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陽だまりの錬金術師

 

 スレヴィルの町は、地図の端に押し込められたような辺境の地だった。

 王都コズモの支配圏にありながら、肥沃な土地もなく、交易の幹線からも外れたこの町に、いま特筆すべきものがあるとすれば——それは「情報の流れの遅さ」だけだった。


 だが、その日。風はやけに鋭く、空気は乾ききっていた。町の人々がぼそぼそと交わす会話には、決して消えない震えが混ざっていた。


「……コズモが、陥落したらしいぞ」

「うそだろ、一夜で……?」

「黄金の城になったってさ。あれ全部、金だって」


 人々は笑わなかった。誰も真実を知らなかったからこそ、逆に“ありえる”と。


 スレヴィルの中心から少し外れた裏路地。そこに、小さな石造りの建物があった。錬金術師店《ティナの万薬舗》――それが、看板に書かれた文字。

 赤髪を二束に結んだ少女が、黙々と店先を掃いていた。

 ティナは、目立たないように生きていた。得意な魔法もない。名家の生まれでもない。ただ、祖父から教わった錬金術を道しるべに、少しでも誰かの役に立てればと、そう思っていた。


「……はぁ、今日は風が強いなあ……」


 箒を止めて、空を仰ぐ。あいにくの曇天だったが、どこか、空気が妙に澄んでいた。まるで何かが洗い流されたような、乾いた感触だけが、確かにあった。

 そのときだった。

 店の裏手から、かすかな物音が聞こえた。誰かが倒れるような、鈍い“どすっ”という音。


「……え?」


 足音を立てずに裏へとまわる。小走りに角を曲がった瞬間、ティナは息をのむ。

 そこに、人が倒れていた。

 泥と煤にまみれた服。破けた布。顔は伏せられ、右手だけが不自然に覆われている。何より、その姿からただならぬものを感じた。


 なぜなら――その布の隙間から覗いた右腕が、

 黄金に、輝いていたから。

 一瞬で、全身がこわばった。ティナの頭の中に、“噂”が走馬灯のように駆け抜けた。

 黄金の城。金に染まった街。一夜で王国を滅ぼした“金の化け物”——。


「……っ!」


 数歩、後ずさる。

 背後の壁に背中がぶつかる。


「ま、まさか……」


 喉が乾く。息が苦しい。目の前の人影が、ゆっくりと顔を上げた。

 その顔に、威圧も怒気もなかった。ただ——

 泣きはらしたまま、感情をなくしたような、色のない顔だった。

 やせ細った頬。焦点の合わない瞳。それでもティナは、一瞬、そこに何かを見た気がした。


 それは“傷”だ。誰かを失った、深くて、癒えぬ傷。

 気づけば、足が勝手に動いていた。

 気づけば、その身体を抱きかかえていた。

 何も、考えられなかった。ただただその姿が、あまりにも“孤独すぎて”。


「……とりあえず、温かいお粥、作らないと」


 小さくつぶやく声に、誰も答える者はいない。

 ティナは、その日、ひとりの“災厄”を、店の奥に連れ帰った。そしてそれが、自分の運命を変えることになるとは、まだ知る由もなかった。


 その男は、目を覚ました瞬間から、どこか異質だった。

 頭を枕から浮かせるでもなく、身体を起こそうとするわけでもない。まるで「生きる」という選択肢を忘れたように、ただ静かに、壁を見つめている。

 ティナは声をかけなかった。言葉より先に、差し出すべきものがあると知っていたからだ。

 ぬるくならないよう何度も温め直したポタージュ。体を拭うための布。新しい服。乾いた毛布。それらをそっと部屋の隅に置き、また何も言わずに部屋を後にする。

 まるで、その部屋の空気に“言葉”という概念が存在していないかのようだった。

 ティナは少し離れたキッチンで、静かに湯を沸かしながら、息を吐いた。


「……しゃべらない、のかぁ」


 指先でカップの縁をなぞる。火のはぜる音と、風に軋む窓枠の音だけが、時間を刻んでいた。

 数日が経った。

 男は、何ひとつ変わらなかった。水を飲む時も、食事をとる時も、無言だった。ただ、拒絶はしなかった。

 それが、ティナにとっての唯一の救いだった。

 名前も、目的も、わからない。

 だけど、その右腕の光と、泣き腫らした顔だけは、ずっと焼きついていた。

 ティナはふと、棚の上に置かれた古い写真立てに目をやった。そこには、彼女の祖父が優しく微笑んでいる。


「……おじいちゃん。あの人、たぶんね……ものすごく、優しい人なんだと思う」


 そう呟いた声も、やはり返事を受けることはなかった。

 それでも、ティナは思った。“あの人”が目を覚ますその日まで、店は開けなくてもいい。

 今はただ、静かな陽だまりの中で、心を融かす時を待つこと。それだけで、いいのだと。


 朝から降り続いていた雨が、午後になっても止む気配を見せなかった。スレヴィルの町はぼんやりとした灰色の霧に包まれ、人々の足取りは早く、空気はどこか湿っぽく沈んでいる。

 ティナは窓辺で、静かにお茶の湯気を眺めていた。胸の奥に、小さなざわめきがあった。


「……水……」


 背後から、かすれた声がした。ほんのひと言、それだけ。

 だが、ティナは一瞬で飛び上がった。驚きでカップをひっくり返しかけたほどだ。


「お、おはよう……! あっ、いえ……こんにちは、かな……! 水……ええと、すぐ持ってくるねっ!」


 ばたばたと立ち上がり、急いで水を汲みに走る。数日ぶりに動いた“あの人”が、ついに口をきいた。

 ティナが戻ってくると、彼はベッドの背に身体を預け、ようやく上体を起こしていた。痩せた顔はまだ土色で、目元には深いクマ。それでも、生気というものが、ほんのわずかに戻りつつあった。


「ありがとう」


 彼が水を飲み干したあと、小さく呟いた。


「……名前、聞いてもいい?」


 ティナは、控えめに訊ねた。


「……神蔵幸哉」

「かみくら……ゆきや。うん。いい名前」


 照れ隠しのように笑ったティナに、幸哉は何も言わない。ただ、ふと窓の向こうに目をやった。雨粒が静かにガラスを伝っている。

 しばらく沈黙が流れたあと、ティナが口を開いた。


「ここではね、錬金術師って呼ばれる職業があるの。私も一応、それなんだけど。野草から薬を作ったり、石を砕いて粉にして傷止めを作ったり。まあ……あんまり儲からないけどね」


 幸哉は静かに耳を傾けていた。

 ティナは気まずさをごまかすように、近くの棚から薄い冊子を一冊取り出した。


「……あ、これ、本、気になった? マナの本なんだけど……魔法のね。私、あんまり得意じゃないの。ほら、魔法って、“月臓”っていう器官にマナをためて使うんだけど、私ちょっと、その器官が小さくて」


 そう言って、ティナは照れ笑いを浮かべながらページをめくる。


「だから、代わりに魔術ってやつを勉強してて。式を組んで、マナを外から吸って使うの。ちょっとややこしいけど、慣れれば便利なんだよ」


 そう言って、ティナは棚から小さな魔術陣が刻まれたカードを取り出した。


「これとか、風除け。カバンに忍ばせとくだけで、雨風をちょっと防いでくれるんだ。便利でしょ?」

 幸哉は無言のまま、そのカードを見つめた。


「……まるで数式で作った陣だな。構造は面白い」


 それが、ティナとの初めての“まともな会話”だった。


「数、式……? やっぱり、幸哉さんってすごく頭がいい人なんだね」

「別に……」

「ふふ、素直じゃないなあ」


 その瞬間、ティナは笑った。

 肩の力が抜けるような、柔らかな笑みだった。

 それを見て、幸哉はふと、目を止めた。


 ——その顔。


 どこかで、見たことがある。


 いや、違う。

 似ているのだ。


 その笑顔が、声が、目の形が、息の仕方が。


「……ナイーザ……」


 思わず、口をついて出た名に、ティナがきょとんと目を見開いた。


「え?」


 次の瞬間、幸哉は顔を覆った。

 震える手の隙間から、かすかに息を震わせる音が漏れ出す。

 ティナは、何も言わなかった。

 ただ、手に持っていた魔術書を静かに伏せ、小さな椅子に腰掛けたまま、その沈黙の先を待った。


「……ナイーザ」


 その名は、呪いのように吐き出された。

 両手で顔を覆い、肩を震わせる青年の姿に、ティナはただ静かに寄り添った。部屋の外では雨が音を立てて降り続いている。まるで、外界とこの空間を隔てるかのように。

 長い沈黙のあと、幸哉はぽつりと語り始めた。


「……村だ。小さな村。貧しくて、何もない……でも、あたたかかった」


 言葉はとぎれとぎれだった。思い出すたびに、ひとつずつ心の蓋が軋み、外れていく。


「……ナイーザは、その村の子だった。俺に最初に笑いかけてくれた子で、飯を分けてくれて、服を貸してくれて、ずっと一緒にいてくれた」


 ティナは頷きながら、そっと手を伸ばした。肩に置いたその手に、幸哉は身じろぎもせず、ただ目を伏せ続けていた。


「……金を、錬成できた。俺の力だ。それで村を豊かにした。……でも、それが災いだったんだ。金を、奪われた。村ごと」


 震える声。奥歯を噛みしめる音。


「焼かれて……殺されて……。ナイーザも、みんなも……俺は、村に戻った時……見たんだ。井戸の前で……冷たくなってた、彼女を……」

「……っ」


 ティナは言葉を差し挟まなかった。ただ、目を潤ませながら、その語りを受け止めた。


「その時、右腕が……金に変わった。次の瞬間、俺は復讐に飲まれたんだ。何も考えられず、王都を、すべて……潰した。人も、建物も、兵士も……何も感じなかった」


 手が震えた。瞳が、伏せたまま熱を帯びていく。


「怖いんだ。殺しても何も感じなかった。今も感じない。復讐を果たして、当然のことをしたと。俺は、何か……大事なものを、失った気がする。自分の命が、心臓が、俺の中にある何かに支配されて動いてるだけなんじゃないかって。もう、俺は……人間じゃないんじゃないかって……!」


 喉の奥から押し出される嗚咽。

 その全てを受け止めるように、ティナはそっと抱きしめた。


「うん、うん。怖かったね」


 その声は、優しかった。あまりにも、温かく、柔らかく、傷を包み込むような音。


「よしよし。もう大丈夫だよ。……私はね、わかってるの。幸哉は、優しい人だって。泣ける人は、ちゃんと、人間なんだよ」


 腕の中で、幸哉が顔を押し当て、子どものように泣いた。

 ぼろぼろと涙が落ちて、ティナの服を濡らしていく。それでもティナは何も言わず、何も問わず、ただそばにいて、抱きしめることで全てを伝えようとしていた。

 外では雨が止んでいた。雲間から、かすかな光が差し込む。

 あの忌まわしい王都の、黄金の残滓すらも届かぬ場所で、ひとつの心が、ようやく——癒されはじめた。


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