表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
19/27

黒煙の災厄と鈴の響き

 風が変わった。

 東からの潮風が、どこか乾いた土の匂いをまとっていた。街道を覆う空は灰色の白に曇り、陽光の届かぬ樹々の葉が裏を覗かせ、ざわめいている。

 オラを離れて数日。俺たちは今、ニオ帝国の辺境に差し掛かっていた。


 木々がうっそうと茂る森は、陽光をほとんど通さず、足元を薄暗く染めていた。馬車も通らないような獣道は、苔と落ち葉に覆われ、踏みしめるたびに湿った土の匂いが立ち上る。絡み合う枝の隙間から、時折、風が低く唸り、葉擦れの音がまるで囁き声のように響く。

 遠くで鳥の鳴き声が途切れ、代わりに何かが草を踏むかすかな音が聞こえた――近く、だが見えない。道の脇には、太古の石碑のような岩が苔むして立ち、表面に刻まれた模様が、ニオの古い魔導の名残を思わせた。空気は重く、どこか甘い腐臭と混じる潮の香りが、森の奥から漂ってくる。


「幸哉さん、空気が変わったの、感じる?」


 ティナが鼻をひくつかせ、風を読み取る。赤い髪が肩で揺れ、緑の瞳に落ち着かない光が宿る。


「湿度か? 森が濃くなった気はするな」

「それもあるけど……空気そのものの“質”が違う。マナの流れが、どこか引っかかるんだよねぇ」


 ティナは首をかしげながら、周囲を見回している。

 引っかかる――位相のズレのようなものだろうか。目に見えないノイズ、不協和音のような違和感が、風の奥に潜んでいる。


「ニオって、そんな妙な国なのか?」


 俺の問いに、ティナは少し考えてから小さく笑った。


「変っていうか……“別の世界”。人間の形をした国なの」

「どういう意味だ?」

「制度も、暮らしも、話し方も、全部“形”が決まってる。はみ出せばすぐ目をつけられる。服にも階級があって、住む場所まで身分で決まる。表は礼儀正しいけど、裏じゃ排他的よ」


  その歪さに、俺は眉をひそめた。


「完全管理社会ってことか」

「そう。そしてそれを支えるのが、“法と魔導”の仕組み。……ユキヤさんが嫌いそうな理屈ね」


 確かに。俺は自由を愛し、束縛を嫌う。科学は解放の道具であるべきなのに、ここではそれすら枷になるらしい。


「アルヴェン、大丈夫か?」

「はい……ただ、少し息苦しいです」


 アルヴェンの声には微かな震え。マントの下、癒えきらぬ腕をかばうように抱える。それでも、彼女の足取りは力強かった。


「もうすぐニオに着く。休める場所もあるはずだ」

「はい……!」


 アルヴェンは健気に頷くが、俺の胸には不安が広がる。魔導国家ニオ――文化も常識も、今までの世界とはまるで違う。見えない“線”が、まるで境界を引いているようだった。


「それにしても……」


 ティナが呟く。


「風の音に、さっきから何かが混じってる」

「混じってる?」

「うん。今の風は、音じゃないものを運んでる」


 その瞬間、俺の右腕が重くうずく。内部の金属が、警戒するように反応する。

 風が運ぶのは、音でも匂いでもない――気配だ。

 獣のような、理性を欠いた、純粋な暴力の気配。森の奥から、こちらを睨んでいる。


「足を止めろ」


 俺の言葉に、ティナとアルヴェンが即座に反応。その瞬間、森が咆哮した。

 空気が裂けるような轟音。地面がうねり、枝葉が逆巻く。鳥が一斉に空へ飛び立ち、木々の隙間からそいつが姿を現した。


 額に突き立つ一本の角は、黒曜石のように鋭く、陽光を吸い込むほど深く輝いていた。巨体を覆う皮膚は、まるで溶岩が冷えて固まった岩のよう――ひび割れた表面には、かすかに赤い脈のような光がうごめき、触れるだけで骨を砕きそうな硬さを予感させた。全身から立ち上る黒煙は、まるで生きているかのようにうねり、触れた木々の葉を瞬時に枯らし、地面に焦げた痕を残す。その煙は、硫黄と鉄を混ぜたような鼻をつく臭気を放ち、吸い込むだけで肺が焼けるような錯覚を覚えた。


 巨躯は四つ足で、熊の重厚さと狼のしなやかさを併せ持つ。だが、その姿はどちらとも異なる――まるで神話の時代から抜け出した、理性を欠いた破壊の化身だ。

 赤く濁った両眼は、感情というより純粋な殺意そのもの。視線が突き刺さるだけで、背筋に冷たい刃を押し当てられたような感覚が走る。巨体が一歩踏み出すたび、地面が震え、土が弾け、近くの木が根元から傾ぐ。迷いはない。ただ、俺たちを殺すためだけに、そいつは突進してきた。


  その動きは、まるで山が動くような重さと、嵐のような速さを同時に持っていた。前脚が地を蹴るたび、クレバスが縦に走り、土煙が視界を覆う。黒煙が渦を巻き、空気そのものがそいつの存在を拒絶しているかのように歪む。だが、その輪郭だけは異様に鮮明で、まるで世界がそいつを中心にねじれているようだった。


「これは……魔物じゃない。“災厄”だ」


 黒煙が視界を曇らせるが、その輪郭は異様に鮮明だ。空気そのものが拒絶するような存在感。


「こんな魔物、見たことない……」


 ティナが呟く。

 いや、魔物じゃない。あの殺意は、どんな魔獣とも異なる。


「逃げ――」


 言葉は風圧にかき消された。 巨体が動く。前脚が跳ね、地を蹴る。熊の力と狼の速さを併せ持つ動き。地面にクレバスが走る。俺はポーチから金属粉を掴み、即座に錬成――金属杭の壁を展開。


 ドオォンという激しい激突音と共に、杭が砕け、粉塵が舞う。


 俺は叫びながらティナとアルヴェンを左右に跳ばせた。


「散れ!」


 二人が地面を蹴り、苔むした獣道の両脇へ身を翻す。ティナは素早く腰の革帯から小さなガラス瓶を引き抜き、力強く地面に叩きつけた。カシャリと割れる音とともに、瓶の中から赤黒い煙が爆ぜる――唐辛子油を混ぜた刺激性の霧だ。煙は瞬時に広がり、森の薄暗い空気を赤く染め、鼻を刺す辛辣な匂いがあたりを包んだ。

 その煙が「災厄」の巨体に絡みつく。黒煙をまとう獣の動きが、ほんの一瞬、鈍った。赤い霧がそいつの岩のような皮膚にまとわりつき、濁った赤い両眼が一瞬だけ揺れる。だが、そいつは低く唸り、鼻孔から黒い吐息を吐き出して煙を押し返す。まるで霧すらその存在を拒むかのように、赤い雲が渦を巻いて薄れていく。


「ユキヤさん!」


 アルヴェンが震える腕で弓を引き絞り、矢を放った。鋭い弦の音が森に響き、矢じりが「災厄」の巨体を目がけて一直線に飛ぶ。だが、矢はそいつの岩のような皮膚に当たった瞬間、鈍い音を立てて弾かれた。

 ひび割れた表面に赤い脈がうごめくその皮膚は、まるで鉄壁の要塞。矢じりがかすかに削った痕すら、瞬時に黒い煙が覆い、修復するかのように消えていく。


「まずい……物理も魔法も通じねえ!」


 脳が必死に対策を探す。金属も熱も衝撃も効かない。だが、動きは直線的。単純で読みやすい。


「罠を張る!」


 地面に触れ、網目状の爆雷トラップを構築。だが、俺の技術は発動まで10秒かかる。

 その10秒をどう稼ぐ――?


「こっちだよ!」


 その声は森の静寂を切り裂き、濁った赤い両眼を彼女へと引きつけた。

 ティナは腰の革帯から次々と小さなガラス瓶を掴み、素早い動きで投げつける。瓶が地面や獣の巨体に当たって砕け、唐辛子油の赤黒い刺激煙が爆ぜ、鼻を刺す辛辣な匂いが森の空気を満たした。


「ティナ、無理すんな!」

「分かってる!」


 アルヴェンも動く。震えていたはずの彼女が、敵の側面に回り、弓を構える。


「ユキヤさん、時間を稼ぎます!」


 彼女の震える腕と、なお立ち向かう決意が、胸を締めつける。だが、その瞬間、「災厄」が咆哮した。

 轟音が森を揺らし、まるで空気そのものが砕けるような衝撃波が爆ぜた。獣の前脚が地を薙ぐと、苔むした獣道が裂け、土と石が爆発的に弾け飛ぶ。衝撃の余波が木々を震わせ、葉が舞い散る中、ティナの小さな身体が宙に舞った。


 彼女の赤い髪が一瞬、風に翻り、まるで炎が消える前の最後の閃光のように見えた。次の瞬間、彼女は地面に叩きつけられ、赤黒い刺激煙と獣の黒煙が混じる霧の中にその姿を呑み込まれた。


「ティナ!?」

「がふっごふっ——!」


 土煙の中、ティナの咳き込む声が聞こえてくる。息はあるようだ。


「くそが!」


 俺は地面に掌を押し当て、錬成の「陣」を発動した。右腕の金属が脈動し、ポーチから撒いた金属粉が火花を散らしながら地面に溶け込む。次の瞬間、苔むした獣道の土が光を帯び、格子状の輝く金属の網が「災厄」の足元に広がった。

 網の節々には、爆発性の結晶が埋め込まれ、網状の爆裂トラップが低く唸るようにエネルギーを蓄える。

 だが、獣は一瞬たりとも怯まない。そいつの岩のような前脚が地を踏み砕くと、金属の網は悲鳴のような軋みを上げ、鋭い破砕音とともに粉々に踏み抜かれた。破片が土煙とともに飛び散り、黒煙をまとう巨体がなおも俺たちに迫る。


「ふざけんな、夜なべして作ったんだぞ!!」


 俺は右腕を振り上げ、錬成の力を全開にした。金属粉が火花を散らし、瞬時に黄金の輝きを帯びた巨大な壁が目の前に立ち上がる。分厚い金の壁は、陽光を反射して森の薄暗さを切り裂き、「災厄」の突進を阻む盾となる。

 だが、獣の牙が壁に食い込んだ瞬間、甲高い金属音が響き、衝撃が右腕から肩、背骨へと伝わる。骨が軋み、筋肉が悲鳴を上げる。金の壁にひびが走り、黒煙をまとう巨体の圧力に耐えきれず、崩れ始めた。


「くそっ……!」


 崩される――と思ったその瞬間、“シュウッ”と風が鋭くねじれた。


 空気が裂けるような音とともに、「災厄」の巨大な頭部が横に跳ねた。黒曜石の角が揺れ、濁った赤い両眼が一瞬混乱に揺れる。視界の端で、空中を回転する影が閃く。

 少女が、しなやかな片脚で獣の側頭部を正確無比に蹴り抜いていた。彼女は音もなく着地し、苔むした獣道に軽やかに降り立つ。


 黒髪はショートで、風に軽く揺れる。身体にぴたりと沿うチーパオのようなドレスは、深紅と黒が織り交ぜられ、動きを妨げない流麗なシルエットを描く。

 彼女の構えは、格闘術の達人だけが持つ無駄のない均衡。まるで静かな水面のように穏やかだが、一触即発の殺気を内に秘めていた。耳元で小さな鈴がチリンと鳴り、森の重い空気の中でその音だけが異様に澄んで響いた。


「もー、“トウテツ”に出くわすとか最悪じゃん」


 少女が肩越しに言う。


「で、あんたたち、誰?」


  その瞳は、敵を前にしても揺るがない。腰を落とし、柔と殺の気配を帯びた姿勢。

 地面を踏み、足元で空気が波打つ。獣が再び咆哮し、飛びかかる――が、少女の体が霞のように揺れる。

 次の瞬間、背後に。鋭い蹴りが獣の腹に叩き込まれ、地面が陥没。獣が倒れる。


 俺の目は確かにその動きを捉えていた。片脚が「災厄」の側頭部を蹴り抜く瞬間、黒曜石の角が揺れる一瞬まで。だが、頭がその光景を理解する前に、結果が目の前に突きつけられていた。あまりの速さと正確さに、思考が凍りつき、まるで時間が一瞬だけ引き延ばされたかのようだった。

「災厄」はその名を裏切るかのように、力尽きた巨体が地面に崩れ落ちた。岩のような皮膚が苔むした獣道を砕き、黒煙が最後の吐息のように薄れながら地面に沈む。さっきまで脈動していた怪物の、濁った赤い両眼から放たれ、森の空気を圧迫していた禍々しい気配が、まるで霧が晴れるように徐々に消え去った。

 折れた黒曜石の角が地面に突き刺さり、ひび割れた皮膚の赤い脈が微かに光を失う。土煙と焦げた硫黄の臭いが漂う中、木々の間を抜ける風が葉擦れの音を運び、戦闘の轟音に代わって静寂が森を包んだ。


「ふーん。四凶のトウテツって言っても大したことないわね」


 少女は額に汗一つ浮かべず、口元に不敵な笑みを浮かべた。彼女の深紅と黒のチーパオが森の薄暗い光の中でかすかに輝き、耳元の鈴がチリンと軽く鳴る。


「助けてくれて、ありがとう」


 ティナがよろめきながら立ち上がった。彼女の赤い髪は土と血で乱れ、左腕を押さえる指の間から鮮血が滲み、滴となって地面に落ちる。顔は痛みに強張りながらも、緑の瞳には仲間を守り抜いた決意が宿っていた。彼女のマントは裂け、刺激煙の赤黒い残り香がわずかに漂う。森の静寂が戻る中、ティナの弱々しい声と少女の澄んだ鈴の音が、奇妙な調和を奏でていた。


「名乗りは……後でいいか。 私たち、森を抜けてニオに行きたいの」

「ふーん。外の人間か。ま、放っとくのも気分悪いし、いいよ」


 少女が耳元の鈴を鳴らす。チリンと乾いた音が、静けさを引き立てる。


「じゃ、案内するよ。ニオの郊外の寺に知り合いがいる。そこから都にも行ける」

「お前、名前は?」


 俺が問うと、少女はニヤリと笑う。


「リンリン。よろしくね」


 踵を返し、歩き出す。俺たちは自然とその背中に続く。

 森の奥、破壊の痕と黒い血が風に流れる。 この少女の“強さ”と“過去”は、ただの道案内では終わらない気がした。 俺たちは、ニオという異国の地へ――

 新たな“秩序”と“闇”の中へ、踏み込んでいく。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ