4: Yio Kurenai
「一緒」の綴りはサブタイトルの通りです.
四
......Darkening Together
「『人生をやり直すことができるのならば、あなたはどこからやり直しますか?』
そんな問いを、私にしないでほしい。
だって同じ私なのだから、同じ選択をして、同じ人を好きになって――
同じ失敗をして。
私はまた、カタルシスのない悲劇を上演するだけなのだから」
暮内一緒は、フルネームを「一緒・エル・セレテト・〝ヴラド・ツェペシュ〟・暮内」という――それは彼女の長い人生そのものであり、或る種の墓標だ。
セレテト。
ヴラド串刺公。
暮内エル。
――暮内一緒。
幾星霜を文字通り越えて、今年で……何歳になったのだろうか。
彼女自身も、あまり覚えていない。だいたい千歳ぐらいだ。……確か。
いや、不確かである。
生まれたときから虐げられていたその少女。
生まれてしばらくは名前がなかったその少女。
彼女はその特異性から捨てられ、そして或る地の領主に拾われ〝セレテト〟と名付けられた。彼女は拾われた彼に名とともに愛を貰い――彼を、愛した。
〝セレテト〟当時の彼女――最初の彼女。
有する能力は〝空間操作〟。世界を支配する能力――その一端。
二十七歳。自身と同じ刻に誕生したもう一人の同類――ヴラド串刺公と出会う。
出会うべくして出会う。
串刺公の能力は〝時間操作〟。世界を支配する能力――そのもう一端。
本来二人は、共に存る者として誕生したのかもしれない。しれないが――そんなこと知らんと、彼女は云わんばかりに、愛する彼と彼の領土と、二人の愛の巣を脅かすヴラド串刺公を。
〝セレテト〟当時の彼女は斃し――喰い尽くした。……そうして。
二十七歳で、世界を手にした代わりに、最愛の人を失くした彼女は。
二十七歳で成長――二十歳を過ぎたときからは老化だが――が止まった彼女は。
ヴラド・〝セレテト〟・ツェペッシュ当時の彼女。
ヴラド串刺公を喰い、そう改名した彼女は――能力はそれでもまだ、〝空間操作〟。
彼女はヴラド串刺公の全てを喰ったが――彼女はそれを、どこかで拒絶していたのだろう。
それからは、長い長い――永い永い、一人旅。
ボンキュッボンの魅力的な身体を振りかざして。
気ままにハンドルを切って、ミラーを擦らせて、出会った男をすかさず食った。
喰った。
たまにいい男を彼氏にして――〝吸血鬼〟にして、同棲した。
そして喰った。
戦争のときが一番楽しかった。入れ喰い状態だった。男たちは女に飢え、彼女はただ単に飢えていた。彼女は、比較的平和主義な吸血鬼で――吸血鬼はもはや世界に彼女一人しか存在していなかったため比較対象などないのだが――あまり目立ちたくなかったのだ。あまり目立って女性の敵とか謂われのない言われ方をされたくなかったのだ――昔を思い出すから。
生まれてから捨てられるまでのあのときを思い出すから。
――……いつの間にか、彼女が血を吸った人間が〝吸血鬼〟になってもその人間には永遠を誓った相手が必ず存在するようになった――そしてその女は〝無血〟という存在だった。
更に自暴自棄になった。
二度目の恋。『暮内エル』と云う名の少女を〝吸血鬼〟にし――してしまい、彼女と一人の男――〝無血〟の男、『暮内隣』を奪い合って闘った。
その挙げ句――暮内宵の祖母たちに〝封印〟され。
二人の肉体が溶け合っていく。
暮内エル――能力は〝時間停止〟。
二人の肉体と精神は、暮内隣への愛と欲望を鎹にして、一つになった。
ヴラド・〝セレテト〟・ツェペッシュのダイナミックボディと、暮内エルの幼児体型が混ざり、身体年齢的には二十歳前後なのに、肉体的にはなんか普通になってしまった彼女。
日光が苦手なのは、或る時代に「魔女」として徹底的に迫害され、或る呪いを受けたから。
まるで動物のように――火を恐れる呪い。火炙りの呪い。
暫くはかなり苦しめられたが、対抗する魔術を張るように訓練し、そしてもう現在ではその呪い自体がだいぶ薄まってきていた。
そしてたまに、日光浴をするようになった。苦手だし、痛かったけれど、嫌いではなくなった。その後の数日は寝たきりで、天井に手首を落とした人間をぶら下げて、その血を浴びなければならなかったけれど。
とは云っても、彼女にとっては、それはたまに贅沢する――お祭りのようなものだった。
ただの血祭りだった。
十字架と銀系のものが苦手なのは、火炙りと同じ時代に似たような術式の魔術を埋め込んだそれらを浴びせられたから。
大蒜が苦手なのは、いつだったか彼氏にらっきょうだって言われてカレーに添えられてて、食べたら吐いたから。気持ち悪かった。そして結局フラれた。※美味しくいただきました。
水が苦手なのは、最初の記憶が、湖に落とされて溺れたから。トラウマを刺激されるから。今でも泳げない――温泉は好きだけれど。
聖水が苦手なのは、いつだったか彼氏に「これが私の聖水だ」って――思い出したくもない。
死のような深い眠りから逃れられないのは……これも呪いだったかなー忘れた。
そんな彼女――現在の彼女。
その能力をついに終着点――〝時空間操作〟――まさに世界を支配する能力まで発展させ。
――また、名前を失ってしまった彼女は。
我ながら簡単だと思いながらも、彼女はまた、恋をした。
〇.二八パーセントの間隙を埋めるために。
『君の名前は、……そうだな。〝セレテト〟――〝セレテト〟って、どうかな?』
――あの日彼が、まだ赤ん坊の私にそう言ったときのように。
『「一緒」って書いて〝イオ〟――〝イオ〟ってどうかな?』
――あの日あなたは、私に優しくそう言った。――……私は。
三度目の恋をした――している彼女は。
暮内一緒と名付けられた。
一緒にいようと言われた。
*
一緒に寝ようといわれたのが、その僅か数日後だということは、云わぬが華であろう。
『云っちゃった!』
こっそり宵と同じイニシャルにすべく表記を変えたことはまだ宵も気付いていないし。
『言っちゃった!』
……まあ、結局彼ら二人は、一緒の布団で――一緒の布団で、眠ったことはないのだが。
この百年。
結局、遥か昔に流行った言葉で表すのなら「草食系男子」である〝吸血鬼〟(なんとも滑稽な表現である)であるところの暮内宵は、一緒に手を出せずにいたのだった。
『魂、って知ってますか』
二人はかの有名な時計台にいた。愛称は「ビッグ・ベン」、正式名称は「エリザベス・タワー」、経度ほぼ〇の世界の基準点。
『時計台にいた』と簡単に云ったが、二人は時計台の塔の天辺、その先端に立っていた。暮内一緒が、暮内宵を背負っていた。消耗しきった宵を、一緒が介抱していた。彼は槍の状態から元に戻り、彼女にされるがままである。
赤井陽妃の『〝解〟』によって指定もなく空間転移させられた暮内一緒と暮内宵は、どうやらイングランドのロンドンに飛ばされたようだった。その後一緒は城に〝転移〟させていた暮内宵を自身の元へと再び〝転移〟させたらしい。パリの件を省みたのか、恐らく彼の万全な安全のためだろう。
天気は雲量一の快晴。眼下には歴史的に貴重な建築様式で埋め尽くされた美しい街並みが、昼過ぎの陽光に鮮明に照らされている。人影は疎らで、公道上にはかの有名な二階建ての真っ赤な連接バス――陽妃の能力によってそれらはトロリーバスになってしまっているが――が文字通り我が物顔で走っている。
いや機関車トーマス的な意味ではない。
『んなことわかっとるわ』
暮内宵がぼそりと言う。続いて暮内一緒も、
『〝解〟……〝時計〟?』
宵にも聞こえたかわからないような小声で呟く。
かつて魔術を学んだ魔法魔術学校にほんの一瞬思いを馳せて、彼女は宵を背負ったまま、翼を広げる。普段は両肩甲骨の辺りから生やすのだが、今回はその辺りが塞がっているから背中側の腸骨の辺りから生やしている。――目指すは赤井陽妃の存在を感じる方角。
とん。
彼女は宵を背負ったまま、いかにも軽い感じで時計台の鋒を蹴り出す。そのまま〝空間操作〟と翼でバランスを取りながら、安定飛行に入る。彼女の〝空間操作〟は二人の周囲を快適な空気で包み込み、日光は勿論のこと、風圧や温度・湿度管理も徹底している。(……恐らく陽妃たちの位置はさほど変わっていないな)と暮内一緒は予測する。その方角は殆ど真東だった。
『アンタノタマシイ、イタダクヨ?』
『……ソウデス、ソノタマシイデスヨ』
高度は一気に三百メートル程。平生の彼女たちの飛行高度よりは若干高めだ。まあ普段の移動は〝転移〟で済ませているし、飛行するときは景観を楽しむことが目的なのでもう少し低い。速度は九百ノット強。ロンドンからチョルノーブィリまでがだいたい二千百キロメートル程(経度的に言うと三十度くらいの差)なので二時間もかからない。今回は用心と、主に宵の体調の回復を兼ねてそこまで高くはない高度を飛行して移動しているのであった。
『って云うか知らないふりをしないでください』
一緒は前を向いたまま言う。薄い雲が猛烈な速度で近付いてきて、一瞬中に入って視界が真っ白になったかと思えば、瞬く間に青い空に包まれる。
『フランスで赤井陽妃に聞いたでしょう』
『……』
『忘れたんですか』
彼女は語尾を上げなかった。一つ、諦めの溜息を。
彼女が彼と共にいることを実感できる、一つの習慣としての優しい溜息を――吐いた。
『それじゃあ、復習しながらいきますよ』
『復讐は赤井陽妃だけでお腹いっぱい』
『落としますよ』
『すみませんでした』
『……それで?』
『魂は、本当に私たちの肉体に宿っているんです。吸血鬼にも、〝吸血鬼〟にも、そして人間にも。けれど魂は人間に関してはその百パーセントが宿っているわけではないんです』
『……どういうこと?』
宵の「……」は思考の間である。
『「人間の脳は十パーセントしか使われていない」という話を知っていますか?』
『聞いたことある!』
完全にフランスで聞いた話である。
『まあそれはただのデマですが』
『デマなんかい!』
陽妃はものの譬えとして出したようである。
『要するにそんなような話なのです。脳ではなく、本来存在する魂のうち、普通の人間にはだいたい十パーセントしか肉体に宿っていません』
『それが二十一グラムってこと?』
『それもデマ――と云うかそれは実験の不備です』
『……』
いじける宵。
『人間の中でも「天才」と呼ばれるものは、その魂の宿っている量が二十から三十パーセントなのです』
『なるほど……』
あまり理解していない様子なのに相槌だけはいっちょまえな宵。
『じゃあその肉体に宿っていない残りの魂はどこにあるの?』
『さあ?』
『さあって……』
『私もよく知りません。地球上のどこかに「生死問わず――生前生後死後を問わず全ての人間の魂を〝審判〟まで保管する異空間」があるらしい、です。一説では成層圏をぐるりと囲っているとか』
『どこの一説だよ』
『私も頼からの話でしか聞いたことがありません。なんでも、この世界(現世)は「生者のみを扱う」と云う意味で〝相対世界〟と云い、対して前述の「魂の世界」は〝絶対世界〟と云うらしいですよ』
『……それ云ってるの実質頼さんとその周囲だけでしょ』
『ですね。この辺の名称は、英語を学ぶ際の「再帰代名詞」等の文法用語ぐらい必要ありません』
一緒の例えに、彼は理解している風の諦めの溜息を吐いた。
『あなたは「今私がなんでこの話をしているのか」に全く気付いていないようですが』
話を戻します、と一緒も一つ息を吐く。
『私たちのことです。元々〝完全〟として――「完璧な人間」として誕生した私と、あのクスカスは、肉体に百パーセントの魂を宿した人間でした。魂内蔵三十パーセントで「天才」なのです。百パーセントだと物理法則を越えた能力を私たちが持っているのは或る種当然なのかもしれません――けれど』
けれど、と彼女はアメリカのコメディドラマのような呆れ顔をして続ける。
『私があのときあのクスカスを――「人間」を「喰い殺す」ということをしてしまったがために、後のフィクションの世界での「吸血鬼」に、私が定義されてしまいました。そのせいで元来弱点でもなんでもなかったものまで私の弱点になってしまいましたし』
『……そうなの?』
それはまるで呪いのように。
『私を――〝ヴラド・ツェペシュ〟を「吸血鬼」と定義することによって、時代々々の呪術師や魔術師、祓魔師言霊師霊媒師が寄ってたかって私を攻め込み私に明に暗に明示暗示を――特に弱点に関するそれをし続けていましたからね。百年も続けられればそうなりますよ』
宵の表情は恐怖で軽く引き攣っていた。
『〝吸血鬼〟――私が血を吸って生き延びた元人間は、その兆候が顕著です。孫〝吸血鬼〟、曾孫〝吸血鬼〟と続くとより一層。〝吸血鬼〟たちは定義上、「血を失った分を魂で補う」。ただ例えば「魂内蔵率七十パーセント」でも「吸血鬼(〝吸血鬼〟)に吸われた血液がその人の血液の七十パーセント」というわけではありません』
『魂内蔵率、って簡単に言うけどそんなのどうやってわかんの?』
『私の〝時空間操作〟は魂による肉体内部の〝揺らぎ〟が見えるんです。言ってませんでした?』
『聞いてません』
それは彼が聞いたことを忘れているだけなのか、彼女が話していなかったのか。
暮内宵は阿呆みたいな顔をしてその話にうんうん頷いている。
『〝吸血鬼〟の魂内蔵率はだいたい五十から百パーセント未満です。これまで暮内エルが九十二パーセントで最高でしたけれど――霧雨晴雪は五十五パーセント』
そして私は――
『私の魂は実のところ百パーセントではありません』
『え? さっき百パーセントだって』
『説明の便宜上そう言っただけです』
「便宜上」という言葉は便利ですね。
『……生まれた当時は、たぶん九十九パーセントぐらいだったと思います。それが予定されていたものなのか不備なのかは、私には今でもわかりません。今は九十九.七二パーセント。あの日、暮内エルと一つになったとき、魂もある程度混ざり合いました。エルの魂内蔵率も高かったですし、二つの肉体が一つになって溢れたエルの魂は、けれど徐々に〝絶対世界(あの世)〟へと還っていきました。今ではもう殆ど私の魂だけでエルのそれはもうありません』
『その、増えた〇.七二パーセントは?』
『わかりません……彼女の、置き土産、なのかも』
そうして、彼女は一つ息を吐いて。
やっと本題です。
『赤井陽妃の、能力のことです』
『……今までの話と、赤井陽妃の能力が』
何の関係が、と言いかけて、宵は気付く。
『……、……一体何の関係があるんだ』
気付いていなかった。
『赤井陽妃の能力のことですが』
もう一緒は溜息を吐くことさえやめた。
『〝機械〟は彼女の能力の一部でしかありません』
彼女は顔を上げて、ぼんやりと天上を見上げる。
『彼女の能力は――』
言いながら、暮内一緒と暮内宵はロンドンからチョルノーブィリ方面へと。
真東――彼女たちは〝未来〟へ向かって飛行していく。
一緒は独りごちる。
(時間が〝過去〟から〝現在〟――〝未来〟へと流れていくなんて、それこそ〝相対世界〟に生きる私たちの、感覚でしかないのでしょうけれど)
*
「やっと」
がしゃん、と。
暮内一緒は、赤井陽妃と霧雨晴雪二人の目の前に、担いでいた黒い骸骨――〝機械〟を下ろす。およそ人間一人分の重さだった。
「全てを把握しました」
彼女は一つ、煙草でも銜えているかのように長い息を吐いた。
――そう。一緒と宵が〝退〟で〝時計〟――時計台へと移動させられたのに対し、陽妃と晴雪はおよそ一時間半程未来へと移動したのだ。
一時間半程「意識を失っていた」と云ってもいい。
「あなたの能力、一体何なんですか」
一緒は問うた。
陽妃は答えることなく。
彼女は大地を見つめたまま。罅割れて乾燥し、汚染された大地を、そしてそれから決して逃れられることのできない自身の足を、見つめたまま。
大地が。
大地の全てが青白く輝き始める。
「これは……」
四人の影が天へと伸びる。
これは――魂の光。
魂の輝き。
「天地閉闔」
陽妃の両手に二本の刀が現れる。
「〝地晴雨〟」
二本の、日本刀。
「あなたの能力は」
暮内一緒は表情を変えずに。
「〝改変〟――と、呼ぶべきものでしょう」
〝改変〟。
「あらゆるものをあなたの思い通りに改め変える能力」
この世の全ても、あの世の全ても、
肉体も――魂さえも。
無限に存在する魂のエネルギーを利用して。
「それはもう人も吸血鬼も越えた力だ」
*
ドーヴァー海峡上空。
チョルノーブィリへと向かう途中の暮内一緒と暮内宵。
『〝改変〟?』
と宵が一緒に問う。
『まあ〝機械〟以上に大雑把なネーミングですけど』
彼女は今度は不服そうだ。当然、色々な理由がある。その最も大きなものが「能力の範囲と効果の広さ」だ。
『赤井陽妃の魂も、あの十二月二十三日に百パーセント肉体に宿った。彼女は〝無血〟として、ですけれど。彼女の能力は――彼女の願いは、彼女が今ある苦しみから開放されること』
あの瞬間の、彼女の苦しみから開放されること。
空気が彼らを避けていく。寒さも衝撃も音さえもない、二人の声しか聞こえない。
ただ二人だけの〝空間〟。
『彼女は、目の前で無惨な残骸となった霧雨晴雪を、蘇生させる能力を覚醒させた』
同時に、彼女のこれまでの苦しみを解消させる能力を発動させた。
『その中で最も彼女が欲して――最も禁忌だった能力が、「魂を呼び戻す能力」』
暮内一緒が喰い殺し、完全に大地に還った霧雨晴雪の魂を、その肉体を復元し、再びそれに宿らせる能力。
『霧雨晴雪の蘇生には二つの能力が必要でした――「魂の〝|絶対世界(あの世)〟からの奪還と肉体の再生」、そして「霧雨晴雪(と自分)が何事もなく生きていける世界の構築」――これらを全て叶える能力が〝改変〟です』
〝相対世界(この世)〟で生ける魂と、〝絶対世界(あの世)〟で眠る魂さえ使役し、霧雨晴雪を呼び戻し、生ける魂の意識も認識も操り、かつ膨大な魂の無限のエネルギーを使用してあらゆる物事を塗り替える。
『結果として、彼女は彼の蘇生に成功しました。肉体は、残骸と〝機械〟の能力と、そして「私が血肉を啜った」と云う属性を利用して。魂は、彼女が自分勝手に〝改変〟した世界で生きられなくなった人間の、数多の魂を生贄にして』
結果的に、霧雨晴雪は〝吸血鬼〟としてしか蘇生できなかったけれど。
『彼の魂を呼び戻し続けるために――自然の摂理に従って〝絶対世界〟に戻ろうとする彼の魂を引き留め続けるために、彼女は定期的に大量虐殺を――魂を大量に送って世界をごまかさなければならなかったし――それも長くは続かないでしょう』
そしてきっと彼女は知っている。
赤井陽妃にそうさせることが、彼女にそんな膨大にして莫大な能力を――
「誰か」が与えた理由だと。
*
――もう、残された時間は僅かだった。
赤井陽妃に残された時間は僅かだった。
正確に云えば、赤井陽妃の霧雨晴雪に残された時間は僅かだった。
……あと七万飛んで二千二百五人。
――晴雪の魂を〝相対世界(この世)〟に留めておけるのはあとどれくらいの長さだろう。
「まさか〝|絶対世界(あの世)〟が天ではなく大地にあるとは思いませんでしたが」
翻って現在。暮内一緒の話はまだ続いているようである。
当然赤井陽妃はそんなこと聞いちゃいない。
陽妃の姿が、足元から一瞬白黒灰色のモザイク柄になった後変化していく。真っ黒な十センチメートルヒールのブーツ。踝の部分には皿捻子の飾り。右足はプラス、左はマイナス。膝下までブーツが覆った後、彼女の全身をダークカラーのライダースーツのようなレザースーツのようなものがぴったりと包んでいく。膝、膕、太腿、臀部、下腹部腰肋骨胸部肩甲骨鎖骨腋、まで来たところで、地面に突き刺された刀に触れる両手指先から下腕上腕と順に覆われてきたものと繋がる。そして肩、首まで包まれたところで彼女の衣装チェンジは終わった。そのスーツは、素材は皮革やケブラーではなく恐らく金属製で、関節部分は球体関節人形のそれのようになっている。ただ彼女が体のどこかを動かそうとぎしぎしとは、
「あんあんとも」
言わなかった。……言わねーよ一緒。動く度に性感帯刺激する服によって戦闘力が増すとか主な登場人物の能力としてどうなんだ。
ともかく。
赤井陽妃は実にスムーズに動く、スーツと完全に一体化した〝機械〟の肉体を軽く動かす。音もなくシームレスに脳の電気信号を忠実に実行していた。
そして――
彼女の背と頭上が煌々と輝き始める。彼女の周囲にふわりふわりと舞い上がり始めたそれは、真っ白な羽毛だった。彼女の背の、黒々としたステルス戦闘機の翼は光と共に目を曇らせるほど白い翼へと。
そして彼女の〝機械〟を制御するかのように浮かんでいた鉄のリングは、あらかた想像されていた通り、光り輝く蛍光灯に変わる。
「変わるか!」
陽妃の声がエコーがかって周囲の耳に届く。
彼女のリングは、本当の、本物の、天使の輪へと変貌する。
後光が差す。
赤井陽妃は両手に握った刀を何の構えもなくだらりと垂らす。
たったひとり、彼女は大地に立つ。
たったひとり、彼女は大地に立つ。
「必ず殺す」
必殺。
――ただ真っ直ぐ、陽妃は一緒へと向かって飛んで行く。地面すれすれを砂を巻き上げて。きいん、と甲高い音が耳の奥に響く。両の刀をVの字に振り下ろす。一緒は槍――暮内宵が〝変化〟したものだ――と刀で、鋒を地面に突き立てて受け止める。ぎゃあん。その迫撃はむしろ爆撃といってもよさそうなもので、通常の刃物であったら砕け散っていたであろう。周囲の空気の振動でさえそのことが理解できる。
しかしこの程度か――と一緒が思った瞬間。
「ぐっ!」
ぐうの音も出ぬ程の衝撃が彼女の脳天を襲った。彼女はそれが何だったかを確認する間もなく彼女が足をつけていた砂浜に首まで埋まる。砂浜――? と彼女が思う間もなく。陽妃が左手の刀(の鋒)で大地を梳りながら一緒の首を刎ねる。
「とった――」
「――」
彼女の頭部は声もなく哄笑する。ばさばさと金髪が首に絡みつく。
すっぱりと切断されたその首。頭部の方から全身が生えてくる。ワグナリアか。
「プラナリアな。私ゃファミレスか」
ご丁寧に服まで膝丈で水色のふりふりワンピースドレスに新調されている。切断された後の首から下は砂粒となって消滅する。
そして一緒は改めて周囲を確認する。
青い空。青い海。白い砂浜。そして白いチャペル。
グァム島北東海岸――パティポイント。
「……〝固有結界〟」
赤井陽妃の〝固有結界〟。
彼女の夢が詰まった場所。
「というか場所自体は現実で、〝空間転移〟と外界を遮断する〝結界〟を張っているだけ、だと思いますけど」
その通りである。
「で……それは何?」
暮内一緒は「それ」を手ぶらの指でさして、赤井陽妃にわかりきった質問をする。
「棺桶、ですけど」
そして陽妃もわかりきった答えを返す。暮内一緒の頭をかち割りかねない勢いでぶつかったそれである。まるでRPGの主人公のように、陽妃はそれを後方二メートルほどのところに引き連れていた。
真っ黒な、木製の、よくある長い六角形のような形状をした、
〝吸血鬼〟が眠るそれ。
*
いつからだろう。「正しいこと」以外が許せなくなったことは。
歩き煙草からのポイ捨て。公共交通機関での食事や化粧その他。赤信号で交差点に進入する乗用車。騒音、公害、労働災害、環境破壊、Et Cætera.政治は、歴史で学んだよりは遥かにまともになっているけれど。歴史からちゃんと学んだということなのだろうか。
赤井陽妃としては決して認めたくはないことだったが。
それは、その意識は、彼女の憎むべき母親の、教育の賜と云うべきものだった。
教育――そうとしか云うべくもないものだった。
彼女にとってはひどくコンプレックスに感じていたことだった。
しょき、しょき。
髪を切る音が、しんと寒さが染みるリヴィングルームに響く。
空気は清廉にして澄み渡り、二人の吐く息さえ潔白である。
木製のテーブルが部屋の隅に寄せられていて、中心に背が低めで肘掛けのあるタイプの回転椅子。赤井陽妃が霧雨晴雪に背を向けて座っている。
背というか、後頭部というか。
永美四十年十二月三十一日。年の瀬迫る師走の終わり。午後三時頃。
あの日、同じ年の十二月二十二日深夜――三つ編みが切り落とされて散切りになってしまった左の後頭部、そこを丁寧に切り揃えるために、二人はそこにそうしていた。
この家の――この〝結界〟の外には、暮内一緒と暮内宵が二人して寒い中陽妃たちを監視している、あの時期である。
結局陽妃と晴雪が「普段通り」を続けられたのは十二月二十三日だけで。
翌日からは一緒と宵が監視していた通り、家の中でじっとしていた。せざるを得なかった。
霧雨晴雪の魂を、赤井陽妃製の急造の肉体に定着させるのに集中するためだった。彼の肉体と魂が安定するまでに用したのは結果として一週間。その間はずっと室内に籠もり、室内でできることをして、不安定になればその場で処置をする、という形で過ごしていた。そして霧雨晴雪の状態がようやく安定したのは十二月三十一日深夜。ちょうど一緒と宵が監視をやめて帰った少し後だった。
「晴天の夕暮れって、どうしてこんなに現実感がないんだろうね」
ふと赤井陽妃は口を開く。
「うーん……なんでだろうね」
晴雪は否定も肯定もせずにぼんやりと答える。
今日は髪を切ってくれない? ――その日は昼過ぎに比較的安定してきた晴雪に陽妃はそう言って、そしてこの状態、この時間になるまで黙って後ろ髪をしょきしょきされていた。
ふう、と彼は一つ息を吐いた。彼は微笑みを湛えたまま。
「美しいから――かな」
アルトヴォイスが部屋に響く。
陽妃はそれを聴いて、聴き入ってふと顔を上げて、目を輝かせる。
眼前にはカーテンが開け放たれ、陽光が斜めに降り注ぐ南向きの大きな窓。金赤からスカーレットに染まる空、天上はまだスカイブルーが残っていて芸術では表せないほどのグラデーションが窓を埋め尽くしている。
窓の向こうの庭には父親の趣味だった(らしい、としか彼女も知らない)松がくねくねと植えられていて、冬の陽射しでもきらきらと緑色に輝いている。勿論それが立派な松であることも彼女は知らない。日曜日もくもくと松をいじる父親の背中を見ているときだけは、彼のことを少しだけいとおしいと思ったりもしたことをふと思い出す。
エレクトラ・コンプレックス――彼女は想起されたその言葉を、少し俯くことで飲み下す。
「どうかな」
と彼女は彼に訊ねた。
髪形――のことではない。
彼女が作り変えたこの世界のことだ。
「夕焼けが、心なしか普段より綺麗に見えるね」
君のおかげで、彼は言外に込めながら。
彼は、決して彼女を否定しない。
彼は、決して何事も否定しない。
彼以外の誰かなら、「潔癖」とか「純潔」とか、いい意味でないほうの「潔」を使って非難するところだが。
この世の全てを――自分さえ断罪するのが赤井陽妃の〝改変〟だとすると。
この世の全てを――最悪さえ容認するのが霧雨晴雪の〝追従〟なのだ。
この時点ではまだ彼の能力に「追従」という名は付いていないが。
そして更に云えば。
二人は――暮内宵と赤井陽妃は、同様に〝変化〟を望んだ。
暮内宵は〝変化〟を望んだ。
赤井陽妃は〝変化〟を望んだ。
ただ、二人はその方向に違いがあった。
暮内宵は、内々に鬱屈し、友達のいない学生生活を送り、引き籠もりがちになり、就職にも失敗し――そんな「当たり前のこと」――社会生活で、社会的動物たる人間にとって「当たり前のこと」もできない自分が嫌になって、〝変化〟を望んだ。
そんな彼が望む〝変化〟は。
自身の〝変化〟――変身願望、と言い換えてもいいだろう。
もっと違う自分になりたいという、願望。
対して赤井陽妃は、外々から閉じ込められ、鬱屈させられ、同級生からは「あの人は真面目でよくできて、あまり関わりたくない」と、まるで彼女は外界から、社会から認められているのに――認められているが故に、社会から省かれ、はぶられてしまっていた。
そんな彼女が望む〝変化〟は。
外界の――世界の〝変化〟だったのだ。
それは「世界に認められたい」という宵の願望とは正反対の。
――「私を認めない世界なんて、認めない」。
だから彼女の周囲の世界――彼女を取り巻く環境は、彼女の望むままに変化した。
だから彼女の肉体こそ〝機械〟に変化したものの――
この能力を望んだところの心までは。
『まるで〝機械〟のように、何も感じず、何も考えず――プログラミングされた過程を繰り返すようなものに』――とまではいかなかったのだ。
ほんの少しだけ冷徹になっただけで、彼女の心は殆ど変わらなかったのだ。
「あの日」
と。
晴雪は、陽妃の髪を左手で梳きながら、梳き鋏で挟む手を止める。
彼女の髪を、一粒、二粒、するりと水滴が流れ落ちる。
「あの日……は、ごめん」
嗚咽の混じる声で。
君を助けられなくて、ごめん。ずっと言えなかった。君に、助けれ、助けられて。
「いいよ」
なんて、彼女は言わなかった。
「バカ!」
彼女も涙をぽろぽろと流して、ただそれだけを。
「バカ! ……怖かったんだから……! バカ……!」
繰り返す。
彼女だってわかっているのだ。霧雨晴雪以上にわかっている。理解しているのだ――この世界中に。
赤井陽妃が〝完成〟させる以前から殆ど平和だったこの世界中に、「恋人が力をもった暴漢に襲われて腕力だけで対抗できる十代」がどれほどいるのか。
そして対抗できないことへのやるせない気持ち。
理性が九割九分を支配している赤井陽妃は、ただ「いいよ」と、「晴雪もよくやったよ」と、言うことだってできた筈だ。
けれどそうしたら、そうできてしまったら、もう二人の関係は究極的に終わっている。
円満に解決している。
――ひとしきりそれらが終わった後。
或る種儀礼的とも云えるそのやりとりは、ただどうしても二人が「あの日」から一歩踏み出すために必要なものだった。まさしくそれが「あの日切り落とされた髪を整える」と云う儀式であった。
一人は命を失い。
一人は心を失い。
そんな二人が未だこの世に踏みとどまるための儀式。
「いいよ」
と赤井陽妃は一言告げた。その微妙な違いが、珍しく霧雨晴雪には伝わらなかった。彼がその真意を問おうと息を吸ったところで、
「私と、その、エッチしたい?」
彼女は彼女自身、決定的なターニングポイントとなる言葉を発した。
「え……」
これはどうやら彼にも想定外の質問だったらしい。彼は微笑みのまま固まってしまった。
陽妃の性格ならたぶん「セックス」という単語を使う筈なんだけど――彼は思う。
恐らくは、彼女は理性的に「エッチ」という感情的な言葉を使うべきと判断したのだろうが。
彼は思考を逸らすために。志向を逸らすために。
『〝変化〟――人は望む。現状より状況が良くなる〝変化〟を。
〝変化〟――人は望む。現状より状況が悪くなる〝変化〟が、起こらぬことを。
人は、〝変化〟を望む――自分勝手に都合よく』
赤井陽妃は、ずっとその一歩を踏み出せずにいた。霧雨晴雪との、この恋なのか友人なのか不明瞭な関係を深めるその一歩を。これまでの関係を捨象し――まるで惑星の形成のように更に強固な一つになれるその一言を。これまでの関係を破壊し――まるで宇宙の灰塵のように散逸するかもしれない、その一言を。
「ねえ……?」
陽妃は、窓にうっすらと映る晴雪に上目遣いでもう一度訊ねる。
彼は、決して彼女を否定しない。
*
「描写しないとか貴様未経験だな」
誰が未経験者歓迎だ。転職活動か。因みに「未経験者歓迎」と云うのはニート歓迎と云う意味ではないよ、宵くん。ああ、彼は現在口は利けないんだったな、はっはっは。
「何キャラですか」
一緒がぼそりと。
「中だるみに濡れ場は必要でしょう?」
どこ宮ハルヒさんですか。
まあそれはともかく、と一緒。
「ていうか性器まだあったんですね」
ルビは振れなかった。
「どういう仕組みになっているんでしょう? 陰茎を前にすると鉄の処女が開放されるのでしょうか」
さあ?
「それなら宵を陰茎に〝変化〟させて」
グロイグロイやめてやめて。
「それはないです。たとえ宵の〝変化〟が精密にして精巧でも」
「性交でも?」
「成功でも」
と陽妃は無表情で一緒の軽口に返す。
「私の体は霧雨晴雪にしか反応しませんので」
「……、……そうですか」
一緒は少し考えるしぐさをして、
「てか霧雨晴雪は嫌々陽妃とセックスしたんじゃないのですか」
陽妃とぎりぎりの間合いを保ちながらぼそぼそと、けれど陽妃に聞こえるように言う。
「そんなわけない」
赤井陽妃は表情を変えぬままそう返す。
「じゃあ本人に訊いてみましょう」
「は――はっ!」
陽妃はふと振り返る。棺桶――陽妃が引き連れたそれ――には刀が刺さっていた。
〝魂絣〟――暮内一緒が左手に持っていた筈の刀。魔法のステッキ。それが棺桶に突き立っていた。まるで墓標のように。
陽妃は瞬く間もなくその刀の柄に触れようとするが(自身の二本の刀はいつの間にか現れた両腰の鞘にそれぞれ終われていたようだ)ばちっ、と弾かれていた。
〝結界〟――彼女は奥歯を噛み締める。臼歯が少し欠けた。それを吐き出し彼女は切り換えて一緒を潰しにかかる。が。
動けない。
解説をすると。棺桶で殴られた際に一緒は既に刀は刺していたようだ。少なくとも視認はできなかった。そして今、対陽妃〝結界〟――〝無血〟的〝吸血鬼〟的能力無力化結界を反転させて〝無血〟を近づけさせないための〝結界〟が展開された。刀に近づけさせないためのそれはけれどもって十秒程度。同時に〝空間操作〟――〝固定〟を陽妃の周囲に展開。陽妃の〝無血〟的〝吸血鬼〟的能力無力化結界が現在僅かながら中和されているために、赤井陽妃の〝固有結界〟内でも空間を固定することによって間接的に赤井陽妃の動きを制限している。
それでも合わせて十五秒もない。
けれどそれは二人にとって決定的な時間。
しかも暮内一緒はそれを、赤井陽妃を直接的に斃すためには使わないのだ。もうきっと、彼女にとって生きることは、何かを叶えるための手段でも、長生きするという目的でもないのだろう。
暮内一緒は呪文を紡ぐ。魔術を紡ぐ。
「語れよ騙れ《cor ut formabit in te》 心を形れ《veri ne olim doce quid》
止まれよ留まれ《mihi》 我が身に共あれ《obodi iam》
廻るる周る《es mei et》 身体は姦る[る]《mihi stupraverit》
帰れよ還れ《mihi pare anima》 御霊よ孵れ《tu liber es nasceris iterans》」
一緒の刀の刀身がぼうっと赤黒く輝く。蔦状の紋様が浮かび上がる。
その瞬間。爆音。すぱーんと棺桶の蓋が開放される。
まるで操り人形のように。天空から糸で吊るされているように――
まるで十字架に磔にされているように。
「気分はどうですか」
訊ねたのは陽妃に対してではない。
「よくわからないね」
霧雨晴雪は、力の抜けた状態で中にぷかぷかと浮かばされていた。
「なぜ……晴雪の魂は私の刀に収まっている筈なのに」
「あれ……あなた気付いていないのですか」
〝結界〟の効果は解けたのに動くことができない陽妃の呟きに、一緒もぼやくように続ける。「肉体を魂が百パーセント満たしている超例外を除いた人間や〝吸血鬼〟の、魂で満たされていない肉体の部分はどうなっていると思っていたんですか」
「そんなことより……この術はなんだ」
陽妃がこの術があれば……と思いながら一緒に訊ね返す。
「失敗作ですよ」
と一緒は珍しく親切に回答する。どこか「愛する人を失った」という点で或る種の同情を覚えているのかもしれない。……十割十分十厘暮内一緒のせいで陽妃はそうなったのだが。
「私の魔術の先輩がこれで『人体練成』しようとしたんだけど魂は還って来きませんでした。相当な量の犠牲と生贄と人柱を捧げましたが結局会話しかできない奴隷になるだけでした。そして彼女も火炙りにされました」
それをまるぱくりしたものだ――彼女の技名はだいたいゲームとかからのぱくりなのは余談だが。だから術式の詩の完成度が城の防御のときより高い。
「それでもこれだ」
目は半開きで首は座らず、どうやら〝空間操作〟で手首と頭頂を吊るしているようである。全身力なく、口の端からは涎が垂れている。
魔術――特段一緒が使うそれだけでなく殆どの流派で、発動に必要なものは主に三つ――呪文[詠唱]、陣、供物である。
一緒の術は彼女にとっての魔法のステッキである刀――〝魂絣〟に「陣」を常に敷いていて、かつ基本的に供物を用いないし、その上詠唱まで短い命令文や技名を発声するだけである。彼女の場合〝時空間操作〟と組み合わせて使っているのでそれでよいようである。また更により強く能力(或いは魔術)を発動させるときは自身の肉体に陣を刻むことによって血液を供物として、陣も強固にしている。
「今回は生贄なしの簡易版ですので、話すことしかしませんが。生贄を捧げるとまともな顔になります」
些細だなー違い。
「あ、あと喘ぐラブドールぐらいにはなります」
陽妃の閉じた口の中から爆発音がした。
彼女が噛み締めた奥歯が弾けた音だ。
「発動条件は死んですぐにしか使えない、肉体が無事でないと使えない。魂も還って来ない」
「じゃあ何が入っている」
陽妃はぎゃりぎゃりとこの世の苦虫全てを噛み潰していそうな程に歯を軋らせる。
「心ですよ、心」
「……心」
「あなたの理解は確かに正しい」
『現在生きている人間の魂も、個人差はあれど「あの世」にだいたい七十パーセントは残ったままなのです。肉体に宿った三十パーセントも、肉体の一部に偏ることなく全身を満たしています』
「ですが肉体を満遍なく満たしているのは魂だけではないのです」
血液の成分が血漿だけではないように。
「……まあ、魂と心で合わせても百パーセント満たされている人間も〝吸血鬼〟もそうそういないんですけれどね」
「では満たされていない部分は何で詰まっている」
「組織液? 私もよく知りません」
陽妃の投げやりな問いに一緒はテキトーに答え。
「で、霧雨晴雪」
本題。
「あなたは赤井陽妃とセックスしたかったのですか?」
ド直球ストレートど真ん中。岩鬼なら迷いなく空振りしてしまうだろう。
「うーん……」
彼は力なく半目のまま口だけぱくぱくさせて答える。ただ声はこれまで通りのいい声だ。
「本当は、気が進まなかったんだよね」
「な……」
「ちゃんと術は機能していますね」
――〝蘇生した人間に、正直に自白させる魔術〟。
肉体が生前の状態から殆ど劣化していないこと。魂が肉体から離れて間もないこと。すなわち死んで間もないこと。加えて心がまだ肉体に残っていること。
霧雨晴雪の「心」に。
「どうして」
訊いたのは陽妃だった。一緒の質問ではなかったが、一緒の質問の回答の続きをしているだけなのだろう、晴雪が返す。
「俺もさ、十八歳の健全に育成された青少年だから、性欲も人並みにあるし、陽妃の肉体は非常に魅力的だよ。けれど」
彼の顎から滴った涎が、空中で蒸発した。
「俺にとって陽妃はそういう対象ではなかったんだ」
衝撃の一言。陽妃は口を開けたまま上空を見上げている。
「性愛の対象ではなく、神愛の対象」
アガペーはそういう意味ではないがここはスルー。
「あの頃」彼が赤井陽妃と同じクラスなるまで――赤井陽妃に出会う前まで「俺はただぼんやりと日々を過ごしていた」
それこそ、夕焼けに現実感を失ってしまうほどに。地球が公転せずに同じ場所でただ自転しているかのように。「巻き戻しの街」に取り残された失敗ばかりの女性のように。
ただ目の前の事象を対症療法的にやり過ごすばかりの日々を。
追従し、追従する日々をやり過ごしていた。
「そんなとき俺は陽妃に出会った。陽妃はただ凛と、背筋を伸ばして前だけを見て」
自分だけを見て周りから目を逸らして。
「陽妃は、所謂いじめに遭っているように見えていたのに、それらは全て矮小な些事だと言わんばかりに、彼女はたった独り別の世界にいるみたいに、綺麗で、美しくて、眩しかった」
彼もまた、周りから目を逸らして、ただ見たいものだけを見ていた。
「彼女は、俺の人生を導いてくれた救いだったんだ」
「……」
二人分の沈黙が降りる。
「それは……悪いことをしましたね」
何も悪びれもせず暮内一緒は言う。
悪びれもせず言いながら、しかし彼女は感心していた。
この「無宗教」の日本で、彼こそ本物の宗教家にして殉教者だと――少し羨ましく思った。
「あ」
糸が切れたように。
霧雨晴雪は墜落した。ただ何の音もなくすんなりと棺桶に元のように収まり、蓋が閉まってそこに刺さっていた〝魂絣〟が一緒の左手に戻ってくる。術式は終了した。
間もなく。
「晴雪を何度も蹂躙しやがって」
赤井陽妃が右手の刀で突きに来る。唐突に戦闘が再開される。一緒は、帰って来たばかりの左手の刀で受ける。
一緒は自身が左手に持つ刀に向かって。
「行きますよ――相棒」
(え? 相棒って刀なの? 僕じゃなく?)
「常句ですよ」
(『常に言っている文句』みたいになってる!)
ミュートで一緒と宵は掛け合いをしながら。
陽妃が左手で横薙ぎに一緒の体を二つに切断しようとする。跳躍して一緒は躱す。躱すだけ躱して五十センチメートルも進まないうちに何もないところを下方向に蹴って折り返す。
突きが。
一緒の右手の槍による刺突が――曖昧模糊としたモザイク模様の陽妃の右手が楯としての性質を形成するのを待たずに陽妃の心臓を襲う。
どん、という爆発音がその瞬間――槍と陽妃の胸との接触時に。
正確に云うのならば――槍と陽妃の発射された胸との接触時に。
「おっぱいミサイルとか――――――――――――――――――――――――――――――」
一緒は服ごとそのままの形状で飛来したおっぱいミサイルを、姑息療法的にと云うかもはや気休めとして時間を止めて、せめて爆風と銀製の破片だけでも避けようと両腕を顔の前でクロスして翼を猛然と羽搏いて離脱する。
が、爆音が一つだったことでお分かりになろう。
『おっぱいというものは二つあるものなんだよ』
「そんな格言ぽく云われても!」
一緒は猛然とグァム島上空へと舞い上がり、陽妃から距離を取る。おっぱいミサイルは一緒から数メートルは離れたものの、それ以上は離れることなく追跡を続けている。
高度五百メートルまで上昇。
そして彼女はそのまま空中で体操座りの体勢を取り高速で後転する――槍と刀は外に向けられ――彼女全体が手裏剣のようになっている――切り返して彼女はミサイルへと向かっていく。
――〝亜空切断〟。
どん――と腹の底に深く響く爆音と共に、一緒とすれ違った銀色に輝くおっぱいミサイルは両断され、爆縮した。
当然元々の仕様では爆発するもので、一緒の〝空間操作〟で爆発のエネルギーのベクトルを逆転させ、結果的に爆縮したのだ。
「!」――陽妃が迫るッ! 速い!
一緒が体勢を整えきる前に彼女の眼前に陽妃が持ち振るう刀が迫る。
「体が軽いわ」
「厭味ですか!」
陽妃の右手の刀を、闇色に染まる〝魂絣〟で受ける一緒。体勢を整え右手の槍でそのまま陽妃の眉間を狙う――
かしん――眼鏡の蔓に阻まれる。
それだけでなくその眼鏡を貫かんとする円柱状の槍の螺旋族的なエネルギーを、逆回転の反螺旋的エネルギーをぶつけることによって――
眼鏡のレンズが真っ赤に輝く。
眼鏡のレンズから真っ赤な光線が発射される。
「!」
一緒は一瞬で離脱して二本の光線を槍と刀で受ける。
反射した二本の光線は、海を割き、雲を裂く。
「まじですかよ……」
一緒は槍と刀を平らな胸の前で「一言余計です」構える。
「我が腕に全てを貫く力を《In brachiis meis omnispotestatem penetrare dare》」
一緒は翼を広げて空中で踏ん張って切り返す。その瞬間目の前に陽妃がいた。
「!」
一緒もすかさず右手の槍を突きつける。陽妃の空いた左手が――また刀が鞘にいつの間にか収まっている――一緒の、陽妃の心臓に突きつけられた槍を握る。陽妃は右手の刀で一緒を切りつけようとするが一緒は〝転移〟で鎖を引っ張りだして右手を絞めて固定した。陽妃が「天の鎖か」と呟きながらむっとした表情を浮かべる中、一緒が左手の刀で陽妃の左腕を二度斬りつけたところでほんの僅かに陽妃の左手、槍を抑える力が緩む。
「な――」
陽妃にぎりぎりと握られた一緒の右手の槍は、けれど陽妃の握力によって彼女を貫くことはできず、がりがりと火花を散らして陽妃のライダースーツ的な服をそのまま縦に真下へと切り裂いていく。肌色の、薄く浮きでたあばらと、形のいい臍を撫で、しかしながらその剣先は服しか裂かない。
唯一、赤井陽妃を傷つけうる武器。
〝吸血鬼〟の牙――暮内宵の牙が鋒の槍。
『〝無血〟は吸血鬼[〝吸血鬼〟]に血液を吸われても〝吸血鬼〟にならない』。
すなわち、『〝無血〟は〝吸血鬼〟に血を吸わせ続ければ、失血死させることができる』。
赤井陽妃は〝無血〟であるが故に――〝吸血鬼〟に〝給血〟するという元来の性質のために、その皮膚はたとえ〝機械〟であっても、〝吸血鬼〟の牙は素通りする。ただし「殺し切る」ためには、陽妃の自己再生能力が高いためかなりの時間と労力がかかるのだが。
陽妃は両の刀を近隣の宙空に一瞬浮かせ、そのまままるでジャケットプレイのように両手でがばっと裂かれた服の前を開く。
わーお。ダイナマイトボディ!
「まさか――」
「そのまさか」
これまたいつの間に再生したのか、再びおっぱいミサイルが発射される。美しい形のEカップの乳房は、さながらロケットおっぱいである。
「そのまんま!」
一緒はツッコミながら。
けれど今回は為す術なく一度両手の武器を放して両手でおっぱいを揉みしだく。
「ミサイルを手で止め」
ぼかーん。爆乳。
「『ダイナマイトボディ』ってそういう意味ですかよ!」
両腕大爆発――噴射した血液を操って防壁を張り、爆発したミサイルの銀片から身を守る。
全ての銀片を血液壁で受け、その銀片で汚染された血は(通常彼女たちの血液はそのまま自身の傷の復元に使われるのだが)使わずに廃棄する。
が、さすがは始祖の吸血鬼、両腕は肩からドリルのようにぐるぐると一瞬で生えてくる。
――文字情報にすると実際に流れる時間に追いつかない。
陽妃は一緒の腕が回復している間に間合いを更に詰め、左手で一緒をアイアンクローによって捉える(例のごとく刀はまた鞘の中だ)。一緒は既に〝転移〟で手元に二本の武器を取り戻しているが、陽妃は眼前の宿敵を右手の刀で薙ぐ――一緒の腕は再生したばかりで、陽妃の動きに刀の防御は付いていかず、陽妃は一緒の首を落とす。
「終わらせよう――」
「終わるものですか! こんな楽しい時間!」
一緒は首だけで笑う。ディオ・ブランドー並みにどういう原理で話しているのかわからないが、一緒は喋る――が。陽妃は紡ぐ。言葉を紡ぐ。
「〝総〟」
陽妃の右手の刀の刃が総飾りのように――鍔で幾十もの刃が束ねられているかのように分裂し、彼女はそれを一緒の首へと突き立てる。一緒の顔を剣山を突き立てられたようにそれらが貫通し、しかもその刃を取り込むように一緒の意に沿わず傷が塞がっていく。
「ああああああああ」
〝塞〟――〝封鎖〟。顔の串刺傷と同様、一緒の首の断面の傷口も同時にかつ完全に塞がれ、封鎖されてしまう――今度は先程のように断面から肉体が生えてきたり、回復して肉体と接続しないように。
そして二人は、そのまま島へと墜落していく。
「叩きつけて殺してやろう」
そんな陽妃の口角の上がった笑みを、そんな陽妃の真っ白な翼と黄金色の天使の輪を見て、
「レベル4ですか」
「そちらこそ」
〝機械〟のボディの中に死者の魂を埋め込んで使役する、という点では陽妃はどちらかと云うと千年伯爵である。まあ彼女曰くその魂は、『幸せな夢を見て』いると――
だからこの行為は赦されると、思っているようである。
陽妃は翼を、超速で獲物を負って落ちる鷹のように畳んで超高速で墜落していく。
アイアンクローしたままの陽妃の左掌に穴が開く。
何か液体が――
「これは!」
陽妃の体内で精製された、濃塩酸と濃硝酸とを三対一の体積比で混合してできる橙赤色の液体――
「あああああああああああああああ」
じゅわじゅわと音を立てて一緒の顔が溶けていく。
「――〝王水〟」
そんな能力名みたく言わなくても。
――……こんなものなのか、始祖の吸血鬼の力は?
陽妃はこの段階でようやくそう思う。思い至る。脳内で言語化されて浮かび上がってくる。
違和感、違和感。違和感は、最初からあった。どこからか不自然だった。最初から不自然だった。どこまでも不自然だった――その違和感を吹き飛ばすように。
ぱしゅん――そんな音が左手の中から聞こえ、一緒の頭部がそこから消滅する。
――否、そんな違和感から陽妃を開放するかのように。
或いは新たな違和感が――首筋に。
首筋に五体満足にして顔面の傷さえも修復した暮内一緒がかぶりついていた。
ちゅうちゅうと彼女の生き血を吸っていた。
「!!」
すかさず陽妃は首筋のそのたった今一緒が牙で開けた傷から王水を噴射する。
「なっ――」
一緒は思わず口を離し、陽妃から離脱――
「ははははははははははははははははははははははははッ!」
一メートル離れ、しかしすぐ一緒はそこの空気を踏み台にして、体勢を整えて拳を繰り出す。
拳、拳、拳拳拳拳拳拳拳。
「はッ――」
陽妃も刀を捨て、これを受ける。刀では拳の速度と応酬には敵わないからだ。
肉弾戦。――それは「肉体を弾丸とする」という〝機械〟的な意味ではなく。
拳、拳、拳拳拳拳拳拳拳。
蹴、蹴、蹴蹴蹴蹴蹴蹴蹴。
その全てが互角。
暮内一緒は鼻血を出して牙を剥き、大興奮のまま笑い続ける!
「楽しい楽しい楽しい楽しい! 楽しすぎるですわ! 二ヶ月に一回ぐらいあなたと戦えば全く退屈しないですわ!」
全身の血液がここ百年――ここ千年でなかったほど沸き立っている。
全身の筋肉がこれまで眠っていたのかと思えるほど踊り始めている。
何度も何度も何度も拳を合わせ、肉を削り、火花を散らす。
そして二人は距離を取り――同タイミングで二人は落下を終える――というか着陸した。
赤井陽妃は巨大な土煙を挙げて両足を股割りの格好で――とすっ、と少し遅れて右手のすぐ傍に刀が鋒を下にして突き刺さる。
「ぷぎゃ」
短い悲鳴と共に、暮内一緒は翼を広げて速度を落とそうとするもしかしながらあまり速度は落ちずに落ちてなぜか大の字で地面にひとがたを作って砂煙を上げるというギャグな着地の仕方をした。
――そこは元のグァム島。チャペルの目の前の砂浜だった。
「……あなた脳味噌が本体でも……ないのか」
陽妃はそこまで独りごちるように言って、腰に手を当て背筋をぐっと伸ばしながら一人で納得する。
そりゃあそうか。全身を霧状にすることができる――という性質を吸血鬼はもつと聞いたことがある。あのときあの瞬間――陽妃が頭部だけの一緒に王水を噴射する瞬間まで一緒は頭部に自意識を持っていたが、あの直後に自意識を首から下の、まだあの時急降下していた陽妃よりも上空で落下していた肉体の方へと移し且つ超速再生し、陽妃の背に取りついて首筋から吸血したのか。
血液が、本体なのか。全てであり、一部であるのか。
血液に意志が宿る――なんて、医療の実例を挙げるまでもないだろう。
陽妃は腰をこきこきと鳴らして慣らして、ずたずただった服を〝改変〟で修復する。
もう首筋に開いた二つの穴も塞がっている。
「……やっぱりグァムは砂もさらさらでおいしいですね」
負け惜しみにもならないそんな一言と共に、一緒は立ち上がる。まるで砂に吸血されているかのように口の中から水分が奪われていく。舌がざりざりとしているあの嫌な感覚を生唾ごと吐き出している彼女の、その服にも体にも一切砂がついていない。フッ素か。
「フッ素ではないです」
言いながら一緒が体勢を立て直している間に、陽妃の右手の傍にあった刀がずぶずぶと砂に沈んでいく。
「――!」
目を瞠る一緒は身構える。
陽妃は刀が沈み始めると同時に一緒に突進している。
一緒は視界のほぼ全域を陽妃に占拠されるが、冷静に左手の剣を陽妃に投擲する――視界の隅で陽妃の刀が地面に沈んでいくのを一緒は捉えている。が、そちらばかりに集中していられない――陽妃が〝魂絣〟を左手で弾き、一緒の眼前に迫る。
「〝写〟」
「!」
一緒の三十センチメートル上空から計五本の陽妃の剣――〝天叢雲〟状態の巨大な両手剣だ――が上空五百メートルの高さから落下してきたかのような速度で一緒に刺さる。
「〝約束された勝利の剣〟!」
「そこは〝天地乖離す開闢の星〟じゃないのですか呪文的に!」
陽妃は右手の人差し指を伸ばし親指を立ててその他の指を軽く握るという拳銃の形へと既に変化させている――すると彼女の右手には。
赤井陽妃の右手には、繊細な彫刻と美麗な木目、上下二連の散弾銃――「SP-120 Trap」。その銃口の中心部が赤く光り、それを一緒の左こめかみの辺り――すなわち頭部に押しける。
「遅いです」
爆音。爆風。砂嵐。
一緒の頭上、遥か上空から重力加速してようやく落下してきた槍。その衝撃で一緒ごと周囲を吹き飛ばす。彼女は肉体を損壊する代わりに一瞬だが陽妃とその五本の剣による拘束から開放され、その場を離脱する。
「逃がすか」
「逃げるとでも?」
一緒はその場で再生して陽妃にそう叫びながら、彼女に飛び掛かる。
「削ぎなさい(Tonde)」
左手に〝転移〟させ取り戻した〝魂絣〟の刀身の、刀身のしゅうううという呼吸をするような音とともに空中に飛び上がった暮内一緒が満面の笑みで上段から刀を振り下ろ――
赤井陽妃が、立ちはだかる。
「〝楯〟」
陽妃は左手を中空の一緒に翳して、たった一言そう唱えた。
陽妃の言葉と同時に不可視の防壁が張られ、一緒の刀がくわしぃぃぃんとまるで大きな氷を割るような音とともに受け止められる。
〝断〟。
防壁が大量の鋭利な破片に砕け瞬時に暮内一緒に向けて全てが発射される。
「守りなさい《Defende》!」
一緒も呪文を唱えて翼で体を囲い防御する――が。
〝経〟。
暮内一緒の呪文の効果持続時間が経過してしまう。
「なっ――」
暮内一緒が息を吐く間もなく。
〝殺陣〟。
複数に、計六人に分身した赤井陽妃が。
悉く〝天叢雲〟を装備した赤井陽妃が。
一斉に全方向から暮内一緒に襲いかかる。
囲む。
殴る。
蹴る。
「斬れよ!」
一緒がついツッコんでしまう――
一緒は奥歯をぐっと噛み締め表情を歪める。
「糞〝無血〟が――ッ!」
彼女は叫ぶ。
「守りなさい《Defende》――守りなさい《Defende》守りなさい《Defende》守りなさい《Defende》守りなさい《Defende》守りなさい《Defende》守りなさい《Defende》!」
斬る。
切る。
伐る。
Kill――
真っ白な赤井陽妃の顔が、どんどん赤く染まっていく。
眼鏡のレンズを真っ赤に染めながら、左手で透明な刀を抜く。
〝地晴雨〟が、光り輝く。
「〝止〟」
〝留〟。分身した陽妃の一人が(他はもう消滅した)ぼろぼろとその外皮を剥がし、漆黒の骸骨――〝機械〟の骨組みを露にする――
油断した――一緒は後悔する。陽妃が〝追従〟したこの言葉の魔術――今まで云う機会がなかったが、オリジナルは〝祝詞〟という――一緒はオリジナルの、唯一の使い手を知っているが、膨大な制限がある。自らの声帯で発声する必要がある。発声した言葉が全て魔術となる。同じ音の〝祝詞〟は二十四時間を経ないと再使用できない。
音が異なる二つ以上の〝祝詞〟は同時に発動できない。
陽妃は「発声した言葉が全て魔術となる」という制限(というか無限)を「〝祝詞〟の発動を、〝追従〟を起動したときだけ」という方法で限定している。そしてこの〝止〟。
対象を固定することができ、かつその間に急所を破壊すれば相手を必ず殺す。
〝殺陣〟の分身の中に一つだけ実体を混ぜていやがった――
奇しくも一緒がチョルノーブィリで捕獲したそれであった。
〝機械〟が一緒を背後から羽交い締めにして抑えて、心臓に刀を突き立て――槍が。
宵の〝変化〟した槍が翼を生やして戦闘機のように飛来して衝突し陽妃の刀の方向を逸らす。その勢いでもほんの僅か、しかし僅かだが彼女の刀は急所から逸れ、そして残っていた〝機械〟も羽交い締めをやめて時間切れで消滅する。雲散霧消する。
〝止〟――恐らく無限に存在する〝祝詞〟で最強の必殺技だ。オリジナルでも〝止〟ていられるのは最大五秒で、陽妃の〝追従〟では更に短くなる。また急所以外を攻撃しても何のダメージも与えられない。
一瞬の間が差す。
ただまだ二人の間合いは一撃必殺のそれだ。
宵の〝変化〟した槍が一緒の右手に舞い戻る。それを切り離す――陽妃の左手の透明な刀が一緒の右手を肩から七センチメートル程のところで切断した。
一緒の口角が上がる。
その右腕の切断面――二重の円に六芒星。
魔方陣が。
「ちゃんと後で拾いにいきますから宵」
赤黒く光る。
陽妃はぼそりと。
「〝静〟」――〝沈〟――〝鎮〟。瞬く間に、宵は翼を生やすこともできずに、音もなく海中へと消えていく。
「それってボウフラって言うんだよ」
「死亡フラグ」をそんな風に略さん。
「「〝宇宙(Quod etat destrandum)〟」」
二人が。
一度に。
詠唱と同時に陽妃が一緒の右腕切断面の魔方陣に透明な刀を突き刺す。
二つの宇宙が交じり合い、二人の世界が溶けゆく。
暮内一緒は。
少し、エルと混じり合って一つの肉体になったときのことを思い出した。
少し――な理由はそんなこと彼女は考えている場合ではなかったからだ。
二つの〝宇宙〟が交じり合い、けれど範囲はそこまで広くなかったことが少なくとも一緒にとっては幸いだった。
一緒の右腕切断面から半径十センチメートルの範囲が丸ごと消失した。陽妃は既に刀を引き抜いて即座にそこから離れている。が一緒の被害は甚大だった。右肩から抉れ、血が心拍と同じリズムでばしゃばしゃと濁流していた。
「あ……あ……」
それは決定的な隙。
陽妃は空中で切り返す。何もないところで左足を踏ん張り、ばさあと真っ白な翼を広げる。
突き。
左手の刀で一緒の心臓を串刺す。串刺公を殺した彼女にとってはただの皮肉である。
動けない……。一緒は動けない。〝止〟られてないのに……何故……。
「ただの呪いだよ」
あなたが殺した人間の、自分を殺した人間に対する呪い。
「呪い。あなたの時代にもあったでしょう」
陽妃は余裕が出てくると敬語になるらしい。
そして彼女は哄笑して――一つ、呟く。
「〝旱〟」
そして彼女は右の掌から、ぽん――と、現れたそれ。
そこには――太陽。
小型の太陽。煌々と輝く、希望の光。
彼女は手のひらの太陽を――
彼女は「手のひらの太陽」を、口ずさみながら。
「これで終わりだ」
私の復讐は。
私の後悔は。
私の罪滅ぼしは。
「これで終わりで――いいよね」
ごめんね、ハル。私がこんなふがいないばっかりに、ハルに迷惑をかけてばっかりで。
体は兵器と化しても。
心は平気――と云うわけには全く以ていかなかった。
「許して」
赤井陽妃が〝祝詞〟と自身の〝改変〟を応用して開発した、対吸血鬼最終兵器〝旱〟。
〝星〟――〝日〟にして〝干〟。
〝恣〟――〝欲〟。彼女の願いを叶える、たった一つにして最後のやり方。
小型の太陽は彼女の左手の刀に吸い込まれるように重なり、透明だった刀は山吹色に神々しく――光々(こうごう)しく輝き始める。
黄金の光――太陽の波紋。
二閃。陽妃は一緒を、一度胸から股間まで切り裂き、そして切り返し頭頂に向けて正中線に沿って真っ二つに切断した。
「――――――――――――――」
何の言葉も断末魔も発することなく。周囲に血飛沫を撒き散らしながら、暮内一緒はその場から消滅した。
赤井陽妃は笑う。
「ハル! 見て!」
天候が。
九尾狐にでも騙されたように――晴天のまま雨が降り注ぐ。さあさあと優しい音を響かせるそれは血雨だった。真っ青な空でもはっきりと見えるほどの真紅の結晶が、所狭しとこの世界中に――たった二人の世界に流れ落ちる。赤く染まっていく大地、視界、世界。
いつの間にか霧雨晴雪が、虚ろではなくしゃんと、陽妃の横に立っていた。傍では蓋の開いた棺桶が、役目を終えて砂に溶けていった。
「ハル! やっと取り返したよ! あなたの血を!」
赤井陽妃は、笑っていた。天を見上げて、両手を広げて、さああという雨音――血音に合わせてくるくるとダンスをしながら。
涙をぽたぽたと流しながら。
まるで少女のように――テストで百点を取って母親に褒められると信じている少女のように。
「ありがとう、陽妃……」
晴雪は陽妃を抱き締めた。
「もういいんだよ……もう」
もう、救われていいんだよ。
晴雪は陽妃をぎゅっと抱き締めて、そして彼もぽろぽろと涙を零した。
「もう、俺たちは救われてもいいんだよ」
彼は耳元で囁いて、そして二人は顔を離す。
「行こうか、陽妃」
晴雪は、目と鼻の先の陽妃に声をかける。
「うん、行こう」
陽妃も晴雪に笑顔で答える。
二人は手を繋いで――恋人繋ぎで、帰っていく。
二人が過ごす、愛の巣へ。