転生者ののんびりスローライフ
それから俺は、このココット村で暮らすことになった。言葉や文化の壁はあったものの、身振り手振りで何となく伝わるので意外となんとなかった。学生時代、何度も海外へ留学していた経験の賜物だ。
俺を拾ってくれたナイーザという少女の家に転がり込み、朝から晩まで畑仕事や薪割りの仕事を手伝っている。俺に尋問した初老の男性はマーカスといい、ナイーザの父でココット村の村長をしている。そしてもう一人の青年のほうはライアン。ナイーザの兄だ。
ナイーザの母であるエリーを含め、家族で俺を温かく迎えてはくれたものの、ライアンは時々俺を監視するようなまなざしで見てくることを考えると、俺をまだ信用していないようだ。
ココット村へ来てから早3か月が経つ。彼らが使う言葉は独特で、動詞—主語—目的語(行く、私は、そこへ)というVSO型の文法を用いる。俺が習得している言語の日本語、ドイツ語はSOV型、英語のSVO型とはまるで違うため、習得にはだいぶ時間がかかってしまった。
「やあユーキヤ、おはよう。今日はマーロンの畑かい」
「おはよう、マーカスさん。昨日マーロンさんに頼まれてしまって」
「ははっ。今日はマーロンは機嫌がいいからな。頑張れば5カッパレアはくれるかもな」
畑でクワを握りながら土をいじっていると、マーカスに声をかけられた。ペラペラとまではいかないが、日常生活で困ることはないまでに上達した。
俺は、村人たちからぽつぽつとこの世界についての話を聞き出していた。
もちろん、すべてが明確に理解できたわけではない。言葉もまだ不完全だし、住民の知識自体が限られている。
それでも、断片をつなぎ合わせていくうちに、ぼんやりとこの世界の「枠組み」が浮かび上がってきた。
「レア、レアって言ってたな……」
パンを買うにも、草鞋を修理するにも、何かと話に出てくるその言葉。レアというのが、この世界でいう通貨らしい。
金色の硬貨を「ギルレア」、銀は「シルレア」、銅は「カッパレア」と呼ぶそうだ。貨幣体系は意外と単純。金1枚が銀10枚、銀1枚が銅10枚。つまりギル:シル:カッパ=1:10:100というシンプル設計。
村の生活は……言葉を選ばずに言えば、ひどく貧しい。干し肉はごちそう、パンは硬く、道具は擦り減って錆びている。
それでも彼らは、「当たり前」として今日を繰り返していた。
なぜなら、彼らには選択肢がない。
この村は、コズモという国の管理下にある。いや、支配下と言った方が近いかもしれない。
村のじいさんが口癖のように言う。
「昔はな、炭鉱があったんじゃ。山の中にええ鉱脈があっての。ええ時代じゃった。けど、今は……」
今は何もない。鉱石も尽きた。山も掘り尽くされ、ただの穴ぼこ。
でも、税だけは残った。炭鉱が盛んだった時代の税率を、そのまま今も押し付けられている。その理不尽な帳簿は、きっと王都のどこかで、埃をかぶりながら風化もせずに残っているのだろう。
「収穫の半分を納めねばならん。来月は銀貨二十枚じゃ。……命より高い」
これが、ココット村の現実だった。
誰も逆らわない。誰も知らない。いや、きっと、知っていても何もできない。
この世界には“国”が六つあると聞いた。
エナス。コズモ。オラ。ジェモス。ニオ。トクソ。
名前だけを聞けば、それぞれに色と匂いがあるように感じられたが、ココット村の人間は、その大半を知らない。彼らが知るのは、せいぜいコズモの税使と、隣村に住む取引人くらいのもの。
俺が「エナスってどんな国なんですか?」と尋ねた時、ライアンは言った。
「自由の国、だとさ。旅の奴らが、そう呼んでた。どこにあるかは知らねえけど」
……知識とは、地図の上ではなく、誰かの記憶の中にあるのだ。
あと、面白かったのは“魔物”の定義。
この世界では、人間以外の生物は、すべて「魔物」だという。ウシも、トリも、イヌも、ネコも。家畜も狩猟対象も、全員ひっくるめて“魔物”。俺のいた時代の家畜にも似ていたが、どこか形が異質で、不気味だ。
ナイーザに「魔物の肉なんてよく食べられるな」と言ったら、「何言ってんの?」という顔をされた。
つまり、動物という概念そのものが存在しない。人間か、魔物か。それだけ。シンプルだが、あまりに境界が明確すぎて、逆に怖い。
暦も聞いてみた。
リユカ暦。1年は300日、30日ごとにひと月。季節は春・夏・秋・冬の4つ。
村の人いわく、今はファラの末。つまり、秋の終わり——冬の足音が聞こえる時期だという。
そして俺は気付く。
この世界の空気は冷たい。でも、言葉や思想はもっと冷たい。
だが、冷たさを知ることは、温もりの価値を理解することでもある。だから俺は、知ろうと思った。理解しようと思った。
この世界を。ココット村を。そして、俺自身の正体を。
——あの日、あの光は、何だったのか。
爆発の瞬間に目を焼いた黄金の奔流。
すべてを焼き尽くすような、神の罰のような光。
けれど、思い返せば——あれは綺麗だった。
まるで、全てを肯定するかのように、黄金は輝いていた。
俺の中に、何かがある。
この世界に来てから、ずっと体の奥で、何かが脈打っている。
……確かめなければならない。
それが“力”なのか、“呪い”なのか、“奇跡”なのか。
その日の昼時、俺は村のはずれ、誰にも見られない裏手の雑木林へと足を運んだ。
目的は一つ。自分の中に宿っている「異変」を、確かめるため。
風は乾いていて、霜の気配が地の底から這い上がってくるような寒さだった。枯葉を踏むたびに、小さな音が虚空に溶けていく。
ポケットに手を入れ、拾った小石を一つ取り出す。無骨で丸い、どこにでもある石ころ。
……石であり、俺の起点。
俺という“器”が、何を為せるかを試すため、この石ころが最初の引き金となる。
深く息を吸って、吐く。
イメージする。あの光。あの——神経を焼くような、黄金の奔流。
光だ。
あのとき俺の世界を塗りつぶした、すべてを変えた色。形はどうでもいい。ただ、金。黄金という概念。その温度、質量、冷たさ、硬さ、密度、匂い、響き。
俺は、それを知っている。
目を閉じる。石を強く握る。右手のひらに、意識を集中する。
脳裏に走るのは、純度99.99%の金属結晶構造。結合エネルギー、原子番号、導電率。
物質としての金を、俺の知識で定義していく。
「——来い」
小さく呟いた瞬間、右手に微かな感触。
ピシッ、と。
電気とも違う、だが確かに何かが“走った”。掌が、微かに光った。黄色い、燐光のような閃き。
俺は慌てて手を開く。
……石の表面に、砂粒ほどの光が乗っていた。
いや、それはもう、砂ではなかった。
金だ。
とてもとても小さく、それでいて確かに存在する、黄金の欠片。吹けば飛ぶような軽さ。けれど、それは疑いようもなく「俺が生み出したもの」だった。
「……やった」
思わず呟く。だがすぐに、額に汗が滲んでいることに気づく。体がだるい。脳が焼けるように疲れている。
たった、これだけで——。
試しにもう一度、同じ手順で念じてみた。石に金は宿らない。指先がぴくりと痺れただけ。
反応はあった。だが、明らかに“何か”が足りていない。
……これでは、話にならない。金を作ることができても、量が追いつかない。
それに、もし本当に「俺に金を生む力がある」のだとしたら——
あのときの光は、もっと大きく、もっと破滅的だったはずだ。
今の俺は、その“残滓”をかろうじて引きずっているに過ぎない。理由も仕組みも、すべてが霧の中だ。
でも——それでも、確信はある。俺は、「何か」を持っている。火ではない。水でも、風でも、雷でもない。
金。
物質の中でも、最も純粋で、最も重く、最も貴い存在。
俺は、それを“創る”ことができる。
まだその理屈も、限界も、代償も知らない。けれど確かに、俺の体は、世界に対して“違う声”で語りかけている。
あの光は、終わりではなかった。始まりだったのだ。
そしてこれは、第一歩に過ぎない。
——錬金術師としての、俺の物語の。
昼食のパンを食べ終え、村の周囲を少しだけ散歩していた昼下がり。ぽかぽかと陽が照っていたせいか、俺の背中に影が落ちたのは、風が変わったせいだと思った。
振り返ると、そこにナイーザがいた。いつもの橙色のエプロン、ぼさついた赤毛。片手に木の実がいくつか入った小さな籠をぶら下げて、もう片方の手を腰に当てている。何か言いたげな表情でこちらをじっと見上げてくるが、何も言わない。だが、こういうときの子どもの圧力は万国万世共通だ。
「……俺になにか?」
ナイーザは一歩前に出て、足元の土をつま先で蹴った。
「遊び教えてくれるって、言ったよね?」
ああ、言ったな。昨日の晩、食後に。明日晴れたら教えてあげるって。
「よし、じゃあ今日はこれで行くぞ」
俺は膝を軽く叩いて、ナイーザの正面に座り直す。
「まずは“じゃんけん”ってやつだ。勝ち負けを決めるゲーム」
「勝ち負け? ふふ、ナイーザ、負けない」
「はは、そう言うやつほど負けるんだよ」
そう言って俺は右手を握る。
「いいか、こうやって手を出す。“最初はグー、じゃんけんぽん”で、グー・チョキ・パー、どれかを出す」
「グーはこぶし。チョキは……ハサミ? パーは、えっと……開く?」
「正解」
俺は笑ってナイーザの手を軽く叩いた。
「で、グーはチョキに勝つ。チョキはパーに勝つ。パーはグーに勝つ。やってみよう」
「最初はグー、じゃんけんぽん!」
元気よく叫ぶ声に、村の鳥が一羽驚いて飛び立った。俺はパー、ナイーザはチョキ。
「おお、やるな、ナイーザ勝ちだ」
「やった! 次! もう一回!」
そのまま何度か繰り返し、俺が三連敗する頃には、ナイーザは声を出して笑っていた。
「次は“あっち向いてホイ”。これはちょっと難しいぞ。じゃんけんで勝った人が、“あっち向いてホイ!”って言って、指をさす。相手は顔を違う方向に動かせば勝ち、同じだったら負け」
「やる!」
目がきらきらしている。村の生活に笑う余裕が少ない分、こういう小さな遊びで全力になるのだろう。俺も自然と、頬の筋肉がほぐれていく。
「じゃんけんぽん!」
またナイーザが勝つ。勢いよく人差し指を俺に突きつける。
「あっち向いて——ホイ!」
間一髪、俺は目線を右に逸らす。
「あ〜っ、負けたぁ……!」
ナイーザはわざとらしく後ろに倒れ込んだ。わざとらしい、けど、本気の悔しがり方。俺は笑いながら「演技入ってるぞ」と言った。
そのとき、軒先から声がかかった。
「まるで本当の兄妹ねえ」
エリーさんだった。穏やかな声。ナイーザはそれを聞いて、ぱっと顔を明るくした。
「本当の、兄妹……!」
ナイーザは繰り返して、小さく笑った。
俺はと言えば、何故か少しだけ言葉に詰まってしまった。家族なんて言葉、久しく口にしていなかった気がする。母さんの顔が一瞬浮かんで、慌てて打ち消した。
「ねえユキヤ、本当の兄だったらいいのにね」
その言葉に、咄嗟に返事ができなかった。ナイーザは悪気なく笑っていて、その無邪気さに救われるような、でもほんの少しだけ胸に棘が刺さるような、妙な気持ちだった。
掃除中だったライアンが、ほうきを持ったまま立ち止まっていた。俺と目が合う。いつも通り、無言のまま「ふん」と鼻を鳴らして、床のほこりに視線を戻す。素直じゃない兄貴分、ってやつか。
俺は彼に嫌われているとは思っていない。ただ、まだ打ち解ける方法が見つからないだけ。俺はこの村にとって異物だ。そう簡単に混ざれるわけがない。でも、できるなら——もっと、仲良くなれたらいい。そう思った。
ナイーザが笑っていた。砂埃にまみれながら、陽を浴びて、きらきらと。俺の中の冷たい何かが、ゆっくりと溶けていく音がした。
次の日。ナイーザが薬草を取りに行ったのは、朝のことだった。陽は高く、空気は冴えていた。採れる薬草の量は雨の後が勝負なんだと、胸を張って語っていた。
グリュアの芽。消毒にも、喉の痛みにも効く万能草らしい。どの山か、どの茂みにどれだけ生えているかも把握してるらしく、だからきっと彼女にとっては“いつもの仕事”だったんだろう。
俺は彼女の背を見送りながら、いつも通り村の手伝いに戻った。今日の作業は、農具置き場の補修。そのついでに、一本だけ柄の短いクワを借りていた。頭の鉄部に少し歪みがあったから、研いで使い物になるか確認したかったためだ。
けれど、昼が過ぎ、日が傾き、影が伸びても、ナイーザは帰ってこなかった。
エリーさんが「ナイーザ遅いわね」と言い出した時、胸の奥で氷の粒が落ちた音がした。ライアンはさして気にする風でもなく、黙々と刃を研いでいたけれど、俺には無理だった。なぜだかわからない。でも、薄っすらと、脂汗と一緒に嫌な予感もにじむ。
俺は修理したクワを肩に担ぎ、言葉もなく森へ入っていく。
森の空気が思い。湿っていて、冷たいのにぬるい。日が落ちかけていたせいか、葉の間から射す光が赤く、まるで体温を吸われるようだった。
音がない。風の音も、虫の音も。何もかもが、死んでいるようだった。
靴を見つけたのは、倒木の影だった。右足だけの木彫りの靴。薬草の束がそこからわずかに転がっていて、いくつかは泥にまみれていた。すぐに視線を走らせる。葉が裂けている。爪痕。踏み荒らされた草。地面に擦れた跡。
息を殺す間もなく、喉が勝手に彼女の名を呼んだ。
「ナイーザ!」
声は吸い込まれるように森に溶けた。返事はなかった。けれど、森の奥——もっと奥。ほんの微かな気配に引き寄せられるように、俺は走った。
そして、見つけた。
傷だらけのエプロン。倒れ伏した小さな背。周囲を囲む、瘴気に染まった空気。見たこともない異形の生物。狼のような骨格に、角のような骨片。赤黒く光る眼。焼け焦げたような皮膚。凶悪に剥き出しの牙。
あれは“動物”じゃない。
——まさしく魔物呼ぶにふさわしい形相だ。
足が止まる。というより、膝が笑った。あの化け物を見た瞬間、反射のように。心臓が肋骨を乱打し、指先の感覚が引いていく。頭は冷えているはずなのに、視界が狭まる。焦点が合わない。これは恐怖だ、と理解するまでに数秒かかった。
「ナイーザ——!」
自分でも驚くほどの大声。喉が裂けそうなほど叫んだ。恐怖による高速を跳ね飛ばすかのように。
その声に応じて、倒れた小さな背がびくりと震える。地面に伏せていたナイーザが、ゆっくりと顔を上げた。目の端に泥がついて、頬が擦れて、唇の端が切れている。けれど何よりも、その涙に濡れた瞳が、俺の名を呼んだ。
「ユキヤ……!」
その一声で、理性が切れた。怒りに身を任せて、足元の石を拾い上げる。狙いも何もない。ただ、あいつに“届け”ばいい。俺は力任せに石を投げた。
ゴッ、と鈍い音がして、魔物がひとつ跳ねた。わずかだが、間合いを取り、前足を下げる。今だ。今しかない。枝をかき分け、泥を踏み、叫びながらナイーザの前に割って入る。
「大丈夫か、ナイーザ!」
彼女は震えていた。言葉にはならない。けれど、生きている。その事実だけで、心臓の鼓動がひとつ落ち着いた。けれど安堵する暇はなかった。傷だらけの足、腹部からの流血。瞬時に判断する。これで走れない。逃げられない。
俺は振り返る。魔物と目が合う。にらみ合い。こちらの動きを伺っている。知性があるのか、それとも野生の直感か。分からない。ただ、明確に“探っている”目だった。
にらみ合いは十秒、いや三秒もなかっただろう。獣が先に痺れを切らす。地を蹴る音。俺は柄の短いクワを構え、真正面から受け止める。
衝撃は、想像以上だった。
クワの金属部が、ガキン、と悲鳴を上げた。次の瞬間、音を立てて砕け散る。破片が飛び、腕に軽く切り傷が入る。
「うそだろっ……!?」
唖然とした。その一瞬の虚を突かれた。
魔物の後ろ足が閃く。——視界が回転。体が宙を浮き、背中から地面に叩きつけられる。肺から空気が抜けた。
「っ、が……!」
声にならない呻き。あばらが何本か折れたか? いや、確実に折れた。痛みが呼吸のたびに芯まで響く。
それでも、目は閉じない。
魔物がナイーザを再び狙っている。俺は地面に伏せたまま、それを見ることしかできなかった。立ち上がれない。動かない。体が、恐怖に縫い止められている。動け、動け、動け。頭は命令するのに、体が従わない。
「動、け……!」
魔物が飛び跳ねる。
その瞬間、俺は咄嗟に、地面に散らばったクワの破片に手を伸ばす。
指先が、鉄に触れた、その瞬間だった。
右腕の脈動。
血の流れが逆流するような感覚。心臓から突き出した何かが、骨を伝って腕に宿る。それは熱ではない。光だ。
黄金の光。脳裏に焼き付いた、あの爆発の中心で見た——すべてを染めた光が、右腕の奥で疼く。
呼吸が止まる。時間が揺れる。
鋭く、まっすぐに、形が生まれる。
俺の掌の中で、砕けた鉄片が音もなく変質していく。重みが変わる。質量が増す。光が収束し、黄金の刃がそこに現れる。
完璧ではない。柄は短く、刃渡りは手のひらほど。だが、触れればわかる。これは、刺せる。殺せる。
「させるか——っ!!」
声が出た。叫ぶように、吠えるように。俺はその場から跳ね起きて、黄金のナイフを突き出しながら獣の横腹めがけて飛び込んだ。風を裂く音。刃が獣の皮膚を貫く感触。ぬるりとした熱い液体が手に伝わる。どすっという鈍い音。獣の咆哮。俺の叫び。
「ナイーザから、離れろおおおおお!!」
ナイフを刺したまま、全身の力を込めて獣の身体を押し上げた。一瞬、重さで腕が引きちぎれそうになる。それでも、腕を離さなかった。持ち上げる。押し返す。ただ距離を取るために。ナイーザから引き剥がすために。
二歩、三歩、強引に後退させた。地面に倒れた獣の胸を、さらに何度も、何度も突き刺す。
刃の根元まで、何度も押し込んだ。
「っざけんな……こいつが……っ、っナイーザに……!」
叫びながら、涙が出ていた。痛みか怒りか恐怖か、それとも全部か。腕が痺れる。呼吸ができない。意識が遠のく。
やがて、獣は動かなくなった。
全身を使って押し込み続けたナイフが、抵抗なく沈む。俺はようやく手を離し、地面に崩れ落ちた。呼吸が、少しずつ戻ってくる。
視線を落とすと、ナイフが見える。光を失い、ただ静かにそこにある——異質な存在。まるで、この世界に属していないもののように見えた。
「……なんだ、これ……」
俺はその刃を怪訝に眺めた。自分の手が、何をしたのかを脳が追いつけていなかった。
金属を変えた? 違う。創った? それとも、錬成したのか?
「ユキヤ……」
彼女の小さく、か細い呼びかけ。振り返ると、傷だらけのナイーザが、気を失いかけたまま俺に手を伸ばしていた。
俺は黙ってその手を取る。生きている。無事だ。あれだけ血が流れていたのに、ナイーザに深手はない。
「大丈夫だ……もう、大丈夫だ」
その瞬間、地を這うような唸り声が響いた。
低く、地の奥底から響くような声だった。振り返る。木々の隙間から、赤い眼がこちらを睨んでいた。一対、二対、いや——もっとだ。群れ。さっきの魔物と同じような形。だが、こちらの戦いを見ていたかのような、静かな、殺気を孕んだ目。
肩が震えた。鼓動が耳を打ち、腕の力が抜けて、膝も砕けそうになる。もう、一歩も動けない。もう、戦えない。
それでも。
「来いよ……!」
声が震える。それでも俺は叫んだ。歯を食いしばって、唇を裂くようにして。
「かかってこい……! 全員、まとめて——!」
魔物たちの視線が揺れ、ちらりと目を向ける。血を垂れ流し、地面に横たわる、そいつらの仲間だった獣の死体。そして俺の手の中にある、それと成し遂げた武器を。
森の空気が張り詰めた。風が止まり、木々も鳴かない。
沈黙の中、群れの先頭が一歩、退いた。それに続くように、他の魔物たちも動きを止め、数秒の静寂ののち、踵を返す。草を鳴らし、獣の足音が少しずつ、森の奥へと遠ざかっていく。
俺はしばらく、その場に座り込んだまま動けなかった。歯がガチガチと鳴る。喉が乾いて、声が出ない。
「……ナイーザ」
手の中にある、彼女の細い手を見つめる。泥に汚れて、擦り傷だらけ。それでも、生きている人間の暖かさが伝わってくる。
「一緒に……帰ろう」
俺は立ち上がる。痛む肋骨に手を当て、ナイーザをそっと背に負う。身体が重い。それでも進める。帰れるのだ。
森の木々の隙間から、夜の星々と、“あの赤い月”が覗いていた。