小さな神様と冬の苺 01
艶のあるソースの照り焼きチキンに、橙色の黄身の半熟卵、千切りキャベツに人参。香ばしそうな焼き目の付いたパンに挟まれたそれを頬張ると、甘辛いタレと濃厚な黄身の味が口の中に広がった。
(あ、チーズも入ってる)
七緒はもぐもぐと口を動かしながら目元を綻ばせる。
照り焼きのタレと卵の黄身にとろけたチーズ。重くなりそうな組み合わせだが、さっぱりしたキャロットラペとキャベツがそれを程良く中和している。バランスがとても良い。
(ん~、美味しい……! ランチ間に合ってよかったぁ)
午後一時半、普段は大学で講義を受けている時間だ。このカフェに通い始めて以来、いつかランチを食べてみたいと思っていたのだが、今日は幸か不幸か三限目の講義が急遽休講となった。講師がインフルエンザに罹ったらしい。
休講の代わりに出たレポート課題用の本を探すのに時間を食ってしまったが、こうしてランチの時間には間に合った。
二口目を頬張って飲み込んだ七緒はほっと息を吐く。
このカフェを見付けたのは去年の秋だった。
受講している人文学系の講義で伝統文化のフィールドワークの話があり、実際に自分でもやってみるようにと言われ、大学から家までの間にある神社をいくつか見て回ったのだ。
何軒か神社を回り、ちょっと休憩しようと思った矢先に神社の隣にあるこの“陽だまりカフェ”が目に入った。シンプルな外装で最初は何の店か分からなかったのだが、入り口にある立て看板に書かれていた本日のケーキの文字に、気付けば中に入っていた。
白い外壁のシンプル過ぎる外装とは打って変わって、中は木の温もりが感じられるナチュラルテイストで統一されていた。木目が綺麗なテーブルやカウンター。椅子も木製で座面はグリーン系のクッション。所どころに置かれた観葉植物――。
大学周辺やここに来る途中の大通りの洒落たカフェとは違う居心地の良い空間に、気付けば何度も足を運ぶようになっていた。
天井近くまである大きなガラス窓を見上げると、背の高い木々の葉から微かに陽が差している。カフェの隣にある神社の木々だ。
道端の街路樹は冬になるや葉を落とし寒々しい姿になったが、神社の木は常緑樹らしく、真冬の今でも深緑や苔色の葉を付けている。
暖かい店内から眺めるそれらは、少しだけ七緒の心を和ませた。
(この時間だと本当に“陽だまり”って感じ……)
“陽だまりカフェ”という店名はそこから取ったのだろうか。春先などにここに座るときっと心地良いだろう。
少しずつ空腹が満たされていくのを感じながら、ホットサンドの横にあるスープをスプーンで掬う。具だくさんのコンソメスープは、口に入れるとほんのりと生姜の風味が漂った。
ボリュームのある照り焼きチキンのホットサンドと相性が良い。
(ご飯もこんなに美味しかったなんて……)
普段はおやつ時に来るため、七緒が頼むのはもっぱらケーキセットだ。土日にランチをしに来れば良かったと後悔しながら、あっという間にホットサンドとスープを平らげた。
ほくほくとした気分になりながら、水を少し飲んでいると、「お皿下げても大丈夫ですか?」と横から声が掛かった。
「はい、大丈夫です! 美味しかったです!」
勢いに任せて感想まで言うと、栗色の髪の若い男性はふっと笑みを漏らす。このカフェの店長だ。
「それは良かった。うちの料理人にも伝えておきますね」
料理人、と聞いて、七緒は会計時などに奥のキッチンに見える後姿を思い出す。黒髪で毛先だけが赤い背の高い男性だ。料理担当で接客は一切しないのか、顔はまだ一度も見たことがない。
後姿だけ見ればどちらかというと居酒屋などにいそうな雰囲気だが、今日のホットサンドやスープを思い返す限り、洋食などの方が得意なのだろうか。
「それと、食後のデザートと飲み物は何にしますか?」
そう尋ねられ、そういえばまだ決めてなかった、と七緒は思い出す。
「ええと、今日のケーキは……」
慌ててメニューを読み返そうとしていると、店長が「ガトーショコラと柚子のチーズケーキ、あと柚子のシフォンケーキですね」と教えてくれる。
柚子が安く手に入ったのだろうか。柚子のチーズケーキもシフォンケーキも、それほど見かけないケーキだ。
逆に、ガトーショコラは定番なだけあってよく見かける。
(チョコ系もいいけど、柚子は今の時期しかなさそうだし……)
「店長さんのおすすめとかってありますか?」
「おすすめと言われると、個人的には柚子のチーズケーキですかねぇ。でも、ホットサンドがちょっと重かったなら、シフォンケーキの方がいいかもしれませんね……あっちにもチーズ入ってましたし……」
なるほど、とは思ったが、スープは生姜でさっぱりしていたし、ホットサンドもキャロットラペやキャベツのお蔭でそれほど重くはなかった。チーズケーキを選んでも余裕で食べられるだろう。
「柚子のチーズケーキで」
「はい、分かりました。飲み物はどうしますか? 個人的には紅茶がおすすめですが」
「紅茶でお願いします」
間髪入れずに答えると、店長はまたふっと笑みを漏らす。
「では、少々お待ち下さい」
そう言って、空の皿を乗せたトレーを持ってカウンターへと戻っていった。
待っている間に借りた本の存在を思い出し、バッグから取り出して表紙を開く。本格的に読む時間はないだろうからと、目次を見て興味を惹かれたページを眺めていると、程なくして紅茶とケーキが運ばれてきた。
「お待たせしました。柚子のチーズケーキと紅茶です。ゆっくりしていって下さいね」
「ありがとうございます」
テーブルに置かれた皿の上には、ベイクドタイプのチーズケーキが乗っている。
待ちきれないと言わんばかりに七緒はフォークを取り、一口。
柚子の爽やかな香りと濃厚なクリームチーズの風味が口の中に広がり、自然と頬が緩む。しっかりとしたタイプのチーズケーキだが、舌触りは意外と滑らかだ。
もう一口、と今度はケーキの上に載っている柚子の皮のマーマレードをフォークで少し取り、ケーキと一緒に食べる。甘さの中に柚子の皮の仄かな苦みがアクセントになっていて良い。
チーズケーキにして正解だったと思いながら、七緒は紅茶に手を伸ばす。
どちらかというとカフェラテやカプチーノを飲むことが多いが、紅茶も嫌いという訳ではない。
湯気の立つカップをそっと口につけると、ふわりと紅茶特有の香りが鼻をくすぐった。良い匂いだと思いながら一口飲む。
(あ……そんなに渋くない……)
紅茶はもっと渋いものだというイメージだったが、この紅茶は舌に残る渋みやえぐみがほとんどない。どころか、甘みのようなものを感じる。
(美味しい、これ……)
こんなに美味しい紅茶があったのか、と感心しながら再びチーズケーキをフォークで切って口に入れる。
柚子の香りと紅茶もよく合う。何となく店長が紅茶を勧めた理由が分かったような気がしながら、七緒は食後のデザートを堪能した。
残りの紅茶を飲みつつ、レポート用に借りた本を開いて過ごしたりしている内に、窓から差し込む陽の光は傾き始めていた。
流石に長居をし過ぎたか、と七緒は本を片付けて身支度を整える。バッグを肩に掛けて伝票をもってレジに向かえば、店長が「お帰りですか?」と声を掛けてきた。
「はい。すみません、長居しちゃって……」
「いえいえ。他にお客さんもあまりいませんでしたし、気にしなくていいですよ。元々ゆっくりできるスペースを作りたくて作った場所ですし」
「へぇ、そうなんですね」
「売り上げとか気にするなら、もう少し場所も考えてますね。この辺りは大通りにお洒落なカフェがいくつかありますし」
ああ、と七緒は駅からここへ来る途中にあるカフェを思い出す。
写真映えしそうなお洒落なスイーツを出しているカフェだ。外装や内装もスタイリッシュでお洒落だが、椅子の座り心地はあまり良くなく、一度行ったきり行っていない。
「そういう訳なんで、混んでない時は是非ゆっくりしていって下さい」
「ありがとうございます」
また来て下さいね、と微笑む店長に罪悪感はほとんど薄れ、また来ようという気持ちになった。
(来週はもう講義がない科目もあるし、どこかで来れるかも……)
来週ならまだ柚子のシフォンケーキもメニューにあるかもしれない、と思いながら店を出る。
店の角を曲がって駅へと向かおうとすれば、ちょうど店の裏手に当たる場所からガサガサと木の枝葉を揺らすような物音が聞こえてきた。
猫でもいるのかと目を向ければ、深緑の葉を付けた垣根からくるんと上に巻いた黄金色の尻尾が飛び出している。
小柄な柴犬だ。周りを見ても飼い主らしき人物は見当たらないが、ちょうど神社とカフェの境あたりなので、どちらかが飼っているのかもしれない。
柴犬は何かと格闘しているのか、垣根の中に頭を突っ込んだまま暴れている。
首輪か何か引っ掛かったのだろうか。気になった七緒がそちらへと歩み寄ると、唐突に柴犬が垣根から頭を抜いて七緒を見た。
わん、と一鳴きして柴犬は七緒を見詰める。柴犬の前、垣根の真下には布が掛けられた小さな籠があった。
「えっと……」
その籠はどうしたのだろうか。何処からか取ってきたのだろうか。
状況が良く掴めない七緒を見てか、柴犬は前足を籠の端に掛けた。倒れるかと思った籠は、だがしかし、何かに引っ掛かってるらしく、それ以上は傾かない。
「もしかして、引っ掛かったのかな……?」
くぅん、と鼻を鳴らす柴犬に、取り敢えず籠が欲しいのだろうと察して、七緒は垣根の下を覗き込んだ。
見れば細かい枝葉がいくつか籠の網目に入り込んでいる。ただ引っ張るだけでは取れなさそうで、柴犬が格闘していた理由が分かった。
七緒は網目から一つ一つ枝を外し、垣根の下から籠を取り出す。
(ん……?)
籠だけにしては少し重い。
何が入っているのか、とそっと掛けてある布を持ち上げてみると、中にはラップに包まれたケーキが二種類と黄色いジャム入りのガラス容器が入っていた。片方は七緒が先程食べた柚子のチーズケーキだ。
もう片方はシフォンケーキで、もしかしなくとも陽だまりカフェのシフォンケーキだろう。
(籠ごと盗んでくる訳もないだろうし……)
そもそもお腹が空いて盗んだのなら、ケーキは今頃柴犬の胃の中だろう。
「もしかして、お遣いしてたの?」
尻尾を振りながら七緒を見ている柴犬に思わず問い掛けると、柴犬はタイミングよく、わん! と吠える。
一瞬会話でもしているかのような気分になったが、まさかそんな訳はないだろうと七緒は苦笑する。
「そっか、偉いね。もう引っ掛けないようにね」
七緒は掛け布を元に戻し、柴犬の前に籠を置く。柴犬は待っていたと言わんばかりに籠の取っ手を銜え、垣根の下の隙間を通って神社側へと出ていった。
飼い主が躾けたのだろうか。賢い柴犬だ。
少しだけ良いことをした気分になりながら、七緒は店の裏手から出て帰路に就いた。
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