11
二日と日を空けずに行った稲荷の祠の裏では、先に花を咲かせたと思われる株が実を付けていた。
実が付き始めたことを稲荷と共に喜び、そうしてその翌日来た時には、更に倍以上の株が小さな青い実を付けていた。
嬉しそうに尻尾を揺らす稲荷の隣で、七緒は無表情のまま昨日帰宅してからここに来るまでの時間を指折り数える。
丸一日も経っていないが、目の前の苺畑の半分以上が既に実を付けている、という現実は変わらない。
七緒は深く考えることを放棄した。
(というか、やっぱり暖かいよね、ここ……)
だから苺も良く育つのだろうか。
まだまだコートが要る季節の筈なのだが、こうして祠の裏にいるとコートが少し暑く感じられる。祠の裏側に来る時まではそんなことを感じなかったので、やはりこの空間が異様なのだろう。
ビニールハウスの中なら分かるんだけど、と七緒は空を見上げるが、空き地は何かに覆われている訳でもなく、木々の真ん中に空が見えるだけだ。
これも大神様の力ということなのだろう。
(確か、天照大御神って言ってたよね、店長さん家の神社が祀ってる神様……)
太陽の恩恵を受けられそうなイメージはあるが、ここまで気温が変わると常識の範疇では捉えられないし、その力をもたらしているだろうオガタマの存在がより一層恐ろしくなってくる。
これを“大丈夫”と言ってのけた渉と、警戒していた陵。渉と話している時にはとても良い人だと感じるのだが、彼の言葉を鵜呑みにしてはいけないという陵の言葉が少し分かった気がした。
「――あんた、本当ここに来るのが好きだな……」
物思いに耽っていると、後ろから声を掛けられて七緒は振り返った。
「あ、陵さん……」
おはようございます、と挨拶すると、呆れた視線が七緒の方へと向く。今日も眼鏡を掛けていないため、視線に含まれる感情が否応なしに分かる。
「タオル返しに来た」
そう言って、陵はボディバッグからタオルを取り出して七緒に手渡す。
ちゃんと洗濯までしてくれたようで、家のものとは違う洗剤の香りがふわりと漂った。
「ありがとうございます。洗濯までしてもらって」
「借りていったんだから、普通洗って返すんじゃないの」
「まぁ、そうですね」
実際七緒も同じ状況なら洗って返すが、洗ってもらった側としてはやはりありがとうと返す以外にないのだと思う。
(あれ? “洗ってくれるとは思ってなかった”っていう意味に取られた……?)
そんな失礼なことは考えていないのだが、受け取り様によってはそういう風に捉えられるかもしれない。
「いえ、陵さんが洗ってくれるような人とは思ってなかったとかではなく、普通にお礼を言ったまででして……!」
「あんた、俺に対してどんな想像してんの?」
「えっ、そんな変な想像はしていないかと……綺麗で、ぶっきらぼうだけど普通に優しい、としか……」
ぶっきらぼうという言葉が癇に障りでもしたのか、陵は軽く眉を顰めて不愉快そうな目をした。
「あ、ぶっきらぼうは良くないですよね……とってもクール、とか、言い換えた方がいいですか……?」
そう取り繕ってはみたが、陵からは溜め息を吐かれてしまった。
「洗って返すのが普通なんだから、別に礼はいらないって意味だろ……何で人間性疑う方向に進むんだよ……」
「す、すみません、そういう意味だったんですね……」
陵に言われて一瞬、なるほど、と納得したが、よくよく考えて七緒は、
(わ、分かりにくい……!)
と内心悲鳴を上げる。
普通に“洗うの当然だから気にしないで”とか、“借りたのこっちだし礼とか要らない”といった言葉で良いのではないか。
渉には陵は天邪鬼ではないと言われたが、ちょっと回りくどいところを見ているとやはり天邪鬼なのではないかと思えてくる。
「じゃあ、俺、バイトだから」
通勤前に立ち寄ったのだろう。陵は先を急ぐように踵を返す。
「あ、すみません、バイト前にわざわざ……って、あれ、今日はコンタクトでバイトされるんですか?」
もしそうなら、この前のような女性客達が余計に興奮するだろう。下手をすれば仕事にならないのではないだろうか。
そんな七緒の心配を余所に、陵は「いや」と淡々とした口調で返す。
「別に目は悪くないから。あの眼鏡は伊達」
「そうだったんですね」
顔を隠すためだけに眼鏡を掛けるというのも大変だろう。常にマスクをしているのも、同じ理由かもしれない。
芸能人みたい、と七緒は有名俳優やアイドルが顔を隠して道を歩いているところを想像する。
陵が芸能人だったら世の中の女性の大半はファンになるのではないだろうか。
他人事のように考えながら、七緒は去りゆく陵に「バイト頑張って下さい」と声を掛ける。
何も言わず、片手を軽く上げてひらりと振る様が何となく陵らしいと感じた。
この空き地を出たら眼鏡を掛けるのだろうか、と想像して、別に眼鏡を掛けたままここに来てもいいのではないかと、ちょっとした疑問が浮かぶ。
マスクはここに来る時でも付けているのに、何故眼鏡は外すのだろうか。
(眼鏡、あんまり好きじゃないのかな……)
七緒自身は視力が良いため眼鏡を掛けている者の気持ちは分からないが、早くに眼鏡を掛け始めた同級生の中にはコンタクトレンズに変えたいと言っていた者もいた。
お洒落な眼鏡を掛けている者達なら兎も角、野暮ったい眼鏡を掛けている者達の中には自身の眼鏡が好きではない者もいるだろう。
陵の眼鏡は、と思い返して、野暮ったい部類に入りそうだと七緒は思う。
(でも陵さんの場合は、お洒落な眼鏡なんて掛けたら逆に注目を集めちゃうだろうな……)
陵も陵で色々と苦労しているのかもしれない。美人過ぎるのも考えものだ。
「あの者は帰ったのか?」
苺の世話をしていた稲荷がぱたぱたと駆けてきて七緒に尋ねた。
「はい、今からバイトみたいです」
「ばいと?」
聞きなれない言葉だったのだろう。稲荷は不思議そうに首を傾げる。
「えっと、お仕事のことですね」
「仕事か!」
異国の言葉は難しいのぅ、と稲荷は呟く。
「稲荷さんは何歳くらいなんですか?」
服装や言葉遣いから、稲荷が長い歳月を生きていることは分かるのだが、具体的な年齢などは想像も付かない。
「歳か。数えておらぬので分からぬ。人は数えるのが好きじゃな」
「神様は数えたりしないんですか?」
「さて、大神様方のことは分からぬが、妾は数えておらぬ」
「神様によって違うんですね。えっと、じゃあ、江戸時代とか聞いた方がいいのかな……?」
「江戸とは将軍とやらがおった場所であろう? 今は東京というと伝え聞いたぞ」
「ああ、そうか、江戸時代なんて言い方もしないですよね……将軍がいる時代からいるんですか?」
「将軍はおったぞ」
「じゃあ江戸時代ですかね……あ、いや、将軍はその前からもいたから……」
七緒は歴史の授業で習ったことを思い返が、鎌倉幕府や室町幕府と言っても稲荷には通じないだろう。
稲荷の話しぶりからするに、稲荷が江戸時代に存在したことは確かだ。少なくとも百五十年以上は生きているのだろう。
「稲荷さんは長生きなんですね。前にも苺を育てて誰かにあげたりしたんですか?」
「いや……」
と稲荷はふっと顔を曇らせて軽く俯く。
「昔は、皆が妾を祀っておった……春が来るたびに皆が集まって、豊作にしてくれと祈るのじゃ……旱で食う物に困り、飢えれば飢えるほど、妾の元にやって来て実りをもたらしてくれと祈った……人が祈ればそれだけ妾も力を使えた……」
あぁ、と七緒は渉が言っていたことを思い出す。稲荷は豊穣をもたらす神なのだ。
「じゃが、大戦の後、世は様変わりをしておった。ここらに住んでおった者の半数は何処かに行ってしもうた。妾を祀る者も、祠の手入れをする者もおらず、祠は次第に荒れていったのじゃ……」
世界大戦の後の話だろう。疎開で地方へ移った人々もいるだろうし、亡くなった人もいるのだろう。戻ってきた者や新たに住み始める者もいたのかもしれないが、皆、生きることで精一杯だっただろうから、祠の手入れやお供え物まで手が回らなかったに違いない。
「妾は徐々に力を失くしていった。このまま消えるのじゃろうと思っておった……じゃが、あの者が偶に祠の手入れをしてくれるようになったのじゃ。日が空くこともままあったが、それでも妾にはとっては嬉しかった……」
今まで考えたこともなかったが、神様を大切にするということは、神様達にとってとても重要なことなのだと七緒は感じる。
「あの者が往ねば、祠も荒れて恐らく妾は消えてなくなるじゃろう。あの者も随分老いた。老いさらばえればその内往ぬることは分かっておる。じゃが、祠の前で倒れておったあの者を見た時、ただ消えるよりも何か礼をして消えた方が良いと思ったのじゃ」
「稲荷さん……」
「あの者は苺が好きだと言っておったのでな。作物なら妾も上等な物を実らせることができる。これであの者に報いることができるだろうと思ったのじゃ」
笑いながら言った稲荷だったが、七緒の顔を見てはっとしたような顔付きになる。
「その、思った以上に力を失っておった故、オガタマをそなたから借りねばならなかったが……」
耳を伏せ、もじもじと指を動かす稲荷に、七緒は安堵させるように笑みを浮かべて返した。
「良いことの為に使ったんですから、気にしないで下さい。私はそもそもオガタマにそういう力があるって分からずに持ってましたし、私にオガタマをくれた人も、貸していいって言ってくれましたから」
「ほんに、そなたと大神様には感謝しておる」
「いいえ。あ、あと、あのお婆さんがこれからも祠に来れなかったとしても、私がいる間はお掃除とかできるだけしますから」
まだ先のことは何も決めていないため、ずっとこの地域に住み続けるのか、それとも仕事や結婚で別の場所に移り住むのかは定かではない。そうでなくとも、何十年も経って七緒もいなくなれば結局稲荷の祠は荒れてしまうのかもしれない。
それでも、自分に何かできる間は力になりたいと思うのだ。こうして縁を結んだ稲荷ならば猶更――。
(大きな神社だったら、ずっと神主さんとかが管理してくれるんだろうけど、こういう祠はそういうわけにもいかないよね……)
道の途中にあるような小さな祠や地蔵の多くはきっと放置されているのだろう。
その一つ一つに稲荷のような神様がいるかもしれないし、既に消えてしまった神様もいるかもしれない。
日本各地に無数にあるだろう祠で、そういった小さな神々がいることを思うと、遣る瀬無さに胸の奥がじわりと痛む。
どの神も、最初は人々が望んで祀ったというのに――。
困った時だけ神頼みをして、普段は大切にしないというのは、きっと正しい在り方ではないと七緒は思う。
祠の掃除などは続けて欲しいと言った渉も、きっとそういう事情を分かっていて言ったに違いない。
「有り難い……」
稲荷が七緒を見上げて感じ入ったように礼を言う。
その目が涙で潤んでいるのを見て、七緒は無意識の内に稲荷の頭を撫でようと手を伸ばしていた。
――こんな形してようと、神は神だ。
陵の言葉が脳裏をよぎり、七緒ははっと手を止める。
みだりに触れてはいけない相手だ。撫でたいと思う気持ちをぐっと我慢して手を引っ込めた。
「どうかしたか?」
「いいえ、何でもありません!」
稲荷に怪訝そうにされ、七緒は慌てて取り繕う。
「あ、そうだ。今度来る時、また和菓子を買ってこようと思うんですけど、大福とかはお好きですか?」
稲荷の耳が途端にぴんと上に伸びる。
「大福は好きじゃぞ! こしあんも粒あんも、豆が入っておるのも好きじゃ!」
興奮気味に答える稲荷に、やっぱり和菓子好きなのか、と七緒は笑う。
「分かりました。色々種類があったら、いくつか買ってきますね」
「本当か!」
稲荷の目が輝き、尻尾が忙しなく揺れる。
「次が楽しみじゃ!」
数日後、七緒は約束通り大福を買おうと朝から一駅先の和菓子屋まで足を延ばした。
最初はコンビニで調達しようと考えていたのだが、あんなに喜ぶほど大福が好きならば専門店で買った方が良いいだろうと思ってのことだ。
コンビニなら大福があったとしても一種類だけだろうが、流石は古くからある専門店。昔ながらの大福が数種類に、最近流行りのフルーツ大福まで置いてあった。
七緒としてはフルーツ大福にも心惹かれるのだが、稲荷は昔ながらの大福が好きかもしれないと、普通のこしあんと粒あん、塩豆大福を一つずつ購入した。
(今日は祠の掃除かな)
先日行った時には半分以上の株が実を付けており、後は実が順調に育ち、色付くのを待つばかりだ。
草抜きもした方がいいのだろうが、あれほど密集していると過って苺の実を踏みかねない。予め畝を作っておけば良かったのかもしれないと今になって気付いたが、もう後の祭りだ。
(気付いた時には苗が増えてたし、私も最初はそういうこと思い付かなかったしな……)
稲荷はそもそも畝を作るという考えさえなかっただろう。人間が作物を管理しやすくするために作っているだけで、植物は育ちやすい環境であれば平らな大地でも普通に繁殖するのだ。
稲荷は不思議と苺を踏み付けずに移動できるようで、慎重に歩く様子はないが、通った後に苺が潰れているということもない。管狐に至っては、そもそもが小さいので苗と苗の間を自由に動き回れるようだった。
(草抜きは管狐さんに任せた方が良さそう……)
他に七緒にできることと言えば、祠の掃除だ。こればかりは稲荷や管狐にはできないし、できたとしても、きっと何の意味も為さないだろう。
七緒は一度家に戻り、掃除道具を取ってから稲荷の元へ向かった。
(お団子の時は祠に置いたけど、直接渡した方がいいかな……?)
そんなことを考えながら、祠の裏へと入る。
「稲荷さん、おはようございます。大福を――」
そう言い掛けた七緒の目に飛び込んできたのは、複数の鴉と争う稲荷の姿だった。
「このっ! 苺は渡さぬぞ!」
宙を羽ばたく鴉らの一羽へと飛び掛かったかと思えば、その隣にいたもう一羽に尻尾を叩き付ける。が、鴉はひらりとかわして稲荷と距離を取る。
そうしている間に別の鴉が離れた場所へと降り立とうとし、それを何処からか跳んできた管狐が体当たりをして退けている。
「な、何事……?」
「おお! そなたか! 頼む! こやつらを追い払ってくれ! 苺を盗もうとしているのじゃ!」
一瞬、鴉って苺が好きなんだっけ? と疑問がよぎるが、鴉の行動を見ていると稲荷や管狐ではなく苺畑を狙っているのは明白だった。
自分の近くへと降りてこようとした鴉に、七緒は咄嗟に持ってきていた箒を振り回す。
いるのは三、四羽かと思ったが、上を見上げれば、木の枝に止まってこちらをじっと見下ろしている鴉が何羽もいた。
普通の鴉とは違う、何か得体の知れなさを感じ、七緒は身体を震わせる。
(本当に鴉……?)
道端にいるような鴉は、餌を漁っていても人間が近寄れば顔を背けて逃げていくものだ。
管狐のような小さな動物は狙われるのかもしれないが、七緒や子供くらいの背丈がある稲荷がいても逃げていかずに虎視眈々と苺を狙っている様は異様としか言えない。
また一羽、上から苺畑へと目掛けて鴉が降りてくる。
――苺が駄目になりそうな時はすぐに教えて欲しいんだけど……。
そう言っていた渉の言葉がよみがえる。
(て、店長さんに電話……!)
七緒は片手でバッグの中を漁るが、その間にも別の鴉が上から降りてきて、慌てて箒を振り回す。
一度鴉を追い払わないことには電話を掛ける余裕などなさそうだ。
だが、どうやったら追い払えるのか、考えを巡らせるが何も良い案が浮かばない。持っているのも掃除道具くらいで、上にいる鴉達まで追い払えるような道具もない。
その内、七緒自身が邪魔だと判断したのか、鴉の何羽かが七緒を目掛けて飛んできた。
箒を奪おうと足で柄を掴んで、そのまま上に羽ばたこうとするのを必死に箒を掴んで耐えていれば、後ろから別の鴉が頭すれすれを飛んできた。
「ひゃっ……!」
鴉は頭が良いと言うが、こんなに明確な意図を持って襲ってくるものなのか。
箒を奪われまいと数羽の鴉と格闘していると、不意に何かが視界の端で光った。
ガァッ、とくぐもった鴉の声が聞こえたかと思うと、箒を掴んでいた鴉がいつの間にかいなくなっていた。
一体何が起きたのか。状況を把握する前に、今度は棒状の物が横から飛んできて、七緒の近くを飛んでいた鴉と共に視界の端へと消えていく。
タン、と小気味良い音のした方を向けば、小刀のような物で片翼を木に縫い留められた鴉が暴れている。
(小、刀……?)
そう表現していいのか分からないが、木の柄でできているそれはナイフというよりも小刀だ。少し包丁のようにも見えるが、形が包丁よりも細く小さい。
何故そんなものが、と小刀が飛んできた方を振り返れば、丁司が飛んできた鴉を手刀で叩き落としているところだった。
ギャッ、ギャッ、と空からが不気味な声が響く。鴉の鳴き声だと気付いて見上げれば、合図だったのか、鴉達が一斉に空へと飛び去って行くのが見えた。
翼を木に縫い付けられていた鴉も、丁司が近寄って小刀を外すと、一度地面に転がった後、よろめきながら羽ばたいていった。
「大丈夫か」
「あ、はい……」
「怪我はないか」
「はい、私は……あ、稲荷さんは……」
鴉と直接対峙していたから怪我をしているかもしれない。視線を巡らせて探せば、稲荷は少し離れた所で硬直していた。
髪の毛や尻尾の毛は乱れているが、見たところ怪我はなさそうだ。
七緒がほっと胸を撫で下ろしていると、丁司に視線を向けられた稲荷が、ぴゃっ、と変な鳴き声を上げ、一目散に奥の方へと駆けて行った。
「問題なさそうだな」
「あ、はい、多分……」
木の陰に隠れて震えているのを問題ないと言って良いのかは分からないが、大事はなさそうなので七緒も取り敢えず同意する。
(そういえば、あの時稲荷さんを捕まえてたのも丁司さんだったもんね……怖くもなるか……)
先程手刀で昏倒させられていた鴉を思い出し、稲荷も同じ目に遭ったのかもしれないと七緒は考える。
加えて渉や陵に比べて大柄だし、寡黙な料理人といった感じの丁司は七緒も少し取っ付きにくいと感じる程だ。
稲荷が怯えるのも無理はない。
稲荷の反応は特に気にならないのか、丁司は投げたと思われる小刀を拾い、包丁入れのような包みに仕舞う。料理人が持っていそうな包みだが、鴉に投げつけていたことを考えると、料理用ではないのかもしれない。
(じゃあ、何用……?)
銃刀法違反とかにならないのだろうか、とじっと見ていると、丁司と目が合う。
「あの、それって……」
何と訊いていいか分からず言葉を濁すと、丁司が数拍の沈黙の後に口を開いた。
「これは、あれだ……手入れに出す予定で持ち歩いていた……」
「あ、手入れしてくれるお店? に行くところだったんですね……」
「そんなところだ」
それ絶対嘘ですよね? なんて言葉が出掛かったが、七緒は先程までの出来事を思い返し、その言葉を飲み込んだ。
あの攻撃的な鴉達を七緒一人でどうにかできたとは思えない。
何故丁司がここに来たのかは分からないが、彼に助けられたのは事実だ。それも二度目で、彼が七緒の食事を心配して昼食まで作ってくれる優しい人だということも知っている。
誤魔化そうとしているのを無視して突っ込むのは野暮というものだろう。
「そういえば、丁司さんはどうしてここに……?」
「この件が片付くまで、定期的に様子を見に来ることにしている。特に誰がと決まっているわけではないから、今日は俺が来たというだけだ」
「ああ、なるほど」
渉もこの前気になって様子を見に来たと言っていた。
そういえば彼は仕事前に来ていたなと思い出し、今日も店休日ではないのでは、と七緒は思い至る。
「丁司さん、お店の方は良いんですか?」
もう十時を過ぎている。ランチタイムはまだ始まらないが、準備などがあるのではないだろうか。
「仕込みは済ませてきた」
「じゃあ、少し手が空いた感じなんですね」
「ああ」
渉と違ってキッチンに籠っている丁司は、料理以外の仕事を担当していないのかもしれない。とはいえ、ランチタイムに入れば彼の出番が待っているだろう。間に合うようにそろそろ帰った方が良いのではないか。
そう思うのだが、丁司には帰る素振りが見られず、七緒は内心首を傾げる。
他に何か用事があるのか尋ねようかと思えば、その前に丁司が口を開いた。
「最近」
「はい」
「菓子ばかりを食べているが、気に入る食事がないか?」
「へ?」
そんなにお菓子ばかり食べてるっけ、と一瞬疑問に思うが、すぐにカフェでの話だと気が付いた。
確かに、ここ最近は菓子――ケーキセットばかりを頼んでいて、食事の方は注文していない。
「いえ、そんな! この前とかその前は、店長さんに相談したいことがあったので、少しお店が空き始めてから行こうと思っただけで……! 丁司さんのご飯が好きじゃないとか、そんことはないです!」
寧ろケーキ屋になられては困ると渉に言ったくらいだ。
「そうか。ならいい」
丁司は納得したように頷くと、「店に戻る」と短く言って表へと歩き出す。
「あ、あの! 次に行った時はご飯も食べます!」
彼の通り過ぎざまにそう言うと、丁司は一度足を止めて七緒の頭にぽんと手を乗せた。
「待っている」
そう言い残し、去り際に気絶したまま地面に落ちていた鴉を掴んで帰っていった。
(あの鴉、どうするんだろう……)
危険な鴉だからここには置いておけないのは分かるが、持ち帰ったところでどうしようもないのではないか。
意識が戻ったら放してやるのだろうか、等と考えていると、後ろから草葉を揺らす音が聞こえた。
「あ、あの者は帰ったか……?」
「稲荷さん」
稲荷はきょろきょろと辺りを見回すと、小走りに七緒の方に駆け寄ってきて、ぴたりと七緒の脚にくっつく。
そこから更に数度周りを見回して、丁司の姿がないことにほっとしたようだが、警戒しているのかすぐには七緒から離れなかった。
「丁司さんならもう帰りましたよ?」
安心させようと言葉に出して言ってみたが、稲荷は「う、うむ」と頷くのみだった。
「うぅ……妾の方が格が上だというのに……」
未だ恐怖心が残っているのか、稲荷はふるふると小刻みに震えている。
(格……?)
人間と神様なのだから、神様の方が格は上だろう。
そう納得はするものの、“格”という言葉が出てきたことに少しだけ違和感を覚えた。何故違和感を覚えたのか、七緒自身も説明はできないのだが――。
(でも、丁司さんが来てくれて良かった……今度は鴉対策も考えてこないと駄目かな……)
苺作りもなかなか大変だと感じながら、七緒は未だに震えている稲荷に持ってきた大福をあげることにした。
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