第二十話 世界一の、バカ。
「……」
「……」
玄関先で二人きりの俺と葵ちゃん。何してるって? 葵ちゃんを見送る為だよ。え? なんで二人きりかって?
「……」
「……」
ち、沈黙が重い! いや、さっきまで桐生も居たんだよ? 居たんだけど、『お土産買ってくるの忘れてた! ちょっと待ってて!』って、俺と葵ちゃんを残して、駅前に飛んでいっちゃったわけですよ! つうかな、桐生! あんだけ自分を罵倒していた人間の相手を一人でこなせって、それは余りにも御無体じゃないかと、声を大にして――
「……東九条浩之」
「は、はひい!」
不意にかけられた声に、思わず声が裏返る。そんな俺に一瞬訝しげな表情を浮かべるも、葵ちゃんはこちらに向き直り。
「……色々……お世話になりました」
そう言って、深々と腰を折って頭を下げた。
……。
………。
…………えーーーー!
「お前、何者だ!」
「……何者、とは?」
「俺の知ってる葵ちゃんは、そんな簡単に俺に頭を下げて、尚且つ『お世話になりました』なんて殊勝な事を言う奴じゃ無い!」
「……所謂社交界の常識は一般社会の非常識と聞いていましたが……『名家』では、人の心からの謝意に対して『お前は偽者だ!』と断言するのが礼儀なのでしょうか? なるほど、流石『名家』。成り上がり者の私の想像の及ばない、非常に稀有で独特な文化をお持ちなのですね。礼儀の失し方が常軌を逸していますね」
「……訂正する。間違いなく葵ちゃんだ」
「……この言葉で本物と認定されるのもどうかと思いますが……貴方が私をどういった眼で見ていたか、一度問いただしたくなりました」
「……自分の言動を一度、見つめ直してからその台詞を言ってくれるかな?」
俺の言葉に、ふんと鼻を鳴らし。
「……感謝してるのは、本当です」
「……」
どれが、とも。
何が、とも。
「……だから……素直に受け取っておいて下さい」
「……ああ」
そんな事は言わなくても……大体、わかるから。
それっきり、葵ちゃん俺から視線を逸らして黙り。
つられる様に俺も、葵ちゃんから視線を逸らす。
「……戯れに問います、東九条浩之」
どれぐらい、そうしてそっぽを向いていただろうか?
不意に、葵ちゃんが口を開いた。
「同じ家柄に生まれ、同じ様な経済状況。片方は『努力を怠る経営者』で、片方は『努力を重ねる経営者』……戦えば、どちらが勝つと思いますか?」
それは……昨日と同じ問い。一度答え……そして、『否』と言われた、問題。
「……努力を重ねる経営者が……勝つさ」
少しだけ、眉根を寄せて。
「……その、心は?」
「俺は……努力を否定しないから。桐生だって、最初からなんでも出来た訳じゃない。つうかあいつ、結構どんくさい方らしいぞ? 幼稚園のかけっこでビリだったから、朝六時に起きて必死で走ったらしいし」
「……初耳です」
「あいつ結構エエ恰好しいだからな。まあ、だから……諦めない。天才達が……努力をする天才達が、どんなに凄くても」
どれだけ、情けなくても。
どれだけ、格好悪くても。
どれだけ、みっともなくても。
……壁に阻まれ、泣きたくなっても。
「足りない頭を……頭で足りないんなら、腕でも、足でも、体全体を使ってでも」
必ず。
その、高い壁を越えて。
今より、もっと……高い、高い、遥かな高みへ。
「いつか……桐生と同じ舞台に立つさ」
肩を並べて、誇れる様に。
そう言って胸を張って見せる俺に、ふん、と、つまらなそうに葵ちゃんが鼻を鳴らす。
「……小賢しいですね。どんなに努力を重ねた所でも、『天才』に、凡才が肩を並べるなど、有り得ません。頑張れば何とかなる、など……白昼夢と代わりありません」
「まあ、楽観的に『追いつくぜ~』とか考えたら駄目だろうけどさ」
だからと言って……『今』、努力をしなくて良い理由には……ならないだろう?
「……呆れたバカですね」
「悪かったな」
「それともなんですか? 貴方は、不可能に挑戦し、叩きつぶされる事に快感を覚える様な性癖の持ち主なのですか?」
「違うよ!」
どんだけドMだ、俺は!
「……本当に、バカですね」
「ああ。バカだよ」
桐生や葵ちゃんの様に、頭が良くないから。
眼の前にある壁の高さが、本当に自分で超えられないかどうか、目算だけでは分からないから。
「だから……俺は『諦め』ない」
俺は……バカだから。
近くに寄って、その壁の高さを確かめて。
それが、超えるのは到底『無理』かも知れないと思っても。
『今日』無理でも、『明日』の俺には超えれると……何の根拠も無く、信じる程に。
唯の、バカだから。
「……訂正しましょう。貴方は唯のバカではありません。日本一の大バカです」
「ははは、厳しいな。でもな? そう気づかせてくれたのは……桐生だよ」
「……お姉様もおバカの仲間入りですか」
俺の言葉に、溜息を一つ吐いて。
「ですが……そんな大バカだからこそ、お姉様を変えることが出来たのかもしれませんね」
大きく……もう一度、溜息。
「もし……もう少し早く、貴方に逢っていたなら……私も、『諦め』ずに済んだのかもしれませんね」
「……まだまだ、これからだろう?」
「……」
「葵ちゃんなんてまだ中学生だろ? なにがもう少し早くだよ。むしろこれから始まったばっかじゃねーか」
そう。
まだまだ、これからだ。
緞帳は降りちゃいないし、エンドロールも流れていない。
まだまだ……立ち止まるには、早すぎる。
「『諦め』る事を『諦め』たら……葵ちゃんも、バカになったら……きっと、桐生に追い付いて、追い越す事も出来るさ」
だって……そうだろう?
桐生家での立ち位置なんて気にせず、ただ『大好きなお姉ちゃん』の為に動いた葵ちゃんなら。
「……再び、訂正しましょう、東九条浩之。貴方は日本一の大バカではありません。世界一の、大バカです」
……ですが、と。
「……あの姉を変えた大バカの話です。少しだけ躍らされてみるのも……まあ、悪く無いでしょう」
「ああ。騙されたと思って、そうしてみろ」
俺の言葉に。
ふん、と鼻を鳴らした葵ちゃんは、居住まいを正して。
「……改めて、名乗りましょう。東九条浩之。私の名前は桐生葵。桐生彩音の『妹』です」
照れたように、頬を染めて。
それでも、堂々と。
この小さな体の……何処に、そんな威厳を兼ね備えているのかと、そう思わせるほどに。
「……俺の名前は、東九条浩之。桐生彩音の許嫁だ。その……なんだ、これから宜しく頼む」
そう言う俺に、ほんの……ほんの、少しだけ口端を綻ばせ。
「……今度は……お姉様と二人で、桐生の本家に顔を出して下さい。その時は私も遊びに行きますので。まあ、貴方にとっては過ごしやすいとは言えないかも知れないですが」
……お茶ぐらいは、出しますよ、『浩之さん』と。
相変わらずの無表情のままで、それでも恥ずかしそうに頬を染める葵ちゃんに、俺は笑顔を返した。