回想:凍てつく追跡
吹雪が山を覆い尽くしていた。白銀の帳が空と地の境界を曖昧にし、森の奥に潜む影すら凍てつかせるほどの冷気が世界を支配していた。雪は音を飲み込み、風は鋭い刃のように頬を切りつける。まるでこの山脈そのものが、生き物を拒絶する意志を持っているかのようだった。
その静寂を切り裂くように、金属が激しくぶつかり合う音が響いた。鋼の交錯が空気を震わせ、凍える森に一瞬の熱を生む。
剣士ヴァシュ・セリオスは、吹雪の中で淡々と、しかし恐ろしいほど的確に動いていた。彼の剣は、まるで意思を持つ生き物のように空を切り、雪を裂き、敵の急所を寸分違わず捉える。灰色の瞳は一切の感情を宿さず、ただ戦場を見据えていた。その姿は、まるで戦いを呼吸するように自然で、職人のような精密さで剣を振るう彼の動きに、敵は一瞬たりとも隙を見出せなかった。
対峙するのは、追跡者――アサシン。黒い外套に身を包み、氷のような無感情な眼差しで殺意を突き刺してくる。その動きは蛇のように滑らかで、刃の軌跡は目に見えぬほど速い。だが、ヴァシュは一歩も退かなかった。彼の剣は呼吸の乱れすら戦機に変え、まるで舞踏のように流れる斬撃でアサシンを追い詰める。
「――終わりだ」
ヴァシュの声は低く、凍てつく空気に溶け込むようだった。最後の斬撃がアサシンの動きを完全に封じ、その身体が雪の上に崩れ落ちる。鮮血が白い大地を染め、瞬く間に凍りついた。
その刹那、吹雪の向こうから二つの影が現れた。雪を踏む音が近づき、軽やかな声が響く。
「やれやれ、もう片付けてしまったのか。相変わらず手早いな、ヴァシュ。」
肩をすくめながら現れたのは、掌に淡い光を帯びた魔術書を携えた青年、ロイド・ナヴァルだった。彼の金髪は雪に映え、軽薄な笑みを浮かべながらも、その瞳には鋭い知性が宿っている。隣には、白髪の老武僧ロウ・リンシエンが静かに佇んでいた。枯れた木のようなその姿は、穏やかな笑みを湛えながらも、内に秘めた闘気が微かに空気を震わせる。
「こちらも片付けた。もう一人は逃したがな……時間が惜しい、向かうぞ」
ロウの声は落ち着いていたが、その言葉には急迫する意志が込められていた。三人は互いに視線を交わし、頷き合うと、目的の地――調査対象である謎の施設へと歩を進めた。
その施設が調査対象になったのは、ある日突如として現れたからである。
雪に埋もれた山脈の奥、岩肌に紛れるように佇む施設は、まるで自然と一体化していた。全体が白く塗られ、遠目にはただの雪塊にしか見えない。ロウが目を細め、呟く。
「巧妙だな。設計からして隠匿を目的としている。まるでこの吹雪と共にあるかのようだ」
門前に佇む見張りの兵は、五、六人。吹雪に溶け込むような白装束に身を包み、ただそこに立っていた。彼らの姿はまるで意思を持たぬ案山子のように無機質で、雪に閉ざされた瞳は虚ろに虚空を睨む。白い外套が風に揺れ、まるでこの凍てつく山脈の一部であるかのように、動くことすら忘れた彫刻のようだった。
だが、ヴァシュ、ロイド、ロウの三人には一瞬の迷いもなかった。吹雪の壁が視界を閉ざす中、彼らは影のように音もなく接近する。雪の幕を突き破る一撃を放つのは、老武僧ロウ・リンシエン。拳に宿した気は音を立てず、しかし雷鳴のような威力を秘めていた。一人の白装束の兵が、まるで糸の切れた人形のように雪の上に崩れ落ちる。その動きはあまりに静かで、吹雪の唸りすら掻き消すほどだった。
「――動くぞ」
ロウの囁きが合図となり、戦闘が始まった。ロイド・ナヴァルが魔術書を掲げ、指先に集めた魔力を静かに解放する。光の矢――いや、音なき魔弾が放たれ、空間を裂くことなく、しかし確実に敵を捉えた。雪を蒸発させる熱を帯びた一撃は、白装束の兵の陣形を瞬時に崩壊させ、二人目の兵が膝をつく。ロイドの唇には、いつもの軽薄な笑みが浮かんでいたが、その瞳は鋭く戦場を捉えていた。
ヴァシュ・セリオスは、無音の影そのものだった。剣士の刃は風を切る音すら立てず、雪の舞う中を滑るように動く。彼の剣が最後の兵の喉元をかすめると、まるで命の糸をそっと切るように、その体が静かに倒れた。血は雪に吸い込まれ、瞬く間に凍りつく。三人の連携は、まるで長年の戦友が織りなす舞踏のように息が合い、一つの音も、余計な動きもなかった。
見張りを倒したロウは、正門と思われる扉を静かに押す。正門は、まるで彼らの侵入を待っていたかのように、驚くほど静かに開いた。軋む音すら立てず、ただ白い闇へと続く通路が現れる。そのあまりの手応えのなさに、三人の間に一瞬の緊張が走った。
「奇襲だとしても……これでは手応えがなさすぎるな」
ロイドが眉をひそめ、魔術書を握る手に力を込める。ロウは無言で頷き、鋭い視線を施設の奥へと向けた。その背中からは、戦士としての長い経験が滲み出ていた。
施設の内部は、異様なまでに白かった。壁も天井も、すべてが純白に塗り込められている。だが、それは単なる塗料ではない。光を反射し、輪郭を曖昧にする特殊な素材が、空間そのものを歪ませていた。まるで視界を喰らう牢獄のようだった。歩を進めるたび、足音すら飲み込まれ、三人の空間感覚が微妙に狂っていく。
「これは……迷路だな。感覚を惑わす設計だ。」
ロウが指先に気を集め、壁を軽く叩く。微かな振動の反響を読み取りながら、彼は進むべき道を見極めた。三人は慎重に、しかし確実に、施設の深部へと進んでいった。
中間エリアに差し掛かったとき、異様な光景が目に飛び込んできた。厚いガラス越しに、整然と並ぶ子供たちの姿があった。十人、二十人……いや、もっと。みな10歳前後、目を閉じ、直立不動で立ち尽くしている。その無機質な姿は、まるで人形のように生命を感じさせなかった。
「……これは……何だ?」
ロイドの声が震えた。普段は軽口を叩く彼の顔から、笑みが消えている。ヴァシュは無言で剣の柄を握りしめ、灰色の瞳にわずかな怒りが宿った。
さらに奥へと進むと、次の部屋では別の子供たちが激しく格闘していた。大人顔負けの動きで殴り合い、倒れてもすぐに立ち上がる。血が滲み、骨の折れる音が響く。だが、彼らの目は虚ろで、痛みすら感じていないかのようだった。
「戦闘人形の育成……そういうことか」
ロウの声は静かだったが、その拳はわずかに震えていた。長い年月を戦い抜いてきた老武僧の心に、怒りと悲しみが渦巻いているのが見て取れた。
「今すぐ壊そう。こんなものは、存在してはいけない!」
ロイドが感情を露わに叫ぶ。魔術書から光が溢れ、彼の怒りが魔力となって空間を震わせた。
「待て」
ヴァシュの声が鋭く響く。
「状況をギルドに報告し、増援を呼ぶべきだ。無闇に動けば――」
「それでは遅い」
ロウの声が、氷のような空気を切り裂いた。
「我々はすでに正門を突破し、痕跡を残した。この状況で引けば、証拠は隠滅され、子供たちは“処分”されるだろう」
静寂が三人を包む。ヴァシュは目を閉じ、一呼吸置いた後、静かに頷いた。ロイドも無言で魔術書を広げ、その瞳に決意を宿す。
「最奥だ。指揮を執る者がいるはず。そこを叩けば、全てを終わらせられる」
三人は、迷うことなく奥へと進んだ。
最奥の研究室。重厚な扉を開けると、そこには空虚な空間が広がっていた。書類も、端末も、人の気配すらもない。ただ白い壁が、冷たく三人を迎えるだけだった。
「……遅かったのか?」
ロウの呟きが、虚しく響く。
その刹那、背後で扉が閉まる音がした。重い金属音が空間を震わせ、赤い警告灯が回転を始める。床下を駆ける振動。まるで施設そのものが生き物のようにうねり始めた。
「――来るぞ!」
ロウの叫びと同時に、壁が機械音と共に開き、白装束の子供たちが姿を現した。無数。10歳から14歳ほどの少年少女たち。その目に光はなく、ただ機械のように三人に迫ってくる。
雪崩のような勢いで襲い掛かる子供たち。ロウたちは、致命傷を与えぬよう慎重に戦うしかなかった。だが、数が多すぎる。防戦一方に追い込まれ、息つく暇もない。
「ヴァシュ!」
ロイドの叫びに、剣士が動いた。
「――《秘式・天鎖乱流》!」
ヴァシュの剣が解き放たれ、鋼の波が子供たちの武器を弾き、流れるようにその動きを無力化していく。刃は命を奪わず、しかし確実に敵を封じる。その動きは、まるで嵐の中の静かな流れのようだった。
ロイドがすかさず詠唱する。
「《光環結界・領域封》!」
透明な障壁が展開され、敵の進行を一時的に止める。ロウが中央に飛び出し、地に拳を叩き込む。
「すまん……! 《地霊掌波》――!!」
衝撃が波紋のように広がり、床の振動が子供たちの意識を揺らし、一人また一人と崩れ落ちる。戦闘は終わったかに見えた。
だが――
「ロイドッ!」
背後から伸びた赤い腕が、ロイドの胸を貫いた。
驚愕の中で崩れ落ちる青年。その場に立っていたのは、一人の“白き男”。表情のない仮面のような顔、血に濡れた右腕。
ヴァシュが叫びながら斬りかかるが、男の動きは尋常ではなかった。一瞬で距離を詰め、拳で剣筋を逸らす。ロウが飛び込み、二人で男を挟み撃つ。
「《衝雷陣》!」
「――喰らえ、《霊穿の牙》!」
気の掌と刃が交錯し、爆発する衝突の末、白装束の男は血を吐きながら倒れた。
二人は肩で息をしながら、その姿を見下ろす。
「こんな兵を、量産しているとでも……?」
「あり得ん……」
感傷に浸る暇はなかった。突如、施設の奥底から地鳴りが響き、床に無数の亀裂が走った。まるで大地そのものが怒り狂うかのように、コンクリートが砕け、鉄骨が軋む音が響き合う。
その裂け目から、異様な巨腕が突き出した。
それはこの世のものとは思えぬ怪物だった。灰色の皮膚は岩のように硬く、無数の棘が鋭く突き出し、黄色い筋が脈打つように蠢いている。赤い模様が不気味にうねり、まるで血の流れを模した呪いの紋様のようだった。その腕は、ただそこにあるだけで空気を毒し、生命を拒絶する存在感を放っていた。
「――ヴァシュ!!」
ロウの叫びが、崩れゆく施設に虚しく響く。巨腕は剣士ヴァシュ・セリオスを容赦なく捉えていた。その鋭い棘が彼の体に食い込み、鋼のような握力で締め上げる。ヴァシュの灰色の瞳が、初めて見せる苦悶に歪んだ。普段は無感情な剣士の顔が、痛みと絶望に引きつり、唇から血が滴る。彼の剣は力なく床に落ち、金属音が一瞬だけ吹雪の唸りをかき消した。
「……ロウ、逃げろ……」
ヴァシュの声は、まるで命の最後の糸を紡ぐように弱々しかった。巨腕がさらに力を込めると、彼の体は闇に飲み込まれるように消えた。骨の砕ける音、肉の裂ける音が、ロウの耳に突き刺さる。剣士の最期は、まるで彼の冷徹な生き様を嘲笑うかのように無残だった。ロウの胸に、怒りと無力感が焼き付いた。
叫ぶ暇すら与えられず、ロウは崩壊する施設からただ走るしかなかった。背後で天井が崩れ、壁が砕け、雪と塵が混じる大地が足元を不安定に揺らす。遠くで、獣のような咆哮が響き、まるでこの世の終わりを告げるかのようだった。何も救えなかった。仲間も、子供たちも。ロウの心は、凍てつく吹雪よりも冷たく、重い絶望に沈んでいた。
だが、その時。瓦礫と煙の向こうから、微かな人影が現れた。
ゆっくりと、よろめきながら歩いてくるのは、一人の少女だった。栗色の髪は泥と血にまみれ、乱れながらもなお柔らかな光を反射している。
彼女の小さな手は傷だらけで、細い指先からは赤い滴が雪に落ち、儚く溶けていく。ぼろぼろの白装束は、まるで彼女の壊れそうな心を象徴するようだった。少女の瞳は涙で濡れ、恐怖と希望が交錯する光を宿していた。その小さな体は震え、しかし一歩、また一歩と、ロウに向かって進んでくる。まるで、闇の中から光を求めて這い出してきた魂のようだった。
ロウは膝をつき、凍える大地にしゃがみ込む。白髪の老武僧の顔には、戦士の厳しさはなく、ただ深い慈愛だけがあった。彼は静かに両腕を広げ、少女を招き入れるように待った。
少女は、まるで磁石に引き寄せられるようにその胸に飛び込み、小さな体を震わせながらロウの温もりにしがみついた。彼女の嗚咽が、吹雪の音をかき消し、ロウの心に深く響いた。
「……大丈夫……もう、大丈夫」
ロウの声は震え、普段の落ち着きを失っていた。頬を伝う涙は、凍える風に冷やされながらも、彼の心の熱を物語っていた。戦いで鍛え上げられたその腕は、今、ただ一人の小さな命を守るために強く、強く抱きしめた。少女の小さな背中は、まるで壊れ物のように儚く、しかし確かに生きていることをロウに伝えた。
この瞬間、老武僧は誓った。この子だけは、必ず守ると。




