静寂の街角
店を出た瞬間、空気の色が変わったような気がした。陽光がコンクリートと木造の建物に反射し、ほんの一瞬、風景が不自然に白っぽくぼやけた。
太陽はすでに高く昇り、天気は良好で、雲一つない青空が広がっていた。けれど、通りにいたはずの喧噪が、まるで切り取られたように消えていた。人の声も、馬のいななきも、道を転がる車輪の軋む音さえ、遠くでかすかに反響するだけ。街全体が息を呑んだような静寂に包まれ、風が運ぶ砂塵だけが不気味な囁きのように耳に残った。
「……おかしいな」
ティナが小さく呟いた。彼女の声には、普段の軽い調子が消え、鋭い警戒心が混じっていた。彼女の赤みがかった髪が風に揺れ、緑の瞳が周囲を鋭く見回している。異変を察しているのは俺だけではない。
アルヴェンはパン入りの袋を両腕で抱え直し、少しだけ俺の腕の後ろに寄った。彼女の細い指が布袋をぎゅっと握り、昨日までの恐怖が再び顔を覗かせる。
「ユキヤさん……なんだか、変です」
「分かってる。視線を感じる」
俺は静かに周囲を見渡した。住宅の屋根――二階建ての建物の上に張り出したひさし。その影に、一つ、また一つと、黒いフードをかぶった人影が姿を現した。布のフードは風でわずかに揺れ、顔を隠す深い闇から鋭い眼光が覗いている。人数は増え続け、まるで夜の闇が日の下に這い出してきたようだった。
弓を持っている。手に握られた弦が微かに緊張し、矢じりがこちらを向く気配まで、空気が震えるように伝わってきた。矢の先端には、金属製の鋭い鏃が光を反射し、毒が塗られている可能性すら考えられた。
地上にも影がある。路地の先、建物の角、通りの向こう。全部で七、いや、もっとだ。黒いマントが風に靡き、足元に隠された短剣の刃が時折陽光を捉えて閃いた。
「完全に囲まれてるな」
俺はふたりの前に一歩出て、体を盾のように構えた。ティナがアルヴェンの肩を抱き、かばうように一歩後ろへ下がる。アルヴェンの小さな体が震え、だがその瞳には諦めではなく、俺への信頼が宿っていた。
「あいつら……誰かな」
「恐らく、昨日の件で目をつけられたか、あるいは――」
俺はちらりとアルヴェンを見た。彼女の銀髪が風に揺れ、昨夜の酒場での襲撃を思い起こさせる。狙いが俺なのか、彼女なのか、あるいはその両方かは分からない。
だが、確かなのは一つ。この数、位置、静けさ。これは、狩る側の計算された動きだ。敵は時間をかけて罠を仕掛け、逃げ場を塞いだに違いない。
「……コズモを潰したときの、あの力。出せないのか」
問いかけるように、自分の黄金の右腕をじっと見つめた。掌には古い傷跡が残り、昨夜の戦闘でできた新しい擦過傷が目立つ。だが、反応はない。熱も、痛みも、金属が皮膚を這うようなうねりも感じない。
ダメだ。あれは“あの時”だけの力だった。
今の俺は、ただの一錬金術師。復讐の炎に焼かれた、疲れ果てた科学者にすぎない。心の奥で、失った力を取り戻したいという渇望が疼く。
「ユキヤさん……逃げますか?」
アルヴェンが尋ねる声に、俺はかすかに笑った。唇の端がわずかに上がり、苦笑いがこぼれた。
「逃げるさ。でも、その前に……最低限の礼儀ってもんがある」
懐に手を伸ばすと、軽いガラス瓶の感触が指先に伝わった。錬金……いや、“化学”で調合した即席の武器だ。選べる手札は少ない。それでも、選ぶべき手順はある。敵の数を減らし、混乱を引き起こす。それが生き残る唯一の道だ。
「ティナ、アルヴェン。俺が合図したら、目を閉じろ。できれば耳も」
「わかったよ、幸也さん」
「はい、ユキヤさん」
屋根の上のフードが、わずかに動いた。弓弦が引き絞られる音が微かに響き、その瞬間――影が、こちらに向かって跳ねた。黒いマントが風を切り、屋根から地面へと滑るように降り立った。着地と同時にナイフがきらりと光り、刃の表面に刻まれた魔術的な紋様が赤く輝いた。
早い。
俺はとっさに右手を突き出した。足元の路面――装飾用の金属柵に手を触れ、接触錬成を発動。魔術でも魔法でもない、これは物質の再編による俺の錬金術。柵の一部が反応し、絡みつくような金の鎖へと変形して襲撃者の足元を縛りつけた。鎖は金属の重みを帯び、地面に深く食い込む。
だが――遅かった。
襲撃者は踏み込む勢いのまま、ナイフを振り抜くことなくバックステップで後退し、拘束の直前で身を翻して距離を取った。フードの下から漏れる息遣いが荒々しく、だがその動きには迷いがなかった。
「ちっ……!」
直後、別方向からもう一人が跳びかかってきた。角度は死角で、鋭いナイフの軌道がティナとアルヴェンの位置を狙っていた。マントの裾が風を切り、足元の石畳に小さな火花が散る。
迷ってる暇はない。
俺は懐に手を突っ込み、小瓶を取り出した。ガラス瓶の中には、灰色の粉末と透明な液体が混ざり合い、微かに発光している。
「――目、閉じろ!」
叫ぶと同時に、瓶を足元に叩きつける。ガラスが砕ける小さな破裂音が響き、その刹那、視界を灼くような白光が爆ぜた。即席の閃光瓶。マグネシウム、甘晶、そして硝石の奇跡的な反応が、半径五メートルの“視界”を殺す一撃を放った。空気が熱を帯び、粉塵が一瞬で白い霧と化す。
襲撃者たちが呻き声を上げ、よろける。弓兵さえも射撃の構えを崩し、矢が無秩序に空を切り裂いた。フードの下から漏れる叫びが、静寂を切り裂いた。
「今だ、走れ!」
俺は二人の腕をそれぞれ掴み、強引に引き寄せる。視界が白く潰れるなか、足音を頼りに通りの角へ飛び出した。アルヴェンの袋が揺れ、パンが中からこぼれ落ちそうになるのをティナが慌てて押さえた。
「そっち、建物の隙間!」
ティナの声に導かれ、狭い通路を抜ける。雨どい。鉄のパイプが剥き出しになり、錆が赤黒く染まっている。錬金に使える金属は――ある。俺の指先が冷たい金属に触れ、微かな魔力の流れを感じた。
「ここだ……!」
俺はパイプに手を触れ、強引に構造をねじ曲げる。鉄が軋みながら変形し、階段。いや、足場が三段形成された。十分な助走があれば、屋根まで届くはずだ。金属の表面に残る錆が粉となり、風に舞った。
「二人とも、俺につかまれ!」
ティナがすぐに腕を回す。彼女の指が俺の肩に食い込み、力強い握力を感じた。アルヴェンも少し戸惑ったが、すぐに俺の背に寄り添い、細い腕が震えながらもしっかりと絡まった。
足元には、昨日「強化」魔術を施した旅靴。革の表面に刻まれたルーンが微かに光り、筋肉に力を与える効果を発揮する。
「跳ぶぞ……ッ!」
地面を蹴る。マントが風を裂き、屋根へと跳躍。空気が耳元で唸り、視界が一瞬で広がった。ちょうどそこにいた弓兵が、こちらに気づいた。フードの下から漏れる目が驚愕に揺れ、弓を再び引き絞る。
撃たれる前に、俺は右手でポーチの中の金属片を握り、錬成。掌の中で銀色の棒が形成され、腕の延長に生まれたそれをそのまま振るった。敵の肩に命中し、鈍い音が響く。弓兵は呻いてバランスを崩し、屋根の縁から落下。マントが風に翻り、遠くで地面に叩きつけられる音がした。
転がった弓が、アルヴェンの足元へと滑るように止まる。木製の弓身に刻まれた細かな彫刻が、陽光に反射して輝いた。
この街は、俺たちを歓迎していない。路地の隅には血の染みが残り、遠くで聞こえる叫びが戦いの余波を物語っていた。けれど、だからこそ――ここで折れるわけにはいかない。
屋根の上に降り立った瞬間、背後から風を裂く音がした。矢の飛来音だ。俺は反射的に振り返り、右手を振るい、落下中の弓兵が手放した金属製のナイフに指先をかすかに触れた。錬成が発動し、ナイフの形状がぐにゃりと変形。槍のように細長い金の杭となって空中に伸び、敵の太腿を貫いた。血が一滴、屋根に落ちて赤い花を咲かせた。
「うっ……!」
拘束。動きが止まった。敵の呻き声が風に掻き消され、フードがずれて顔の一部が露わになる。
次の敵がすかさず斬りかかってきた。短剣の刃が陽光を反射し、俺の首筋を狙う。俺はとっさに身を引く――が、代わりに何かが飛んだ。
ガチャン!
瓶が敵の顔に命中し、中の液体がぶちまけられた。とたんに敵はうめき声を上げてのけぞり、顔を覆った手から煙が立ち上った。
「ティナ――?」
「油。特製だよ」
次の瞬間、彼女は指を鳴らした。“パチッ”という乾いた音。火花が、手袋の表面で跳ね、油に引火する。炎が一気に広がり、敵を包んだ。
「ぎ、ぎゃあああああああああああああ!!」
火達磨の男が屋根の上を転げ回り、そのまま下の路地へと落下。遠くで衝撃音が響き、煙が立ち上った。
「……幸哉、見た? これ、結構イケてるでしょ?」
振り返って笑うティナに、俺は思わず口元を歪めた。よく見ると手袋の甲には「着火」の魔術式。彼女の指先にはまだ火花の残り香が漂い、得意げな笑顔が目に焼き付いた。
「えぐい攻撃するな……」
「褒め言葉と受け取っとくよ」
俺が笑うのと同時、視界の端に遠くの屋根の影が動いた。黒フードの男。矢を番え、弓を構え、こちらを狙っている。弦が引き絞られる音が空気を切り、矢の先端が冷たく光った。
間に合わない。反応が――
ビシュッ!
音がしたのは、そいつの動きの直後。男の腹に、別方向から放たれた矢が突き刺さっていた。血が噴き出し、弓を落とした男が屋根からずるりと崩れ落ちる。マントが風に翻り、遠くで重い音がした。
俺はすぐに矢の飛来方向を見る。そこにいたのは――アルヴェンだった。小柄な身体に、場違いなほどしっかりとした弓の構え。転がってきた弓を手に持ち、弦を引く指先が微かに震えていたが、次の矢を番えて離していない。彼女の瞳には、驚きと決意が混じり合っていた。
「……弓、使えるのかよ」
「……みたいですね、わたし……」
少し驚いたように、自分でもそう呟くアルヴェン。彼女の声は震えていたが、弓を握る手には力があった。
ティナが俺の肩を小突く。彼女の指が力強く俺の背中に触れ、信頼を込めた眼差しが交錯した。
「幸哉。三人、組めるよ。行ける」
ああ、分かってる。たった今、この瞬間から、俺たちは――三人一組の旅団になった。屋根の上で風が唸り、遠くの街並みが戦いの気配で揺れる中、背中を合わせるように立ち位置を整える。左にティナ。右にアルヴェン。次の波が来る前に、態勢は整った。俺の掌に残る金属の感触が、新たな戦いの始まりを予感させていた。




