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ロウ老師の試練

 俺たちは朝陽に照らされた寺院の庭に立っていた。目の前にはロウ老師が、まるで岩のように動かず、地面と一体化したような気配で俺たちを見据えている。

 周囲の空気は張りつめ、鳥のさえずりすら遠くに感じる。庭の端では、風に揺れる桜の木が淡い花びらを散らし、石灯籠の影が長く伸びている。だが、そんな穏やかな光景とは裏腹に、俺の背筋には緊張が走る。老師の周りだけ、空気がまるで刃のように鋭い。


「さあ、いつでも来なさい」


 老師は流れるような動きで手足を交差させ、拳を握り、型を構える。その後、四本の指でクイクイと挑発する仕草が、妙に堂に入っていて、思わず目を奪われる。


「隊列は前のときと同じでいこう」


 俺は短く指示を出す。ティナは俺の後ろ、中衛の位置で軽く身構える。彼女の赤髪が朝風に揺れ、腰のポーチに手をやる姿が頼もしい。そして、そのさらに後方にはアルヴェンがいる。青い髪を風になびかせ、瞳で鋭く老師を捉え、複合弓を構える彼女は、射線を確保するために一歩引いた位置に立つ。弓弦が軽く軋む音が、静寂の中で響く。


 老師は腰を落とし、じっと俺たちを見つめる。まるで時間が止まったような静けさだ。だが、感じる。あの老人の周囲だけ、空気が密度を帯び、まるで嵐の前のように重い。


「いくぞ!」


 俺の叫びが合図だった。地面が一瞬、きしむような音を立てる。


「ティナ!」

「はいっ!」


 ティナが素早く腰のポーチから銀色の小瓶を取り出し、弧を描いてロウ老師の足元に投げる。瓶が石畳に叩きつけられ、乾いた破裂音とともに白濁の煙が一気に広がる。

 スモークポーション。石灰と酢酸、砕いた鉱粉が反応して生じる炭酸粒子の白煙が、視界を覆う。魔法じゃない。科学と錬金術の合わせ技だ。煙が庭を包み、散る桜の花びらすら見えなくなる。


 俺は煙の中を突っ込む。黄金の右腕を前に突き出し、金属の振動を感じながら拳を繰り出す。心臓が早鐘を打ち、汗が額を伝う。


「はっ!」


 だが、拳は空を切った。気配が消える。足音も、呼吸も、一切感じない。次の瞬間、背中に冷たい予感が走る。振り向くが、遅い。


「ぐっ……!」


  腹にロウ老師の膝蹴りがめり込む。息が止まり、肺が縮こまる。地面を転がり、土と花びらを巻き上げながら、なんとか膝をついて体勢を立て直す。視界の先、煙が薄れる中、老師はすでに数歩先に立っている。まるでそこにずっと居たかのように。


「……うそでしょ」


 ティナの声が震える。彼女が撒いた煙幕は、風もないのにすでに晴れている。いや、違う。老師の動きが空気を乱し、煙を一瞬でかき消したのだ。庭の空気が、まるでロウ老師の意志に従うかのように澄んでいる。


「アルヴェン!」

「やってみます!」


 アルヴェンの蒼い瞳が鋭く光り、鋼線で強化された複合弓が唸る。放たれた矢が空気を切り裂き、ロウ老師に向かって一直線に飛ぶ。だが、ロウ老師の指先が軽く動くだけで、矢は空中で弾かれ、羽が砕け散る。次の瞬間、ロウ老師が踏み込む。地面が震え、俺の懐に迫る。


「――やばい!」


  考えるより早く、俺は腰に吊るした装置を引き抜く。自作の蓄電装置――幸哉特性バッテリーだ。銅板と亜鉛板を積層し、湿らせた羊皮紙を挟んで電位差を生む簡易セル。酸性液に浸した円筒容器の中で、1セル0.9Vを並列接続し、6〜10Vの直流を発生させる。小さな放電だが、人間には十分なショックを与える。


「ここだっ!」


 俺は懐から金属の薄板を投げ、地面に転がす。錬成で伸ばした金の導線が薄板とバッテリーを繋ぐ。次の瞬間、地を這う電流が走り、青白い閃光が老師の足元で弾ける。


「ふむ……?」


 老師の動きが一瞬だけ鈍る。視界が揺れ、老師の身体に微細な“ラグ”が生じる。

 チャンスだ。

 俺は黄金の右腕を最大出力で振り抜く。金の剣先が弧を描き、老師の肩をかすめる。初めての手応え――刃が浅く肉に食い込む。


 だが、そこで終わらない。


「――む」


 老師の気配が一変する。空気が密度を帯び、ねじれるような圧迫感が庭を覆う。次の瞬間、俺の身体は見えない力に弾かれ、桜の木の根元まで吹き飛ぶ。


「ぐっ……!」


 地面を転がり、土と花びらを巻き上げながら数回跳ねる。視界がぐるぐる回る中、ロウ老師の声が響く。


「電撃を操るとは。よう作ったものじゃのう。マナに頼らず、力を引き出す道理……この老いぼれも、少し感心したわい」


 意識が薄れかけるが、気絶はしない。老師は左肩を押さえ、ふっと笑う。庭の朝陽が彼の白髪を照らし、まるで神聖な光をまとっているように見える。


「昔はの、ニオでも“雷霊”を崇める一派がおってな。こういった技を使う者も、極々少数じゃが存在した。しかし……時代が過ぎれば忘れ去られる。雷の力は、もはやエナス王国の”円卓の騎士”しか扱えぬと聞く。そちのような異端が現れたことは、儂にとっても実に面白い兆しじゃ」


 その声には怒りも憎しみもない。ただ、純粋な興味と評価の眼差しがある。


「だがの」


 瞬間、ロウ老師の姿が視界から消える。


「っ!?」


 構える間もなく、脇腹に重い衝撃が走る。息が抜け、身体が横に吹き飛ぶ。庭の石畳に叩きつけられ、桜の花びらが舞う。


「幸哉さん!」


 ティナが叫び、急いでスモークポーションをもう一本地面に叩きつける。白煙が再び庭を覆う中、彼女が俺に駆け寄り、マナを込めた治癒瓶を投げる。瓶が破裂し、甘い痛みが傷口に広がる。薬草とマナが皮膚を縫い合わせ、骨まで響くような再生の感覚が走る。


「……間に合った、かな」


 ティナが安堵の息をつくその瞬間、頭上から風を裂く音が響く。


「っ!? ティナ、伏せろ!」


 アルヴェンの援護の矢だ。だが、老師の手のひらがそれを吸い寄せ、ぱきりと折る。


「悪くない射線じゃった」


 ロウ老師が呟き、空気を踏むように一歩進む。圧縮された“気”が爆ぜ、目に見えない衝撃波が俺とティナを弾き飛ばす。


「ぐっ……がっ……!」


 地面を転がりながら、俺は埃の向こうにロウ老師の姿を見る。まるでこの庭の全てを支配するような、圧倒的な存在感。桜の花びらが舞う中、ロウ老師の白い袍が風に揺れる。


「動きが、全然……読めない……」


 息を切らしながら思う。あの電撃で動きを止められたのは、奇跡だった。それすら通じないなら、どうすれば――。

 考える暇もなく、次の攻撃が来る。風を裂く“拳”の気配が迫る。


「――よくやった。だが、ここまでじゃな」


 ロウ老師の声が土煙の向こうから届く。俺は地面に伏せ、視界の端でティナが膝をつくのが見える。マナの使いすぎだ。


「っ……アルヴェン、今だ!」


 俺の叫びに、アルヴェンが最後の一矢を放つ。青い長髪が風に舞い、弦音が鋭く響く。矢が老師の胸元へ一直線に飛ぶ――だが、届く寸前、空中で音もなく崩れる。


「な……」


 アルヴェンの瞳が見開かれる。矢が崩れたんじゃない。空気そのものが圧縮され、矢の軌道を乱したのだ。重力すら無視するような力。


「では、終いじゃ」


 風が鳴る。ロウ老師が一歩踏み出し、俺の目の前に現れる。


「――っ!」


 右手を構える間もなく、掌底が胸元を打つ。柔らかく、だが、内臓が逆流するような重い衝撃。視界がぐるりと回り、地面に沈み込むように崩れ落ちる。


「幸哉さんっ!」


 ティナの声が遠くに響く。アルヴェンの足音も届かない。意識の奥で、老師の声だけが響く。


「拳とは、敵を打つためのものではない。力を振るう術を学ぶ前に、己を律し、己を保つ術を学びなさい。それが“拳”の始まりじゃ」


  その言葉を最後に、俺の意識は闇に落ちた。


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