黒より暗い夜の闇はくろねこさんと同化する
第1話 くろねこ
夜の匂いがする。透き通っていて、でもどこかくぐもった匂い。
朝の匂いがする。穢れが一切ない透明感のある匂い。
色んな匂いがあるけれど僕は夜の匂いが一番好きだ。何故かは知らないけれど僕に一番似合っている気がするから。
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僕は夜、近くの海辺へ出かけることにした。ジャージに身を包み、買ったばかりの運動靴に脚を入れる。靴紐をキュッと結び、スマホをポケットに入れ、小さく息を吸い込みながら立つ。ドアノブに手をかけるとき、少し小さめに吠えた我が家の犬。なんとなくだけど、いってらっしゃいを言っているような気がした。犬の頭を撫で、行ってきますと返事をした。
外に出ると目の前に広がるのは朝とは全く違う世界の風景。いつも見ているはずなのにその景色は僕の心臓を高鳴らせた。今から外へ出ることを躰に認識させるかのように大きく息を吸い込む。すると闇にとっぷりと浸かったどこか安心するような落ち着いた匂いが全身を駆け巡った。
冷たくも落ち着いた匂いが僕を夜が好きだと再認識した。
冬が近づいてきているせいか少し肌寒い。もう少し厚めのジャージを着てくればよかったかな。そうやって季節の移り変わりを肌で感じながら目的地である海に向かうために街道を歩く。
街灯に虫が群がっているのが見える。気持ち悪いといつも思うそれは、夜の魔法にかけられたせいかこの美しい街の一部と感じ、特別不快だとは感じなかった。
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街灯を横目に海へと進む。その途中で数匹の黒猫に遭ってしまったので、僕になんとなくだけど良くないことが起こる気がした。死なない程度で頼む。と猫たちにお願いしてきたので大丈夫だろうと思いたい。
そうこうしているといつの間にか海についていた。波の音が聞こえてくる。海が奏でる音たちは不思議なもので一日の疲れた心を穏やかにしてくれる。水面に映った月は海が波打つたびに姿を変える。規則的に流れていると思われる波だがそんなことはなく、一瞬一瞬にそれぞれの表情が垣間見える。
海景色を堪能し、僕は砂浜へと続く階段を降りていく。よく見えない階段を踏み外さないように一歩ずつ着実に。そうして砂浜に降り立つと、カニやヤドカリなどが慌てて身を隠す。心のなかで、ごめんよ、と驚かせたことを謝りながら海へと歩く。砂の感触が靴越しに伝わる。一歩一歩踏みしめるたびに足が沈む。
ふと空を見上げると、月と無数の星が輝いていた。一つ一つの星が主張しすぎることもなく、お互い譲りあっている。普段星などに一切興味がない僕でもこの星たちは綺麗で思わず吸い込まれそうになった。ベガ、アルタイル、デネブなどメジャーな星たちしか知らないが、そんな無知な僕ですら惹き込まれる夜が生み出した自然のカーテン。プラネタリウムなど比較にならない。
そうやって星々に見惚れていると。
「君、だれ?」
「!?」
いきなり誰かに声をかけられた。そのせいで、躰が少しビクついた。後ろをバッと振り向くと、そこには同じくらいの背丈で整った顔立ちをしている女の子が立っていた。
僕は月明かりに照らされた彼女をしばらく見ていた。なぜかはわからない。でもその女の子には否応なしに目を惹く謎の魅力があった。顔が良いから、という理由もあるのだろうが、それを抜きにしても目が離せなかった。同じ人間とは思えないほどの美人とはこの少女のような人のことを斥すのだろう。感覚的にそう思わせる《《ナニカ》》がこの子にはあった。
夜の闇と同色の髪。星空のような紺色のジャージ姿。プルンと潤っているハリのある唇。吸い込まれそうなほど黒い瞳。だが、その瞳の中には決して黒だけでなく、星々の輝きも映っていてとても魅力的だ。形容し難いが敢えて言い表すとすれば、【黒猫】だろうか。
僕が思考を巡らせ固まっていると少女は再度。
「君、だれ?」と、先程のか細い声よりも少し強く聞いてきた。
「あの、えっと……」
思わず言葉が詰まる。こんな美少女を前にして平然と喋ることができるのはクラスの陽キャくらいだろう。仕方ない。
「あ、嫌なら答えなくても大丈夫だよ」
答えあぐねていた僕の様子を察して気遣ってくれたようだ。申し訳ない。
「私はね、この時間の夜が、海が好きなんだ」
唐突に少女が言った。
不思議なことにその言葉を聞いた瞬間、僕は名乗る時よりも自然と声が出た。
「僕もです」
「そう、君もこの時間によく来るの? 海」
「いや、今日はたまたま。ちょっと嫌なことがあって、それで海まで行こうかなぁって思っただけですよ」
「それできちゃったと」
「はい」
僕の返答を聞くと彼女は僕の手を掴み、一緒に浜に座るように誘導した。
「ほらこっち座ろ」と手招きしてくる。
その強引さに不覚にも頬が熱くなってしまった。バレていないだろうか。
手の甲を使ってバレないように頬にあてて熱を確認する。___結構熱い。
というか近い。恋人でもないのに肩を寄せる必要はあるのだろうか。この人といると雑念がどんどん増えていく。そんなとき少女は。
「わたしもね、今日ちょっと嫌なことがあったんだ。そういう時には夜ここにきて一人になるの。そしたら散らかってた頭の中がだんだん綺麗になっていってすっきりするんだよね。だから今日ここに来た。そしたら君が上見て立ってるから気になって声かけちゃった」と、僕に話しかけた経緯を話してくれた。
確かにそれはある気がする。心が疲れている時とか、全部が嫌になった時とか。そんなときにこの雄大な海と無限に広がっているかのような空をみると心が落ち着く。彼女もそんな癒しを求めてきているのだろう。
しばらくぼーっとしていると、彼女は考えるような恰好をしながら唸りだした。
「うーん……じゃあ、次君の番ね。何でこんな夜中に海まで来たの?」
「さっき話したじゃないですか。話すことがないからって無理に話題探さなくて大丈夫ですよ」
少女は良いじゃないか、と僕の頭をクシャクシャと揉んできた。最初は物静かなイメージだったが、実はそんなこともないのかもしれない。それにしても初対面なのにやたらと馴れ馴れしい人だ。でもいつもならあるはずの不快感はなかった。
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それから他愛のない話が思いの外弾んでしまい、腕時計を見ると秒針は2時を指していた。
「あ、そろそろ帰らないと親にバレますね」
自分としてはもう少し話していたかったが、家を抜け出しているのがバレてしまうと何かと面倒くさい。
僕の家の門限は十一時半、他の家よりは比較的遅い時間だ。そんな遅い時間まで帰らないのを許してくれるのは僕の成績が学年一位だということと、特に目立った問題を起こしていないということが大きな要因だろう。そんな僕が夜中の2時に家を抜け出していると知られたらとんでもないことになるのはまず間違いない。
少女は少し寂しげな表情をしながら僕の袖をクイと掴んでくる。
「またここにくる?」上目遣いで僕を見てくる。これは、ズルい。
「くると思いますよ」
少女は少し下を向き。
「そう、よかった。じゃあまた」と、頬を桜色に染めて口角を上げた。
話を最後まで聞かないのがこの子の欠点だな、と付き合いが浅いのにも関わらず分かった。
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帰り際で気づいたがこの子の名前をまだ聞いてない。
「忘れてたけど貴方の名前って何ですか?」
少女も名前を聞くのを忘れていたようでびっくりしている。
「そういえば聞いてなかったね。私の名前は____」
「名前は?」
「__【くろねこ】で良いよ」
どこか名前を言うのを渋っているような気がしたが、ここでそれを指摘するのも野暮な気がするので気にしないことにした。
「僕の名前は伊地知證よろしく」
そうして僕とクロネコさんはそれぞれの家路についた。帰り際僕にヒラヒラと手を振る彼女は出会ったときよりも更に美しく見えた。