27番
月光が庭を白く染める夜、静寂は鉄の匂いで汚されていた。
穏やかな空気はどこかへ消え、月の色さえ血の滲むように濁っている。風が運ぶ不穏な気配に、俺は思わず顔をしかめた。背筋を這う冷たい予感が、夜の静けさを切り裂く。
視線を巡らせると、庭の向こう、塀の上で“それ”は待っていた。
瓦の上に悠然と腰を下ろす一人の人影。銀髪が風に逆らい、まるで嵐を挑発するかのように乱舞する。左目を覆う黒い帯、漆黒の衣装は闇に溶け込むようで、なのにその輪郭は異様なほど鮮明だ。まるで夜そのものが彼を拒絶し、浮き彫りにしているかのようだった。
異物——この寺の静謐な空気に、まるで刃のように突き刺さる存在。
男は胡坐をかき、こちらを見下ろしていた。片肘を膝に置き、頬杖をつくその姿は、まるでこの夜を支配する王のように不遜だ。口元に浮かぶ笑みは、まるで俺たちの全てを見透かしていたかのような、底知れぬ余裕を湛えている。
「——見つけたぜ、“27番”」
その軽やかな声が、夜を凍りつかせた。一言で、空気が刃のように鋭く切り替わる。
隣にいたリンリンの肩が、びくりと跳ねた。彼女は舞の構えを解き、まるで時間が止まったかのように立ち尽くす。背筋は真っ直ぐ、だがその手は微かに震え、右手に握られた盃から酒が一筋、指の間を滑り落ちる。その光景に、俺の胸を嫌な予感が突き刺した。
リンリンの顔に、いつもの生意気な笑みはなかった。唇は固く結ばれ、目は見開かれ、その奥に渦巻く感情——恐怖、動揺、怒り、そして、どこか懐かしさに似た複雑な光。彼女の視線は、まるで過去の亡魂を見つけたかのように揺れていた。
「“27番”って……?」
俺が口を開きかけた瞬間、リンリンがかすれた声で遮った。
「喋らないで」
その言葉は鋭く、しかしどこか脆い。彼女の目は男から一瞬も離れず、だがその姿勢は不安定だ。まるで牙を剥こうとする獣が、逃げ腰のまま吠えているような——そんな危うい均衡。 男は俺たちの沈黙を嘲笑うかのように、足を組み替えた。その動作は軽やかで、しかしどこか挑発的な刃の輝きを帯びている。
「久しぶりだな、27番。変わってないな」
その声には、歪んだ親しみが滲む。まるで古い傷を抉るような、執着の匂いをまとった言葉。試すような、揺さぶるような、悪意ではない——だが、もっと危険な何か。
「24番……」
リンリンがようやく口を開いた。だがその声には、いつもの鋭さが欠けていた。呆然とした、夢の中に取り残されたような、感情の行き場を失った声音。
「……なんで、ここに」
「仕事だよ、ここの偵察。お偉いさんがここの爺さんの動きを気にしててさ。ま、様子見ってやつ」
男はそう言いながら、屋根からくるりと一回転し、音もなく地面に降り立った。落ち葉すら揺らさぬ身のこなしは、まるで影そのもの。俺は無意識に腰に手をやったが、男は一瞥をくれるだけだった。
「それだけだったんだよ。偵察だけ。でもさ」
彼の視線が、リンリンだけを捉える。口元には、まるで古い記憶を噛み締めるような、薄い笑み。
「ここで、お前に会えるとは思ってなかった。“27番”」
その声には、懐かしさが滲む。だがそれは、再会の喜びなどではない。まるで猟犬が獲物を再発見したような、貪欲な輝きを帯びた笑みだった。
「……用が済んだなら、帰って」
リンリンの声は静かだった。だがその静けさは、怒りを飲み込み、押し殺した果てのものだ。彼女は一歩前に出る。両腕は脱力しているように見えて、指先に宿る力は戦いの予兆そのもの。鉄扇はない。だが、俺には分かる——彼女は今、完全に戦闘体勢だ。
「帰れって? おいおい、それはないだろ。“再会”だぞ。幼馴染じゃねぇか、俺たち」
男——“24番”は、わざとらしく肩をすくめた。笑みを浮かべたその声に、目は一切笑っていない。乾いた、冷たく何かを測るような視線が、リンリンを刺す。
「任務は偵察だ。それは変わらない。でもな……俺はお前を見つけて考えを変えた」
彼はポケットから折り畳まれた紙片を取り出す。俺の位置からは見えないが、その動作には不気味な確信が宿っている。
「“対象:ロウ老師 行動記録・生存報告”。任務はここまで……けど、報告に一行足せば済むんだ。“27番”生存・回収のち帰還ってな」
静寂が落ちる。リンリンの肩が、わずかに揺れた。だがその一瞬を除き、彼女の姿勢は崩れない。 俺は息を飲む。この空気——まるで嵐の前の静けさだ。あの男、“24番”はリンリンを連れ去ろうとしている。それも、彼女の過去に関わる場所へ。俺はリンリンの過去を知らない。
なぜ? 彼にとって、それは何を意味する? 男は、俺の疑問に答えるかのように口を開いた。
「“お前だけは、違ってた”。昔から、そう思ってたんだ。“27番”は、綺麗すぎる。“人間”みたいに、弱くて……温かい」
その声には、歪んだ情が絡みつく。懐かしさ、憧れ、嫉妬、所有欲——全てがぐちゃぐちゃに混ざり合い、まるで毒のように夜気を汚す。
「だから、俺のものにしておきたかった。お前もそうだったろう、なぁ?」
「……まだそんなこと言ってんの? あんたじゃ私は勿体ないわ」
リンリンが吐き捨てるように言う。彼女の声に、鋭さが戻る。
「俺たちは、“戦う”ために作られた。だけど、お前はそれに、疑いもった! “誰かの命令”で、自分を定義されることに、嫌気がさした! そうだろぉ?」
男の言葉が重なるたび、リンリンの瞳に炎が灯る。
「私はもう、27番じゃない。リンリンっていう名前があるのよ!」
風が唸りを上げて吹き抜ける。彼女の髪が闇の中で揺れ、両腕と両足に青白い光が脈打つ。それはまるで彼女の闘志が形を成したかのようだ。俺にはその正体はわからないが、リンリンは今、完全に戦いの渦中にいる。 24番はそれを見て、ふっと笑った。
「やる気か。“あの頃”みたいだな。いいぜ、リンリン。お前の“今”がどれだけ変わったのか、俺が確かめてやるよ」
そして——
「こいよ27番ンンンンン!!!!」
その叫びが、夜を裂いた。 彼の足が地を蹴り、風が爆ぜる。黒装束の影が雷光のように突進し、踵が弧を描いてリンリンの側頭部を狙う。その一撃は空気を切り裂き、まるで空間そのものを引きちぎる勢いだ。
だが、リンリンはそれを“見ず”に避けた。 視線は男に固定されたまま、身体だけがしなやかに傾き、紙一重で攻撃をかわす。その動きは舞のようで、戦いの殺気を感じさせない。だが、実際にはすでに無数の攻防が火花を散らしている。
二人の戦いは、まるで夜の交響曲だ。リンリンの舞うような動きは、風を切り、月光を反射して青白く輝く。対する24番は、獣のように跳ね、鋭い足技と肘打ちで空間を支配しようとする。夜の庭に、衝突の風音と金属のような響きがこだまする。
「……速すぎる」
俺はただ見ているだけで、息が詰まる。動きは予測不能、視界に捉えることすら難しい。だが、リンリンはその全てに応え、まるで風と共鳴するように動く。
「っく……!」
リンリンが後退する。だがその足取りは、まるで草を撫でる風のように軽やかだ。足音はなく、ただ草が微かに揺れるだけ。 24番は口の端を歪める。
「なかなかやるじゃねぇか。27番……だけど、やっぱりお前は甘い!」
その言葉と同時に、彼の身体が消えた。
見えなかった。気づいた時には、すでにリンリンの背後にいた。
「後ろッ!」
俺の叫びと同時に、リンリンが肩を落とし、後ろに倒れ込むように回避。24番の手刀が、彼女の髪をなぞるように空を切る。その鋭さは、首を断つ刃そのものだった。
「ダメだ、このままじゃリンリンがやられる!」
俺は腰のポーチからスモークポーションを掴む。硫黄、木炭粉末、クエン酸、炭酸水素ナトリウム——衝撃で反応する二液式の簡易煙幕だ。瞬間的に二酸化炭素と水蒸気が膨張し、白煙が広がる。 俺はそれを二人の間に投げつけた。
シュッという高音とともに、白煙が爆ぜるように噴き出す。
「ちょっとアンタ!?」
「時間を稼ぐ!」
叫びながら、俺は足元の土に手を伸ばす。そこには、金属粉を仕込んだ“錬成爆”が埋めてある。ロウ老師を驚かせるために仕込んでおいた即席の罠だ。 右手を握り、マナを金の元素に変換する。
「構造、転写——」
右手が発光し、地面から金の槍が突き上がる。あらかじめ設計した形状が、瞬時に展開。24番の足元を狙う鋭い突起が、夜を裂く。
男は素早く跳び退いたが、間一髪。白煙の中で、わずかに動きが鈍ったのが見えた。
「へぇ……面白い玩具を持ってるじゃねぇか。お前、“錬金術師”か?」
「そうだ。“科学の錬金術師”だ」
俺はもう一本のスモークポーションを構える。
「リンリン、次は一緒にやるぞ!」
煙の中から、彼女が鋭く頷く。風が再び裂けた。今度は、俺たちが仕掛ける番だ。
「アンタの力を借りなくても一人でできるわよ!」
リンリンの声が夜を切り裂く。相変わらず素直じゃない。
彼女は煙を足場にするかのように跳び、旋回しながら24番の頭上へ。まるで月光を纏った刃のような動きだ。
「ちっ……!」
24番が後退するが、俺はすでに次の罠を仕込んでいた。釘を円形に並べた“音誘導型の地雷”。マナの振動で作動し、空気振動をトリガーに圧縮ガスで細釘を四方に飛ばす簡易爆弾だ。
「レゾナンス・スパイク、展開!」
俺の叫びとともに、地面の釘の輪が音を反射し、爆ぜる。
パンッという音。
金属音が響き、24番の足元に火花が散る。致命傷にはならなかったが、バランスを崩すには十分だった。
「……ッ!!」
その隙を、リンリンが逃さない。 彼女の回し蹴りが、刃のように24番の左肩を捉える。重い衝撃音が夜を震わせ、男の身体が庭石に激突。くぐもった呻き声を漏らし、彼は片膝をつく。 だが、その顔に怒りはない。むしろ——満足げな笑みが浮かんでいた。
「……へぇ。思ってた以上に、やるじゃねぇか、27番」
「その呼び方、やめなさいって言ってるでしょ」
リンリンが息を整え、鋭く睨む。
「ま、今日はここまでだな。まだ“命令”じゃねぇし、そっちの坊やの顔も立てといてやるよ」
24番は軽やかに後ろへ跳び、木の塀を蹴って屋根瓦へ。月光に銀髪が輝き、まるで夜の亡魂のように浮かぶ。
「けどよ、27番。俺は、お前を見ちまった。だから、次は“全力”で連れ戻しに来る。覚悟しとけよ」
その言葉を残し、彼の姿は闇に溶けた。
俺とリンリンは、ただ立ち尽くす。夜の静寂が戻り、まるで嵐が過ぎ去った後のように、俺たちの呼吸と心拍だけが響き合う。
「……あいつが何者か、聞かせてもらえるんだよな?」
思わず漏らした俺の声は、どこか哀しみを帯びていた。執着と情が混ざり合った、矛盾した響き。 リンリンはすぐには答えず、やがてぽつりと呟く。
「……嫌だ」
「嫌ってお前ッ! この雰囲気は話す流れだっただろうがよ!」
俺がガーッと怒鳴ると、リンリンは両耳に指を突っ込んで聞こえないふり。だが、その肩は小さく震えていた。まるで、過去の重みを振り払おうとするように。 月光の下、彼女の青白い光はまだ微かに脈打っていた。戦いは終わったが、彼女の闘志は消えていない。俺は拳を握りしめ、夜空を見上げる。あの男が再び現れるその時まで、俺たちは準備を整えるしかない。
「次は、もっと派手にぶちかましてやる」
俺の呟きに、リンリンが小さく笑った。その笑みは、いつもの生意気な彼女に戻ったようで、どこか心強い光を宿していた。夜風が吹き抜け、俺たちの新たな戦いの幕が、静かに上がった。




