押し入る
カインが去った後。
戸惑いと静寂が支配した地で、リテアは静かに、自らの弟に呼びかける。
「……ねえ、ユーグ」
「なんでしょう、姉上」
そんな姉の呼びかけに、こちらははっきりとした口調で、ユーグが応える。
「カイン様はついてくるなと、言ってらしたけれど。貴方はどう思うかしら、ユーグ。本当に私たちはあの方を、このまま放っておくべき?」
「いいえ、僕はまったくそうは思いませんね!」
「……ふふ。さすが私たち、気が合うわね」
リテアは、弟の頭をくしゃりと撫でる。ユーグはむふーと満足げな顔をした。
「では、ユーグ。この場は貴方に任せても良いかしら」
「勿論です姉上! この僕に、どーんとお任せくださいっ!」
意気込むように応じた弟を微笑まし気に見つめ、彼に向かってぐっと頷く。
そして、リテアはカインを追って、走り出したのだった。
(カイン様、どこに行ったのかしら)
リテアはきょろきょろと辺りを見回す。ひとまずカインが向かったと思われる方向に駆け出したはいいものの、彼の姿は見当たらない。
こちらの方向には何があったか、と考え、リテアはカインが仮の居室としている客間があるはずだということに気が付く。
(……そういえばカイン様にいつまでも客間を使っていただいてるのって、よく考えるととっても失礼にあたるのではないかしら!? うう、私ったら本当に気が回らない……)
ひとまず件の客間に行く。
耳を澄ましても物音一つ聞こえないが、とりあえずリテアは扉を叩いてみる。
「……カイン様、居られますか? リテアです」
しばらく待ってみると、かすかに声が聞こえた。
「……ついてこないでって、言ったろ」
何処か不貞腐れたような声。かつてない様子のカインに、リテアの心は逸る。
「申し訳ありません。けれど、貴方の様子が気になったものですから。……開けても良いですか?」
「やめてくれ」
「いいえ、カイン様が嫌だと言っても押し入らせていただきます」
「ぅえ」
ガチャ、と扉のノブを回す。鍵がかかっているのか扉は開かず、ならばとリテアは懐を探り、いつも持ち歩いている鍵束を取り出し、そして該当の鍵を探り出すと、問答無用で鍵穴に差し込んだ。
「え、ちょっと待って、なんで」
「うふふ、これでも今の邸の主は私ですので! 主権限を舐めないでくださいませ」
「そんな!? なんでこんな時に限って行動的なんだ、え、いやほんと待って、えええ」
カインが慌てている間に、鍵穴から無常にもカチャリと小さな音が鳴り。そしていざリテアが扉のノブを回す。
が、開かない。
「……カイン様? 往生際が悪うございますよ」
「いやほんと待ってくれ、待って、今開けられても、顔が」
「顔が?」
「……顔が、作れない。取り繕えない。だって、どんな顔で、君に、君たちに会えと」
「もう。そんなことですか!」
「わっ」
リテアが一瞬の隙を突き、あらん限りの力で扉を押し開ける。不意を突かれたカインは後ろにたたらを踏み、なんとか体勢を立て直す。
部屋は、暗かった。時刻はまだ昼過ぎ、窓の外はさんさんと陽の光が輝いているというのに、カインの部屋の窓はもれなくカーテンが引かれている。
まるで、今のカインの心を表すかのように。
「あらあら、真っ暗ではないですか。とりあえず最低限、カーテンは開けさせていただきますね」
「ええええちょっとやめてくれほんとに」
「いいえ、聞きません。貴方からお話を聞くまでは」
カインの抗議にまったく耳を貸さず、リテアはえいやっとカーテンを開く。
1枚開けるだけで大分明るくなった部屋を満足そうに見渡し、リテアはカインに向き直る。
そこには、こちらに背を向けた青年の姿があった。頑なに、顔を見せたくはないらしい。
「安心してくださいませ、無理に顔を見ようとは思っていません。……失礼しますね」
リテアはそう声をかけ、カインに背を向ける形でソファに腰かける。
「これで、私の方からはお顔は見えません。カイン様も、どこか適当な所にお掛けくださいませ。ずっと立っていては疲れるでしょう」
「え。……う、うん」
急にこちらを慮り始めたリテアに戸惑ったのか、カインはぎこちなく応答する。しばらくして、衣擦れの音がした。位置関係から推察するに、彼はどうやらベッドに腰かけたようだった。
静寂が場に落ちる。
しばらくしてその静けさに耐え切れなくなったのか、カインがしびれを切らした様子で声をかけてきた。
「……訊かないのか」
「何をでしょう?」
「……あの人たちが、言っていたこと。俺の噂について」
「ああ。……私は、多少は見聞きしていましたので」
「そう、か。……はは、考えてみればそりゃそうだ、貴女はあの社交界に多少なりとも顔を出していたんだから。どこでも俺の噂でもちきりだったろうさ」
「そうですね、貴方はとても、目を惹く方ですから」
「……。そりゃどうも」
「ふふ。どういたしまして」
少しの間また、静寂が落ちる。
リテアは、強いてこちらから話を振ろうとはしなかった。
あまり、こちらから彼を刺激するのは得策ではない気がしたし、……今の、本人の言を借りれば「取り繕えていない」、そのままの彼が話す言葉を、聞き逃したくなくて。
「それなら、……それなら、どうして。君はそんな俺に、契約結婚なんか持ちかけたんだ。分かったろ、俺じゃあいつら如きからすら舐められる。君が望んでいた後ろ盾の働きはこれっぽっちだってできなかった」
「貴方にまつわる噂は、あくまで噂です。貴方と実際に話してみれば、こうして生活してみれば。貴方が決して噂通りの人物ではないと、誰だって理解ります」
「だけど、噂は時には真実以上の力を発するものだ。君の場合、絶対に、良くない噂を持たない男の方が、あいつらへの牽制に効果的だった筈だろ」
「それは、確かにそうかもしれません。けれど、カイン様。お忘れになってしまいましたか? 私があの時言った最低条件。一つ目は、ご実家が私の家以上の力を持っていること、そして二つ目は――」
「君と対等に話してくれること、だろ。ちゃんと覚えてるさ、だけど、それこそ俺じゃなくても、他にいくらでもいただろ。あそこには星の数ほど男どもがいるんだから」
「まあ」
リテアは少々大げさに驚いてみせる。
「カイン様、カイン様は本当に、ご自分の希少さをご存知ない? ほとんどの男性方は、まともに取り合ってすらくださいませんでしたよ」
「それは、君の声かけが足りなかった所為だ。きっとどこかにはいたに決まってる」
「……まあ」
リテアはくす、と笑う。だって、リテアより6つ近くも年上の彼が、まるで拗ねた少年のような言動をするものだから。
同時に、いつもよりぶっきらぼうな彼とやりとりをしていると、8年前、自分が出会った少年――かつての彼を思い出して。
リテアはそっと、口を開いた。
「そう、ですね。カイン様が、この理由で納得してくださらないなら。私の特別な記憶を、話して差し上げます。ふふ、他の方には内緒にしてくださいね?」
「……え?」
戸惑う声を上げる、彼。彼からしたら突然、話が意味の分からない方向に飛んでいったように感じたかもしれない。
けれど、違うのだ。これはリテアの大切な記憶。
そして同時に、あの舞踏会の夜、カインに契約結婚を申し込む決定打となったもの。
「あれは、8年前のことです。ほとんどイシス領から出たことのない私ですが、幼い頃は何度か、両親に連れられて、王都に行くことがあったんです」
そしてリテアは語り出す。
きっと、カインは覚えていない。
けれど確かに存在した、リテアとカインが初めて会った日。
リテアの幼い日、あの宝物のような記憶を。




