カイン・アーシファ
ここは王宮、社交シーズンに開かれる、舞踏会の夜。
カイン・アーシファは、追いかけてくる女性から、表面上は優雅に、心の中ではかなり必死になって逃げていた。
カインは公爵家の次男坊である。赤髪に青い目の彼は整った顔立ちで、振る舞いは高位貴族らしく優雅、女性に優しく紳士的……と、ここまでの条件が揃っていれば女性に人気にならないはずがなく、事実彼の女性関係は派手であり、泣かされた女性は数知れず。そんなわけで、彼は社交界では女たらしとして有名な人物であった。
カインは確かに、来るもの拒まずの気があり、交際している女性が途切れたことはほとんどない。こちらから特にアプローチしなくとも、常に女性が寄ってきていた。
しかしそれでも一応彼なりの線引きというものはあって、例えば正式な婚約者がいる女性は論外である。
そして婚約者がいなくとも、愛が重そうな女性……つまり単なる火遊び相手としてではなく、カインに本気で惚れ、結婚したいと思っているような女性なども、後々面倒なことになるのは目に見えているので、交際を迫られてもやんわりと受け流していた。
カインが交際相手に望むのは刹那的な快楽、言ってしまえば単なる暇潰しである。楽しければそれで良いのだから、そこに結婚がどうのという面倒事を持ち込む気は全くないのである。
しかしカイン自身がそんなことを思っていたとしても、結婚相手としてはかなりの優良物件である彼を、女性たちが放っておくはずがない。
舞踏会などではカインを結婚相手にと望む女性たちに常に囲まれ、熱い視線を送られる。
大概はのらりくらりとかわせるのだが、時折あきらめの悪い女性もいて、そういう人々はこちらの話に耳を貸そうともせず、ありとあらゆる手段を使って強引に迫ってくる。
今回は特にひどかった。少し休憩しようとして自分にあてがわれていた部屋に戻ったら、なんと備え付けのベッドにやる気満々の令嬢がスタンバッていたのである。
何をやる気だったのかなんて考えたくもない。しかも多少知った顔だったから尚更性質が悪い。異母兄の婚約者候補に挙がっている令嬢に手なんか出したら後でどんな面倒なことになるか!
このまま何も見なかったことにして何食わぬ顔で舞踏会場に戻ろうか。本気でそう思ったし、事実そうしようとした。が、背後から令嬢が追ってくる気配がする。
令嬢としてもここまで来たからにはやすやすと引き下がれないのだろう。気配が切羽詰まっている。怖い。執念が怖い。
舞踏会場にはそれなりの距離がある。そして人目が少ないといっても全くない訳ではない。会場まで、こんな不毛な追いかけっこを続けたくはなかったし、むやみやたらに自分の評判を下げたくもなかった。
令嬢自身の将来の為にも、早くけりをつけた方が良いだろう。それに、カインは面倒事が何より嫌いなのである。
表面上は平静を取り繕いながら、頭では必死に打開策を考える。目線だけを動かしながら、何か使えるものが無いか必死に探す。心なしか令嬢との距離が縮まっている気がする。早く、早く何とかしなければ……。
そんな風に焦っていた、その時である。角を曲がってすぐの所にあった扉の隙間から突然、白い手がにゅっと伸びてきた。
「ひっ」
「早く。こちらです」
そう言いながら、白い手はカインの腕を容赦なく引く。そのまま部屋に引きずり込んだ。突然の状況に半ば呆然としながら、カインは白い手に従った。
カインを引きずり込んだ手――の、持ち主である女性――は、そのまま音もなく扉を閉め、その向こう、通路に居る件の令嬢の気配を窺っているようだった。
大して大きくもない部屋に、張りつめた沈黙が流れる。しばらくして女性が振り返り、
「どうやら見失ったようですね」
と言った。
はぁぁぁぁ、と、安心して思わず大きなため息が出る。
「……ありがとう、助かったよ」
「いいえ。遠目に、とても困った様子に見えましたので」
女性は柔らかく微笑む。
「念のため、小声でお話しましょう」と言いながら、カインに椅子を勧める。
この短時間にどっと疲れていたので、カインはありがたく椅子を借りた。続いて対面に座った女性を、まじまじと見つめる。
声を聞いた時から分かっていたことだが、改めて見ても、目の前の女性は全く知らない人物だった。
年のころは二十を過ぎたくらいだろうか。落ち着いた色合いのドレスは、女性の穏やかな雰囲気によく合っていた。
茶色の髪はきっちりと結い上げられており、彼女の真面目な性格が反映されているようである。
顔立ちはそれなりに整ってはいるものの、仮に舞踏会で周りを見まわしてみれば同じような顔がいくつも見つかりそうな、言ってしまえば十人並みの容姿であった。
しかしこうして面と向かい合うと、その柔和な表情と、髪と同じ茶色の瞳に宿る理知的な光に、不思議と視線が吸い寄せられる。立ち居振る舞いも洗練されており、その一挙手一投足が美しい。カインにいつも群がる女性たちにはいない、非常に不思議な雰囲気の女性であった。
「ええっと、すまない。貴女の名前を伺っても良いかな? 恥ずかしながら、貴女を社交界で見かけた覚えがなくてね……いや、人に名を聞くときはまず自分から名乗るべきだね。わたしはカイン・アーシファという。グラド公爵家の者だ」
「あら、ふふ。お名乗りにならなくても存じておりましたよ、アーシファ様。それに私のことを知らなくても無理はありません、私は社交界にほとんど出たことはありませんから」
彼女は姿勢を正し、微笑みながらこう名乗った。
「私はリテア・ハイムウェルと申します」
「リテア・ハイムウェル……?」
彼女――リテアという名に、やはり覚えは無かった。その事実が、何故か少し口惜しい。
しかし、ハイムウェルという名字には微かに覚えがあった。頭をフル回転させて、記憶を掘り起こす。
「ハイムウェル……、ああ、思い出した。すると君はイシス伯爵家の御令嬢なのかな」
彼女はその言葉に、僅かに瞠目する。
「私の家をご存知でしたか」
「勿論。王都から大分遠くではあるけど、豊かな土地だとか。でも確かに、イシス伯爵を社交界でお見かけしたことはほとんど無いな。あまり社交に重きを置いていない家なのかな、と思っていたけれど……」
「はい、おっしゃる通りです。我が家は今までほとんど社交というものをしてきていませんでした」
「そう……。伯爵様と一緒に来たの?」
「……いいえ。一人で」
「一人で?」
社交に縁がない家の出である彼女が、社交場の中でもいちばん華やかな王宮の舞踏会に、父親の付き添いもなく、一人で?
「……貴女はなぜ、一人でここに?」
「……ええと」
「あんまり社交をしてこなかったって言っていたのに、突然王宮の舞踏会に来るなんて、何か理由があるのではないかい?」
「それは…」
彼女は少しためらう。その様子を見て、カインは内心ハッとし、次いで冷や汗をかく。
こんなの、いかにも訳ありですって雰囲気じゃないか。なんだかとても面倒くさい気配がする。この話題は早く切り上げよう、そうしよう。
「何か困ったことがあるのかい? さっきのお礼だ、わたしに何かできることがあれば、手を貸そうか?」
そんな自分の思考に反して、気が付くと口からこんな言葉が飛び出ていた。何故!?
普段はこんな空気を感じたらすぐさま逃げるようにしているはず。
なのに、カインの口は彼女を気遣う言葉を紡ぎ、両足はこの場から動かず、両耳は彼女が次に発する言葉を聞き逃すまいとしている。どういうことだ、こんなの、あまりにも自分らしくない。
カインが深く混乱していた間も何かずっと考え込んでいた彼女は、やがて意を決したように顔を上げた。その顔を見て、カインはハッとする。
彼女の表情は先程の柔和な表情とは打って変わって、どこか力の入った、きりりとしたものだったからだ。
「あの!」
「はっ、はい?」
「では、私と結婚していただけないでしょうか!?」
「……はいぃ!!?」
そしてそのきりりとした顔から突然、すっとんきょうな言葉が飛び出してきた。
「え、なに、結婚!? この話の流れで!? どういうこと!!?」
「えっ、あっ、あの、違うんです、ええと、私が言いたいことはそういうことではなくて、あの…ええと、ごめんなさい、忘れてくださいっ!」
彼女も混乱しているようだ。ものすごくあわあわしている。
「いやいやいや、それで話を打ち切られても余計気になるから!とりあえず落ち着いてっ、ね!?俺も落ち着くから!」
そうして、しばらくの時間が経った後。彼女はようやく落ち着いたようで、
「……取り乱して、申し訳、ありませんでした……」
と、小さな声で言った。
そして、姿勢を正し、改めてこちらに向かい合ってきた。
「あの、私、ちょっと一言では言い表せない事情が、ありまして。力を貸してくれるひとを、探していたんです。でも、中々良い方が見つからなくて……、それで、あんなことを」
遠慮がちな様子ながら、彼女は続けて、もしよろしければ、話を聞いてはくれませんか、と言う。
目の前の彼女はとても必死な様子で、カインは少し後悔する。だって、いかにも厄介事って雰囲気じゃないか。
しかし自分から振ってしまった話題だ、仕方がない。そう腹を決め、カインは彼女の話を聞くことにしたのだった。