⑩ー7 うごめく悪意 その7
ひどく嫌な予感がする。何が起きているか半分確信しながらも、我が目で見るまでは認められない。認めたくない。
走って里の中央まで行くと、そこには阿鼻叫喚としか言えない景色が広がっていた。
力なく跳ねるイルカに、しなびたナマコ、弱々しく歩くカニ……陸に打ち上げられた海の仲間たちが、死にかけの体で転がっていた。
里で会ったあらゆる人魔がすべて「先祖返り」のような状態になっている。人の姿を残している者はなく、会話以前の問題だ。
「なんだよこれ……何なんだよ!」
「落ち着けアンゴ! とにかく手伝ってくれ!」
さすがティンテは冷静で、弱っている生き物たちを運んでいた。状況を飲み込んだうえで最適に近い行動を取れる、これこそ女王の器なのだろう。
俺も呆けている場合じゃない。運べるサイズの奴だけでも海へ帰してやらないと。陸じゃ息もできず死んでしまう。
手始めにイワシのような元人魔の魚を抱えると、彼女は力なく口をパクパクと動かした。魚だからか体力が底をついているからかわからないが、俺と目を合わせる気配すらない。
このイワシは少し前まで俺を崇めて奇声を上げていたはずだが、その姿が懐かしくなるくらい痛々しい様子だった。
「クソッ……死ぬんじゃねえぞ……!」
おそらく里長であったウミガメを浜まで運んだティンテは、ようやく一息ついて座り込んだ。
エーゲルやシャルフも慣れない肉体労働に肩で息をしていた。俺はといえば、手に染み込んだ磯の香りがやけに気になってきていたところだった。
「これって……やっぱ『アレ』だよなあ」
「考えたくはないけど、そうだろうね」
ヘトヘトでしばらくは議論もできそうにないが、みなの見解は一致しているだろう。
原因や手法はわからないが、とにかく「ゼンゼマンのせいで人魔がみな魚類の姿に戻ってしまった」という推測はほぼ確信に近いものだった。
人戻会め……また厄介なことをしてくれたものだ。
「ティンテたちは何とも無いのか!?」
「今のところはね。エーゲルやシャルフはどうだい?」
「うーん……身体は何ともないかな」
「同じくです。不幸中の幸い、と言っては不謹慎ですが」
「そうか……」
ひとまず安心はしたが、到底油断はできない。
さっきまでの宴会で飲み食いしたものの中に薬が仕込まれていたらアウトだ。
それに、今回無事だったとしてどこでまた人戻会に狙われるかわからない。
「原因はやっぱり薬なんだろうな、『狂躁』と同じく」
「おそらくは『狂躁』を起こす薬を発展させたものだろうね。いや……むしろこの『獣に戻す効果』こそが奴らの最終目標だったのかも」
「どういうこと?」
「わたくしたちは『狂躁』を起こす薬を『人魔を発狂させる薬』だと認識していましたが、それは不正確な理解だったのでしょう。より正確に言えば、『人魔を野生の獣に戻す薬』だったのでしょうね」
「『狂躁』の薬は試験段階でしかなかったってわけか……」
俺たちの話を聞いて、エーゲルは自分の手をぐっぱと握ってみたり、足首をグルグルと回してみたり、どうにもソワソワしている。
気持ちはよくわかる。つい先刻まで一緒に物を食べていた水棲族が軒並み「先祖返り」してしまっているのだ。
肉体的には普通の人間の俺はともかく、人魔であるエーゲルたちは気が気じゃないだろう。
「あの……」
聞きなれない声が背後から投げつけられ、思わず身体が強ばる。ティンテやシャルフも臨戦態勢だ。
「あの、ごめんなさい……邪神様たち、みんなは……」
姿を見せたのは小柄な人魚だった。まだ子どもだろうか。しかもよく見ると目の焦点が合っておらず、顔も赤く上気している。風邪でもひいているのだろうか。
「見ての通りひどい有り様さ。キミも事態は把握してるね」
「はい……まだ現実感はないですが……」
「ところで聞きたいんだが、なぜキミは無事なんだ? 心当たりはあるかい?」
「わかりません……ただ、みんな湖に水浴びに行った後、おかしくなっちゃって……」
なるほど……今回の薬は経口投与ではなく、全身に浴びると効果が出るタイプなのか。
ゼンゼマンの野郎が湖に薬を撒きやがったせいでそれを浴びた水棲族のみんなは「先祖返り」してしまったわけか。
しかし都合上「先祖返り」と呼称しているが、人魔の先祖って何なんだろう。もし人間が先祖であればこの呼称も変になるのか……
それと、どうでもいいことかもしれないが、人魔には海水性と淡水性の違いはないんだろうか。
まあ人間なら海水だろうが湖の水だろうが平気で浴びるから、それに近い性質を有しているってことなのかもな。
「原因は推測できたけど……何とも恐ろしいね」
「ええ……人戻会に水を浴びせられたらわたくしたちも無事では済まないでしょう」
「人戻会と会ったらすぐ逃げなきゃだね」
エーゲルの言葉を最後にみな黙り込んでしまった。色々思うところはあるのだろう。
獣に戻ることが必ずしも不幸とは言いきれないのだが、慣れ親しんだ身体を手放すのは相当不便だろう。
今回みたいに棲息に適さない場所で「先祖返り」してしまったら命の危機にも繋がるわけだし……
「水を浴びせられたらアウト」というのもなかなかに辛い条件だ。これまで以上に不意打ちを警戒しないといけない。その事実から、否応なく重苦しい沈黙が場を支配する。
その沈黙を破るように、咳き込む声が聞こえてきた。そういえば人魚の子、風邪なんだよな……
「ケホッ、ケホッ……」
「おい大丈夫か? まだ寝てないと……」
「でも、みんなが……」
「それは俺たちに任せといて、まず身体を休めとけよ。シャルフ、手伝ってくれ」
「ええ。ちょうど発熱に効く漢方がありますの」
人魚の子をみんなで運ぼうとしたその瞬間。視界の端に妙な影が写った。まだ水棲族で難を逃れた者がいるのだろうか? いや、あれは……
「出たな人戻会……!」
あの巨大なシルエットと6本の腕には見覚えがある。かつてティンテと渡り合った人戻会の化け物だ。
「生キノコリ、見ツケタ……!」
「みんな! 人魚の子を連れて逃げろ! コイツは私がやる!」
「すまん、ティンテ……!」
他にも人戻会の敵が潜んでいるかもしれないのだ。人魚の子の護衛は多い方がいい。ここはティンテに任せて逃げるのが正解だろう。
「マタ会ッタナ、タコ。オ前、殺ス」
「やれるものならね」
ティンテの触手と敵の多腕が組み合うのを横目に俺たちは走り続け、やや離れた民家へ飛び込んだ。




