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大山鳴動して鼠一匹 3

 それからの出来事に、特筆すべきことはない。


 僕は世の中のほとんどの人がそうするように普通に自宅へと帰り、家族に新しい学校の感想などとありきたりなことを聞かれ、姉にこき使われる、そんな面白みのかけらもない普通な日常だ。


 けれどそんないつもと同じ生活を送りながら、どうにも心に引っかかるものがあった。


 言うまでもなく、あの先輩たちだった。


 たしかに変な人たちだったが、そこまで気にすることなのかと、そう聞かれれば返答に困る。

 だって僕自身がそう思っている。


 けれど、僕はあの二人のことが頭から離れない。

 辺見先輩が美人だったとか、後前田先輩がちょっぴりだけ怖かったとか、そう言うのとはきっと違う。


 これから通う学校にあんな問題児が通っていると言う事実に一抹の不安を抱いているのか、と問われれば、まぁそれはそれで否定できないところもあるけれど。


「散歩にでも行くか。」


 僕は実は暗くて狭いところが好きだ。

 根暗な趣味であることはよく理解しているけれど、つまりは暗い夜道を歩きたいと言うことだ。

 モヤモヤしたりするときは、一人で夜に散歩する。


 外は流石に狭くはないけれど、でも適度に暗い道を歩くとなんだか気分が和らぐ気がする。


 と言うことで僕は夕飯を終えた後、風呂に入る前の軽い運動代わりに一人家を出た。

 本当に当てのない気ままな散歩なので、行き先なんて当然無い。


 暗い夜道を歩くと言っても、今の世の中では住宅街で街灯のない道などないので、結局のところそこそこ明るい。

 でも、しんと静まった夜道を歩くだけでも、心は割と透き通るものだ。


 いつもと同じ道。

 僕のよく知るこの街の道。

 毎日のように飽きるほど見ている、ありふれて普遍的なこの道。


 しかしなんだか、いつもと違う気がする。

 別に現実的にありえないものがあるわけでもなく、日常的に目にして当たり前のものしかない。

 しかし何故こんなにも違和感を覚えるのかといえば。


 数だ。


 圧倒的に多い。

 普通見かけるであろう数を、恐らく圧倒的に超えている。

 普通こんなに沢山いたるところには、『いないはずだ』。


 猫だ。猫が沢山いる。


 猫の集会でもしているんじゃないか、と言う許容量でさえ既に超えていた。

 これは恐らく、世界のどこかにあると言う猫の数が人間の数より多い国よりも多いのではないかと言うほどに、猫が沢山いた。


 数えるのも億劫なほどの猫が、僕の周囲にたむろしている。

 各々自由気ままに、およそ猫ならそうするであろう程に好き勝手に鎮座している。


 別に僕に何かしてくるわけではない。今は。


 しかし、多いと言うのはそれだけで酷く気持ちが悪い。

 普段なら可愛いと思う猫たちもここまで多いとただただ気持ちが悪い。


 急いでここから立ち去って、一刻も早く家に帰らなければ。

 そう思っているのに何故だか足が動かない。

 つまりそれは、この夥しくも気持ち悪い光景に、僕は並々ならぬ恐怖を感じていると言うことの現れだった。


 早くこの人気が少ないのに猫気の多い空間から逃げ出したい。

 そう思えば思うほど、僕の足は地面のアスファルトとの交友を深めて行く。


 普段ならば結構な猫好きであるところの僕でさえ、この状況は受け入れがたい。

 昔小さい頃猫を飼いたいと駄々をこね、結論として姉が猫アレルギーだから飼えないと親に言われて大泣きしたほどに猫は好きだけれど、これは無理だ。


 世界中で昔から、猫は幸福の象徴とも不幸の象徴とも言われているけれど、この場合は明らかに不幸の前触れとしか考えられない。

 そう言ったとき挙げられるのは白猫や黒猫が多いが、ここまでの数の猫がいれば、最早何猫だろうときっと関係ない。


 普通の街の普通の道に、これ程までにおびただしい数の猫が集結している時点で、それはもうあまりにも不吉だ。


 この場合別に猫じゃなくても同じだろうけど。


 とにかくこの場を離れないと。

 この場を離れ家に帰らないと。


 ここにいてはいけない。

 きっと僕はここにいてはいけない。


 ただ猫が沢山いるだけ。

 けど、ここにいてはいけないと全身が悲鳴を上げている……!


 地面に張り付いて動かない足に鞭を打ってゆっくりと後退る。

 走り去りたい衝動を抑え、慎重に後退する。

 走るなんて大きなアクションをとってしまったらこの沢山の猫たちを刺激してしまうかもしれない。


 夜道に群がる猫たち。

 その数えるのも億劫になほどの数の猫たちの、更に倍の数の目玉が暗闇に煌めく。

 その目玉が全て僕の方を向くようなことがあれば、きっと僕はおしまいなんだろう。


 しかし今のところその様子はない。

 猫は猫らしくただそこにいるだけだった。


 ゆっくりとだけれど後退できている。

 このまま猫の多いこの地帯を抜け出せれば、あとは一目散に家まで走っていけばいい。


 あと少し。

 あと少しで、この場から離脱できる。

 だから焦るな。

 焦って失敗してはいけない。


 僕は慎重にゆっくりと足を動かして────


「にゃーーーーーん」


 その鳴き声に、足を止めた。


 今まで大人しくただそこにいるだけだった猫たちは、特に鳴き声を上げていなかった。

 その静まり返った空間に響く一つの鳴き声。


 それは確かに猫の鳴き声だったが、確かに猫が出すであろう声だっが、その声の持ち主は、うら若き乙女のように透き通った声の持ち主だった。


 そう、まるで。

 女の子が精巧に猫の鳴き真似をしたかのように。


「吾輩は、猫である。」


 そして唐突に声がした。

 人の言葉で語られる声。

 しかしそれは、つい先ほどの鳴き声と同じ声。


「もう一度言おう。吾輩は、猫である。」


 振り返りたくない。

 振り返るべきではない。

 しかし振り返ってしまう。

 振り向かないわけにはいかない。


 鈴を転がすような透き通った美しい少女の声。

 そんな声が僕の背後、具体的に言えば背後の更に高い位置から聞こえた。


 振り返ればそこには誰もいず、しかし少し首を上に向ければ、街灯の上に何かがいた。


 あれは猫だ。人間だ。少女だ。


 猫であり人間であり少女だ。

 猫ではなく人間ではなく少女でもない。


 あれはなんだ。

 猫だと言われれば猫。

 人間と言われれば人間。


 街灯の上には凡そ人型のものが座っていた。

 四つ足で座っていた。


 着物を着た少女。

 簡素ながらも煌びやかな着物をまるで遊郭にいる遊び女のごとく舐めやかにふしだらに着崩した少女だ。


 しかしそれを少女とは断言できなかった。

 何故ならば、その柔らかそうな長い栗毛の頭にはいわゆる猫耳のようなものが生えていたからだ。

 そして何よりも、その少女の身の丈よりも長いであろう尻尾が二本、ゆらゆらと揺らめいていたからだ。


「────っ!」


 声などでない。

 頭は回らない。


 人といえば人ではあるが、人に猫耳も尻尾もありはしない。

 猫といえば猫であるが、猫はあんなに大きくはないし、あんなに少女然としていないだろう。


「一度言ってみたかったのさ。」


 猫少女はそう言った。

 人のようで猫のような少女は言った。

 人の言葉でそう言った。


 人の形をしている猫の少女。

 あるいは猫になった人の少女。

 どちらかなどどうでもいいが、一言で形容するならば、これは────


 猫の化け物だ。


「名前はある。ないとは言わない。名前はある。しかしお前に語るつもりはないし必要はない。」


 猫の化け物はニタリと笑う。

 猫のように。


「おっと私としたことが、語尾をつけるのを忘れていた。うっかりしてたにゃん。」


 取ってつけたように猫の化け物は言う。

 一体全体この世界のどこに語尾ににゃんをつける化け物がいると言うのだろうか。

 そもそも化け物が実在すると言うのは抜きにして。


「でも安心していいぞ。語尾ににゃんをつけようと、『なにぬねの』を『にゃにぃにゅにぇにょ』とは言わない。私はあくまで私と言うキャラ付けのために語尾ににゃんとつけているだけだから。」


 既に語尾ににゃんを忘れている。


 いやそんなことはどうでもいい。

 しかしこの猫の化け物がふざけたことを言ってくれたおかげで、少し落ち着きを取り戻せた。

 こののっぴきならない状況において、頭を働かせる余裕が少しばかりできた。


「さて人間。語らうのはこの辺りにしておこうではないか。私はあまり頭がいい方ではないからな。人間と喋っていると、疲れる。」


 僕を人間と呼んだ。

 つまりあれはやはり人間ではなく、猫。

 猫の化け物で間違いはないと言うことだろうか。


 どんなに少女の姿をしていようとも、その色っぽい肢体がどうみても人間の女のもののように見えても、あれはやはり、猫の化け物なのか。


「お前は……何者なんだよ。」

「何者ぉ?」


 化け物は首を傾げた。

 訝しげに、疑うように、そして、蔑むように。


「『何者』と尋ねるってことはお前は私のことが人間に見えるのか? だってそうだろう? 『何者』とは人に対して使う言葉だ。」


 ではつまり、やはりコイツは人間じゃない。

 いくら人と同じ姿形をしていようとも、この化け物はやはり人間ではない。


 けれど人間はそんなに器用な生き物じゃない。

 目の前のコイツが人間ではない何かだと頭ではわかっていても。

 とても作り物とは思えない生々しい耳や尻尾を目の当たりにしても。

 そのほとんどを人間的要素で埋め尽くされているコイツを、どこか人のように表現してしまう。


「私は人間ではない。人間などありえない。私は猫だ。猫として生まれ猫として育ち猫として死んだ。そして、今も尚猫だ。」


 そう。この化け物は猫なのだろう。

 よく見てみれば耳や尻尾だけではない。

 腕や足にも猫らしさが見て取れる。


 大まかな形状は人間のそれだが、腕は肘、足は膝まで猫の毛で覆われており、またその鋭い爪は明らかに人のものではない。


「だからなぁ人間。間違っても私を人間と言ってはいけない。人間はお前で私は猫だ。」


 暗闇に光鋭い眼光で化け物は僕を見下ろしながら立ち上がった。

 街灯の上で二足の足で立ち上がった。


「じゃあお前の目的はなんなんだ……!」

「目的ぃ? そんなものない。」

「ないって……」

「あぁ、お前は、私がお前を襲う目的を聞きたいわけか。なるほど。けれど残念ながらそんなものはない。

 目的も理由も原因も何もありはしない。

 私はたまたまここにいて、たまたまここにお前がいて、たまたま私がお前を殺したくなって、たまたまお前は殺される。

 ただそれだけのことだ。」

「なんだよ……」


 めちゃくちゃだった。

 とてもあまりにもめちゃくちゃだった。


「なんだよそれ!!!

 そんなことがあっていいわけがない。

 何の意味もない、何の目的もない殺人だなんて。だって……だって!

 人は、殺しちゃいけないんだ……!」

「ハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ────────!!!!」


 唐突にけたたましい笑い声をあげる。

 震え上がるような冷たい笑い声。


「何を言い出すのかと思えば。

『人を殺しちゃいけない』? そんなの──」


 先ほどまで笑っていた化け物はすぐにその笑みを消して鋭い目線で僕を貫く。


「人間のつまらないルールの話だろう?」


 化け物は、言った。


「それはお前たち人間が勝手に作ったお前たちの中だけで適用されるくだらない拘束だ。

 なぜ、どうして私が、私たちがそんなものに縛られなきゃいけない。

 関係ない。関係ないんだよ。

 私にそんなものは関係ない。

 だからお前は死ぬ。私に殺されて死ぬ。

 そこに理由が欲しいなら──そうだな。

 私が殺したいと思ったから、で納得しろ。」


 僕は走った。

 一目散に走った。

 化け物の足元をくぐり抜けて、振り返らずに走った。


 あのままあそこにいたら殺される。

 わけのわからないまま殺される。

 それは嫌だった。

 僕は死にたくない。誰だって死にたくない。


 つまらない人生だって、劇的でない人生だって、人は誰だって死にたくないんだ。

 だから僕だって死にたくない……!


「ふむ。逃げ足はなかなか早いな。

 チョロチョロすばしっこい。

 まるで鼠のようにちょこまかと。」


 気がつけば化け物は目の前にいた。

 追ってきた素振りすらなかったのに。

 追われている気配はなかったのに。

 既に化け物は僕の目の前にいた。


「しかし猫ってのは、そういうちょこまかしたのを相手取るのは得意なんだ。」


 痛いと思うよりも先に、自分の体から赤い飛沫が散るのを見た。

 その真っ赤な光景を目の当たりにしてから、遅れて耐え難い痛みが全身にほとばしる。


 切られた。斬られた。斬り裂かれた。

 痛い。痛い、痛い痛い。痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛いいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイ──────────────!!!!!!!!!!!!!


 逃げることを忘れた。

 死への恐怖も忘れた。

 何もかも忘れた。

 ただただ痛い。取り敢えず痛い。どこまでもただ痛い。


 その場にうずくまる。当たり前だ。

 胸を鋭い爪で引き裂かれ動けるわけがない。

 身体が熱くて温かい。

 血がいっぱい出ているからか、はたまた中身が出てしまっているのか。果てしない虚無感と喪失感が襲う。


「おいおいこのくらいで根を上げるなよ。

 これからが本番なんだから!!!」


 うずくまる僕の首筋に化け物が歯を立てた。

 獲物を捕食する肉食獣のように噛み付いた。


 あぁ。きっと僕は殺される。

 この化け物に食い殺される。

 人の少女の形をしたこの化け猫に、僕は殺される。


 僕は死ぬ。きっと死ぬ。必ず死ぬ。

 斬り裂かれ噛み付かれて血塗れな僕が生き残る可能性はきっとない。


 こうして僕の人生は幕を下ろす。

 短い生涯に終止符を打つ。

 高校入学のその日、僕の人生は終わる。


 そして、目を焼くようなヘッドライトを灯したオートバイが、化け猫を轢き飛ばしたのだった。

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