後を引く朝練
囲炉裏の炎が、ぱちりと小さな音を立てて弾けた。
赤い火の粉が宙に舞い上がり、瞬く間に闇に溶けていく。その音だけが、静かな寺の庭を優しく満たしていた。
あの語りの後、誰も口を開こうとしなかった。ロウ老師は静かに席を立ち、まるで影のように寺の奥へと消えていった。白髪の背中が遠ざかる姿は、まるでこの世界の儚さを象徴しているようだった。ティナは膝を抱えたまま、床に視線を落とし、何かを深く考え込んでいる様子だ。彼女の髪が、火の光に照らされて優しく輝いていた。
アルヴェンは手元の湯飲みに視線を落としたまま、微動だにしない。普段は冷静な彼女の指先が、わずかに震えているのが見えた。風が吹くたび、竹林がかさりと乾いた音を立て、夜の静けさを強調する。
俺はただ、目の前の消えかけの囲炉裏の火を見つめていた。その赤い揺らぎの奥に、何か――いや、「誰か」の姿を見ていた気がした。ぼんやりとした影が、炎の中で踊るように浮かび上がり、すぐに消える。あの話の余韻が、心に重く残っていた。
あの話を聞いて思ったこと。
あの育成所とやらは、個人の狂気ではない。悪意と意志を持って設計された“仕組み”だ。
対象を人として育てず、教育でもなく洗脳でもなく、ただ反射と暴力の連鎖を植え付ける。
合理性はある。恐ろしいほどに。
人格を切り捨て、肉体だけを戦う道具として作る。
しかもそれを、子供に適用する。
いかれてる。
けど、その“いかれた前提”の上に、予算を投じ、施設を建て、管理者がいて、兵器として納品されている。
つまりこれは――単なる狂気じゃない。“需要”があるから存在してる。
そう結論した瞬間、吐き気がした。
そして、その生き残りが目の前にいる。
俺はリンリンを横目で見据える。
あの無邪気な笑みの裏に、とんでもなく暗い過去があった。彼女の小さな拳は、きっと何度も誰かを守るためじゃなく、ただ生き延びるためだけに振るわれたのだろう。そう思うと、今日までの彼女の仕草の一つ一つが、ひどく重たく感じられた。朝の修行で彼女が笑いながら拳を振るう姿、夕暮れに寺の庭を駆け回る無邪気さ――すべてが、過去の闇を覆い隠すための仮面のように思えてくる。
俺の“右腕”と同じだ。
黄金に輝くこの右腕は、誰かを救う力として授かったものではない。ただ生きるために、戦うために、この世界に存在してしまった力。あの日、失った腕の代わりに得たこの力は、復讐の象徴でしかなかった。重く、冷たく、時には呪いのように俺を苛む。でも、今は少し違う。リンリンの存在が、それを教えてくれたのかもしれない。
囲炉裏の火が、風に煽られて大きく揺れた。ただ、赤い光が俺の顔を照らす。
この世界はおかしい。腐ってる、って言ってしまえば簡単だが、それじゃ納得できないくらい、もっと奥の方から、何かが壊れている気がする。ただ、どう直せばいいのかも、どこから手をつければいいのかも分からない。絶望が、心の底から這い上がってくるようだ。
それでも、諦める気にはなれなかった。
人を人として抱きしめたロウ老師の姿が、脳裏に焼きついていた。あの温かな腕、あの震える声。どれだけ理不尽で、無力で、無意味に思えたとしても、きっと、そういう誰かの行動が、この世界の「ほんとう」を繋ぎとめているのだと思う。闇の中で光を灯すような、そんな小さな選択が、すべてを変えるのかもしれない。
だったら俺は――
「……ねぇ、幸哉」
ふいに、ティナの声が聞こえた。柔らかく、しかし少し震えた声。
「うん?」
「……なんでもない。ちょっと、安心したかっただけ」
「……なんだよ、それ」
「んふふ、秘密」
僅かな明かりの中、ティナが無理やり微笑んだように見えた。それを見て、アルヴェンもゆるやかに頷いた。彼女の瞳に、静かな決意が宿っているのが見える。
誰もが言葉にしなかった。けれど、今この夜を越えれば、俺たちはもう――前に進める気がしている。焚き火の炎が、俺たちの絆を象徴するように、静かに燃え続けていた。
翌朝、まだ陽も昇りきらぬ灰色の空の下、俺はふと目を覚ました。寺の周囲に、柔らかい霧が立ち込め、すべてを優しく包み込んでいる。
ふと気配を感じて、裏手の林道へ足を向けた。木々の間から、微かな音が聞こえてくる。何かを打ち据える、規則正しい響き。
聞こえてくる音に導かれ、木々の間から見えたのは、丸太に拳を打ち込む少女の姿だった。
彼女の拳は無駄がなく、流れるように打ち込まれていく。朝露に濡れた栗色の髪が跳ね、裸の足が土を強く踏みしめる。呼吸は乱れず、鼓動すらも計算されたかのようだった。その動きは、まるで舞踏のように美しく、しかし内に秘めた力強さが感じられた。あの過去を背負った少女が、今ここで拳を振るう意味を、俺は静かに考えていた。
声をかけようとしたが、やめた。代わりに、少し離れた丸太の前に立ち、自分の右腕を見下ろした。
――黄金の右腕。
あの日以来、俺にとってこれは「復讐」の象徴だった。失ったものを思い起こさせる、冷たい輝き。でも、今は少し違う。リンリンの拳のように、この力も、何かを守るために使えるのかもしれない。
……彼女は、自分の拳を、何に使いたいと思っているんだろう。
沈黙のまま拳を握りしめていると、リンリンの動きがぴたりと止まった。鋭く、こちらを見る。敵意ではない。けれど、何かを試すような視線が、俺を貫く。
そして、ぽつりと。
「……あんたさ」
声が、思っていたよりも静かだった。朝の霧が、彼女の言葉を優しく包む。
「勘違いしないでほしいんだけどさ。別に同情とかして欲しいわけじゃないから」
ツンッと態度で俺を退けようとするリンリン。俺を一瞥することもなく、ただ無心で丸太を打っている。
俺は少し考えてから、頷いた。
「……分かってる。お前はそんな玉じゃないだろう」
リンリンはそこでピタッと拳を止める。そこでようやく、ちょっと不機嫌そうに俺の顔を見た。
「分かった風に言わないでくれる?」
それだけ言って、彼女はまた拳を打ち込もうとした。が、またその動きを止め、背中を向けたまま、なんかムカつくと言わんばかりの形相で俺を睨んできた。
「わたしはね、別に、あんたに何かを求めてないよ」
「……そうだろうな」
「私は、あんたと違って戦う理由はある。あんたは何で戦うわけ?」
びゅぅと風が吹いた。霧が揺れ、木々の葉がささやいた。彼女の言葉は、まるで刃のように鋭く、俺に突き刺さった。自分の足で立ち、自分の理由で拳を振るう。あの過去を背負って大地に立つ彼女は俺に問いている。
お前は何で戦うのかと。
身に降りかかる火の粉を払うため、仲間を守るため、復讐のため。
今の俺にはいくらでも戦う理由はある。
でも。
「……俺は、真実が知りたい」
俺がここに来た理由を。
この金の腕を“授かった“理由を。
そう呟いたとき、彼女はちらりとだけ振り返り、ほんの一瞬だけ目を細めた。まるで、微笑みのようだった。
「恥ずかしいセリフね」
その言葉には、信頼でもなく、拒絶でもなく。ただ、“これでよし”という、まるで禅問答のような確信があった。霧の中、二人の視線が交わり、静かな絆が生まれ……
「なぁ、俺たちはこれから戦う仲間だ。少しくらい仲良くやろう」
「お断りしまーす」
ることはなかった。
しばらく、二人で無言のまま、拳を打ち続けた。右手がじんじんと熱を持つ。でも、不思議と、痛みはなかった。むしろ、清々しい感覚が体を満たしていた。リンリンはなんだかんだ言いつつも、俺が隣で練習することは許してくれた。
ただ素直になれない性格なんだろう。そう思うと、少しだけ可愛げがあるように思えてきた。
朝餉を終えてしばらくした頃、ロウ老師は庭先に四人を呼び集めた。陽の光が霧を払い、竹林の隙間から細く差し込んでいる。その中に立つ老師の姿は、まるで絵巻物の中の仙人のようだった。白髪が風に揺れ、穏やかな微笑みが顔を覆う。
「幸哉。ティナ。アルヴェン。お前たち、よくここまで修行に耐えた」
柔らかな声。だが、その奥にある眼差しは、凛として揺らがない。俺たちは、自然と背筋を伸ばしていた。それはこの数日で身についた反応か、それとも、彼の言葉に重みがあるからか。寺の空気が、緊張と期待で満たされる。
「この地での修行は、今日で一区切りとする」
ティナが、少し驚いたようにまばたきをする。アルヴェンは静かに、足を揃えた。
ロウは言葉を続ける。
「だがその前に、一つだけ――最後の修行を行ってもらう」
「最後……?」
俺の声が、自然に漏れた。老師は頷き、手を後ろで組んだまま、竹林の向こうを指差した。
「北の谷に、古くから伝わる薬草“藍月の葉”が群生しておる。それを一束、無事に採取して戻ってくるのじゃ」
「それだけなら、簡単では?」
ティナが小声でつぶやく。だが、ロウはわずかに首を振る。その表情に、試練の予感が宿っていた。
「道中は簡単ではない。渡河、岩場の通過、そして……この季節は雷猿の縄張りになっておる」
「雷猿……?」
アルヴェンが眉をひそめる。老師は静かに説明を続ける。
「森に棲む大型の魔物だ。雷を帯びた毛皮を持ち、鋭い爪と脚力で標的を追い詰める。群れで行動する知能もある」
「つまり、戦闘の可能性があると……?」
「ああ。ただし、これは“討伐任務”ではない」
老師は静かに告げた。その声は、寺の静けさを震わせるようだった。
「誰も死ぬ必要はないし、殺す必要もない。ただ、“状況を制する”ということを学んでこい。それが、旅立つ者に必要な“選択”だ」
その言葉に、俺は胸の奥がざわつくのを感じた。選択――誰を守るか。何を捨てるか。俺は、それをあの村で……もう、二度と味わいたくない後悔として、刻まれている。ティナは黙って頷き、アルヴェンは真剣な顔で荷物の準備にかかった。
「……一応言うておくが、リンリン。お主も行くんじゃぞ」
「ええっ!? なんで私まで!?」
さっきまで私は関係ありませんみたいな顔でそっぽを向いていたリンリンの顔が青ざめる。
「当然じゃ。お主もまだ出師の儀は終えとらんじゃろう」
「それはそうだけどぉ~」
「ぐだぐだ言わん。さっさと準備せえ!」
コンッとリンリンの頭をキセルで弾く。リンリンは少々涙目になりながら腰に布袋を巻き直した。
俺も立ち上がった。心の中で、決意を固める。
「……分かった。行ってくる」
ロウ老師は、にこりと笑った。その笑顔は、父のような温かさがある。
「よい返事じゃ。では――お前たちの“最初の旅”を、見届けさせてもらおう」




