追われた少女
「今日は天気崩れそうですね」
宿屋の軒先を出たあたりで、ティナが空を仰いだ。
鈍色に曇った雲が空を分厚く覆い、陽光はかすかにしか地表を照らしていない。
街を歩く人々の顔にも、どこか影が差しているようだった。光ではなく、空気の質のようなものが、街全体に薄い膜を張っている。鉛色の静けさ。そう言ってもいい。
「行こう」
俺は短くそう返す。
この右腕を抱えて、一か所にとどまることなどできるはずもない。
滞在が長引けば、やがてどこかで視線が突き刺さる。ならば、誰の記憶にも新しいうちにこの地を去るのが、得策だった。
市場の喧噪を背に、裏通りへ入った瞬間だった。ふいに、空気が切り裂かれるような風音が走る。
視界の端、揺らめくように走り去る人影。あまりにも素早くて、目で追うのがやっとだった。
ローブを纏った小柄な何か。人か、それとも——一瞬そんな疑問が脳裏をよぎるほど、野性味を帯びていた。
すれ違いざまに跳ねた髪が、微かに青白く煌いた。ローブの隙間から、尖った耳が覗く。
エルフだ。間違いない。あの時見た……逃げていた少女。
間を置かず、背後から怒号が届いた。
「おいっ、逃がすなァッ!」
二人、三人——否、もっとか。
怒りに燃えた声と共に、街路を押しのけるようにして駆けてくる足音がある。
その中の一人が、俺とぶつかった。
「邪魔だッ!」
反射的に肩を引いたが、すでに男は俺の横をすり抜けていく。そのローブに目をやった瞬間、胸の奥がざらりと冷えた。
金の糸で刺繍された紋様。蛇のようにのたうつ意匠——奴隷商だ。
喉の奥で舌打ちしそうになったが、俺はそっと踵を返しかけた。
自ら関わる必要はなない。俺はこの町の人間ではないし、正義感に酔う趣味もない。
そもそも俺自身が、一つの城を落とした追われる身の存在だ。
関わるほどに、余計なリスクが増える。
ならば、目を閉じて——
「……幸哉さん」
その思考を断ち切るように、ティナの声が降ってきた。
右腕をそっと掴まれている。
振り返れば、いつもの優しい目ではなく、強く訴えるような光を宿した目で、じっと俺を見上げていた。
何も言わずとも、その瞳は多くを語っていた。
どうしても見過ごせない。どうしても、あの子を放ってはおけない——
そんな彼女の信念が、沈黙よりも重く突き刺さる。
俺は眉間を揉み、短くため息をついた。
「……はぁ」
自嘲と諦念の混じった息を一つ。
俺は道を反転し、奴隷商たちの走り去った先へ、ティナを伴って駆けた。
追いかけるようにして辿り着いたのは、裏手の袋小路だった。
街のざわめきも届かない死角。壁の影で、ローブを引きずるようにしてしゃがみ込む少女の姿が見える。
その小さな背中は震え、抱えた膝に顔を埋めるようにして怯えている。
遠目にもわかる。追い詰められた獣が、ひたすらに己を守ろうとしている様子だった。
足音に反応し、少女が微かに顔を上げた。
その目は、水底に差し込んだ一筋の光を見つけたかのように、かすかに揺れた。
遠ざかっていた足音が、また近づき始めていた。
追手だ。後方から、複数の足音と罵声が響く。
俺の隣で、ティナがすっと一歩、前に出た。
少女の前に立ちはだかるように。その背に、見覚えのある温かさを感じた。
残酷なこの世界で、唯一、俺の傍に立ってくれた存在。
その背が、思った以上に頼もしく思えてしまったのは、少し悔しかった。
俺はそっと、右手に巻いた布をずらし、黄金の義手に触れる。
待つ間もなく、怒号が通りに満ちた。
「いたぞ! 袋小路だ、囲め!」
乾いた叫びが反響し、狭い路地に複数の足音が押し寄せてくる。五、六人の影が、路地を挟むように姿を現した。すでに逃げ道はない。
獲物を追い詰める動きに、慣れている。そう、まるでハンターだ。
中央に立つのは、先ほどぶつかったあの男。
金の縫い目を縦に走らせたローブを翻し、鋭く俺たちを見据える。
「お前……見覚えあるな。この前、邪魔した奴だろ」
じわりと笑いながら、男は腰の短剣に手をかけた。
躊躇のない仕草。刀身が鞘を離れる音が、いやに耳に残る。
言葉は不要だと思ったが、口が勝手に動いた。
「この子から手を引け。そうすれば──」
「うるせえこのガキがぁ!!」
割り込むように、男の部下が怒鳴りながら突っ込んできた。
ナイフを振り上げ、一直線にこちらへ向かってくる。その動きに迷いはない。躊躇も、戸惑いも、罪の意識すらない。
俺は静かに皮手袋を外し、右手を差し出した。
それはまるで、ナイフを受け止めるような、無防備な構えだった。
そして、刃が俺の右腕に触れた瞬間──世界が裏返った。
空気が、震える。
ぱしん、と張り詰めた糸が切れたような音がして、包帯がひとりでに解けた。
むき出しになった黄金の肌が、陽の光を跳ね返し、まばゆい閃光を放つ。
ナイフの刃先が触れた点から、溶け始めた。
金属が液体のように崩れ、逆流するようにして男の手首から腕、肩口へと這い上がる。
「う、うわあああああッ! な、なんだこれッ、溶け──ッ!」
男の絶叫が狭い通りに響き渡る。
だが、俺はすでに動いていた。
足元に落ちたナイフの破片を拾い上げる。
それを握った瞬間、右腕から新たな黄金が芽吹いた。
鋭利な鎖。まるで生きているかのようにくねり、走り、男たちの足元を絡め取っていく。
重力を無視したような動きで、金属の枷が次々と形成されていく。
「くっ、な、なんなんだ……動けねぇッ……!」
「足が……足が締まって──ッ!」
悲鳴が重なる。逃げようとした男たちは、次々と膝を折り、もがき、呻く。
そのときだった。
「黄金の右腕……! まさか、あのゴールドフィストか!?」
誰かが叫んだ。俺の右腕を見て、何かを思い出したような声で。
ゴールドフィスト? なんだそのダサい名前。まさか俺のことじゃないよな?
「囲め囲めぇ! こいつをひっ捕らえれば大金持ちだ!」
ああ、やっぱり俺のことらしい。
ぐるりと取り囲む男たちの目の色が、がらりと変わる。
敵意でもなく、正義感でもなく、ただ、金の匂いを嗅ぎつけた者たちのそれ。
俺は息を吐き、無言で右腕を振る。
黄金の鎖が一気に硬質化し、金属音すら立てずに締めつけを強めた。
「なんだこれぇ!」
「くそっ!」
じたばたともがいていた男たちは、次々とその場に倒れ込み、動けなくなる。
ようやく静けさが戻ったそのとき、ティナが少女を抱き起こして俺のもとへ駆け寄ってきた。
少女の体はまだ震えていたが、その目の奥にあった恐怖の色が、ほんの少しだけ和らいだように見えた。
「幸哉、早くっ!」
「ああ──」
俺は右手をそっと袖の中に戻し、布を巻き直す。
そして二人を促しながら、路地の奥──出口へと駆け出した。
「こっちだ!」
少女の手を取る。温もりはかすかに震えていた。
俺はそれを力で包むように握り返し、ただ前へと走る。
石畳の裏路地。濡れた木箱を飛び越え、くぐもった風の抜ける搬入口を横切る。小川のように流れる排水路の上を一息に跳び越え、無数の影が揺れる通りを抜けた。
背後の足音は、もうない。
鎖に縛られた奴らが、追いつけるはずもないが、新手の心配はあった。
この様子からして、その心配はないだろう。
たどり着いたのは町の外れ。
誰も寄りつかない廃屋の裏、苔むした井戸がぽつんと佇む、静かな広場。
雨水が染みた石の地面に、三人で腰を下ろす。
それだけのことが、救いのように感じられた。
ティナが「大丈夫?」と少女の顔を覗き込む。
かけられた言葉は優しかったが、少女の返事はすぐには返ってこなかった。
「……あの、名前、聞いてもいい?」
しばしの沈黙ののち──その声は、まるで水底から浮かび上がる泡のように、静かに紡がれた。
「……アルヴェン」
透き通るような声だった。
まるで風のない朝に、水面をすべる木の葉のように、滑らかに耳を通り抜けた。
「アルヴェンちゃん、ね。よろしく、私はティナ。こっちは──」
「……幸哉、でいい」
少しだけ、間を置いて名乗った。
青い髪の少女──アルヴェンは、ひと呼吸してから、小さくこくりと頷く。
その瞳はまだ怯えていた。けれど、その奥にほんのわずかな光が宿っているのがわかった。
生きることを諦めていない瞳。まだ、この世界にしがみつこうとしている光。
ティナが、そっと彼女の肩を抱き寄せる。
柔らかな仕草。温もりを伝えるような、それでいて何かを包み込むような抱擁。
それはまるで、妹を守る姉のようだった。
パッと頭の中でナイーザの姿が浮かぶ。思わず眉間にしわを寄せ、振り払うように首を振った。
「アルヴェンちゃん、お腹すいてない? 甘いのとかあるけど……食べる?」
「……はい、いただきます」
消え入りそうな声。でも、確かな意思のある返事だった。
ティナは露店で買った砂糖と豆を煮詰めて固めた甘菓子を取り出し、アルヴェンに分ける。アルヴェンのことは任せてもよさそうだ。
俺は手元の包帯を解く。傍らの水桶で、泥を落としながら湿り気を絞る。
右腕を覆っていた黄金の光は、今は沈黙していた。
静かに眠る鉱石のように、そこにあるだけで存在を主張していた。
ふぅ、と息をついて顔を上げる。
アルヴェンのローブの隙間から覗く布切れは、擦り切れ、裂けていた。腕には腕輪の跡がくっきりと残り、足にはむち打ちの跡。靴も履いておらず、泥だらけの素足が妙に生々しい。
まるで“奴隷”という言葉を象徴するような、無惨な装い。
思わず視線を逸らしそうになるが、やめた。
今は、問いを投げる側になる番だ。
この子は、何者なのか。なぜ追われていたのか。
そして、どうして俺たちが、それに巻き込まれたのか。
いずれ聞かねばならない話。だが、それはこの沈黙を壊してからでも遅くはない。
〇
人通りの絶えた裏路地。
夜の陰が、地面の苔や石畳の継ぎ目にまで染み込んでいた。
古びた荷車の陰に身を寄せる俺たちの鼻先を、カビの湿気と古油の臭いがかすめる。
目を凝らせば、獣とも虫ともつかぬ魔物が、灯りのない隙間を這っていた。
骨だけのように痩せた身体を揺らしながら、時折、月を睨むようにぎらりと目を光らせている。
そんな沈黙の中、ようやく俺たちは言葉を交わせるだけの静寂を手にしていた。
「……」
アルヴェンは膝を抱き、じっと動かない。
足元に伸びた自分の影を踏みつけるようにして、ただ気まずそうに足の指をぎゅっと丸めている。
「ごめんね。変なことに巻き込んじゃったかな」
最初に声をかけたのは、ティナだった。
干し肉を指先でほぐしながら、あくまでやわらかく、ささやくような声で。
「アルヴェンちゃんはすごいよ。逃げようとする選択なんて、私だったら怖くてできない。だって……捕まったら、もっと怖いことされちゃうもん」
「……」
でもアルヴェンちゃんは、そうする理由があった。自由を勝ち取る理由があった。でしょ?」
いつの間にかティナは、アルヴェンの隣にぴたりと座っていた。
まるでその距離が最初から決まっていたかのように、ごく自然に。
身体が触れ合いそうな近さ。
アルヴェンの腕に、微かに力が入る。
不意に押し寄せた温もりに、彼女の肩がごくわずかに震えたのがわかった。
「なんでもいいんだよ。やらなきゃいけないこと、あるんでしょ? それを教えてほしいな。私、ちゃんと聞くから」
それでも口を開かないアルヴェンに、ティナは優しく微笑んでほぐした干し肉を渡した。アルヴェンは少し躊躇する様子を見せたが、やがてそれを受け取り、小さくかじりつく。
一噛み、二噛み。
三噛み目をする頃には、大粒の涙がその青色の瞳から零れ落ちた。一度決壊した涙腺からぼろぼろと涙が溢れていく。
溜め込んだものが、溶け崩れていくように。
涙は頬を伝い、月の灯りの中で、鈍い光を纏って落ちた。
俺は少し気まずくなり、口元を手で隠しながらよそを向いた。
アルヴェンの気持ちはわかる。
数日前、その立場にいたのは俺なんだ。
辛い現実の中、ティナの無条件の優しさは温かいとか、柔らかいとか、そんな優しいものではない。
残酷なまでに苦しいのだ。
痛めつけられ、孤独となった心をむんずとわしづかみにされ、こじ開けられる。もうやめてくれとさえ思うほど、その優しさは中毒性を持ってしまう。
やがて、その苦しみから逃れるために、自らティナの望むものを差し出してしまう。
感情をすべて吐露してしまう。
まるで火中に飛び込む虫のように。
「私は……見世物小屋で育ちました」
ようやく口を開いたアルヴェンの言葉に、ティナが「うんうん」と微笑んでうなずく。
どこか身に覚えのある光景に、俺は思わず苦笑いをしてしまう。
ティナは臨床心理学でも学んだのだろうか。
もしこれを無意識でやってるんだとしたら才能としか言いようがない。
アルヴェンの言葉が、ゆっくりと紡がれていく。
「物心ついたときには、そこにいて……名前も、自分で名乗ったことなんてありません。アルヴェンというのが、本当に私の名前かもわかりません」
その口調に感情の揺れはなかった。だが、逆にそれが、深い傷を覆い隠そうとしているように思えた。
「私がエルフだから。それも……ハーフエルフ」
「ハーフエルフ……っ」
ティナの喉から、小さく息を呑む音が漏れる。その反応が、事の重大さを如実に物語っていた。
ハーフエルフってことは、エルフとは違う種族と交わって生まれたってことだよな。
「ハーフエルフは、人間とエルフとの間に生まれた子のことです」
不思議そうに考え込む俺を察してか、こっそりティナが耳打ちしてくる。
人間とエルフのハーフ。それが、目の前にいる青髪の少女。
「気にしないでください、私の身分については嫌というほど聞かされています」
アルヴェンはただ無表情で答えた。
ティナはアルヴェンを一瞥した後、一呼吸おいて俺と向き直す。
「エルフは人間の中では魔物扱いです。そのエルフと人間の間に子供が生まれることを公に認めてしまった場合……」
そうだ。
この世界の歴史上、エルフは魔物と扱われる。つまり非人間。だがエルフと人間の間に子供が生まれるという事は、生物学上、エルフも人間種に組み込まれるという事になる。
だが、それはこの世界の倫理が、それを許さない。
それを認めた瞬間、今まで虐げてきたものすべてが“同類”になるのだから。
「私を買いたいって言った奴隷商が来て……。その時に、初めて“モノ”として扱われていることを知りました。怖くて、逃げました」
「よく、逃げきれたね……」
「運がよかったんです。この町の人たちは、他人には興味がないので、見て見ぬふりをしていただけました」
そう言って、アルヴェンは微かに口元を引き結んだ。
その言葉の温度は、凍えるほどに冷たい。
「……私は探したいんです。自分の本当の親を。生まれた場所を。なぜ、自分がこんな体なのかを」
そこまで言って、ふと、彼女は黙った。
──ここまで流れるようだった語り口に、唐突なブレーキ。
俺は、視線を逸らさずにいた。ティナはうなずきながら微笑んでいたが、俺の中では小さな違和感が消えなかった。
言葉の間に空白がある。
語られていない“何か”が、その背後に立っている。
わざとか、無意識か。
その判断はまだつかない。ただ、ひとつ言えるのは──
この子は、すべてを話していない。
「アルヴェン、君の親……見つかるとといいね」
ティナの声がそう言って、アルヴェンの肩に手を置く。
俺には、その声がやけに遠く感じられた。
……自分のルーツを探す旅か。
それは、もしかしたら俺にとっても同じことなのかもしれない。
この右腕が何なのか。
なぜ、自分はこの世界にいるのか。
俺は、どこから来て、どこへ向かうのか。
答えのない問いが、夜の帳の中で、ふわりと浮かび上がっていた。