静謐の門、拳と道のはじまり
木の門が軋む重い音を立て、俺たちは大鳳寺の玄関先に足を踏み入れた。
門の内側には、磨き上げられた木の縁に囲まれた広い土間が広がり、その奥に白い障子戸が整然と並ぶ長い廊下が伸びている。
空気は乾いて澄み、ほのかに線香と木材の香りが漂う。陽光は竹林の葉に遮られ、土間に柔らかな木漏れ日を落とし、まるで時間が静止したような清浄な静けさが空間を満たしていた。遠くで竹が風に揺れる音が、かすかな旋律のように響き、寺の厳粛な気配を一層引き立てる。
「ここから先、土足厳禁よ。ちゃんと脱いでね」
リンリンが軽やかな声で告げ、片足を器用に上げてフラットシューズを脱ぐ。深紅のチーパオが揺れ、スリットからスラッとした脚が伸びていた。彼女は縁側に軽く跳び上がり、まるで寺の空気と一体になるような自然さで先に進む。
俺は慣れた手つきでブーツを脱ぎ、獣道の泥と落ち葉で汚れた靴底を縁側の木に叩いて払う。冷たい木の感触が足裏に伝わり、前世の記憶――日本の古い家屋の懐かしさが胸をよぎる。ティナは赤い髪を軽くかき上げ、マントの裾を整えながらブーツを脱いだ。彼女の瞳が障子戸や磨かれた床を一瞥し、ニオの文化に静かな敬意を向けている。
問題はアルヴェンだった。彼女は靴を履いていない。彼女は種族の習慣から、ずっと裸足で歩いているため、蒼の瞳に好奇心と戸惑いが混じる。
リンリンの言葉に一瞬立ち止まり、縁側を見上げる。しゃがみ込んで足の裏に指を這わせ、泥と砂を丁寧に払う。パラパラと落ちる土が土間に小さな音を立て、彼女は木の縁に両手を置いて慎重に足を上げる。汚れがないことを確かめ、そっと一歩、寺の床に踏み出す。
「……汚してしまったら、ごめんなさい」
誰に向けたともわからない小さな声だったが、その気遣いに胸が温かくなる。単なる礼儀を超えた、異文化への歩み寄り――アルヴェンの純粋な心が、寺の静けさに溶け込むようだった。
リンリンはその姿をちらりと見やり、口元に微かな笑みを浮かべる。彼女の背中は、どこか満足げに軽やかに廊下を進む。お香の香りと木材の乾いた匂いが鼻をくすぐり、どこか遠くから風鈴のような澄んだ音が響く――本堂の方角だろうか。外の獣道の喧騒とは隔絶された、整然とした静寂が一行を包む。呼吸が自然と深くなり、心のざわめきが静まる感覚があった。
「ユキヤさん、ここ……なんか、落ち着くね」
アルヴェンが小さく呟き、障子戸の繊細な格子を指でなぞる。
「うるさいくらい静かだな」
俺の言葉に、ティナがくすっと笑う。
「それ、矛盾してるよ、幸哉さん」
「だな」
苦笑いを返す俺に、アルヴェンも小さな微笑みを浮かべる。だが、寺の奥から漂う未知の気配に、俺は内心で呟く――この静けさが、嵐の前触れでないことを願うと。
廊下の奥から、静かな足音が近づいてきた。白い作務衣をまとった青年が現れ、手を前に組んで穏やかに立つ。長い黒髪を後ろで結び、整った眉と涼やかな目元には、若さに似合わぬ気品が漂う。年の頃は俺と同世代か、やや上。首に下げた木の数珠が、歩くたびに小さく揺れる。
「皆様、お客様ですね。ようこそ大鳳寺へ。私、修行僧の海涛と申します。ご滞在中、身の回りのお世話をさせていただきます。お部屋へご案内いたします。こちらへどうぞ」
海涛の声は柔らかく、寺の静寂に溶け込むような落ち着きを持つ。彼は儀式めいた一礼をすると、俺たちを廊下の奥へと案内する。木の床が歩くたびに軽く軋み、窓から差し込む木漏れ日が、磨かれた床に揺らめく光の模様を描く。
障子戸の向こうには、広大な庭が広がり、数人の修行僧が拳法の型を繰り出している。流れるような動きで竹の棒を振り、風を切る鋭い音が空気を震わせる。跳躍と着地の瞬間は、リンリンの身軽さを思わせ、まるで重力を忘れたような軽やかさだ。
庭の片隅では、別の僧が地面に描いた魔法陣に手を翳し、淡い青い光を放つ護符を試している。光は一瞬、砂利を照らし、消える。もう一人の僧は、空中に小さな火球を浮かべ、制御の練習に没頭している。魔導と武術が共存する寺の日常は、静かな調和の中で息づく。俺は拳法の動きに目を奪われ、ティナは魔法陣に興味津々。
海涛に導かれ、一行は簡素な客室に辿り着く。八畳ほどの畳敷きの部屋は、壁際に折りたたまれた葦のござと木の寝台が整然と並ぶ。中央には小さなちゃぶ台と座布団が三つ。窓からは竹林が見え、葉擦れの音が静かに響く。壁にはニオの象形文字が刻まれた護符が掛けられ、ほのかな線香の香りが漂う。清潔で、どこか懐かしい温かみがある空間だ。
「本日はこちらをお使いください。荷を下ろされた後、ロウ老師が食堂でお待ちしております」
海涛は再び一礼し、静かに退出する。俺は荷物を下ろし、疲れた腕をさする。
荷を整え、俺たちは食堂へ向かう。廊下を進む間、庭の拳法と魔導の光が、寺の奥深い力を静かに示していた。
食堂は広々とした空間で、磨かれた木の床に年輪のような模様が浮かんでおり、低い木の机が整然と並ぶ。白壁と木の柱に囲まれ、窓から差し込む木漏れ日が、竹の葉を敷いた皿や土鍋を柔らかく照らす。
遠くで竹が揺れる音と、滴る水の清らかな響きが、静寂に調和を添える。食堂の奥、陽光が最も集まる位置に、ロウ老師が鎮座していた。白い髭が胸元に垂れ、麻と絹の袍が寺の静けさと共鳴する。背筋を伸ばした姿は、まるで寺そのものと一体化したような威厳を放つ。手に持つキセルから、紫煙がゆらりと立ち上り、木漏れ日に溶け込む。
「老師、お客様をお連れしました」
海涛の静かな声に、老師が小さく頷く。
「おお、待っとったよ。海涛、ありがとう。下がってもいいぞい」
海涛は深く一礼し、音もなく退出する。その所作が自然すぎて、俺はつい、背筋を伸ばし、お辞儀を返してしまった。前世のクセがまだ抜けていない。ティナとアルヴェンも俺につられたのか軽く会釈し、緊張と好奇心が混じる。
「座りなさい。食事にしよう」
老師の穏やかな声に促され、一行は低い机に並んで座る。木の座布団は硬いが、疲れた体に安定感を与える。数人の修行僧が現れ、湯気の立つ料理を運んでくる。竹の葉に盛られた山菜の清湯、蓮根と豆腐の薬膳炒め、黍と黒米のお粥、蒸し胡麻団子、白茶――精進料理の慎ましさと滋養が、色と香りに宿る。清湯の竹の子の甘い香りが漂い、薬膳の枸杞の赤が彩りを添える。お粥の温かさが胃を満たし、胡麻団子のハチミツが舌に甘みを残す。
「どうぞ、遠慮なく食べてくれ。これはもてなしじゃ」
老師の言葉に、「いただきます」と声を合わせ、一行は箸を手に取る。山菜のほろ苦さと清湯の塩味が、戦後の疲れを癒すように染み入る。
「では、食べながら自己紹介でもしようかの」
ロウ老師がキセルを軽く振り、紫煙と共に語り始める。
「儂の名はロウ。この寺の住職をしとる者じゃ。むかしむかしはな、ちょいとばかり名の知れた冒険者での。拳と術の道を極める旅をしとったが、今ではこうして弟子たちに拳法と魔法を教えておる」
老師の笑みに、鋭い眼光が一瞬光る。その重みが、料理の香りを超えて一行に響く。
「次はお前さんたちの番じゃな」
「はい。俺は神蔵幸哉、ただの旅人ってとこです」
ティナとアルヴェンが順に名乗り、旅の目的を語る。特にアルヴェンは、ハーフエルフの出自と両親を探す旅を、恥ずかしそうに話す。
「ほう、君はハーフエルフか」
「驚かないんですか?」
「儂の旅では、もっと奇妙なものを見てきた。ハーフエルフ程度で驚くなら、冒険者など務まらんよ」
老師の軽やかな言葉に、アルヴェンの緊張が解ける。だが、話は核心へ。
「主の両親の居場所は知らん。だが、ウッドエルフの集落なら心当たりがある。名は『ガンジャオ』、彼らが聖地と呼ぶ土地じゃ」
「本当ですか!?」
アルヴェンが身を乗り出すが、老師の顔が一瞬険しくなる。キセルに火をつけ、髭を撫でながら続ける。
「だが、儂はお前さんたちに教えるべきか悩む。ガンジャオへの道は、トウテツ級の魔物が跋扈し、マナの乱れで魔術も装備も通用せん。今のお前さんたちでは――」
紫煙が白壁に滲み、老師の声が重く響く。
「間違いなく、死ぬな」
にやりと笑う老師の言葉は、脅しではなく事実の重みを持つ。ティナとアルヴェンの顔が沈む。だが、俺は動じなかった。カイルに敗れた記憶――実力不足の痛みが、胸に焼き付いていた。椀を置き、正座して深々と頭を下げる。
土下座だ。
ティナとアルヴェンが目を丸くするが、すぐに倣う。
「俺に、稽古をつけてください! もっと強くなりたい。俺の力じゃ、まだ足りないんです!」
ココット村のみんなが惨殺された光景、ナイーザの亡骸、そしてカイルがアルヴェンにとどめを刺そうとした瞬間を思い出す。知識だけじゃこの世界は生き残れない。力が必要だ。
この力をコントロールし、最大限にまで活用できれば、きっとティナやアルヴェンたちを守ってやれる。
沈黙の後、老師は紫煙を吐き、笑みを浮かべる。
「いいじゃろ。ついてきなさい」
ロウ老師が立ち上がり、庭へ歩を進める。髭が揺れ、袍が風に翻る。
静かな寺院の庭には日の光が差し込んでいた。苔むした石畳と、丁寧に刈り込まれた松の木々に囲まれ、遠くの山々から流れる清涼な風がそよぐ。中央には小さな池があり、水面には朝露をまとった蓮の葉が浮かび、時折、鯉が静かに波紋を広げる。
ロウ老師はその庭の中央に立つと、踵を返し、こちらに振り返った。
「三人まとめて、儂の相手をせい。修行の内容は、それから決める」
「え?」
「ゴールドフィストの力、見せてもらうぞい」
「知ってたのかよ……」
庭の砂利が老師の足音に軋み、竹林の風が新たな試練の幕開けを告げる。




