目は終わった。

 籠と布を届けた時も鴉の姿はなかったし、雑草も目立つほど伸びてはいない。祠の掃除も昨日してため、七緒は無事に苺が収穫できるよう祈りながら帰路へと着いた。

 そうして翌日は、朝ベッドから出るのを躊躇うくらい冷え込んでいた。今季最後の寒波だろうと話す気象予報士の声を聞きながら、七緒は窓の外に目を向ける。

 起きた時には降り始めていた雨は、今はみぞれへと変わっている。苺のことは気になるが、祠の裏はきっと雨でぬかるんでいるだろう。

 不用意に行って苺に何かあってはいけないと、七緒は稲荷の所へ行くのを断念した。

 その次の日には、七緒の住む地域では寒波が去ったらしく、午前中には寒さが和らいでいた。

 昨日の雨で苺は駄目になっていないだろうかと、心配しながら祠へと向かえば、苺畑は赤く熟した苺でいっぱいになっていた。

(良かった、昨日の雨の影響はなかったんだ)

 七緒はほっと息を吐きながら、辺りを見回す。

 空き地に入ってきた時に挨拶もしたのだが、稲荷の姿が見えない。

 何処かに出掛けているのだろうか。そんな疑問が頭をよぎる中、奥から真っ白な毛並みの動物が駆けてくるのが見えた。

 小型犬くらいの大きさで、ぱっと見は犬のように見えたが、犬よりも耳と尻尾が大きい。

「狐……?」

 そう呟いて、七緒ははっとする。あの夜見た色褪せた過去の風景、その中で出てきた白い狐にそっくりだ。

「え……もしかして、稲荷さんですか……?」

 くぉん、と返事をするかのように狐は小さく鳴いた。

 え、え、と、七緒は狼狽する。いつも子供くらいの人の姿をしていたのに、何故今は狐の姿なのだろうか。

(いや、元々狐だってのは分かってるけど……)

 正気に戻って人の姿が取れるようになったのではなかったのか。

「あ、あの、稲荷さん、どこか具合が悪いんですか?」

 体調不良なのであれば渉に相談しないといけないかもしれない。

 不安に駆られる七緒に、稲荷と思しき狐が頭を動かす。横に振っているようにも見えた。

 狐は踵を返すと、ゆっくりと歩き始めた。数歩進んで振り返り、ついて来いと言わんばかりに尻尾を振ってからまた前へと進み始める。

 七緒は、足元の苺を踏まないように気を付けながら、狐の後ろについて行った。

 苺畑の奥の方、一番大きな樹が生えている横に、赤く色付いた苺が集められているのが見えた。土の苺も鮮やかで艶がある。

 その横では、収穫している最中なのか、管狐が苺のへたを銜えて運んでいる姿があった。

「あ、もしかして、お婆さんにあげる苺ですか?」

 稲荷が狐の姿になってしまった原因は分からないが、狐の姿では籠に入れるのは難しいのかもしれない。

「手伝いますよ。えっと、籠は――」

 一昨日買った籠は何処だろうかと探す七緒を、稲荷は違うと言うかのように引き留めた。

「違うんですか……?」

 くぅん、と狐が鳴く。

(そういえば、籠も見当たらない……)

「もしかして、お婆さんにはもう届けたんですか?」

 狐は鼻を鳴らしての嬉しそうに尻尾を揺らす。そうじゃ! と元気よく答える稲荷の声が聞こえたような気がした。

「じゃあ、この苺は……」

 稲荷は一番最初に熟した苺を件の老婦人にやるのだと言っていた。

 既に渡してあるのであれば、ここに集められている苺はその後熟したものなのだろう。

「他に渡す人がいるってことですね? あ、もしかして、オガタマの飾りをくれた人ですか?」

 あれがなければ苺を実らせることはできなかったのだ。稲荷が礼に苺を贈りたいと思うのも頷ける。

 違う、と言いたげに狐は頭を振った。そうして、七緒の後ろに回り込んで苺を集めてある場所へと七緒を押す。

「えっ……あっ、もしかして、これ、私に……?」

 くぉん、と狐は先程よりも大きな声で鳴いた。

 本当に貰っていいのだろうかと悩む七緒に、何処からか管狐がやって来て、七緒の足元に何かを置いた。

 苺の葉っぱの上に桜に模られたオガタマの飾りが置かれている。

 無事に苺が実ったので返すということだろう。そういう約束だった。

 七緒は屈んでオガタマの飾りを手に取る。

 この飾りには凄い力が宿っているらしいが、こうして手に取ってみても、やはり七緒から見ればただの綺麗な桜型の飾りにしか見えなかった。

(でも、それ良いのか……)

 七緒が持っていてもその力は引き出せないのだが、そんな力が宿っていなくても、この飾りは柴犬の飼い主がお礼にくれたお守りの一部で、それ以上でもそれ以下でもないのだ。

「稲荷さん、返してくれてありがとうございます」

 狐は七緒の横に寄って来て頭を擦り付ける。約束したのじゃから、当然じゃ――と、狐は声を発していないのに、そんな風に言っているような気がした。

「苺もありがとうございます。遠慮なく頂いちゃいますね」

 尻尾を振る様子からして、喜んでいるのだろう。

 七緒は一か所に集められている苺に目を向ける。とても両手で持って帰れる量ではないし、今も管狐が収穫した苺を一つずつ運んできている。

「ちょっと入れ物持ってきますね」

 稲荷にそう言いおいて、七緒は一度家に戻る。そうしてボウルやざるをいくつか持って戻れば、苺の山は更に増えていた。

 七緒は苦笑しながら苺を入れ、稲荷に再度礼を言ってから空き地を出て家に帰った。

 貰った大量の苺を洗いながら、これだけの量を食べきれるだろうかと頭を悩ませる。どの苺も食べ頃で、あまり日持ちしそうにいない。

(店長さん達にはかなりお世話になったし、お裾分けしようかな……頼んだらお守りをくれた人にも渡してくれるかな?)

 七緒は時計に目を向ける。この時間ならすぐに準備すれば閉店前に店に行けるだろう。

 善は急げだ、と七緒は綺麗な苺を選り分けて蓋付きの容器に詰め、家を出た。

 念の為にと電車で移動中に渉に苺を持って行く旨のメールを送り、カフェの最寄り駅で降りて足早にカフェへと向かう。

 忙しいのか、何度か携帯を確認したが渉からの返信はなく、気が付けば店の目と鼻の先まで来ていた。

(ん……?)

 店の入り口を見て、七緒は軽く首を傾げる。

 ドアの前に小柄な柴犬が座っている。柴犬の横には竹籠が置いてあり、柴犬は開けてくれと言わんばかりに何度か前足でドアを引っ掻いている。

(もしかして、あの時お遣いしてた柴犬……?)

 籠を持って来ているところを見ると今日もお遣いなのだろうか。

 それにしても、まだ営業時間の筈だが、中から誰かが出てくる様子がない。

 不思議に思いながら店の前まで行き、七緒は納得した。いつかのようにドアには“Closed”の札が掛けられている。

(灯りはまだ点いてるけど……)

 店休日に来た時のようにドアのロールカーテンも半分以上閉められている。今日はもう店を閉めてしまったのだろう。

 送ったメールに渉が気付いてくれていないかと期待してもう一度携帯を見たが、やはり返信はない。

 七緒は軽く肩を落としながら、足元でくぅんと小さく鳴いている柴犬に声を掛ける。

「またお遣いしてるの?」

 わん! と柴犬は即座に吠える。相変わらず会話をしているようなタイミングだなぁ、と七緒は苦笑しながら問い掛ける。

「私もちょっと店長さんに渡すものがあって来たんだけど、ドア開いてたら一緒に入る? で、もし開いてなかったら一緒にここで待ってようか?」

 わん! と再び吠えた後、柴犬は嬉しそうに尻尾を振りながら横に置かれていた籠の取っ手を銜えた。準備は万端なようだ。

 七緒はくすくすと笑いながら、ドアの取っ手に手を掛け、そっと押す。

 ちりん、とドアベルが鳴ると同時に抵抗なく開いたドアに、ほっと胸を撫で下ろしながら更にドアを押す。

「お邪魔しまーす……」

 ロールカーテンを除けながら中に向かって声を掛けたが、特に反応はなく、店の中にも誰の姿もない。

 誰かが気付いてくれることを期待していたのだが、ここからどうするか――。

 一人悩む七緒を余所に、柴犬の方は開いた隙間からするりと中に入って行った。

 七緒が、あ、と声を上げている間に、柴犬は床に籠を置き、「わん!」と一鳴きする。

 静かな店内に響いた声に、奥のキッチンから物音が聞こえて来た。

「――あれ? 今日来るって言ってたっけ?」

 そう言いながら、渉が奥から出てくる。

「って、相模さん……?」

「あ、店長さん、ごめんなさい。ちょっと渡したいものがあって……一応、メールはしたんですけど……」

「ああ、ごめん。色々と立て込んでて気付かなかった……」

 渉はポケットから携帯を取り出してメールを確認したようだった。

「お忙しいところすみません……あ、でも、本当に渡すだけなので……!」

「ああ、そっちはもう片付いたから大丈夫だよ。折角ここまで来たんだし、座って? 本来ならまだ営業時間だし」

 七緒にそう言いながら、渉は柴犬が置いた籠を手に取る。籠に掛けられていた布を取って、「苺……?」と呟いた。

「これで何か作れってこと?」

 渉が柴犬に問い掛けると、柴犬は元気よく、わん! と答える。

 やっぱり会話してるみたいだ、と思いながら、七緒も苺が入った容器を手提げから取り出す。

「あの、これ、稲荷さんがくれたんですけど、たくさんあったので店長さん達にもお裾分けをと思って……」

「あぁ、苺、もうなったんだね。じゃあ、こっちの苺も同じか……」

 渉は柴犬が持ってきた苺と見比べながら言う。

「同じ……?」

「多分これ、稲荷が育てた苺だと思う。結構実がなってたし、オガタマの礼をしたんだろうね」

「あ、そっか。この子の飼い主さんがオガタマの飾りをくれた人ですもんね」

 七緒に苺を渡す前に既に渡していたのだろう。

「でも、よく住所分かりましたね?」

 神ともなれば、面識のない相手が住んでいるところも分かるのだろうか。

「オガタマから気配を辿ったんだと思うよ。この辺で天照大御神を祀っている神社はうちくらいだから近くまで来れば迷わないだろうし」

 神は神同士で互いの気配が分かるらしい。

 ともあれ、渉からお守りをくれた人物にも苺を渡して欲しいと思っていたのだが、既に稲荷自ら苺を贈っているのであればその必要もないだろう。

 七緒が持ってきた分は渉と丁司、それから陵の三人で分けてもらおう。

「結構量あるけど、元々苺をあげる予定だった人にはあげれたのかな?」

「はい、多分……今日行ったら、稲荷さん、どうしてか狐の姿になってて、話は出来なかったんですけど……」

 七緒は狐とのやり取りをかいつまみながら渉に話す。

「そう、狐に、ね……」

「何かあって、狐に戻ってしまったとかですか……?」

「直接見てないから何とも言えないけど、多分、人の姿を保てなくなるくらい力を使ったんだと思う。オガタマの力は稲荷と相性が良かったから使いやすかっただろうけど、稲荷自身の力が全く必要ないという訳じゃなかっただろうし……そういえば、オガタマの飾りって戻ってきた?」

「はい。苺を貰う時に一緒に返してくれました」

「ちょっと見せてもらっても良いかな?」

「あ、はい」

 七緒はバッグの中からオガタマの飾りが付いた鈴を取り出し、渉に渡す。

 渉は鈴を手に取ると、指で桜の飾りを撫でた。

「あぁ、もうほとんど力は残ってないみたいだね」

「そうなんですか……」

「でも、魔除けの鈴の方はちゃんと効果があるし、このまま持っててもらえると嬉しいかな」

 そう言って差し出された鈴とオガタマ飾りを七緒は受け取る。

「はい、もちろんです」

 たとえオガタマが力を失っていても、七緒にとっては既に大切な物なのだ。

「それで、君の方は――」

 渉はそう言いながら柴犬に目を向ける。

「帰ろうとしないってことは、苺ですぐ作れるものを作れってことなのかな?」

 柴犬は、返事をするように、わん! と一鳴きして、その場に座る。

 出来るまで待っているということだろうか。

 柴犬の様子を見て、渉が溜め息を吐いた。

「全く、持ってくるなら予め言ってもらえないと、他の材料が揃わないのに……」

 もうある物で作るしかないか、と呟きながら、渉はカウンターの向こう側へと回る。

「生クリームはある、けど……」

 カウンターの下にある冷蔵庫を漁っているのだろう。

「ムースだと冷やすのに時間掛かるからなぁ……簡単に作れるのは、クラフティくらいかな……」

 渉は立ち上がると、「それでいい?」と柴犬に向かって尋ねた。

 わん! と柴犬は勢いよく吠える。

 本当に会話してるみたいだなぁ、と思いながら眺めていると、渉は七緒の方にも声を掛けてきた。

「相模さん、時間があるんだったら、相模さんの分も一緒に作るから、出来るまで待たない? この苺、結構熟れてるから早めに食べるか加工しないと傷むと思うんだよね」

「え、いいんですか……? 店長さん達の分なのに……」

「稲荷の件で協力してくれたお礼。これだけあるなら、クラフティに使ってもまだまだ余るし。一時間くらいでできると思うんだけど、どう?」

 七緒は時計を確認する。まだ午後四時台だ。多めに見積もっても午後六時前には出来上がるのだろう。

 元々春休みで暇を持て余しているので時間に余裕はある。渉が作るデザートはどれも美味しいし、クラフティというデザート自体も気になる。話に乗らない手はなかった。

「えっと、では、お言葉に甘えて……」

 お願いします、と七緒は頭を下げる。

「良かった。じゃあ、その子と少し待っててね」

 そう言って渉は準備を始めた。

 材料を持って奥へと入って行く渉を視線で追っていると、渉の様子が気になったのか、柴犬が椅子を伝ってカウンターの上に飛び乗った。

「あ、テーブルの上は駄目だよ」

 七緒は柴犬を抱き上げ、キッチンの入り口が見えるように柴犬を抱えたまま椅子に座る。

 裏で作業する音が聞こえ始めてどれくらい経ったか。膝の上で大人しくしている柴犬の頭を撫でていると、作業を終えたらしい渉がキッチンから出てきた。

 七緒達の方を見た渉は、驚いたような顔をして、

「あー、触れるんだ……」

 と呟いた。

「犬とか猫とかは結構好きですよ……?」

 犬が苦手だったらそもそも店に一緒に入って来たりもできないと思うのだが、と七緒は内心首を傾げる。動物嫌いだと勘違いする要素もなかった筈なのに、何故渉は触れないと思ったのだろうか。

 ペットとして飼われているような動物は大体触れると言うと、渉は「そうなんだ」と苦笑する。

「コーヒーか紅茶、淹れようか? 焼き上がるまでに三十分くらいかかるから」

 一瞬遠慮しようかと思ったが、まだ暖房が効いていない店内は少しひんやりとしている。温かい飲み物は有り難い。

「ありがとうございます。店長さんが飲まれるなら同じの貰います」

「うーん、僕の気分だと紅茶かなぁ」

「じゃあ、私もそれで」

 了解、と渉はやかんに水を入れてを火にかける。

 紅茶を淹れている様子を眺めながら、七緒は気になっていたことを口にした。

「クラフティってどんなお菓子なんですか?」

「フランスのリムーザンっていう地域のお菓子で、卵と小麦粉、牛乳で作った生地に果物を入れて焼くんだ。僕は生クリームを入れる方が好きだから牛乳と半々で入れてるんだけど」

「へぇ、ケーキみたいな感じですか?」

「ケーキというよりもカスタードプリンに近いかな? 小麦粉も入ってるから食感はもうちょっとしっかりしてるんだけど。生地としてはクレープが一番近いんだけど、薄く延ばして焼くわけじゃないから見た目や食感は大分違うんだよね」

 七緒は頭の中で硬めのプリンやクレープを思い描きながら頷く。

「基本はダークチェリーを入れるんだけど、ダークチェリーが入ってるのをクラフティ、それ以外のフルーツの時はフロニャルドって呼ぶらしいから、厳密に言うと苺のフロニャルドかな」

「ふろにゃるど……」

 舌を噛みそうになりながら繰り返すと、渉が苦笑する。

「お菓子っぽくない響きだよね。クラフティの方が知ってる人も多いから、僕もついそう言っちゃうんだけど」

「クラフティの方が有名なんですね」

「僕の感覚だとね」

「さくらんぼが入ってるのも美味しそうですね」

「さくらんぼの季節になったら作ってみようか。今日は時間がなかったから、耐熱皿にそのまま流して焼いてるけど、タルト生地を土台にしてもいいし」

 タルトと聞いて七緒の中のイメージが少し変わる。さくらんぼのタルトのような感じだろうか。

「そっちも美味しそうです!」

「じゃあ、春以降だね」

 そんな話をしている間にお湯が沸き、渉がティーポットにお湯を注ぐ。蓋をして三分。ティーカップに綺麗な琥珀色の紅茶が注がれる。

「はい、どうぞ」

「ありがとうございます」

 七緒は礼を言ってカップを手に取った。

 指から伝わってくる温度は熱く、少し息で冷ましてから口を付ける。ふわりと香る紅茶特有の香りに、渋みがほとんどない味。やはりここの紅茶は美味しい。

 はぁ、と幸せに満ちた溜め息を吐いていると、渉も後ろのカウンターに凭れながら紅茶を飲んで一息吐いていた。

「取り敢えず今日はフロニャルドにしたけど、残った苺はどうするかなぁ。流石に全部フロニャルドには入れれなかったから、余ってるんだよね……日持ちしなさそうだから、取り敢えずピューレとかジャムにするかなぁ。綺麗な苺だから苺ショートとかでもいいんだけど……」

 それも美味しそうだ、と七緒が思っていると、渉の言葉が分かったのか、柴犬が、わん! と吠えた。

「苺ショートが良いの? 崩さずに持って帰れる?」

 シフォンケーキやチーズケーキと違って苺ショートは崩れやすい。どういう状況になるのか想像がついたのか、それとも過去に似たような経験があるのか、柴犬はぺしゃりと耳を伏せて、くぅん、と鳴いた。

「ムースか、それかパンナコッタにした方が無難だと思うけど」

「パンナコッタ……!」

 思わず七緒が食いついてしまい、渉がくすくすと笑いを漏らす。

「相模さんはパンナコッタの方が好き?」

「ムースも好きなんですけど、何となくパンナコッタの方が好きです。違いはよく分かってませんが」

「パンナコッタの方が生クリームをたくさん使うから、その分味が濃厚になるんだよ。ムースと同じで今のレシピはゼラチンで固めるタイプが多いんだけど、クラシカルなパンナコッタはゼラチンを使わずにオーブンで焼いて固めるから、凄く濃厚で美味しいよ」

「そんなこと言われたら私も食べたくなってしまうんですけど……店長さんは何処でそんなの食べてるんですか……?」

「カフェを開こうと思ってから、研究もかねて色々と食べ歩きをしたからね。たまたま入ったイタリア料理のお店で出てきたんだよ。凄く美味しいかったから、お店の人に色々と訊いてね。小さなお店で気さくなオーナーだったから作り方も教えてくれたんだ」

「凄く良いお店だったんですね」

「本場の味をちゃんと作って提供したいってお店でね、日本人好みにアレンジされたやつも良いけど、そういうお店も良いなって感じたよ。僕もそこに行くまでは、イタリア料理イコール、トマトってイメージだったんだけど、全然トマトが使われてないんだ」

「えっ、トマト入ってないんですか?」

 七緒も渉と同じようなイメージを抱いていた。

「ピエモンテっていうイタリアの中でも北の方、フランスとの国境に接してる地域の料理でね、フランスの影響を結構受けてるらしいよ。パンナコッタもピエモンテ生まれのデザートなんだって」

「料理もお菓子も奥が深いですね……」

「知ろうと思えば思うほどね。クラシカルなパンナコッタもいつか作ってみようか?」

「是非ともお願いします……!」

「了解。作った時には連絡するね」

 渉はそう言った後、柴犬の方に目を向ける。

「そういうわけで、パンナコッタは相模さんもおすすめなデザートみたいだけど、どうする? 器に入れたまま渡せるから僕としても勧めれるかな。パンナコッタにする?」

 柴犬は考え込むようにじっと渉の顔を見た後、七緒の顔を見上げてから、わん! と吠えた。

「店長さん、この子やっぱり会話分かってて吠えてませんか……?」

「まぁ、柴犬は賢いって言うからね……」

 確かに犬は賢い動物だと言われているが、そのレベルを超えているように思える。

「個体差もあるだろうから、一概には言えないんだろうけど、その子は前から賢いよ」

 その通りだと言わんばかりに柴犬が吠える。褒められていることも分かっているのか、ぶんぶんと尻尾を振り回し始めた。

 本当に元から賢い子なのだろうか。七緒は膝の上で尻尾を振っている柴犬を見詰める。

 賢過ぎる部分にはやはり違和感を覚えるが、実際にお遣いができているのは事実なのだからと、渉の言葉を信じることにした。

 そんな話をしている内に三十分経ったのか、奥のキッチンから焼き上がりを告げるオーブンの音が聞こえて来た。

「あ、出来たみたい。ちょっと待っててね」

 そう言って渉がキッチンへと消えていく。

 どんな見た目なのだろうかと期待に胸を膨らませていると、分厚いキッチンミトンをはめた渉が、白い陶器の皿を持って戻って来た。

「熱いから気を付けてね」

 渉はそう言って七緒の前に鍋敷きを置き、そこに陶器の皿を載せる。

 湯気と共に甘い匂いが漂ってきて、七緒は顔を綻ばせた。

 所々こんがり焼けた黄色い生地の中に、半分に切られた苺がたくさん敷き詰められている。見た目は本当に焼きたてのプリンといった感じだ。

 七緒の前に置かれた皿を見て、柴犬が、自分の分は? と言うかのようにカウンターに前足を掛けて、わふ、と一鳴きする。

「まだ皿が熱いから、もう少し冷めたら籠に入れるよ」

 それで納得したのか、柴犬はまた大人しく七緒の膝の上に座った。

「相模さんも、お皿熱いから気を付けてね」

「はい」

 いただきます、と手を合わせ、七緒は皿の横に添えられたスプーンを手に取る。

 中もまだ熱いだろうかと考えながら、苺と黄色の生地を一緒に掬ってスプーンの上で少し冷ます。ふるふると揺れる生地は意外にもふんわりとしていた。

 想像していたものと違うことに少し驚きながら、七緒はスプーンを口に運ぶ。甘い匂いを漂わせるそれを頬張れば、カスタードの風味と苺の濃厚な果実味が口の中に広がった。

 生地はシンプルながらもどこかフレンチトーストに似ている。火が通った苺は柔らかく、甘みと仄かな酸味が良いアクセントになっている。

「んん……!」

「どう? 焼き立てのフロニャルドは」

「思ってたより柔らかくて、苺がとっても甘いです! ちょっとフレンチトーストっぽいですね!」

「果物は火を通すと甘みが強くなるからね。生地は冷めると本当に硬めのプリンみたいな感じになるよ」

「こんなに柔らかいのに?」

「今は焼き立てで卵が膨らんでるからね。水分が多い生地だから、冷めると萎んでしっとりした感じになるんだ。最後の方は冷めてるだろうから、また食感も違うと思うよ。温かい内でも良いし、少し冷めてからでも良いし、冷やしても良いし。どのタイミングで食べるかは好き好きだね」

「それは、全部試したくなりますね……」

 でも、あまり長居をしてしまっては、と悩んでいる七緒の隣で、渉は柴犬に持たせるフロニャルドの準備を済ませていた。

 柴犬が立ち上がって七緒の膝から飛び降りる。

「重いから気を付けるんだよ」

 渉の助言に柴犬は、わん! と返し、籠の取っ手を銜えて入り口の方へと歩いていく。

 渉がドアを開けてやれば迷わず外に出て帰っていった。

「本当、賢いですね、あの子……」

「そうだねー」

 渉はとっくにあの柴犬が賢過ぎることを受け入れているのか、それとも深く気にしない性格なのか、さらりと七緒の言葉を流す。

 その様がどこかお茶を濁しているようにも見えたが、流石に考え過ぎかもしれないと、七緒はまだまだ温かいフロニャルドをスプーンで掬って口に運んだ。


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