表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

私の行いを、あなたが見ている

作者: 加上汐

「はじめまして。ミュリアです。……どうぞ、よろしくね」

 そう名乗った奥様は、儚いを通り越して不健康的なほど痩せ細った、十七の少女だった。


 私は伯爵家の当主が愛人に生ませた子どもだ。愛人といっても、お手つきになってしまった侍女の子で、一応母も貴族なので貴族として扱われた。

 私は政略結婚の駒として育てられたが、ついぞ使われることのないまま二十歳を越えてしまった。特別美しいわけでもなし、こうなってはどこにも嫁ぎようがないだろうと働きに出たのがこの侯爵家だった。

 侯爵様が奥様を迎えられるために新しい侍女を募集していたのが良かったのか悪かったのか。伯爵家の嫡男には仕事上のライバルなので弱味を握ってこいと言われ、伯爵夫人には母と同じように籠絡でもしたらと馬鹿にされたが、誰しもあなたの夫のように下半身制御不可能ではないですよとは言い返さなかった。


 さて、私は雇われ、奥様付きの侍女になった。

 この職は、普通に考えれば大人気のはずが、誰もなりたがらなかったらしい。どうやら奥様はとても評判の悪いご令嬢のようだ。新人の私に御愁傷様なんて言う人もいて、何だかなと思う。

 私は伯爵家でも侍女の真似事をさせられていたから――なので外に働きに出られるのは給料がもらえると言う点でとても嬉しかった――使用人がどう振る舞うかという心得もある。その点、この侯爵家の人たちは、来る前から奥様を蔑んでいた点で失格だ。家で二番目に尊重される女主人であるにもかかわらず。

 とはいえ理由はすぐにわかった。侯爵様自身が、奥様を歓迎していなかったのだ。

 結婚式を終え、侯爵様に連れられた奥様は使用人たちの目の前で「あなたは余計なことをしなくて良い」と言われていて、流石に同情した。


 奥様は若く、そして不健康なほど痩せ細っていたから、初夜がなかったのはむしろ良いことなのかもしれない。でも、侯爵様に無下にされた奥様のことを使用人たちは蔑むばかりだった。

「あなたにこんな部屋はもったいない」

 そう言われて、埃っぽい屋敷の隅の客間に追いやられた。

「あなたに食べさせる料理なんてない」

 そう言われて、人の食べるような食事すら出されなかった。

「あなたに使う金なんてない」

 そう言われて、ドレスも何も買ってもらえず、奥様は屋敷の奥に閉じ込められたままだった。手持ちのドレスも古びてつぎはぎすらあるもので、実家でどんな扱いを受けていたか想像がついた。


 私は侍女頭や執事に流石に虐待で、業務放棄であると訴えたが、何せ彼らが率先して行なっているのだ。ちなみに侯爵様はもはや顔すら見かけず、直訴なんてしょうがなかった。

 私は奥様がどこに居室を構えていても精一杯お世話をしたけれど、私にすら嫌がらせをする人がいる始末だった。

 食べ物をどうにかされると困るので、キッチンメイドと仲良くなり、賄いは自分で鍋からよそった。多めに取り分けたそれを奥様と分け合うのはどうかと思ったけど、ただでさえ細い奥様を飢えさせるわけにはいかない。

 最低限の石鹸や香油、いつでも食べられるような非常食は自腹で買っておいた。私以外に奥様付きの侍女はいなかったので、一日休みはなかなか取れず、半日で急いで街に出かけることもあった。


「リリィはどうして私によくしてくれるの?」

 奥様はぼんやりとした人だったけど、世話をしているうちに私に話しかけてくるようになった。私は瞬いて、微笑む。

「仕事だからです」

「でも……他の人は仕事をしていないということになるわ」

「それがおかしいんですよ。奥様は侯爵夫人であらせられます。使用人なんぞに無下に扱われる存在ではないんです」

 伯爵夫人があれだけ偉そうなのだから、それよりも地位の高い侯爵夫人はもっと偉ぶってもいいはずなのに。権力の伴わない地位だと、みんな勝手に思っている。そんな恐ろしいことできるものか。

「私は、自分のやるべきことをやります。そうしたら……」

「そうしたら?」

 私は口篭った。ここまで言うつもりはなかったから。でも、奥様は興味津々と言った顔で見つめてくる。

「……善き行いは、誰かが見ていてくれる、と母は言っていました」

 本当はそんなこと信じていない。

 母は、そう思い込みたくて、私にいつも言っていた。私もそう思い込みたいと思っている。でも、たぶん本当じゃない。本当なら、目の前の奥様がこんな目に遭っているのはおかしいし。

「そうね。……そうなら、いいわよね」

 奥様は遠い目をしていた。この言葉に縋りたい時が、この人にもあったのかもしれない。


 そうして半年ほど、私は奥様付きの侍女を続けた。

 しかしある日、突然現れた侯爵様が私を捕縛した。周りの使用人たちもみな逃げないように縛られた。

「侯爵夫人にこんなことをして許されると思うな!」

 侯爵様はそう吠えた。

 いやお前が言うなよ。と思っていた私だったが、なぜか私も奥様を虐待していた側と見做されたらしい。

「私は職務を全うしていました!奥様にお聞きください!」

 そう訴えても、侯爵様が連れて来た騎士たちは話など聞かなかった。

「お前たちはみな同罪だ。侯爵夫人を傷つけた罪を贖え!」

 鞭が振り下ろされる。

 痛い。肌が燃えるようで、肉が断たれたのかと思った。でもまだ楽になれない。一度や二度では済まない。

 なんで。私はやっていないのに。私は、わたしは、与えられた仕事をしていたのに。

 誰か。誰か。言ってよ!私は悪くないって言ってよ!私に罪なんかないって、見てたでしょう!見てたくせに!奥様!私を助けてよ!私は、私は――。


 ――善き行いは、黙っていても誰かが掬い上げてくれるの?本当に?


 痛みに気絶して、また鞭打たれて目が覚めて、ようやく解放された私はボロボロだった。ボロボロのまま屋敷から放り出される。ふざけるな、と思った。

「はあ、はあ……、はあ」

 鞭打たれた痕が痛くて熱を持っている。このままでは死ぬ、でもタダで死ぬものか。いや、死んでなんてやるものか。

 幸い、私はいつも服の下にそれなりの金銭を持ち歩いていた。屋敷の部屋に置いていたら無事かどうかわからないせいだけど、今はその治安の悪さに感謝してやっても良い。

 とにかく、この街を出ないといけない。その前に最低限の治療をしたいところだけど、医者はだめだ、高すぎるし、侯爵の手の者に見つかるかもしれない。下町の薬屋に向かうと、店番をしていた娘さんが真っ青な顔をしていた。

「ひどい怪我!奥に来て、薬を塗りますから」

 朦朧とした意識の中で頷いた記憶だけ最後に残っている。


 私は二晩ほど眠っていたらしい。看病してくれた薬屋の娘さんは、私が目を覚ますとホッとした顔をしていた。

「あまり無理はしない方がいいですけど、街から出られるんですよね」

「どうして……」

「ええと、領主様のお屋敷に勤めていた方ですよね?そうしたら、あの、街にいるのはまずいのかなって」

 あの騒動は街でも知られているのかもしれない。私はぼんやりと薬屋の娘さんを見つめた。

「私が罪人だとは、思わないの」

「……わからないです。でも助けた人に、これ以上つらい目にあってほしくないから」

 ちょっと笑った。お人よしすぎる。

 私の行いを見ていない人が私を助けるなんて、皮肉にも程がある。

「ありがとう。あなたの行いは、きっといつかあなたに返ってくるわ」


 薬屋の娘さんの協力もあって、私は無事に街を出た。そこから向かうは実家の伯爵家だ。

 屋敷には顔見知りもたくさんいるので、中に入るのは難しくなかった。目当ての人に会うのも。

「リリィ、まさか帰ってくるとは」

 伯爵家の嫡男、つまり私の兄が、呆れたように私を見下ろしてくる。私は余裕があるように微笑んだ。

「仰ったではありませんが、侯爵様の弱味を握れと」

「……まさか、本当に?」

「嘘は申しません。お兄様、私を信じてくだされば、あなたの望む結果になりますよ」

 私は許さない。

 ――あの侯爵のことを、許すつもりはこれっぽっちもなかった。


 お兄様が調べてくれた結果、奥様が私を探しているということはわかった。そして侯爵は今は随分奥様に構っているようだ。奥様を虐げていたと思われる使用人たちを全解雇して新しく人を雇っていたので、付け入る隙があって助かった。

「しかしリリィ、これだけでは証拠不十分ではないか?」

「そうでしょうか?あの騒動は街でも知れ渡っていましたし、私と奥様という証人がいるのです。あの侯爵の行いを詳らかにすれば、必ず勝てます。あと正義感の強すぎる偉い人を呼んでおいてください」

「うーむ……、まあ、あいつの評判を下げることができるのは確かだしな」

 お兄様の自分が上に行くために相手を蹴落とす姿勢、本当にどうかと思うけど、今回は活用させてもらう。別にこの人は私への仕打ちも私のこともどうとも思っていないので、私の評判は気にしないで可能な限り侯爵にダメージを与えに行くだろう。


 私の素性はもちろん侯爵家も知っているので、私の捜索に関して連絡が入っていた。その呼び出しを受けて、私はお兄様と一緒に侯爵家へ向かった。

「リリィ!無事でよかった……!」

 奥様はまだ細いけど、綺麗なドレスを身に纏い、流行のヘアスタイルで侯爵夫人然とした姿になっていた。私を見て涙を流さんばかりに目を潤ませ、手を取られる。

「その、すまなかった」

 侯爵は謝ってくるけど、何に対しての謝罪かしら?私はお兄様と、その隣にいる人物を振り返った。

「私は告発します!」

 いきなり大声を出したので、奥様がビクッと震える。背中の傷がチリチリと疼いた。

「そこな侯爵は、己の迎えた奥方を使用人たちの面前で『余計なことはしなくていい』と言い放ったばかりか、使用人たちの奥様への虐待も黙認しておりました!」

「なっ!それは、黙認でなく……!」

「侯爵家の屋敷で起きたことの責任が、侯爵本人以外の誰にありましょう!その上、発覚した際には使用人に聞き取りもせず、無実の者を鞭打ち路上に放り出す始末!このような真実を見極める力も理性のかけらもない者に侯爵の位が相応しいでしょうか!」

 怒鳴るように吐き捨てた私は、顔を赤くしてお兄様の隣の人を見つめる。その人は――お兄様と侯爵の上司である公子様は、眉根を寄せて頷いた。

「確かに、資質を疑わざるをえないな」

「公子様!この者の言うことを真に受けるのですか?!」

「真に受けるも何も、事実ではないか。なあ、夫人よ」

 奥様は視線を向けられてまたびくっと肩を跳ねさせた。

「侯爵はそなたに『余計なことはしなくていい』と言ったのか?」

「は、はい」

「使用人たちはそのせいでそなたを虐待したと思うかな?」

「それは、その、……はい」

「侯爵は事態が発覚した際、そなたに聞き取りをしたか?」

「い、いいえ。私は、その、リリィのことも言ったのですが、取り合ってもらえず……!」

「ミュリア!」

 思い出したように泣き始めてしまった奥様は、それでもキッと侯爵を睨んだ。

「本当ではありませんか!全て任せよと言って!リリィに鞭打つなど、そんな、ひどいことを……!」

 ポロポロと涙を流されても今更私は何も思わない。泣かれてもあの時の私が助かるわけでもないので。

 でも奥様が泣いていると居心地悪いので、背中をさすって差し上げた。

「夫人も認めている。他の使用人にも聞き取りを行おう。無事に生きている者にな。追って沙汰を言い渡す、謹慎せよ」

 公子様の言葉に、侯爵は「……っ、はい」と唸るように言った。どうやら自分の行いを反省しているようではない。私が告発さえしなければと思っているのが見え見えだ。


 そして、それは奥様もだった。

「侯爵様が、侯爵でなくなったら、わたくし……」

 侯爵夫人に相応しい装い。侯爵夫人としての格のある暮らし。そして侯爵という権力者から注がれる愛は、なくなってしまう。その通りだ。

 あの環境から救い出されて、奥様はずいぶん大切にされていたらしい。侯爵に情もわいているのだろう。

「奥様、奥様は勘違いしておいでです。あのような目に遭ったのは全てあの男のせいです。自分で地獄に叩き落としておいて、気まぐれに救って隣に置くなど、腹が立ちませんか?」

「……それは」

「あんな傲慢な男の行いを忘れて、あの男の隣で幸せになれるのですか?死んだかもしれない侍女のことは、忘れておしまいになられますか?」

 そうすれば楽だろうけれど。

 別にどうしても構やしない。このままなら侯爵にろくな未来はないし。奥様も離縁されるんじゃない?多分ね。

 奥様はぐずぐずと泣いたまま、新しい侍女に連れられて部屋に戻ったようだった。新しい侍女は私を睨んだけど、泣かせたのはあの侯爵だ。私のせいにしないでほしい。


 私は公子様から良い治癒者を紹介してもらい、背中の鞭打ち傷はそれなりに癒えた。普通に動いても問題ないくらいには。

 しばらくは伯爵家で療養していても許された。侯爵は無事に引きずり下ろされて、お兄様はポジション争いに勝利したから。お兄様が優秀かどうかはわからないけど、まあ、あの何も見えていない侯爵よりはいいかと思う。



 伯爵家の墓に、母は入っていない。屋敷から離れた小さな教会にお墓があった。久々に向かったそこは、きちんと手入れされていた。

「……」

 次に来られるのはいつだろう。しばらく、がどれくらいかはわからず、私はそのうちまた働きに出ることになるだろう。今回の件で慰謝料がもらえると公子様は仰っていたけど、お兄様に取られる気もするし。働ける体に戻してもらえただけマシかな。


 花を手向けて、目を閉じる。


 母は、いつも信じていた。信じることでしか正気を保てなかったのだと思う。

 悪いことはしていない。伯爵に襲われたのも、誘ったのではない。真面目に侍女の仕事に取り組んでいただけだと、見ている人がいるからきっと大丈夫だと、信じていた。

 善き行いをすれば救われる。――でも結局、救われる前に母は死んだ。夫人にいじめられ、伯爵には捨て置かれ、幼い私を抱きしめて死んだ。

 母は運が悪かったのだ。あの薬屋の娘さんのように、手を差し伸べる人がいなかった。あの人は私の行いを見ている人ではなかったから、本当に運だろう。それだけが私と違う。

 けれど、はたして、死ななかった私は救われたのだろうか?だってあの出来事は消えないのに。傷が薄くなっても、男の人が怖いと思う傷は刻まれたままだ。相手が罰されたら全て良かったなんて、それで救われるなんて、そんな簡単な話だろうか?


「リリィ!」

 名前を呼ばれて顔を上げた。

 振り向くと、そこには見覚えのある姿があった。

「お、奥様……?」

「もう奥様じゃないわ!ミュリアって呼んで、リリィ」

 奥様は――ミュリア様は、もう侯爵夫人の装いではなかった。可愛らしい街歩き用のドレスだけど、裕福なお嬢さんといった趣だ。

「こ、こんなところに一人で来られて、どうなさったのですか?!」

「あなたのお兄様がここにいると教えてくださったの」

「お兄様……」

 何やってるんだあの人は。元侯爵夫人が訪れたならもてなして待たせるくらいすればいいのに。気が利かなさすぎる。

 まあいいか。ため息をついて、私はミュリア様に向き直った。

「それで、奥様ではないということは……」

「ええ、離縁したの。慰謝料もいっぱいいただいたわ」

「よかったのですか?」

 元侯爵になっても、あの男ならそれなりに財産があって裕福に暮らせそうだけど。私の問いに、ミュリア様は首を横に振って微笑んだ。

「だって、私の行いは、あなたが見ているのだもの!」

「……は、」

「そう思わないといけないの。リリィにとっては仕事だったのだろうけれど、私は……嬉しかったから!あの侯爵様に優しくされるよりも、新しい侍女にお世話されるよりも、ずっと、ずっと、救われたから!」

 子供のように声を上げて、ミュリア様はポロポロと涙をこぼした。ど、どうしよう。泣かせたの?私のせい?

「お、奥様」

 ついそう呼んでしまうと、ミュリア様はまた「奥様じゃないわ」と首を横に振った。

「もう、ただのミュリアよ。でも、またリリィに私の侍女になってほしいの。侯爵夫人じゃないけど、私……。リリィに、そばにいてほしい」

 手を取られて指を絡められる。ミュリア様は相変わらず細い。

 どうしてこんなに細いのか、私にはわかった。子供のときに十分に食べられないと、こうなってしまう。――私もそうだ。

「慰謝料にね、お家があったの。小さいけど立派なお家よ。二人で住みましょうよ」

「……ミュリア様は、まだお若いですよ。結婚をなさらないんですか?」

「もう家の結婚のために使われるなんて、嫌だもの!一人で好きにするの。そのためのお金ですもの!」

 わかりすぎて、私は笑った。本当にそう。私の慰謝料はお兄様に手切れ金としてくれてやろう。プラマイプラスで、せいぜい私の価値を知ればいい。


 ミュリア様は救われたのだろうか?

 わからない。でも、私を求めてくれるならそれでいいと思った。あのクズ男からぶんどった慰謝料で二人楽しく暮らしていけるなら。

 死なない限り、どうあっても人生は続くからね。最期に生まれてよかったと思うまで生きてやろう。


 私はミュリア様の手を取って、母の墓前から歩き出した。

リアクション(絵文字)はご遠慮いただけますと幸いです。機能でオフにできないため、すみません。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ