エピローグ
ラストです.
エピローグ
「こんにちは、赤井陽妃」
飛頼は何の前触れもなく言った。
飛頼は何の前触れもなくいた。
赤井陽妃の目の前に立っていた。
「君たちが愛の巣へ帰ることはもうないよ」
「……あなたは」
「飛頼という。飛が姓、頼が名だ。変な名前ですまないね」
「いえ……」
赤井陽妃は面食らっていた。名乗りでいきなり自虐されたからだ。他人に名前で自虐されると何と返答していいか困るのは誰もがご存じの通りである。
「訊かれる前に説明しておくが」
頼は先を急ぐ。
「私たちは君を〝封印〟しにきた」
真っ白な軍服姿。金色の肩章、バリバリな肩幅、分厚い胸板、きっちりと折り目のついたスラックス――ばっさり一言で表して――著してしまうのなら、白い学蘭である。ボタンは一列で、装飾はないと言っても過言ではない。ただ一つ、右肩から右腕全体を覆うように羽織られた、真っ赤な緞帳のようなマントを除いて。
血雨が、その白蘭の表面を水滴となって流れていく。
腰に差された真っ白なレイピアがかしゃんと音を立てた。
「君が最大に弱るこの瞬間を狙って」
そんなことはわかっている――とでも言いたげに赤井陽妃は頼に訊ねる。
「隣の女性は?」
「美子だよ。知っているだろう?」
「……美子……様?」
「『私』『名前』『み』『こ』『よろしく』『お願いします』」
自分を右手で指さした後、左の掌を上向きでこちらに向けて右手の親指をその中央にまるで拇印のように押す。右手で甲をこちらに向けて横向きに三の形をした後、同じく右手で小指側がこちらに向いた状態で親指を立て、他の四本を九十度に折る。鼻の前で同じく右手で小指側がこちらに向いた状態で軽く握り、そのまま手刀を切る――一目で超高価だと理解できる着物の女性が手話で答える。金箔が散りばめられた、赤地に薄桃の桜柄。金色の帯。艶っぽくそれでいてさっぱりとした印象のある黒髪を旋毛の辺りで纏め、もはや見た目では価格がさっぱりわからない暗めの金色の玉簪を刺している。
「……」
陽妃は、美子が手話で自分と言葉を交わしているのか訊ねる前にその理由を察した。
「『その通り』」
右手が前で左手がその斜め後ろ、両手とも軽く握り、胸の前から前方に出しながら人差し指と親指を二度摘むような動きをする――美子は手話で返す。
お察しのとおり。
彼女、美子こそが〝祝詞〟の唯一にして絶対の使い手。
膨大な制限がある。自らの声帯で発声する必要がある。同じ音の〝祝詞〟は二十四時間を経ないと再使用できない。音が異なる二つ以上の〝祝詞〟は同時に発動できない。
発声した言葉が全て魔術となる。
「何故美子……様がここに?」
美子が陽妃を指して手話を始めようとしたところを頼が制し、彼が答える。彼女の消耗を僅かでも減らそうという彼の配慮だろう。
「君を〝封印〟するためだよ」
「何故暮内一緒を助けたのですか?」
「君を〝封印〟するため」
これから始まる巨大にして膨大な術式の前に、少しでも消耗を避けるために。
「……」
そして陽妃も、この目前にした術式の本質に当然気付いていた。
――〝封殺〟ではなく〝封印〟。
「残念なことに君を殺すことはできない」
何故なら君は。
「その肉体に魂の百パーセント宿した歴史上二人目――現存する唯一の生命だからだ」
「……唯一」
彼は急ぎながらも説明をする様子である。
「……まあ、実のところ時間はいくらでもあるのだがね」
時間は既に停止していた。
「……」
「暮内一緒は――死んではいないが、暫くは復活しないだろう」
彼女の疑問に答えるように彼は言う。
「〝霧化〟、と云う能力が吸血鬼にはある。あるが、吸血鬼も魂を宿す器を必要とする以上、肉体を〝霧化〟すると云うことは魂までも細分化すると云うことでもある。吸血鬼の持つ肉体の回復作用と魂の同一化機能でいつか復元するだろうが、百年から数百年必要だろうな」
因みに、と彼は付言する。
「暮内宵は海に沈んだが、死にはしないだろう。君が彼に向かって発動した〝祝詞〟」
〝静〟。
「君は気付いているか知らないが、あの〝祝詞〟には〝不死〟という意味も含まれてしまっている」
「……」
「まあ当然〝旱〟を起動した時点でそれは解除されているし、一緒が復活するまで恐らく〝変化〟で『トゥエンティース・センチュリー・ボーイ』状態だろうが」
「?」
「すまない、誰かさんの癖が移ったようだ」
誰だ。
「君だよ」
……要するに、宵は〝変化〟で自身の皮膚を複殻式の耐殻圧の潜水艦のように〝変化〟して考えることをやめている状態にあるということだ。助けが来る約束があるという点でマジェント・マジェントより遥かにマシだろう。
「――で、話は戻るが、この〝時間停止〟はヴラド串刺公のものだ」
「……彼は暮内一緒に殺された筈では?」
「君も気付いているだろうが」
と彼は前置きして。けれど説明するつもりのようである。
「私は魂だけの存在だ。肉体はもっていない。死後〝相対世界〟に呼び戻されたんだ。彼も私と同様、魂の状態で使役されているんだよ。まあ、それ以前に彼は彼女に殺された後魂だけで現世に留まり彼の歴史全てを成し遂げたんだが」
「誰に?」使役されている、を彼女は省略している。
「世界政府だよ。世界の平和のために。美子も平和の一翼を担っている」
「……」
じゃあ、と陽妃は口を開く。
「私の晴雪は?」
懇願するように。
「……君はそれを成し遂げた。……いや、『遂げ』てはいないか。ただ君の蘇生術――便宜上こう言うが、それはたぶん代償を考えなければ、史上最も成功に近かったと思うよ」
成してはいた――
成し遂げても、功く成してもいないが。
「対して私に対して成されている降霊術――これも便宜上こう言うだけだが――私か降霊者が選択したものにしか触れられないし、第一肉体がないから活動に必要な触覚以外の感覚はほぼない。その上この術式で降霊したのは史上三人――これまで三度在った世界の終焉を、それぞれもたらした人物だ。私も、串刺公も、もう一人も。……君は……史学で知らなくても、その能力で知ってしまったか。……君も、たぶん条件を満たすよ」
霧雨晴雪くんは、満たさないだろうけれどね――と彼は言外に含めつつ。
「『もう一人』は今回君の前には現れないけれど、裏方で活躍してくれていたよ」
陽妃は無言で、頷くこともなく。
「私たちはただ馬車馬のように、永遠に世界(平和)に仕えるための」
使える奴隷。
「……」
彼女は一息の後。
「……平和?」
と全ての不満を彼女はその一言に込める。
「……知ってのとおり」
頼は淡々と。
「もう世界には戦争も飢餓もない」
「まだ世界には武器と差別があるのに?」
「……」
「それであなたたちは『平和』だと?」
「……君とのこの話題は、わかってはいたが平行線だな」
「……そうですね」
陽妃もむっとして、それ以上それについては何も言わなかった。
「……では、話を戻すが、その肉体に魂の百パーセント宿した生命は、君と、そのヴラド串刺公だけだ」
「……暮内一緒は?」
「君は気付いていなかったのかい? 魂の内在率は通常わかりにくいが内在率百パーセントなら一目でわかる筈だ」
「……」
「セレテト――一緒・エル・セレテト・〝ヴラド・ツェペシュ〟・暮内の魂内在率は九十九.七二(小数点第三位を四捨五入して以下切り捨て)パーセントだ」
「……」
「普通の人間の魂内在率の平均は三十二.一二(小数点第三位を四捨五入して以下切り捨て)パーセントだが、残りは何で満たされていると思う――って話はさっき一緒としていたね」
『セレテト』は『一緒』と云う意味ではないが便宜上同一人物を指すのでこう著す。
「そう、心だよ」
恋、愛、性。感情、志、思い。
「人との関係で満たされるもの」
心を満たす。
「その度合いが、人の幸福度」
絶対評価の幸福度。
「君はあの時気付いただろう?」
「あの時……?」
「そう、あの時」
昨年の十二月二十二日。
「暮内宵はどう見えた?」
彼を見た瞬間。どくんと、胸が高鳴った。満月に照らされた彼は、逆光である筈なのに光り輝いて見えた。
「彼は魂内蔵率こそ七十二.一パーセントジャストだが、残りの二十七.九パーセントの隙間を全て心が満たしている」
「……」
「魂内蔵率百パーセントのドラコ――ヴラド串刺公は、心などなく無慈悲にただ合理的に合目的的に目標まで突き進む。心を、他者を拠り所とすることを必要としない人間だった」
〝完全〟。
「一緒は、彼と一対で何らかの役割をもつ筈だったのだが、彼女は〝完全〟ではなかった」
九十九.七二パーセント。彼女は僅かに満たされぬまま生まれ、そして彼女は愛した男を失った、たった〇.二八パーセントの心の隙間を――虚無を、埋めることができずに現在に至るのだ。
「君の心は」
と頼は目の前の陽妃と、その横に立つ霧雨晴雪を順に見る。
「満たされたかい?」
「私は……」
無意識的に、全てを発動させた。〝改変〟――〝機械〟。彼の再生を願い、その代償に、魂が肉体に無理矢理百パーセントぶち込まれた十二月二十二日。
「陽妃は、気付いていなかったよ。俺も言わなかった」
と晴雪は優しい声で陽妃に話しかける。
「君の溢れ出した心で、俺は満たされている」
だからこそ、彼は彼女の全てを理解することができる。彼女の全てを否定しないでいられる。
「……そうだったの……?」
魂内蔵率五十五.五パーセント。その全てが外部機関の「透明な刀」に宿り彼の肉体を動かす。そしてそれでも霧雨晴雪は、殆ど満たされている。二人の心を、その継ぎ接ぎだらけの肉体に宿す。
「陽妃、君の願いは、どうやら叶ったようだね」
頼は敢えて言葉にした。
自分を理解する他者を渇望する――赤井陽妃の願いは叶った。
霧雨晴雪と出会ったとき既にその願いが叶っていたとは、頼は言わなかった。
「私たちは私たちのルールで君が誤った――過ちを犯したと判断して、君を裁きにきているわけだ。君が本当に正しいか正しくないかは、どこかにおわす神が決めることだ」
君が自分で決めることだ。
そう彼は言った。
「そんなことは聡い君ならわかっているだろうけれどね」
彼は優しく諭すように、彼女にそんな言葉をかけた。
「……神を信じているのですか?」
彼女は訊ね、彼は答える。
「生前は日本神道だったが死後は特に」
「宗教の話ではなくって――」
「ああ」
と彼は一つ頷いて。
「創造主としての神は、いるんじゃないかな」
「……」
彼女は一つ頷いて――理解したのだろう。理解していたのだろう。
〝改変〟という――神にも等しい能力を得たときに。
ただ確認と、確信のために。
「……では何故創造主は、白血球として私たちを産んだんでしょう。吸血鬼[〝吸血鬼〟]たちや、人類を滅ぼしたい――数を減らしたいのなら、自然災害でも起こせばよかったのに」
「……それは人類以外をできるだけ壊したくないからじゃないかな。これは想像でしかないけれどね」
「……」
彼女はまた一つ頷いて。
……どうやらそれについての話はそこで終わったようだった。彼女が納得した様子だったからだ。話を戻すが、とこの短時間で何度言ったかわからない台詞を繰り返して、彼は続ける。
「君は全ての〝悪〟を抹殺するために大半の〝善〟までも排除してしまった。私たちはそれを許すことができない。できないけれど、私たちはこの世界を守るために、君の作ったシステムを――〝システム〟を、守っていかなければならないのが皮肉だね」
そんな自虐を、陽妃は無言で呑み込んで。
「ねえ」
赤井陽妃は、ぼそりと口を開く。
「一つだけ、訊いていい――ですか?」
「ああ」
彼女の言葉に、飛頼は脳内で――魂の彼にはそんな実体的なものはないのであるが――「最期に」と云う文節を彼女の言葉の文頭に置きながら、短く答えた。
「魂が不死だと言うのなら――私が〝封印〟された後の魂は、私の魂は」
彼の魂と永遠に一緒にいられますか。
赤井陽妃のその言葉の語尾は上がらなかった。
「ああ、そうだよ」
と彼は優しい嘘を吐いた。
「そう――ですか」
と彼女も納得するように、笑顔で頷いた。
そのたった三つの鍵括弧に収まってしまうような会話は、まるで儀式のようだった。
その魂は百パーセントが肉体に宿り、その肉体は外皮から内蔵まで徹底して〝機械〟化された赤井陽妃。
完成形。
――飛頼は表情を変えずに。
「それじゃあ」
まるで全ての説明を終えたかのように、話を切り出す。
「さようなら赤井陽妃」
良い夢を。
頼はやはり表情を変えぬまま、挨拶を告げた。
本当は彼女を〝封印〟しても、それはいつか解けてしまうもので――二人の〝封印〟は〝封殺〟では決してないのだ――いつか彼女は平然と復活してしまうのだが。
まるで、二月に復活し一年間掛けて力をつけた敵を、こちらも力をつけたヒロインたちが翌年の一月に斃す――日曜朝の女児向けアニメのように。
復活したら、彼ら彼女らの意志を継いだ誰かが、また闘って〝封印〟するだけだし――
それはただの蛇足だ。
「わかりました。私も年貢を納めます」
だいぶぼやっとした日本語で、赤井陽妃は答えた。
「なんて――」
言うわけがない、とまで陽妃は発言できなかった。能力の発現さえろくにできなかった。
陽妃は停止した時間の中で動作を開始した。彼女が使役できる全ての魂のエネルギーを総動員させて――大地は青白く輝いた。
しかしそれも一瞬。
頼が瞬く間もなく腰に差したレイピアを左手で抜く。五度。彼女の五体をそれぞれ突き刺した。ばさりとマントが彼の動きを追う。
かしゃん――赤井陽妃の眼鏡が大地に落ちる。陽妃はどさりと大地に倒れ、首、手首、足首が、
「〝留〟」
美子の一言で頑丈に固定される。頼が剣を陽妃の心臓の位置に突き立てる。陽妃の背にする地面には、二重の円の中に六芒星。魔方陣。
仰向けの陽妃の横に、ぱたり、と、こちらも仰向けに。
晴雪が静かに眠るように――彼女に寄り添うように。
胸の前で組まれた両手には、陽妃の、あの日切り離された三つ編みが――女の命たる髪が、握られていた。
「君への〝封印〟――肉体への〝封印〟は吸血鬼[〝吸血鬼〟]の牙の能力――と云うか〝無血〟本来の性質、『〝無血〟は吸血鬼[〝吸血鬼〟]に血液を吸われても〝吸血鬼〟にならない』、つまり『〝無血〟は〝吸血鬼〟に血を吸われ続け、失血死させることができる』と云うものを利用した術を使う」
その「吸血鬼[〝吸血鬼〟]の牙」の能力、性能は、けれど彼らの魔術を以てしても頼の剣先に僅かに塗布するに留まり、かつ陽妃は自己再生能力が高いため彼女を決して殺し切ることができない。
「魂の〝封印〟に関しては――君の察しの通りだ」
死することのない魂は、死することのない肉体に強固に紐付けされ、美子の〝祝詞〟と、「セレテト」と暮内エルの集合体をそうしていたものと同じ〝封印〟、そして世界政府数百人の力を以てしても、魂を〝絶対世界〟へと返還せしめることはできない。
紐付けされたまま、無理矢理引き剥がしてただ別々の場所に分担して〝封印〟するだけだ。
そんなことは美子たち全員の能力の仲介をしている飛頼は当然として。
自身の魂と肉体のことだ。幾億の魂を常に扱っていた――赤井陽妃にもわかりきったことだ。
まるで癌患者が自身の病状を告知なしに知ってしまうように。
頼は立ち上がる。
「美子の拘束術〝留〟はもって五秒だ。一緒に私たちが助力して拘束し、彼女に〝吸血〟させると云う手は勿論考慮すべき手段だが、五秒では君の血液を致死量まで〝吸血〟することはできないし、串刺公の〝時間停止〟は絶対的過ぎて君の動きと同時に彼女の動きまで停めてしまうから現実的に考えると『君にダメージは与えられるかな』程度だな」
誰かの疑問に回答するように彼は言う。言いながら彼は二歩歩み、美子の隣へと行く。一つぽんと彼女の肩を叩いた。
「赤い夕陽が沈んだ後には」
赤井陽妃が仰向けに拘束されたまま吠える。
「必ずまた太陽は昇るのだから」
飛頼の隣に立つ美子は、一つ小さく深呼吸――浅呼吸して、陽妃を封じる〝祝詞〟を。
たった一言――この物語を、赤井陽妃と霧雨晴雪の物語を「完」にして「了」せる一言を――小さく、けれど確かに発する。
「〝終〟」
お読みいただきありがとうございました.
感想や誤字脱字ございましたらご連絡いただければ,これさいわい.