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「陽だまりの終わり」

 三度目の鐘が鳴った。

 スレヴィルの空はぼんやりと霞んでいて、まるでこの世界が深く呼吸しているかのようだった。

 柔らかくて、どこか夢の中にいるような午後。だけど俺は、炉の前で煙にまみれながら鉄片と格闘していた。


「また失敗か……」


 手のひらの上に転がした鉄は、思っていた形にならなかった。

 端が歪んでいる。冷却のタイミングを誤ったか、それとも素材の均一性が不足していたのか。表面に浮いた粗い結晶の痕が、そう告げている。


「でも、音は……よかったと思うけど」


 ティナが小首をかしげながら、顔の煤を拭いもせず笑いかけてくる。

 赤毛を束ねたリボンが半分ほどほどけていて、揺れていた。気づかないくらい夢中になってるんだろう。


「音だけじゃダメだ。現象は感覚じゃなく、理屈と数値で裏付けられなきゃ意味がない」

「……うーん、でも、“音の違いで炭素量が見える”って言ってたの、幸哉さんじゃなかった?」


 はい、言いました。申しましたとも。

 俺は答えず、代わりに鉄片を炉へ戻す。無言の敗北だ。


「それはあくまで職人芸の話だ。できれば顕微鏡で結晶構造まで見たい。電子顕微鏡があれば話が早いんだけどな」

「何だっけ? でんしけんびょう?」

「顕微鏡の一種。原子の配列まで観察できる。科学の目ってやつだ」

「へぇ……。それ、見てみたいな」


 ティナがメモを取りながら小さく笑う。

 純粋な反応に、なんだかこちらが面映ゆい気分になる。

 その姿が、ナイーザを思い出させるからかもしれない。いや、今は忘れよう。今は。


「この鉄……やっぱり、俺の世界と同じだ」

「え?」

「結晶構造も、融点も、反応も……全部、見覚えがある。ってことは、化学式も周期表も変わらない。たぶん、こっちの金属は、地球の金属と同じ“元素”でできてる」

「それって、どういうこと……?」

「つまり、この世界は、俺がいた世界とそっくりってことさ」


 俺はそう言いながら、自分で言ったその言葉に、妙な居心地の悪さを感じていた。

 異世界、それとも違う星なのか。どれが本当なのか、誰にもわからない。ただ一つ、確かなのは。

 ——俺は、何かに呼ばれてここへ来た。


「……ティナ。お前、“黒き使途”って言葉、聞いたことあるか?」

「黒き……? 使途?」


 ティナは首を傾げた。聞き覚えはないらしい。だろうな。俺自身も、意識して口にしたのは今が初めてだ。

 この言葉を耳にしたのは、断片の記憶の中。

 正直、あの夜以降の記憶はちぐはぐだらけで断片的だ。それでも楔のように引っかかっている。

 コズモ王が最期に口にした“黒き使途”という単語。それが妙に引っかかりを覚える。


「いや、わからないならいいんだ。けど……最近、何かに引っ張られてる気がしてさ。見えない糸みたいなやつに」

「見えない、糸……」


 ティナはしばらく考えて、それから静かに笑った。


「私は、そういうの感じたことないけど……でも、そういう糸があるなら、私は感謝したいかも」

「感謝?」


 ティナの思いがけない言葉に、俺は作業の手を止めた。腰を曲げて素材を並べる姿勢のまま、視線だけをティナに向ける。

 ティナは垂れ下がった髪の枝毛をくるくると指先でいじりながら——


「だって、その糸のおかげで、私は幸哉さんに出会えたから。錬金術しか知らなかった私に、世界の理屈や考え方を教えてくれる人に」


 言葉の端々に嘘はなくて、心からそう思ってるのがわかる。その目を、俺はまともに見ることができなかった。どこかがざわついていた。黒き使途という言葉が、俺の記憶の奥でくすぶっている。

 あの王国が腐っていたのは偶然だったのか?

 ナイーザたちが死んだのは、ただの災厄だったのか?

 それとも……誰かの“計画”だったのか。


「……ありがとう、ティナ」


 俺は火の揺らぎを見つめながら、小さく呟いた。

 この穏やかな午後が、もうすぐ終わってしまう気がしていた。

 そして、それを終わらせるのもまた、俺自身であるような、そんな予感がしていた。


 気付けば、ここでの暮らしにも慣れてしまっていた。

 朝は鐘の音で目を覚まし、ティナの店先で朝食がわりのスープを啜り、半日を作業に費やす。炉の火の管理、装置の分解、野草の乾燥、時折入る妙な依頼の処理。たとえば“石ころの形を変えてお守りにしてほしい”だの、“恋愛運の上がる香を作ってくれ”だの。錬金術というよりは占い師の扱いだが、食っていくにはそれで充分だった。

 スレヴィルは、コズモ王国の外れにある、地図の端を飾るような町だ。王都で何が起きようとここまでは波紋は届かない。表面上は、な。

 空はどこまでも青く、鳥の声が聞こえ、通りを猫が横切る。ティナの店の看板が、風に揺れて鳴る。その風景のどれもが、俺の世界とは違っていたけれど、唯一変わらないのは、人々の営みだった。


「ねえ、幸哉さん。……ちょっと、こっち手伝ってくれる?」


 ティナが棚の荷物を取ろうとして、腕をぷるぷると伸ばしていた。俺は無言で手を伸ばし、ガラス瓶の詰まった木箱を持ち上げて渡してやる。


「ありがとうっ。ほんと、助かる……!」


 彼女の笑顔は眩しかった。人を信じることに何の疑いも持たない、陽だまりみたいな目。

 どうして俺は、あのとき、こういう光を守れなかったのか。

 どうして俺は、金しか作れないんだろう。


「なあ、ティナ」

「うん?」

「……コズモ王国のこと、最近どうなってるか、聞いたか?」


 ティナは少し考えて、小さく首を傾げた。


「王都が、なんだか大変って噂は聞いた。……でも、ここまでは何も。軍が駐屯したりとかもないし」

「……そうか」


 俺はそれ以上言わなかった。

 ティナにはまだ知られたくなかった。あの夜、あの光景を。

 俺が引き起こしてしまった“金の嵐”を。

 ——コズモ王都、陥落。

 ——王宮が黄金に包まれ、街が沈黙した。

 噂には尾ひれがつくものだ。ここまで現実離れした事実にも、時折——。


「空から金の雨が降ったんだと。しかもそれ、肌に触れた途端に皮膚ごと固まるんだってさ……黄金に。逃げようとした兵士も民も、みんな止まっちまったって」

「俺は十数メートルの黄金の化け物が出たって聞いたぜ?」


 なんて飛躍した話も聞こえてくる。けれど、陥落したとはいえ国の力は生きているはずだ。国の人手が増えてくれば、捜索の手もここに届くだろう。

 確実に変わりつつある。風の流れが。空気の重みが。

 それは俺の皮膚が覚えている。


「……幸哉さん、なんか最近、難しい顔してる。いつもより、ずっと」

「そうか?」

「うん。あ、でも、それが“今の顔”って思ってるなら……ごめん、変なこと言った」


 気まずそうに眉を下げる彼女に、思わず苦笑いが漏れた。


「いや、正直に言ってくれていい。たぶん、俺……いま、自分の顔なんてまともに鏡で見られない気がする」

「……ううん。私は、優しい顔だと思うよ。ちょっと疲れてるだけで」


 優しい、か。

 それを言われると、どうしてもナイーザの顔が浮かぶ。

 焼け焦げた村の、井戸の傍で見つけた、あの小さな笑顔が。

 たぶん、彼女も言ってくれていたかもしれない。「やさしい」と。

 だったら——


「ティナ。ありがとう。……俺、もう少し、ここにいてもいいかな」

「もちろん!」


 それは、短くて、けれど深く胸に沈む答えだった。

 いつまでもここにはいられない。だが、あともう少し。

 陽だまりの中に、いさせてほしいと思った。


 〇


 雨の匂いがした。

 日中は晴れていたのに、夜になって急に降り始めるあたり、この町の天気は気まぐれだ。屋根を叩く細かな粒が、ぽつ、ぽつ、とリズムを刻み始めていた。

 店の灯りはすでに落としていて、俺は作業台の隅に腰かけていた。火鉢の残り火を背にしていると、温かさと暗さの境界がちょうど身体の半分を跨ぐような感覚になる。安心と不安。あのときと同じだ。

 ココット村の井戸の前、ナイーザの亡骸を抱いたあの夜と。

 そのとき、奥から静かに足音がした。振り返ると、ティナが湯気を立てるカップを二つ、慎重に盆に載せていた。


「……起きてたんだね」

「ああ。雨の音がうるさくてな」


 ティナは小さく笑って、俺の隣に腰を下ろした。

 そして、火鉢の向こうでカップを俺に差し出す。ほのかに甘い香りが鼻をくすぐった。


「ハーブティ。……眠れない夜には、ね」


 口に含むと、乾いた野草と蜂蜜の、どこか懐かしい味が広がった。

 一瞬だけ、この世界の重さを忘れられるような気がした。


「ねえ、幸哉さん。私ね、昔、錬金術師になりたいって言ったとき、周りからものすごく反対されたの」


 唐突な語りに、俺は黙って耳を傾けた。


「両親はもういなかったし、育ててくれた祖父も、『錬金術師になったら死ぬぞ』って言ってた。笑っちゃうよね、あんなに尊敬してたのに」

「……どうして、なろうと思った?」

「誰かの役に立ちたかったんだ。魔法が使えない私でも、薬を作ったり、怪我を治したり……それなら、人を救えるって思ったから」


 その声は、火のゆらぎと同じだった。揺れて、燃えて、消えずに、そこにある。ティナのカップを握る手に、少し力が入ったのを感じた。


「でもね……祖父は、それでも錬金術を続けたんだ。誰に嫌われても、誤解されても。ある日、王都に呼ばれて、処刑されたの。なんでも“禁忌に触れた”って、ね」


 禁忌に触れた、か。

 ティナの祖父がどんな禁忌に触れたのか分からないが、その言葉が一番ふさわしいのは俺の気がする。


「それでも、私は信じてる。あの人は正しかった。だから、私も続ける。——復讐じゃなくて、希望を作るために。錬金術師って、そういう仕事だと思うから」


 言葉の一つひとつが、俺の胸に突き刺さった。

 復讐。それだけが、今の俺を活かしている動力源だ。俺が今もこうしてここにとどまっているのも、復讐する対象を探しているんじゃないかと考えるときがある。

 ティナはそれを知っているかのように、俺を諭そうとしているのだ。


「……ごめん、重い話になっちゃったね。でも、幸哉さんが黙っているときほど、私はたくさん話したくなるんだ」


 俺は返す言葉を探しながら、右手に視線を落とした。


「……俺は、壊すことしかできなかったよ。誰かを守ることも、救うことも、何一つできなかった」

「そう、かな?」

「ティナ。俺は、コズモを……王都を、金に変えた。怒りで、すべてを焼き尽くして、それでも何も感じなかった。ナイーザが死んで、右腕が金になって、それからは、止まらなかった。感情も、思考も……全部、鈍っていったんだ」


 言葉を吐くたび、喉が軋んだ。


「それでも、俺はまだ人間なんだろうか。……もう、何かの模倣品なんじゃないかって、そう思うことがある。命も、心も、作られたものみたいで。俺は、どこまでが“俺”なんだろうな」


 ティナは何も言わなかった。ただ、そっと俺の肩に寄りかかり、小さな腕で背中をなぞるように撫でた。


「私は、そう思わないよ。たとえその腕が金でも、心が鈍くても……泣くことができるなら、人間だって、私は思う」


 言葉じゃなく、肌から伝わる温度に、俺の目がじんわりと潤んだ。

 火鉢の炭が、ちいさくはぜる。その音は、なぜか遠く聞こえた。


 朝。昨夜の雨はすっかり上がっていて、瓦屋根の端に溜まっていた雫が、ひとつ、またひとつと落ちていく。通りにはまだ人の姿もなく、町全体が寝息を立てているようだった。

 俺は、包帯を巻いた右手をゆっくりと握った。

 金の腕は、朝日を受けて鈍く輝いている。あの夜、怒りと喪失が入り交じった果てに得たこの腕は、未だに自分の一部だと信じきれないままそこにあった。


「……よし」


 そう呟いてから、俺は静かに階段を下りた。店先の扉の向こうでは、すでにティナが荷造りを始めていた。

 いつものエプロン姿ではなく、少し擦り切れた旅用のケープに着替えている。腰には簡易の錬金キットがぶら下がっていた。


「……どういうつもりだ?」

「見ての通り。旅の準備」


 ティナは軽く肩をすくめてみせる。


「私も行くよ。幸哉さんと一緒に」

「なぜだ。危険だってわかってるだろ。次はオラの方角に向かうつもりだ。あそこは奴隷制度もある。のんきな旅にはならない」

「……知ってる。でも、私は錬金術師だよ? 幸哉さんと一緒に旅をすれば、もっといろんなことが学べると思ってる。あなたが話す“科学”って、まるで未知の錬金みたいで……心がざわざわするの」


 その言葉に、俺は言葉を失った。


「それに、私はおもりだから」

「……は?」

「忘れたの? このあいだ、自分で言ってたじゃない。“俺は自分が人じゃないかもしれない”って。そんな人をひとりで旅立たせるわけにはいかないよ。道で寝転がってるかもしれないし」

「心外なんですけど」

「冗談。でも、やっぱり見ていられなかった。悲しそうな目をしてるのに、何も言わないままどこかへ行こうとしてたから。ねえ、幸哉さん。私はあなたを“人間”だと思ってるよ。……それだけじゃ、ダメ?」


 その真っ直ぐな言葉に、俺は深く息を吐いた。

 どこかで、こうなることはわかっていたのかもしれない。

 彼女の眼差しは、たとえ俺が金でできていようと、変わらず同じだったから。


「……勝手についてくるのは自由だが、俺は守る余裕なんかないぞ」

「うん、いいよ。私が勝手についていくだけだから」

「ああもう……わかった。ついてこい、ティナ」

 そう言った瞬間、彼女の笑顔がぱっと花のように咲いた。

「やったっ!」

「ただし、ひとつ条件がある」

「なに?」

「右腕はしばらくは包帯を巻いたままにしておく。それと、目立つ行動は控える」

「はいはい。じゃあまずは、包帯をもうちょっとおしゃれに巻こうか。旅の仲間っぽく」


 そう言ってティナは俺の右腕を手に取り、器用に布を巻き直し始めた。

 まるで、何かを守るように。あるいは包むように。その手付きの優しさが、妙に心に沁みた。

 陽は高くなり始めていた。この小さな町を後にする時が、近づいている。

 ——陽だまりは、もうすぐ終わる。


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