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鉄鎖の門オラ

 出発の朝は、あっけないものだった。

 スレヴィルの町の門を抜けると、舗装された道はすぐに獣道へと変わり、視界の先には霧がうっすらと立ちこめていた。春の気配はあったが、空気にはまだ冬の爪痕が残っている。乾いた大地に靴音が吸い込まれ、俺とティナの影だけが長くのびていた。

 右手は、ティナが用意してくれた上等な包帯で巻かれている。その上から革製の手袋をはめ、さらにマントの袖を深くかぶせる。見た目には隠しきれていた。だが、そこにある異物感は、身体の一部であるにも関わらず、ずっと脳の奥で警鐘を鳴らしている。


「うん、ぱっと見じゃ全然わからないね」

「隠すために巻いてるんだ。その方がいい」


 ティナは楽しそうに道端の草花を摘んでいる。どれも薬草として使えるものばかりだ。彼女の知識量は、錬金術師の見習いというにはおそろしく実践的すぎる。


「で、オラってどんなとこなんだ?」

「んー……見たことはないけど、戦いの国、って呼ばれてる。たしか町の入り口に鉄の門があって、そこに入ると誰でも兵士にスカウトされるって噂もあるよ。強くなりたい人が集まる場所なんだって」

「鉄の門、ね。……やっかいそうだ」

「でも、きっと大丈夫。私たち、錬金術師コンビだから!」


 ティナの明るさは、時折こっちの胸をざわつかせる。あの夜、俺を抱きしめた腕の温度。あれが確かだったから、今こうして前に進めているのかもしれない。

 とはいえ、不安がなかったわけじゃない。

 村を出てから三つ目の宿場町に入ったころ、俺は気づいた。市場の噂話に、どこかで聞いたような名前が混じっている。


「……コズモ、陥落したんだってさ」

「全部、黄金に包まれて。城がまるごと……神の罰だって言う人もいるよ」

「いや、あれは“金の悪魔”の仕業だって話もある。見た人が言ってた。金の腕を持つ化け物が、街を歩いてたって」


 その場を離れた俺は、町外れの林道で木に背を預けた。

 拳を握る。布越しに、異様な冷たさが掌に返る。


「俺のことだな」

「……うん」


 ティナは静かに頷いた。何も言わず、ただ近くに立っている。その気遣いが、ありがたくもあり、重くもあった。


「誰かに見つかったら、面倒になる。俺の右腕は“力”だが、同時に、呪いでもある」

「私は、怖くないよ。幸也さんは優しい人だって知ってるから。それに……幸哉さんは、この力に飲まれていない。まだ“人”のままだよ」


 ティナがそっと右腕に触れる。彼女が何故こうも俺をかばってくれるのか分からないが、それに甘え始めている俺がいる。

 大切なものを増やしたくなくて、なるべく距離を放そうとしても、相手がそれを許さなかったら?


 人を金の像に変えてしまう俺を、優しい人と言ってくれる人がいる。俺は空を見上げながら、俺は黙ってその言葉をかみしめた。


 境界の村に辿り着いたのは、出発から八日目の朝だった。

 名もなきその村は、かつては交易の拠点だったのだろう。朽ちた街道沿いに古い見張り塔が残されていて、石畳の欠けた隙間から雑草が生い茂っている。人の気配は少なく、空気は冷え切っていた。

 それでも、ここが“国境”であるという事実だけは、否応なく目に飛び込んできた。


 谷を挟んだ向こうに、巨大な鉄の門があった。重機の顎のようにそびえ立ち、黒く、鈍く、何かの“意志”すら感じさせるような質量。門と呼ぶにはあまりにも物騒すぎるその構造物は、たった今、俺たちの世界が切り替わるのだと告げているかのようだった。


「……すごい……これが、オラの鉄鎖の門……」


 ティナが思わず口にした声は、畏怖と憧れが半々に混ざっていた。


「装飾もなければ紋章もない。ただの鉄塊だな。歓迎されてる感じはまるでない」

「うん、でもこれが“強さの国”なんだよ。強ければ上に行ける、弱ければ従う。そういう国……って、祖父が言ってた」


 そう口にする彼女の横顔は、なぜか晴れやかだった。スレヴィルでは見られなかった表情だ。

 門の前には、警備隊の詰所がある。槍を携えた兵士たちが、通行人ひとりひとりを厳しく目視検査していた。


「通行手形はあるのか?」

「えっと、旅商人の証書なら持ってるけど……それで通れるかな?」

「やってみるしかないな」


 ティナが懐から取り出した革の書類袋には、スレヴィルの錬金術師組合から発行された登録証明が入っていた。俺の分も、どうにか同伴者として扱えそうな文言が添えられている。彼女がこっそり手を回してくれていたらしい。

 門番は俺たちをじろじろと見回したあと、ひとまず書類を受け取ると、詰所の中へ引っ込んだ。


「……なんとか通れそう?」

「さあな。あいつらの気分次第だろう」


 その時だった。

 門の奥、かすかな歓声のようなざわめきが聞こえた。

 視線を向けると、訓練場らしき広場で、複数の兵士たちが模擬戦を行っていた。叩き合い、蹴り上げ、倒れてもすぐに立ち上がる。剣と肉体の音が空気を裂いていた。


「……あれが、オラの“日常”なんだね」


 ティナがぽつりと呟く。

 その視線の先で、一人の青年兵士が、額から流れる血を拭いもせず、歓声に向かって拳を掲げた。

 ——強さこそが、存在の証明。

 この国では、それが絶対らしい。

 間もなく、門番が戻ってきて言った。


「通行は許可された。だが、オラの法律に従え。抵抗する者は、たとえ異国の者でも容赦はしない」

「ああ。肝に銘じておく」


 通された門の内側は、外と変わらぬ空気だった。だが、足元に刻まれた鉄の痕が、この場所の“流儀”を無言で物語っていた。

 俺たちは歩き出す。

 新たな国境線を越えて、オラの地へ。


 市場は、熱気に満ちていた。

 鉄鎖の門を抜けてすぐの都市“サン・ルヴァン”は、オラ国境の物流の要衝だ。石畳には香辛料の粉が舞い、路地の奥からは焼き魚と果物の甘い匂いが混ざり合っていた。店先に吊るされた布地やガラス細工、鮮やかな染料入りの壺が太陽光を浴びて宝石のように光る。


「これが……オラの街か……」


 スレヴィルとは、まるで別世界だった。洗練されているわけじゃない。けれど、この街には“強さ”だけじゃない、自由と混沌が入り混じる力強さがある。


「気をつけて、幸哉さん。スリとか、言葉巧みに詐欺する人も多いって聞いたよ」

「ああ、任せとけ。……それより、そろそろ休憩した方がいいんじゃないか?」


 道端のベンチに腰かけようとした、そのときだった。


 ——ばさっ。


 目の前を、ローブの影が風のように駆け抜けた。

 とっさに身構える。すれ違った一瞬、ローブの隙間から覗いたのは、透き通るような青銀の髪。焼けた石畳の上で風にそよぐその色が、やけに現実味を欠いていた。

 その背は小さく、痩せている。だが、どこか尋常じゃない“切実さ”が、その走りからにじみ出ていた。


「——おい、待てっ!」


 数秒遅れて、怒声が市場を割った。

 猛々しい足音。鋲打ちのブーツで市場の果物を蹴散らしながら、数人の男たちがローブの影を追いかけてくる。太った男が一人、革製の首輪を手にしている。


「あれ、奴隷商だ……!」


 ティナの声が、少しだけ震えた。


 ローブの影は、雑踏の間をすり抜けて逃げようとする。だが、体はすでに限界のようで、足元がふらついているのが遠目にもわかった。


「……追いつかれるな」


 咄嗟に、足が動いていた。

 逃げる影の進行方向にまわり込み、狭い路地との接続点で身を滑らせる。俺とその影がすれ違った瞬間——なぜか、心臓が跳ねた。


 何かが、“響いた”。

 その子の中で、何かが俺に呼びかけた気がした。

 振り向く。あの青銀の髪。透き通る瞳。だが、表情はわからない。ローブの影は言葉もなく、ただ通り過ぎていった。


「——おいそこのガキ、どけぇ!」


 奴隷商の男が俺を突き飛ばそうとした瞬間、俺は無意識に右手をわずかに上げた。

 攻撃をするつもりはなかった。けれど、その手に込めた気配だけで、男の足が一瞬止まる。


「なんだてめぇ、あのガキの仲間か!?」

「違う。ただの通行人だ。ここは通路だ、走るなら迷惑にならないところでやってくれないか?」


 男は睨みつけてきたが、こちらの目を見てすぐに逸らした。どうやら、幸か不幸か、“殺し慣れた”目をしていたらしい。

 奴隷商たちは舌打ちをしながら進路を変えていった。

 遠く、ローブの影は曲がり角の向こうに姿を消していた。


「……助けた、ことになるのかな?」

「ううん、助けてなんかないよ。だって……」


 ティナは、そっと囁いた。


「——あの子、“森人”だよ」

「もりびと?」


 俺の聞き返しに、ティナは「あっ」と声を漏らし、しばらく声をどもらせた後に続けた。


「たぶん、エルフの子」


 エルフ。

 魔法の存在を知ってから、その可能性はあると思っていたが、直接聞くと本当に自分が違う世界に来ているんだと実感する。


「マナを扱うのがとても上手で、内臓を乾かして薬にすることもあるって」

「なんだって?」


 俺は思わず聞き返した。

 エルフを薬にするって言ったか?


「よくあるでしょう。根拠もない、効果も実証されてない民間療法ってやつ」


 この世界には、ありとあらゆる場所に“マナ”と呼ばれるものが存在しているらしい。俺が吸い込んでいる空気中にも、この世界の住民たちの中にもマナが存在する。

 魔法と呼ばれる現象を引き起こすには、このマナが密接に関わっている。

 そして、この世界の生物には“月臓”と呼ばれる体内にマナを貯めておく器官があるらしい。その月臓の大きさで扱う魔法のレベルが変わってくる。


 それにしても、まさか薬とはな。


「エルフも魔物と同等なの。人型で、言葉も扱うけど、人間じゃないから」


 ティナは顔に少し影を落とす。

 それがこの世界の理なのだ。人間以外はすべて魔物。


「……面倒なことにならなきゃいいが」


 だが、心の奥で、俺はもう知っていた。

 “あの子”は、またどこかで俺の前に現れる。そう確信していた。


 宿屋に戻った後の、昼下がりの一室。干したリネンが風に揺れるなか、ティナがテーブルの上にかがみこんでいた。


「……ねぇ、本当に、これで水が“割れる”の?」


「割れる、というか、分かれる。水はH2Oって言って、元素記号でいうところの水素が2つと酸素が1つでできてるんだ」


「え、えいち、つーおー? 呪文みたい」


 ティナは真剣な顔で、アルミ皿の中に注がれた透明な水を見つめた。

 そこに、俺が金属片と金属針を差し込む。中には果汁をたっぷり含んだレモンと、銅と亜鉛の薄い板。

 酸性の液体、つまりこのレモンの果汁を電解質にして、金属の性質の違いを利用して電気を作る、レモン電池と呼ばれるものだ。俺は針金を使って銅板と亜鉛板を繋ぎ、電流が流れるように並べた。

 果汁が電極の間をゆっくりと伝っていく。用意した薄い鉄線に接続し、小皿に張った水に電極を入れた。


「いいか? この針が電極。片方がマイナスで、もう片方がプラス。そこに電気を流すと——」


 導線を接続した瞬間、ぷくぷくと水面に泡が立ち始めた。


「——っ! なにこれ! 水が……泡立ってる……!」

「それが水素と酸素。目には見えない分子が分かれて、気体になって出てくる。これが“電気分解”ってやつだ」


 ティナは目をまるくして、水面をのぞき込む。陽の光を受けて泡がきらめいていた。


「すごい……魔法みたい!」

「これは魔法じゃない。理屈と、仕組みでできてる。“現象”ってやつだ」


 俺は笑って、別の実験道具に取りかかった。

 紙で作った細長い筒を逆さに立て、底に火を灯す。炎が上昇気流を生み、筒がふわりと宙に浮く。


「おお……!」


 ティナの目がきらきらと輝いた。


「これも、熱で空気が膨張するって性質を使ってる。軽くなった空気が上昇するから、それに引っ張られて紙が浮く」

「なんか、風の精霊でも入ったみたい……。ねえ幸哉さん、こういうの、たくさん知ってるの?」

「まだまだ。……でも、こういうのを“科学”って呼んでる。俺のいた世界では、それが魔法みたいなもんだった」


 ティナはしばらく黙ってから、ぽつりと呟いた。


「……魔力が足りないから、私に魔法は無理だって、よく言われたの。でも、こういうのなら、私でもできるかも」

「できるさ。知っていれば、誰でもできる。魔力はいらない。必要なのは、観察と推測と、少しの勇気だ」


 その言葉に、ティナはにっこりと微笑んだ。


「うん、そういうの……好き」


 柔らかな光が部屋を満たしていた。

 魔法のない世界から来た“俺”と、魔法の世界に生きる彼女が、ほんの少し、同じ地平を見た気がした。


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