錯視と微笑
朝の空は焼けつくように朱く染まり、雲が薄い血の筋のように広がっていた。
東の地平線では、太陽がまだ半分隠れたまま、冷たい光を放ち、街全体を薄暗いオレンジ色に包み込んでいた。街の空気は冷たく澄んでいて、夜の湿気を帯びた重さが残る一方で、どこか戦場の前触れのような緊迫感が漂っていた。遠くで聞こえる風の音には、昨夜の嵐が残したかすかな砂塵が混じり、鼻腔をくすぐる。
けれど、今この瞬間、目の前で喧しく並ぶ露店と行き交う商人たちは、そんな不穏な予感とは無縁の顔をしている。木製の台には色とりどりの果物や乾燥肉が山積みされ、鉄鍋から立ち上るスープの湯気は甘いスパイスの香りを運んでいた。
商人たちは革のエプロンを身にまとい、喉を嗄らして値切り交渉に励む。賑わいの中心では、馬車が軋みながら通り過ぎ、荷台からこぼれた穀物が地面に散らばっている。
「わあ……! 見てください、ユキヤさん! パン屋さんの棚が……!」
アルヴェンが小走りに駆け寄る先には、菓子パンの山がこんもり積まれていた。表面は焦げ目がついた黄金色で、シナモンや蜂蜜の甘い香りが漂い、朝の空気に溶け込んでいた。その頬には、昨日まで見せなかったような柔らかさが浮かび、疲れ切った瞳に一瞬の輝きが戻っていた。彼女の薄汚れたローブが、走るたびに砂埃を巻き上げていた。
「ユキヤさん。これ、買ってもいいですか?」
そう言って俺の袖を引く彼女の瞳は、昨日までの恐怖を上書きするような希望に満ちていた。指先で摘んだパンは、表面にナッツが散らされ、柔らかな生地からほのかなバターの香りが漂う。彼女の小さな手が、まるでそのパンを宝物のように、握り潰さないよう気を使っていた。
「ああ、好きなの選べ。だが保存は効かないから、食べられる量だけだぞ」
「はいっ!」
小さく跳ねるように頷き、パン屋の老婆と話し始めるアルヴェンの後ろ姿を、俺は不思議な感情で見つめていた。老婆は皺だらけの手に木の盆を持ち、笑顔で値引きを提案している。アルヴェンの声には、どこか子供のような無邪気さが混じっていて、俺の胸に奇妙な温かさが広がった。
その隣で、ティナが妙な笑みを浮かべてこっちを見ている。彼女の赤みがかった髪が朝日を反射し、緑の瞳がいたずらっぽく細められている。何か言いたげな顔をしているくせに、こちらから問いかけるのを待っている。実にいい性格をしている――と、内心で舌打ちしながら思う。
「……なに笑ってる」
「ううん。別に? ただ、ね」
「ただ?」
「……いいお兄ちゃんしてるなって思って」
歯がゆい言葉を浴びせてくるティナ。俺は顔をそむけ、パンを紙袋に丁寧に詰めているアルヴェンを見据えた。袋の端からはシナモンロールの端がはみ出し、甘い香りがさらに強くなっていた。
「そういうんじゃない。旅は道連れってやつだ」
「ふぅん? でも、昨日は“面倒を見る義理はない”って言ってたよね?」
「……それは……」
言葉を詰まらせた俺に、ティナは「冗談だよ」と小さく笑った。その目は、からかうようでいて、どこか安心しているようでもあった。彼女の肩にかけられた小さなナイフの鞘が、陽光に反射してキラリと光った。
「でもね、私はうれしいんだ。幸哉さんはやっぱり幸哉さんだった」
「どういうことだよそれ」
「そのまんまだよ。冷たいようで、実は優しい人。昨日の夜、何があったかは聞かないけど、きっとユキヤさんの優しさに気付いたんだね」
「ふぅん」
優しいと言ってくれて、嬉しくない人はいない。俺もその一人だが、反面、複雑な気持ちが胸をよぎる。この俺に、そんなことを言ってもらう資格があるのだろうかと、つい考えてしまう。
アルヴェンが袋を抱えて戻ってくる。目が合うと、彼女は小さく微笑んだ。
俺は自然とその頭に手を置いている。癖になってきたなと思いながら、彼女の髪に触れる指先に、昨日までの恐怖が残るかすかな震えを感じた。
「じゃ、防具屋に行く? そろそろ、アルヴェンちゃんの服も限界だし」
ティナの言葉に、アルヴェンがこちらを見る。彼女のローブは裾が裂け、泥と血で汚れていた。きっと昨日俺と話したことを気にしているんだろう。俺は静かに頷きながらアルヴェンに言う。
「わかってるさ。アルヴェンが気に入るやつを探すさ。ちょっと高くても、長く使えるのを選ぼう」
俺はそう言って、ふたりを連れて路地を抜ける。陽が高くなり始めた街のなか、空気にうっすらと火薬の匂いが混じっているように感じたのは、気のせいだっただろうか。
しばらく歩くと、防具屋の看板が見えた。古びた木製の看板には、剣と盾が交差した紋章が刻まれ、風雨で色あせている。
防具屋の扉は重たかった。木製のはずなのに、開けるたび金属が軋むような音がし、錆びた蝶番が悲鳴を上げていた。中に入ると、革の焼けた匂いとオイルの刺激的な香りが鼻をつき、壁には剣や槍が吊るされていた。棚には金属製の胸当てや、魔術的な輝きを放つ布地が整然と並んでいる。
「へぇ、わりと品揃えいいね」
ティナが腕を組みながら見渡す。彼女の指が、棚に置かれた短剣の刃を軽くなぞり、鋭い音を立てた。壁には剣や槍が吊るされていたが、俺の目はもっと奥の、布地や魔術素材が並ぶ棚に向いていた。そこには、濃緑のマントや、星屑のように輝く糸で織られたローブが置かれていた。
「アルヴェン。お前にもマントを一着。目立ちすぎないように加工する」
「え……わたしにですか?」
俺が頷くと、アルヴェンは一瞬だけ目を見開いた。彼女の瞳には驚きと戸惑いが混じり、頬がわずかに赤らんでいた。
「そんな……贅沢ではありませんか?」
「旅装だ。贅沢じゃない。むしろ、足りてない」
そう言って、濃緑と薄灰のマントを一枚ずつ手に取った。質は悪くない。布地は厚手で、表面に微細な魔力の紋様が刻まれている。これなら転写魔術にも耐えられるだろう。
俺は一早く店員に銀貨を払うと、2枚の半透明の転写紙を取り出した。紙には複雑なルーンが刻まれ、魔力を通すと微かに発光する。
「隠蔽の魔術式。おおざっぱだが、無いよりはマシだろう」
これは他人から自分の見える姿を変える魔術だ。「隠蔽」という便利な魔術は存在しないが、俺が施したのは「屈折」と「錯視」の魔術を織り交ぜたオリジナル。光の反射を屈折させ、顔を少し膨らませたり、補正したり、どこかで見た他人の顔に錯視させる。凄そうに聞こえるが、意識すれば判別可能で、鑑定魔術には太刀打ちできない。所詮、子供だましだ。
しかし、街中で買い物する分には十分役立つ。人間は他人にあまり興味がないものだ。
俺はカウンターで道具を借り、二枚のマントにそれぞれ転写を施す。術式が染みる瞬間、布地がきらりと光り、微かな魔力の波動が空気を震わせた。
「ありがとうございます、ユキヤさん……」
アルヴェンがマントを抱えたまま、小さく頭を下げる。彼女の声には感謝と恥じらいが混じり、指先が布をぎゅっと握り潰していた。
「礼はいいさ。使えなきゃ意味がないからな」
そのとき、ティナが店の奥の衣装棚から何かを見つけてこちらに持ってきた。彼女の手には、自然素材で編まれた奇妙な服が握られていた。
「ねえ幸哉さん、こっちはどう?」
それは防具と呼べるかも分からない服だった。胸元を包むのは、軽く折り重ねた葉繊維のような布地。柔らかく、通気性に優れながらも、最小限の部位だけを守る形状。腰巻きは同じ素材で、二重に巻いてあり、動きを妨げない。足元には、足裏を露出したまま甲だけを覆う「フットストラップ」が組み合わさっていた。表面には微細な魔術紋様が施され、触れるとわずかに温かさを感じた。
「これは……エルフ族の装束ですか?」
「ううん。品名には“影士用のガンビスン”だって」
ガンビスン。確か、鎧の下に着る服で、衝撃を和らげる役割がある装備だ。シーフ用だけあって、肌面積が広く、動きやすさが優先されている。なるほど、これならアルヴェンも気に入りそうだ。布地の端には、魔獣の皮で補強された部分が縫い付けられていた。
「試してみる? 奥に更衣室あるから」
アルヴェンは少しだけ迷ったが、うなずいて衣装を抱え、更衣室の奥へと消えていった。木製の扉が軋む音が響き、彼女の足音が遠ざかる。背中を見送りながら、俺はレジの前で小さく息を吐いた。疲れと安堵が混じった吐息が、革の匂いと混ざり合った。
「良さそうなのがあってよかったね」
「ああ。ぼろ切れの姿だと奴隷を雇っているみたいで落ち着かなかった」
そんな話をしていると、試着を終えたアルヴェンが更衣室から出てくる。彼女は照れくさそうに「どうですか?」と聞いてくる。新しいガンビスンは彼女の細い体にフィットし、緑の布地が肌に馴染んでいた。俺がまじまじと見つめていたら、横にいたティナが肘で小突いてきた。慌てて取り繕う。
「ああ、いいと思うぞ! 似合ってる!」
「ありがとうございます!」
アルヴェンは嬉しそうにその場でくるりと回った。布が風を切り、微かな魔力の残響が空気を震わせた。
「世話が焼けるお兄ちゃんだこと」
ティナのその言葉を聞いて、俺はどう返していいかわからず、ただ黙って釣り銭の銀貨を握りしめた。掌に残る金属の冷たさが、昨夜の戦いの記憶を呼び起こしていた。




