3: Haruyuki Kirisame
「一縷」のくだりがどういう伏線だったかもう忘れました.どっかで言及してたかな…….
一緒の技名は,オーバーラップに送ったからこの技名になっています.単純に好きというのもある.
三
......The Skies
「だから俺は、君についていくよ。
この世の果てまでも――この世が果てようとも」
霧雨晴雪は、自分を弱いと思っていた。自分が弱いことを認識していた。
自分が「いじめられる」タイプの人間であると自覚していた。
だから学校では、できるだけ、強いグループに属するようにした。
三枚目を必死に演じた。
「いじめられる」のではなく、「いじられる」キャラクターに。
まるでなんでもないことのようにパシられたり。
まるでなんでもないことのように「ちょっかい」として背中をばしりと叩かれたり。
まるでなんでもないことのように「ちょっかい」として紙屑を投げられたり。
まるでなんでもないことのように自分の考えとは違うことに頷いたり。
まるでなんでもないことのように「ここにいないあいつ」のことを貶めたり。
まるでなんでもないことのように冗談まじりで悪意のない悪口を、笑って受け流す――
――フリをしたり。
まるで蝙蝠みたいにあちこちにへらへらと笑い。
まるで蝙蝠みたいに八方に美人に振る舞い。
まるでなんでもないことのように、嫌なことには目を瞑り、目を背け、思考を止めて、
――自分を守るために。
自分を守るために――自身を貶めて。
そんな空虚にして無為な毎日の中で。
それでも――そんな彼にだって許せないことはあるのだ。
――彼女は、ぼんやりと外を見ていた。
あの春――高校生活最後の春に、同じクラスになったのだ。
まるで、ここに自身の居場所がないかのように。
自分と違って、グルーブに属して守られようとはせず――孤高に。
憧れた。
彼の心の支えだった。彼女を見ると、陳腐な言葉だけれど。
殺してきた心が――洗われるようで。
殺してきた心が――現れるようで。
少しだけ、素直になれた。
気付くと、彼女に話しかけていた。
『生徒会長、おはようございます』
彼女は少し驚いたようだったけれど、
『おはよう、霧雨くん。でも生徒会長はやめてよ、もう今は三年生になって次の人になったんだから。三月に選挙したでしょ?』
彼女は微笑みながら、気さくに答えを返してくれた。
それは、彼が恋をするには十分すぎるできごとだった。
それが、たとえ彼女の強化外骨格にプログラミングされた「模範解答」を発しているだけだったとしても。
彼にとっては心の支えで――あるいは宗教的に云えば、「救い」だった。
『俺と付き合ってください。いや、別に俺はそんな、特別なことがしたいわけではなくって、ただ、今までどおり一緒に昼に話してくれるだけでよくて、……じゃあ付き合わなくてもいいのかな』
彼は、ただぼんやりと――内容までぼんやりとした所謂「告白」をしたのだ。
六月終わり。テスト週間の、遅い夕暮れで眩しい放課後の教室――二人きりの教室だった。
『いいよ』
彼女は、いつものように微笑みながら。
彼女が、何を思って彼の「告白」にそう答えたのかは――彼女自身も、その当時は解っていなかったようだけれど。
いつか、それを彼に話すときが来るのかは、解らないけれど。
彼が惚れた彼女に、彼は殆ど触れなかったけれど。
――そんな彼女が、痛めつけられていたのだ。
塾は一緒だが――通うのは一緒ではなかったのだ。高校の奴らの誰にもバレないように。
学校でも、決して奴らの前では二人で話すことはなかった。最初の一度を除いて。
彼女を守るためだったら、全てを懸けて――全てを賭けて戦う。
たとえその後に、何も残らなくとも――何の結果も残さなくとも。
*
「なんであなたが生きてここにいるんですか!」
CM明けのように暮内一緒はもう一度叫んだ。
霧雨晴雪と鍔迫り合いをしながら――がりがりと金属と金属が触れ合う音がする。
「あなたは私があのとき確実に――」
「あなたは」
一緒の言葉を遮って赤井陽妃が言う。背からは例のB―2ステルス戦闘機の翼を生やし、頭を二三度横に振って、三つ編みがふぁさふぁさと揺れる。どうやら肉体の制御はもう取り戻したようである。
「私があなたたちを攻撃する理由、最初からわかっていたでしょう?」
「……」
一緒は暗黙にして了解した。
黙認した。
「どういうことだよ一緒」
ようやく今の衝撃(一緒に走ったようなそれではなく一緒の〝亜空切断〟による物理的なそれ)で意識がはっきりし、こちらも肉体の制御を取り戻したらしい暮内宵が訊ねる。
「……」
暮内一緒は沈思し黙考したたまま。
すかさず。
それに対して赤井陽妃は、あの日から一つしかなくなってしまった三つ編みを両手で触れる。
それが、瞬く間もなく大剣に変わる。同時に陽妃の髪型が肩までのショートヘアに変わる。
右手に帯剣――大剣。野球のホームベースを縦に長くしたような形状。幅三十センチメートル×高さ百四十センチメートル×厚さ二センチメートルの刃、直径四センチメートル×二十センチメートルの円柱形の柄。刀身はやはり銀製で、街の炎に照らされて煌々と赤銅色ならぬ赤銀色に輝いていて、紺色の十字架がでかでかと刻印されている。彼女の好きな漫画がわかる素晴らしい出来栄えである――その剣を、腰溜めではなく右腕一本で支えて、まるで片手剣のように、真っ直ぐ。
赤井陽妃は暮内一緒の沈黙を、思考を妨げるように。
赤井陽妃が迫る――地球のもつ重力と、彼女の動力を乗算した力が剣速に変わる――加わる。
暮内一緒は霧雨晴雪の剣を腕力で思い切り振り払い、今度は赤井陽妃の剣を受ける。
「おっ……も」
一緒は空中を足場として踏ん張っているが陽妃の重さに耐え切れずじりじりと後退する。
「この重量級が……ッ」
「おっぱいの分ですね」
陽妃が平然と言ってのける最中背後からは再び晴雪が迫っている。
「宵!」
宵の助けは来なかった。
実のところ宵はこのとき墜落してもはやその場にはいなかった。
時刻は正午である。
始祖吸血鬼暮内一緒は兎も角、いくら始祖によって手ずから――歯ずから〝吸血鬼〟にされた暮内宵でも南中した正午の日光には敵うまでもなく――加えて「死のような眠り」さえ阻害されたのだ。彼は意識を失っていた。
「宵!」
白刃取り。
晴雪の無言の突きを両の翼の骨――蝙蝠の翼で云う親指の辺りで真剣白刃取りで受ける。
一緒はそのまま二人の剣を自身の刀と翼で弾き返す。
「「!」」
二人が一瞬離れた隙に一緒は墜落していく宵を追って急降下する。
陽妃と晴雪もそれを追う。街中が赤く燃え、暖かな陽光さえこの街を灼き尽くさんとしているような中、一緒はその身を焦がしながら宵に追いつこうとする。
追いつく――
「〝亜空切断〟」
小さな声が聞こえた。
「!」
空間が裂ける。空間が避ける。
あと一歩というところで一緒の進路が僅かに逸れ、陽妃が先に追いつく。
赤井陽妃は剣を振るう。
「宵避けて!」
宵は避ける間もなく、何の反応もなく。
豆腐を包丁で切るような手軽さで、宵の体は頭部から正中線に沿って真っ二つに切断された。
「宵!」
断面からはだくだくと血が――……流れない。
一緒は歯を食い縛りながら能力を使う。
ぎゃいん、と晴雪の透明な剣を空間の、空気の動きで把握し刀で受け止めながら、重力によって二手に別れゆく宵の肉体の断面と断面を、空間それ自体を結んでしまうことで癒着させる。応急処置的なもので、後で切断面を実際に繋ぐ必要があるが。
晴雪と鍔迫り合いをしている一秒。陽妃が宵へと二撃目を食らわそうとしている最中。
「くっ……」
▽宵を庇いながら赤井陽妃と霧雨晴雪と闘争して勝利する。
▼宵を庇いながら赤井陽妃と霧雨晴雪から逃走して引き分ける。
逃げなければ……。
一緒は呟く。
ノ
「時 咆」
哮
陽妃と晴雪には暮内一緒のその声は聞こえなかった――数秒前には。
一緒が数秒前に発したその声は、一緒が数秒前にいた場所を陽妃が通過するその瞬間に、陽妃の耳へと届く。
それこそが〝時ノ咆哮〟。
赤井陽妃はそこで横腹を殴られたかのような衝撃波を受けてそれまでの直線的運動の速度もあってバランスを崩し、一緒と宵がいる方向から大きく、否、僅かに逸れる。
一緒はその「僅か」な隙に宵を回収し改修する。一応体はくっついたようだが、意識はまだ戻らない。後目に陽妃を確認すると、彼女は追尾を続けながら剣を天に掲げる。
「天地開闢――〝天叢雲〟」
赤井陽妃は、熱田神宮の御神体の名――と同じ名の自身の右手に握る剣の銘を呼んだ。
空気が変わった――ひんやりと、冷たい空気が流れてくる。
黒々とした雲が、フランス・パリの上空を覆っていく――二つ瞬く間に、見渡す全天が覆われてしまった。
天叢雲には、そういった雲にまつわる伝説もあるようだが。
「まさかそんな――」
まるで、氷雪系最強の斬魄刀のように――或いは〝黄煌厳霊離宮〟のように。
天候を操る。
……ぽたり……。
……ぽたり……、……ぽたり。と雨が降り始め、
――ざざあという音に変わる。すぐさま本降りに、ゲリラ豪雨と呼ぶべき勢いに変わる。
まるで『ノア計画』のように。
街の炎が消えていく。
「……」
一緒はそれを見て思考――している暇はなかった。
赤井陽妃はもう追いついていた。一人分荷物を抱えているのだ。
陽妃が振るった剣を一緒は宵を放り投げて刀で受けるも、地面にそのまま叩きつけられる。弾き飛ばされたわけでなく鍔迫り合いのまま一緒は押し切られ、仰向けで数メートル地面に引き擦られて止まり、けれど一緒に馬乗りになっている陽妃の猛攻は止まらない。一緒は刀を両手で、右手で刀の腹を掌で抑えて陽妃の剣を受けているが陽妃は剣を片手で扱っている。左手は二三度鳩尾に拳を叩き込んだ後にM六十一バルカンの砲塔に変わり、先程は発射することのなかったそれを存分に発砲する。
「ああああああ……」
一緒の腹部にはでかでかと穴が開いていく。滝のような雨で服と髪の毛は肌に張りつき、全身の感覚はどんどん失われていく――回復が追いついていかない。何とか陽妃の剣が首を落とすのは耐えているが。
もう限界だった。
『待たせた』
この状況でも傷一つついていない一緒の日本製携帯電話が――先程通話状態にした直後に陽妃の攻撃によって放り出されてしまった携帯電話が言葉をかける。
「たす……」
『〝der Nacht Flug〟』
間髪入れずに携帯電話の通話相手は言った。
陽妃の剣が地面に突き刺さる。
暮内一緒の姿が消えていた。……ついでに暮内宵の姿も。
「……」
赤井陽妃は、天を仰ぐ。
たった独り、天を仰ぐ。
マウントポジションが崩れた女の子座り。
轟々と降り注ぐ雨が、彼女を打つ。
「私はあなたを……絶対に許さない」
街が浄化されていく。
赤井陽妃の涙も、洗われていく。
*
赤井陽妃と霧雨晴雪は大学受験生だった。
百年前に大学を卒業した暮内一緒はクソ私立大学にぎりぎりで入ったもののその性格からただのぼっちだったために遊び呆けることもなく、かと云って勉強するわけでもなくただぼうっとしていただけだったのでめでたくニートになったわけだが。
それから百年が経ち「公務員」は世界中のだいたいの国家で廃止された今では、就職戦線も激化し、そのせいというべきかそのおかげというべきか、中学生のときから自身の将来について真剣に考え、高校から大学から必要な資格から、その全てを準備しきれる人間が成功する――そんな社会になっていた。
……勿論そんな余裕もなく、ただ今を生きていくだけで精一杯な人間も少なくはないのだが。
二人は高校生活の最後の一年を乗り切るために二人でいたのだ。
あのどうしようもないと思っていた人生の十八年間を、二人で慰め合うために。
あのどうしようもなく心身中につけられてきた傷痕を、二人で舐め合うために。
けれど――あの十二月二十三日。
赤井陽妃があの能力を得てから、何もかもが変わってしまった。
世界は――社会は――学校は、いくらか彼らに住みやすくなった。
世界は――社会は――学校は、いくらか彼らが住みやすいように〝変化〟した。
それは彼女たちの心の持ちようが〝変化〟しただけなのかもしれないけれど。
二人はけれどこれまでずっと、二人で肉体を慰め合うことも――二人で身体を舐めあうことも、一度もなかった。
それが二人の関係であり――
それが赤井陽妃の――十二月二十二日深夜から始まる、悪夢の始まり。
それは悪夢だった。
昨年十二月二十二日、二十三時すぎ。
暮内宵が、赤井陽妃の前に姿を現し、彼女を襲おうとしていた彼らを殺害した――その直後。
『よかったですね、助かって』
暮内一緒も、そこにいた。
……と云うか実際、あの三人を直接的に殺害したのは一緒の能力だったわけだけれど。
一緒は部屋の扉の前――ちょうど陽妃と、倒れ伏した晴雪の間の位置に立ち、
『大丈夫ですか』
陽妃になんの感慨も心配も同情もなく、ただ平淡にそう言った。
『……』
陽妃は答えなかった。突然現れた先程のダサい男にも呆然としたが、こちらも突然現れた汚い髪色の少女にも、ただただ怪しい人に向ける視線を刺すだけだった。
そのときの一緒は、陽妃と同じ学生服を超ミニスカにして黒のニーハイソックスを履き、髪の毛をお下げにしていた。
八重歯気味の犬歯が印象的だった。
『……はあ』
その女は一つ溜息を吐いて。
瞬く間もなく、音もなく、陽妃の目の前に移動した。
一緒の右拳が鋭く陽妃の鳩尾を抉る。
陽妃の口からは『う』と『む』の中間の声なき声が洩れる。
『もいっちょ』
一緒は言いながら左の拳で、猫パンチのような気軽さで陽妃の顎を殴り抜ける。
陽妃は意識を失い――その間際。
『久しぶりに若い男――』
一緒がそう言いながら一瞬で全裸になって気絶している晴雪の元へと向かっていく姿が瞳に焼きつき――
十二月二十二日、二十三時五十九分。
赤井陽妃は意識を回復する。云うことの聞かない体に鞭打って立ち上がり、くらくらする頭を無視して、その暗い暗い部屋の扉の元へと駆ける。
霧雨晴雪は元の場所にはいなかった。移動したのだ。きっと。扉の向こうに。
覚束ない足元、一度躓き、そして開け放たれた扉の元へと倒れ込んでしまう。
『あ……ああっ……』
言葉も出ない。悲鳴さえも、涙さえも。
赤井陽妃は、目にしてしまう。
扉の向こうには――扉の向こうには。
何もなかった。
何もなかった――正確に云うと、「霧雨晴雪が生きている」と、信じられる何かが、何も。
そこにあったのは、脱ぎ散らかされ、ずたずたに破られた晴雪の服。
そこにあったのは、ぐちゃぐちゃに掻き混ぜられた、何か人間のようなものの内臓と骨と筋肉――肉体。肉体だったもの。その欠片。真っ赤に染まったそれら――そこに充満していたその殆どが吐き気をもよおすほどの血と鉄の臭いだったけれど――
『久しぶりに若い男――』
僅かに混じる、イカのような臭い。点々と落ちている白い液体。
謎の――なんて言わない。謎でもなんでもなく、それは唯の……。
脳内でさえ、言葉にしたくなかった。
なんで……なんで晴雪は? あの女が何かしたのか? あの女が何をしたのか?
あの女は……何者なのか? 牙……牙。
そんなことより――そんな許すことのできない宿敵のことなんてさておき。
陽妃はそんなこと実は当時一切考える間もなく混乱していたのだけれど。
赤井陽妃は、願った。
『どうか――どうか』
私の大切な霧雨晴雪を。
私の唯一の霧雨晴雪を。
私の世界の霧雨晴雪を。
『蘇らせてください』
蘇らせる――ちからをください。
私はどうなっても構わないから。
こんな世界なんて、どうなっても構わないから。
*
テレビニュースの気象情報で、自分の地方が気付けば終わっている現象を何と云うのだろう。
「注意散漫、とか」
椅子に座ってぼやく少女に、後ろから少年が言う。
青白いリヴィングルーム。朝の冷たい空気が、ファンヒーターから吐き出された熱気と入れ代わるまでまだ暫くかかりそうである。低血圧を押してまで起き抜けにシャワーを浴びて、髪も渇かれないまま落ち着いたために冷えてしまった肉体の再起動には、それよりも更に時間を必要としそうだ。眠気眼で入れたホットのアイスコーヒーが、口内に確かな苦みを残して落ちていく。ほんの少しだけ血液が巡る。
「……うるさい」
毛布を頭から被って、スリッパを脱いで椅子にパジャマのまま丸くなる。
「そうしてると冬眠したリスみたいだ」
「かわいいってこと?」
「そう」
「……」
二メートルと離れていないテレビに週間の気象情報が流れ出す。そう、「週間天気」のときに気を取り直して真剣に見始めても、「さっき今日の天気は言ったでしょ?」とでもお天気お姉さんが言わんばかりに、明日からの七日間しか教えてくれない。
少年の眼鏡に映像が反射する。
テーブルとは逆、テレビに向けられた椅子にしゃがみ込んだ彼女を少しの間ぼんやりと眺めて、既に着替えさえ終えていた彼は、エプロンを着けて朝食の支度をする。
テレビの朝の情報番組は、気象情報が終わり時報を越えて「今日は何の日?」と云うテーマで街頭インタヴューをしていた。駅前――地下鉄だから駅上か――の繁華街で、アナウンサーが軽快な声で問う。
「今日は一月七日。何があった日でしょうか?」
どうやら準備していた様子の、暇そうな大学生が答える。……暇そうでない大学生なんていないか。彼女はそれらを聞き流しながら、ふと気付いたように声が漏れた。
「あ……そうか。今日から学校か」
「……そのためにこの時間に起きたんじゃなかったの?」
少し離れたキッチンから籠もった声がする。どうやらこちらを見もせずに言っているのだろう。かちゃかちゃと皿が触れ合う音も合わせて聞こえてくる。
「いや、なんとなく起きちゃっただけなんだけど」
「そう」
彼は軽い調子で相槌を打つ。言っている間に数種類のサンドイッチを用意してダイニングへと運んできた。自分のコーヒーと、彼女のコーヒーのおかわりもだ。
二人は腰掛けて、祈りを捧げて食事を始める。
「……うん」
たった一つ、頷くことで彼への感謝を伝える。
「いいよ」
彼も微笑む。
そして彼は一瞬壁に掛かった柱時計を見遣って立ち上がる。
「そろそろ着替えてきたほうがいいよ」
「ん」
空の皿を重ねてキッチンへと向かう彼を後目に、彼女も立ち上がって寝室へと向かう。ぱたぱたというスリッパの音とかしゃかしゃという食洗の音。
既に整えられたベッドに腰掛けてパジャマを脱ぎ、百十デニールのパンティストッキング、デニム生地のホットパンツ、キャミソール、ヒートテックシャツの上に厚手の白いパーカー。
クローゼットからコートを取り出して、再びリヴィングへと向かう。
彼もとうに準備を終えて、テレビのニュースをぼんやりと眺めていた。
「化粧しなくてもかわいいのに」
「あなたが髭を剃って眉毛を整えるのと一緒」
シャワーを浴びて、洗濯をした服を着て、歯を磨いて顔を洗って、爪を整えて髪の毛を梳って、
「それと同じ」
「そう」
たまにする、予定調和的な会話。
二人は家を出る。
家の前には、既に高等学校の送迎のスクールバスが待っていた。新年から学生たちの安全のためなのか何なのかそう決定された。
ぷー、と云う気の抜ける音とともに扉が開いて、二人は乗り込む。先に乗っているのは最後列に男女二人。中頃の左側に並んで腰掛ける。それを確認して、バスは動き出した。
二人は何も話さず、流れていく街並みをぼんやりと眺めていた。
クリスマスに見る定番映画に登場しそうな、カラフルな一階建ての家々が大きく間を開けて並んでいる。殆どが今では空き家になってしまっているが、もうかれこれ二週間、誰が管理しているのか外壁も清潔なまま、庭も整えられたまま維持されている。
バスは静かに走り続ける。
どういう仕組みなのか知らないが、道路に埋め込まれた装置と電磁誘導か何かをして発電して走る電気自動車らしい――と今朝のニュースでやっていた。エンジン音も静かで、もっと云うと運転もとても巧いからより快適である。
「……自動運転じゃないんだね」
「そうだね」
二人がバスの中でした会話はこれだけだった。
昨年末――確かクリスマスの朝だった――に彼らの住む家にA4サイズの分厚い封書が二通来ていた。送り主は教育相の何か聞いたことある名前。中に入っていた分厚い冊子の内容は「新学習指導要領について」。
一つ、一月七日から新学期が始まること。
二つ、通学は元々通っていた学校へ。スクールバスが今住んでいる場所へと送迎すること。
三つ、詳細は同封の冊子に書かれていること。と同時に携帯端末にも送信されたこと。
二人は当然のごとく読むのを億劫がった。
けれどそのことの重大さが冊子を読まずともわかった。
二人は幼馴染みだ。家が近所で親同士が仲が良かった。
ただそれだけだった。
けれど昨年の十二月二十三日。
事情はよくわからないけれど、二人の両親は四人とも出向で単身赴任ならぬ両親赴任することになり、その日朝に赴任先へと出立して行ったのだが。
『じゃあ一緒に住んだら?』
両親たちが言い出したのか、自分たちで言い出したのか。
そしてその日以降、周囲の人間が大幅に減った。……気がする。最初の日はだいぶ違和感があったけれど、もうそんな感覚は殆どなくなっていた。恐らく、いずれ消失するのだろう。
さておき。
二人は幼馴染みだ。家が近所で親同士が仲が良かった。ただそれだけだった。一緒に住んでいるのはたまたまで、しかもたった二日前からで、当然家族しか知らない。
筈の、今住んでいる場所へ。二通。封書が届いたのだ。
ことの重大さが二人には即座にわかった。
バスは校庭に乗り入れて昇降口の前で停車し、また気の抜ける音が扉を開けて彼女たちを降ろす。二人を乗せた後にこのバスは他の二人を拾ったため、降りたのは全員で六人だ。
それはすなわちこの学校に通う――少なくとも今日登校する全生徒数だった。
六人はそこで、学校内に存在する大ホールへと向かうよう運転士に指示される。例の分厚い冊子にも当然記されていたが、念のため、と云うことのようである。
階段を昇り、ロッカーが並ぶ廊下を歩き、幾つかの教室を過ぎてそこに到着する。舞台に向かって整然と、大量に並べられたパイプ椅子の、左側最後列とその隣に腰掛ける。席の指定はなかった。彼ら六人は各々好きな席に座った。
間もなく。
壇上にスクリーンが下りてきて、そこに映し出されたのは例の教育相の男性だった。あまりにも唐突にしてスムーズだったために聴き始めてしまった。
『おはようございます。もう読んだ方もいらっしゃるかと思いますが、教育のカリキュラムが変わり今日から学期が始まります。まあ、読んでいない方が殆どでしょうね』
分厚かったですし、と一つ彼は息を吐く。
『簡単に云えば、基礎教養を必修していただきます。世界史、国史、母国語とその読解、英語とその読解、数学、化学、物理、生物、倫理。これらを七歳から十年間で。他の科目は全て選択で学ぶことができます。逆に必修科目は単位や卒業資格ではないので、実のところ必ずしも修めなくてもいいです』
「それじゃあ必修じゃなくね」
彼女が言うと、隣の彼は半笑いで頷く。
『その通りです』
二人はびくっとした――六人とも、それぞれ何らかの驚きの反応を示した。
『ええ、誰しもが思ったでしょう。そうです。あなた方は何も知らないまま、死ぬまで生きることができる』
逆に、知らぬままだったことを悔いたのなら、再び学び直すことができる。
『どうです? 繰り返し学習することもできるし、発展的な学習をすることも、何も学習しないこともできる。学習したことを生かして、職業をもって最低限の生活以上のそれを得ることもできる』
何も学習しなくても、最低限の生活は保障されている。
『あなたたちは自由だ』
そう言って彼は締めくくる。
ホールはとても静かだった。
今日の学校は結局この発表(会見?)だけで終了し、昇降口にずっと停まっていたのか、行きと同じようなバスに二人は乗り込んだ。彼らが乗ってから少し経って二人乗り込んで、行きと同じ乗車人数で、とても静かに発車した。
「さっきの話」
と、発表以来黙っていた二人は、どちらともなく言う。
「君は勉強する?」
彼は窓際に座る彼女に訊ねる。
「……する必要がないからしないかな」
「そう言うと思ったけど」
彼は表情を変えずに返す。
「でも、登校しないと少なくとも平日の昼食はないよ」
「ないよ、って」
「だって僕は学校に行くし」
「……それは困るかも」
現在のところ――これは今年の一月一日からの話だが、食料は完全配給制になった。大量の、かつ豊富な種類の食料が週に一度送られてくる、ことになっている。そう昨年末に発表されてこれも情報端末に詳細が入っているし、分厚い冊子も送られてきている。これも二人の住む家に二人分。食料は二人分よりかなり多く、恐らくもっと大食な人でも足りるようになっているのだろう。ただ調理はしないといけないのでかなりやっかいではある。ネットの海にまことしやかに流れる噂だと、色々な理由から調理ができない人のところには、超高性能なロボットが、最初の食糧配給のときに一緒についてきたらしい。……彼がいるから送られてきていない、と彼女は考えている。
じゃあ私と彼が同居しなくなったら送られてくるのだろうか。と、あまり考えたくないことを、彼女は少しだけ思う。
それと、食糧と同時に幾らかの金銭――社会人数年目の一月の給料と云っても全く遜色ない程の金額が送られてきて、これで衣服など生活必需品や趣味のものをやりくりしなさい、と云うことらしい。
「でもこれが、いつまで続くかわからないよね」
「……そうだね」
これで五年遊んでいるうちに「資金が底を突きました。皆さん働いてください」ってなったらたまったものではない。
「五年後……」
とても漠然にして茫洋とした未来。自分は何がしたくて、何をするのだろう。
二人はそんなことで少しだけ話が盛り上がりながら、バスにごとごとと揺られていく。
*
「……で、ここどこ?」
「さあ?」
「え?」
「言語と時差でだいたいわかるでしょう……」
暮内宵が、隣に座る暮内一緒に訊ねる。
帰りのスクールバスの最高列に、二人は座っていた。
暮内一緒と暮内宵は二人、携帯電話の話し相手による転送魔術によってこの街に送られてきていた。学生たちとともに登校し、そして現在帰りのバスの最後尾に陣取っている。
二人は海外――日本から見て海外のホームドラマに出てくるようなイケイケな学生服姿だ。
『赤井陽妃は今は罪のない人間を殺すことはしない』
――だろう、と携帯電話の話し相手は言って、電話を切った。
これまで散々殺してきたけれど。もう殺し尽くした感は確かにある、と彼女も思った。
「あんな学生の誰もが立ち上がって大騒ぎを始めそうな話題を提供されても、誰一人としてそうはしないことが異常だって、彼らは誰も思っていなさそうでしたね」
彼女が言うのは先程の大ホールでの発表のことだ。
「さもそれが『当然』だというように――私が感じるような『違和感』など存在しないようでした」
そんなキャラクターをもった、ここにいた筈の生徒が、この学校から既に消失していることを誰も認識さえしていない。
「……」
一緒は言いながら黙々と思考へと落ちていく――
「いやそんなことより一緒!」
そんな彼女を全く無視して宵は唐突に声を荒らげる。ごとん、とバスが大きな石を踏んだ衝撃がサスペンション越しに二人に伝わる。
「どういうこと? 霧雨晴雪は本当は死んでる筈なの?」
「……」
一緒は一瞬鋭い目をしたものの眉間を摘んで皺を伸ばして。
「……聴きたいですか?」
彼女はぼそりと、彼に訊ねた。彼も無言で頷く。
「……一度しか言いませんから、ちゃんと聴いてくださいよ」
「はい」
素直に彼は返事をした。
「いいお返事です」
暮内一緒は褒めることも忘れない。
「……実は彼は、霧雨晴雪は」
彼女は一つ息を吐いて。
「私があの日、喰べ尽くした筈なのです」
「は?」
宵は一瞬、思考が追いつかない。
「は?」
二回も訊き返して――そして何も言葉が帰って来ないのを確認して、「そうなの……」とようやく飲み込んだ。
納得いかないのも無理はない。彼が彼女のその行為に気付いていない、と云うことはつまり彼女は〝時空間操作〟を使ってそれらを行なったと云うことだからだ。
けれど、と言って彼女は少し間をもつ。
「……一目見てわかりました。彼は〝吸血鬼〟です」
暮内宵は今度は「は」を発音することさえ叶わなかった。
「しかも私製です」
彼は固まったまま耳にした「わたしせい」を漢字に変換していた。
数秒後。
「……でもそれじゃあ」
「はい」と彼女は一つ頷いて、「人間が〝吸血鬼〟になるルールは覚えていますね?」
「……はい」
「じゃあ続きを」
「ごめん確認していい?」
珍しく彼は知ったかぶりをしなかった。
「〝吸血鬼〟は、吸血鬼、つまり一緒によって血を吸われ、かつ生き残った人間のうち、〝無血〟でない人間がなるもの。またはそうして〝吸血鬼〟になった者によって血を吸われ、かつ生き残った人間のうち、〝無血〟でない人間がなるもの」
「そうです」
彼女は一つ頷いて、「よくできました」と彼の頭頂部をよしよしと撫でた。
「私が〝無血〟を除く人間を〝吸血鬼〟化するとき、私が〝吸血〟した分、私の血液を与える――〝給血〟する必要があります。〝吸血鬼〟が〝吸血鬼〟をそうするときも同様です。そのため、〝給血〟された血が私のものか〝吸血鬼〟のものかで生まれる〝吸血鬼〟のレヴェルが全く変わってきますし、その量によっても変わってきます」
当然、と一つ彼女は息を吐く。
「『喰べ尽くした』のですから、彼が〝吸血鬼〟となって復活することはありえません。ありえませんが――」
一つ、溜息を吐いて。
「要するに彼女は、赤井陽妃はその能力を以て彼を〝吸血鬼〟として復活させたのです。私が彼の血を吸ったことを利用して」
「……なんだって」
彼は呆然と、訊き返すでもなく納得するでもなく、理解の外だといった様子でぼそりとそう呟いた。
彼女は続ける。
赤井陽妃の〝機械〟という能力が吸収したものの中には、情報技術も存在する。ただ、それは飛行機や自動車や兵器の技術のように、彼女が吸収して世界から消滅したわけではない。
でなければ電車の時刻が滅茶苦茶になるし――と云うのは、電車だけに話の脱線だが。
話を戻す――あの十二月二十三日。
「霧雨晴雪は、あの後私が完全に喰い尽くしました」
「尽くす」と便宜上は云っても、それは人間であろうと動物であろうと誰もが何の痕跡もなく、何の食べ残しもなく――「食べられないもの残し」もなく食事をすることが困難なように、始祖の吸血鬼たる暮内一緒もそうであった。
その現場――赤井陽妃が危うくレイプされかけた――されたと云っても過言ではない――あの空き家で、殴られ気絶していた霧雨晴雪を、暮内一緒は二つの意味で襲ったのだ。
レイプして、そして殺害したのだ。
二つの意味で、喰ったのだった。
――そしてその後。
残留、と云うか最早「遺留」と云うべきでありかつその経緯から「慰留」とも云っていいかもしれないが、そこに残された髪の毛、或いは肉片や骨片、或いは精液から、赤井陽妃は自身の能力で以て、
霧雨晴雪を、蘇生させた。
陽妃はその遺留品から、あらゆる情報と機械的技術とを以てして、一瞬で彼を再生産した。
そうして赤井陽妃という〝無血〟を経て再生産され、〝吸血鬼〟的能力で以て再生して――
「始祖の吸血鬼である私が〝吸血〟したのです」
それは超人的ならぬ超〝吸血鬼〟的な再生だっただろう――霧雨晴雪は復活した。
脳から内臓から筋肉から皮膚から、生きることに必要な諸々まで。
――いつの間にか。
生徒全員を配り終えたらしく車内には彼女ら二人と運転士だけ。
「……そんな」
まだ学校を出たばかりだった筈だ。
「時間が」
吹き飛ばされている――
「彼をあなたの前に再登場させた以上」
霧雨晴雪を再登場させた以上。
「あなたたちをもう逃がしませんよ」
車内には、彼女ら二人と。
運転士だけ。
赤い眼鏡に、一本三つ編み。
今までどうしてなのか意識から外れていたルームミラーに写るのは、バス運転士の格好をした赤井陽妃だった。
口角を吊り上げた赤井陽妃が凄まじい速度でスクールバスのアクセルを固定したまま、運転席から立ち上がって客席の方へと向かってくる。暮内一緒と宵も立ち上がり、対峙する陽妃は右の首筋辺りに垂れる三つ編みに手を掛ける。
「天地開闢――〝天叢雲〟」
一つの跳躍で暮内一緒に突きを繰り出す。暮内一緒はそれに対して例の蝙蝠傘を広げる。
「私に力を貸して《Adiuva mihi》――〝魂絣〟」
どうやら〝魂絣〟と云うのが一緒の刀の銘らしい。
「防ぎなさい《Defende》」
〝魂絣〟は傘の状態のまま。赤井陽妃の剣戟は傘布を破ることなく滑っていく。赤井陽妃は笑顔のまま。笑顔のまま彼女は車のリアを突き破って、彼女はバスから脱出し、
粉砕されたリアの窓ガラスは忽ち直っていた。
「……また」
また閉じ込められた。
どこを走っていたのか、もう目前に海が迫る。
「まあ対策はしていたんですけれど」
彼女はあまりの衝撃に固まったまま動かない宵を正面から抱き寄せる。
「なっ、一緒っこんなところで……」
突然のハゲに、
「ハグ!」
童貞の彼は顔を真っ赤に染めて照れる。
「ちょっと黙っていなさい」
真顔でそう言う彼女の舌には二重の円に六芒星――魔方陣が、切り傷によって描かれていた。
「〝変化《Mutatio》〟」
彼女は彼に熱く深い口づけを舌。した。
数秒前には既に海に入水していてがんがん浸水してきているが、そんなことはお構いなしに。
宵の姿が〝変化〟する。
彼の身長そのままの、円錐形の巨大な槍。
彼女の血液が、彼女の〝給血〟が彼の力を増幅させる。彼女がそれを手に取ると空気が渦を巻き始める。流れ込む海水に構わず彼女はそれを天に――海水面に向ける。
翼を広げて、一つ羽搏く。
「貫く力を《potestas penetrans》」
それは全てを貫く力。
天と海と――ついでに天井まで貫いて。
暮内一緒と槍状の宵は空中へと脱出する。
と、そう簡単にはいかなかった。
海面の揺らぎが目前に迫るころ。
海面上から叩きつけるように。
「死ね」
赤井陽妃の上段からの面が暮内一緒の槍の鋒と衝突する。
「ぐっ……」
「〝遮〟」
〝遮〟――〝三重斬リ〟。
海面がすっ、と固定される。
一度の剣戟に三度分の重さがかかる。
暮内一緒は水深十メートル程まで押し戻され、赤井陽妃も同時に水面下に降りてくる。
海水はどこまでも深く吸い込まれそうなほど、藍から黒へとグラデーションしていた。赤井陽妃の何らかの能力か〝結界〟の力か、辺りに生物は見受けられない。ただぽこぽこと、透明な海月のように浮かぶ泡が、二人の服の隙間から洩れ出でてくるだけだった。
「ぼこぼこ……」
その術……と一緒は言う。立ち泳ぎも、海面へと浮上しようともせず、水中で〝空間操作〟で足場を作って立った状態で、である。右手には槍状の宵、左手には傘状の〝魂絣〟。
「ぼここぼこ……ぼこしてぼこしたちのばしょば?」
それにしても、どうしてわたしたちのばしょが? と一緒は訊く。どうやら赤井陽妃本人のようだし、と彼女は口に出さず思う。
「だってあなたたち、別に姿を隠していなかったじゃない?」
赤井陽妃が鼻でぼこぼこと笑いながら、けれどはっきりとした口調で告げる。
「……」
彼の魔術は魔術的に姿を隠す機能はなかったのですか……。
彼女は諦めて槍を構え、傘を離すと何処かに消える。
水が渦を巻き、一緒の背を押す。陽妃へと真っ直ぐ向かっていく。
「我が腕に全てを貫く力を《In brachiis meis omnis potestatem penetrare dare》」
今度はぼこぼこ言わず――一緒の速度が上がる。
「――!」
陽妃は少し意表を突かれ――決して油断はしていなかったし、構えていた――剣を自身の前面を防御するように動かす。それは決して油断ではなく。
或る意味では慎重であり、そして悪く云えば一緒に対する過大評価だったかもしれない。
その際〝結界〟に割いていた力を僅かに肉体の防御に回した――一瞬の、その隙。
にやり。暮内一緒は笑う。舌を出して笑う。
「〝転移《Transitus》〟」
陽妃に槍の鋒が触れる直前、一緒と槍状の宵は消えた。
「……くそ」
赤井陽妃は彼女たちの後を追う。
*
「霧雨晴雪の能力は『他者の能力を模倣する能力――ただし百パーセントではなくせいぜい七十から五十』といった感じでしょう」
暮内一緒と通常体に戻った暮内宵が〝転移〟してきた場所は、ウクライナのチョルノーブィリ刑務所だった。学校に通う少年たちと過ごす時間でだいぶ肉体は回復してきたが、どうしても血液の絶対量が不足していたからだ。
要するにここには食事をしにやってきた。
『赤井陽妃は罪のない人間を殺すことはしないだろう』
なんて言われてから罪のない人間をいそいそと喰い漁ることができる程心強くはない――と云うわけでもなく。単純に、先程の携帯電話の話し相手たちとの協力関係を易々とは破壊したくないからだ。
「……そんなヒントあった?」
宵は少し不満そうに訊ねる。濡れた髪を手櫛で乾かそうと試みながら失敗していた。へあっくしょん、と一つ盛大にくしゃみをして身を震わせる。
それもその筈、一月七日現地時刻十六時三十二分。
気温四十六度。
「高っ」
華氏四十六度――摂氏八度。建物内である。既に全身と纏う服を身体の治癒能力と同時に回復・乾燥させている一緒に対して、宵は服はともかく髪だけが未だ乾かずにいた。
「いくつか……気になっていたことがありました」
と彼女は彼の方向を見ずに呟く。
「一番は、赤井陽妃が、私が止めた時の世界に〝入門〟してきたことです」
「……それって〝無血〟だから一緒の能力が通用しなかった、って話じゃないの?」
「違います」
彼女は彼の言葉に被せながら回答する。そこには既に呆れが混ざっている。
「私の能力は知っていますよね?」
彼女からのこのような質問はこれまで何度もなされてきたが。
「……〝時間と空間を操作する能力〟?」
案の定彼はこれまでと同様に知ったかぶりをした。彼が改心したのは一度だけだったようだ。
「私の能力は」彼女は彼の回答を全く聞いていない、「あの子を吸収して理解を深めたといっても結局のところ〝空間操作〟でしかないのです」
「……」
彼の理解を措いて。
「私の能力は〝空間を操作する能力〟。時間を停めることなんてできないんです。完全に停止させることができたのはあのクソ野郎とあの子だけ」
余談でした、と彼女。
「私の〝時間停止〟は、〝或る瞬間のあらゆる空間に存在しうる能力〟」
「そのほうがすごいでしょ」
彼が率直な感想を述べる。
「つまり時間が停止しているわけではなく、あれは一瞬の出来事で赤井陽妃は本来認識できるわけがないのです」
あれ、と言われても当然宵の意識もなかったので彼には理解不能である。
「だから私の〝時間停止〟は私『の有する最強の能力』の一つではあるけれど『最強度の能力』では決してありません。相対的には『全ての原子が移動を停止し、全ての音が止み――』私『以外の全てが、平等に』私『の能力の影響を受け』てはいますが、ただその瞬間に私だけが動いているだけなのであって時間も空間もそれまでと変わらず自然に流れているのです」
「そのほうがすごいでしょ」
彼はもう一度同じことを言った。先程はスルーされた感が濃厚だったからだ。
ただ今回も彼女はその発言に反応を示さなかった。
「けれど彼女はあの一瞬に私と会話した。彼女の能力が〝時間操作〟系ならあの時明確に把握できた筈です――彼女の能力では恐らくなかった、〝吸血鬼〟的な力でした。それはきっと」
霧雨晴雪の力。
「私の能力と同様の能力を、けれど同等とまではいかない能力を赤井陽妃に付与した。だからこそ彼女だけでなく彼女が発した能力の部分的なものも私の能力を無効化させていた」
宵は相槌さえ打てない程理解の外である。
「それにあの時」
『〝亜空切断〟』
……霧雨晴雪は「音声認識全自動」の〝亜空切断〟を使った。
「私が使って間もなく――恐らくあれが強力な攻撃術式だと考えて。まあ私の刀でなければ殆ど効力はないのですけれど」
彼女の刀〝魂絣〟は云わば「魔法のステッキ」でもあるのだ。
と、そこで宵が頭を痛そうに振りながらようやく言葉を発する。
「でも、それじゃあおかしなことが……あるような、気がするんだけど……なんだっけ……」
「……脳足りんですね。人間の場合脳細胞は死んだらもう再生しないといいますが、あなたの脳細胞は〝吸血鬼〟的能力でも再生しないほどに死滅したんじゃないですか」
と、一緒はばっさり。
「……〝無血〟である赤井陽妃に対して能力が通じていることがそれです。が、彼は〝無血〟によって再生されているので、〝無血〟の〝無血〟的な〝吸血鬼〟的能力無力化結界が中和されているのです」
「…………、……、ぷーん?」
「それだけ頭抱えて考えておいてそれですか! 情けない……」
本当に情けなさそうに、彼女までその茶色と金色の混ざった頭を文字通り抱える。
「まあ、あなたに理屈なんて説明したって理解してくれないのでいいです」
すっぱりと諦めた。
「……」
宵にはまたも返す言葉がなかった。
「……お願いだから今回は説明してくれない?」
宵は、先程のよくわからなかった説明の説明を求めた。
「今回〝は〟?」
「……今回〝も〟でしたすみませんでした」
「……いいでしょう」
一緒は一つ頷く代わりに溜息を吐いた。
一緒は更に詳しく、彼女の理解を合理的に説明する。
彼女の予測的ではあるが確信的な理解は、勿論核心的に深い。
先の発言は、彼女は自身が分かりやすいように、「霧雨晴雪の〝吸血鬼〟的能力が〝無血〟に通じていること」を魔術的に理解していることの現れであるが、それはこういうことだ。
「少し言葉を足して説明しましょう」
一緒は宵の方を全く見ることなく、言葉を続ける。
「〝無血〟には、吸血鬼[〝吸血鬼〟]の能力の自身に対する効果を無化する結界が、生得的に張られているのです。ですけれど、霧雨晴雪自身が、〝無血〟たる赤井陽妃の〝機械〟の能力の一部であるその骨組みを取り込んでしまったことによって、その結界を取り込んでしまっていて、赤井陽妃の発生させている〝無血〟的結界を中和してしまっているため、彼の能力は、『赤井陽妃限定で』〝無血〟に通じている」
『赤井陽妃限定で』、と云うのは、恐らく暮内一緒は経験上知っているのだろう。〝無血〟のその生得的な〝吸血鬼〟的能力無力化結界が個性的でそれぞれ多少異なっていることを。
つまり他の〝無血〟の結界に関しては、霧雨晴雪の結界中和能力は通用しないということだ。
……ただ、このことを今ここで話したことは別に、赤井陽妃以外の〝無血〟の登場を予期するものでも伏線でもなんでもない。
断じて、なんでもないのである。
「…………」
彼女の言葉に宵は黙考していた。彼の死にかけた脳細胞が急速に再生していく――
「ウン、ワカッタヨ」
宵は理解を放棄した。
「……そうですか」
一緒は一つ溜息を吐いて。
「それじゃあもう『彼らが何故〝結界〟魔術を使用できるのか』とか赤井陽妃らによる『〝転移〟無効結界』を説明してもしょうがないですね。それに――」
それに。
『〝遮〟』
あれは赤井陽妃が使えるわけがないのに。
「ん……あんまり聞き取れなかったけどたぶんしょうがないと思う」
宵がなんとなくな回答をした。
「……ところで」
ところで二人は、ここまで会話を――と云ってもほぼほぼ暮内一緒の独り言だったが――続けながら、こつんこつんとコンクリート打ちっぱなしの廊下を歩いてきた。
極寒の地の刑務所だ。廊下こそこんな作りだが、個々の牢獄は鉄格子だけで区切られているのではなく分厚い壁で仕切られている。廊下に面した強固な錠付きのドアも、宵の顔より少し高い辺りに強化ガラス二枚が嵌め殺された小窓がついていて、二人はそれを通してそれぞれの個室を覗き見ていたのだが。
「全員死んでますね」
一昨日の学校内とまではいかないまでも、個室の中は血液が撒き散らされ、そしてそれはもうぱりぱりに固まっているように見えた。死体もばらばらか、殆ど原形を留めていない。
「収監者リストをあたったのですが」彼女は折り畳み式携帯電話を開いて光る画面を見る、「空の個室は確信犯が捕まっていた場所みたいですね」
「確信犯?」
「政治犯のことです。反体制派とか、自由論者とかそういう」
ふぅぅ、と彼女は懸念を整理するように口から白い息を吐き出す。
「これも赤井陽妃が……?」
「恐らくそうでしょう。けれど私たちが来ることを見越して、と云うよりは元々こうするつもりだった、という感じでしょうけれど」
実際には一昨日の段階で既にこうなっていたのだが。
「……背に腹は変えられませんね」
一緒はそう言って一つの牢屋の分厚い扉に丸い穴を無音で開け、死後二日が経過した異臭を放つ死体に近付きしゃがみ込む。見たところ八つ裂きの刑にあった様子である。宵が嫌そうな顔で言う。
「え? まじでこれ食べるの? うぇー」
「え? まじでこれ食べるんですか?」
「! ほらそんなこと言ってる間に!」
赤井陽妃が、そこにいた。
「特撮ヒーローみたいには」
「待つわけがないでしょう?」
イメチェンを――今回はコスプレではなく。服装は彼女の通う高校の制服であるセーラー服ではなく消炭色のブレザータイプの高校制服を身に纏っていた。眼鏡の縁も蔓も真っ赤に染まり、髪は全て下ろしていた――こめかみの辺りから垂れた一本の三つ編みを除いて。
「でも今回に限って、この芥を食べるまで待っていてもいいですよ」
赤井陽妃は暮内一緒が穴を開けた扉を消滅させて、暮内一緒の背後から彼女を見下ろす。
見下す。
「政治犯は」
これはチャンスと一緒は質問を投げかける。何とか気が紛れないかと一縷の望みに賭ける。
「〝一縷〟とかそんな……に関わる言葉を使わないでください」
難癖だあ。
「政治犯はどうなったのですか?」
一緒は陽妃の言葉を黙殺してそのまま訊ねる。
「終身刑で終身強制労働です」
あ、因みに、と彼女は言う。
「だいたい人を傷つけた経験がある人でいじめ加担者未満は皆その刑ですね。麻薬初犯は終身強制労働ですが再犯は死刑ですね」
「方法は?」
「餓死」
「……」
「吸血鬼や〝吸血鬼〟も栄養を摂取しなければ餓死するんですよね?」
クエスチョンマークをつけては見たもののほぼ確認だった。それに対して暮内一緒は回答を控えた。無言の肯定。
「何年掛かるんですか? 死ぬまで」
彼女はにやにやと一緒を見遣る。
「……やったことはないですんでわかりません」
一緒はいつの間にか銜えたストローをぴこぴこ上下させながら苦い顔をしている。ストローが真っ黒に濁っているところを見ると、どうやら陽妃の高校でやったようにこの辺りの腐乱死体からストローでちゅーちゅー体液を吸っているようである。
「待ってくれてるのでちょっと訊いちゃいますけど」一緒は陽妃に訊ねる、「どうして私たちがここに〝転移〟してきたのわかったんですか? 〝結界〟とか結構張り切って張り切ったんですけど」
「え? あなたは把握していないんですか?」
赤井陽妃は、きょとんと小首を傾げながら質問を質問で返す。
ところで「小首」ってどこなんだろうね。
「別に『小首』っていう体の部位はないですよ。『こ』は『ちょっと』って意味です。因みに『小一時間』の『小』は『もう少しで或る単位量に届く』って意味だから『小一時間』は五十七八分ってところかな」
いずれも『新明解国語辞典』よりである。
「てっきりあなたなら把握していると思っていたんだけど」
赤井陽妃はしれっと話を元に戻す。
「刑務所、と名のつく建物はもうここだけですよ」
「え……」
そんなこと、〝無血〟的能力を使われていたとしても一緒は把握できない筈はないのだが。
「というか刑務所なかったら犯罪者の収容はどうするんですか?!」
「今説明したじゃないですか」
もう一度彼女は一緒に蔑みの視線を送る。
「私の世界は完成した」
私の世界は完成した。
「死刑以外の犯罪者、つまり生き残った犯罪者は全て終身強制労働ですから必要ありません」
「いやいやいや寝るとこは必要でしょ」
「だって『刑務所から出る』ことを『社会復帰』って言うでしょ?」
「言いますけども」
正確には刑務所から出て就職などをした段階で言うことだろう。
「要するに刑期の間は社会から排除されているってことでしょ」
「……」
社会から排除されたヒトが。
「人間として生活できるとでも?」
それで陽妃は話は終わったということだろう、一つ息を吐いた。
「私の分身とも云える〝機械〟たちが徹底して世界を管理しています。経済に関してはまだ不安定ですが、衣食住と医療介護は〝機械〟達が担っているので最低限以上は何とかなっています。生産・輸送は全て〝機械〟。何か罪なることを起こしたら――犯したら、〝システム〟が自動で見つけ出して〝機械〟が処罰します」
「……最初にあなたが能力を発動させたとき起こった変化で職がなくなった人は?」
「転職した人もいます」
「……そのときあなたが殺した人間もいるのでしょう?」
「ええ」
陽妃は即答した。
「でも安心してください」彼女は微笑を湛えて続ける、「彼ら彼女らは自身が死んだことに気付かずに、それまでの生活よりも少しだけいい生活をしている幸せな夢を見ています」
「……」
暮内一緒は絶句した。
「というかこれぐらいあなたの〝空間操作〟なら把握していて当然だと思っていましたが」
陽妃はもう一度ほじくり返すように言う。
「うるさいですね……妨害してた癖に」
「ふふ」
陽妃は一緒の言葉に短く微笑む。
「まあ今からやるのですけれどね」
何を、と言いかける陽妃を無視し、一緒は彼女の背後に隠れた宵へと振り返り、右掌で彼の左肩をとん、と叩いた。彼は〝転移〟しどこかへ――ここではないどこかへと消えた。続いて彼女は、仏壇の前でそうやるように両の掌を胸の前で合わせる。
「〝宇宙《Quod etat destrandum》〟」
じわりじわりとその掌を広げていく。その中心には、この暗い刑務所の中でも更に暗く見える小さな黒い点。
「……」
否。「黒」という「色」ではなかった。陽妃が見た限りそれは――否否。それは、見えない一点だった。不可視の点。光のない、光の届かない一点。
闇。
全てを――光さえ呑み込む闇。
空間が光さえ呑み込んで収斂していく。
視界が歪む。世界が歪む。光が歪み、像が歪む。互いが互いをはっきりと視認できなくなる。
「……ブラックホールですか」
「俺に任せてよ」
どこから現れたのか霧雨晴雪。彼は右手に持った自身の剣を暮内一緒に向ける。もはやこの明度の中では彼の剣は完全に『風王結界』である。その鋒。
「待って――」
「〝天〟」
陽妃の制止を遮り、彼は言葉を紡ぐ。その鋒にも、空間が吸い込まれていく。徐々に見たところ黒色へとグラデーションしていく。その一点へと、空間が――
「これはヤバいですね」
暮内一緒は生成されたブラックホールを陽妃たちの方へと両掌を上に向けて「どうぞ」と差し出すように向ける。直径は――視認できないが――一センチメートルもない。
同様に晴雪が剣の鋒から放出したそれは更に小さいが、ご存じの通り、ブラックホールとは惑星の最終形態であり、重力の行き着く場所である。周囲は異常な強風で二人が放った二つの黒点に空気が、建材が、物体が飛来していく。轟々と音を立てて崩れゆくコンクリートや鉄筋は歪み、彼らの背から次々と降り注ぐが二人は避けることさえしない。そんな余裕はないのだ。その二つの黒点に吸い込まれまいとそこに留まることで精一杯なのである。
三人ともそれぞれがそれぞれの方法で大地に根を生やしたように自身を固定している。全身〝機械〟である陽妃の場合は、背は無傷で、飛んでくる全ての瓦礫を弾き返している。だが他の二人は、肉体を引きちぎられるそばから再生するという吸血鬼的・〝吸血鬼〟的方法で辛うじてそこに留まっている。
びゅうと強い風の音が冷たい雪に混じって聞こえてきた。
気付くとものの十数秒で彼らの立つ場所は極寒のチョルノーブィリの大地となった。
猛吹雪が二点に吸い込まれていく。
二点の周囲は、時空が停止状態へと近付いていく。
「ここであなたたちを滅ぼす――たとえ暫く活動できなくとも」
暮内一緒は皮膚が剥がれ筋肉さえ回復が間に合わないレヴェルまで来ていた。ぶちぶちという音も聞こえない程の重力。
「そうは――」
いかない、と晴雪が続けようとしたとき。
「ぴし」
晴雪の剣に、小さく亀裂が入る音。
「ハルもうやめて!」
言いながら陽妃は晴雪を後ろから抱き締めて背の翼からの超強力なジェット噴射でその場を無理矢理離脱しようとした。が、もう二つの黒点は一つに合わさり更に強力なものになっていた。
「〝退〟」
〝解〟――一つの闇は崩れ去り。
白。
その瞬間に反転したその空間は、吸い込まれていた光が弾けて周囲は真っ白な光に包まれて全員が視野を失う。何も見えなくなる。
陽妃と晴雪、そして一緒はそれぞれ〝退〟――何の方向の指示もせずに咄嗟に出た陽妃の言葉に、何の指向性もなく、ここから退場させられる。
音もなく。
その場にいた三人は消え去り。
大地には半径数キロメートルに渡るクレーターだけが残されるだけだった。
*
お分かりかと思うが赤井陽妃や今回霧雨晴雪が使った言葉の魔術、呪文とかそう云った類のあれらは掛詞みたいなものだ。その精度が高ければ高いほどクオリティが上がるし、掛ける言葉が多ければ多いほど付加される効果も増えていく。
つまり〝退〟――〝解〟のクオリティは著しく低かったということだ。赤井陽妃と霧雨晴雪は二人、呪文の瞬間に抱き合っていたので辛うじて同じ場所に云わば転送――撤退したのだが、
半径数キロメートルに渡るクレーターの僅か数十メートル先だった。
周囲は地平線までひたすら続く雪原だった。家もない。この辺りは穀物を生産する広大な農業地帯だったが、赤井陽妃の「世界が完成した」後には何もない平原になっている。
ウィンターキル――簡単に云うと冬の枯死のことだ――を避けるために完全に冬は休耕地になっている――なんてことはない。陽妃が知っているか知らないかは知らないが、ウィンターキルは『ゲノム編集』という神のごとき科学技術で既に解消されている。
行き過ぎた科学は魔法と等しい――逆もまた然り。かつて本当に存在したらしい魔術を科学的見地から体系化したのが暮内一緒や彼女の携帯電話の話し相手や赤井陽妃がパクっ――もといまねぶ――学んだそれである。が、別の話だ。
別の話、閑話休題。
先程まで吹雪いていた空も、周囲の雪雲が全てブラックホールに吸い込まれてしまったせいで晴れ渡り、漆黒の夜空に大量の砂糖をばら蒔いたような明るい星空が広がっている。
チョルノーブィリの大地。
本当に何もない。ふらふらと、一体の真っ黒な骸骨である〝機械〟が見回りをしているだけだった。
「……無茶したらダメだって」
赤井陽妃と霧雨晴雪とは、未だ抱き合ったまま座り込んでいる(と、云うかいつの間に正面に向き合ったのだろうか)。雪の冷たさも空気の痛みもまるで感じていないかのように。晴雪の右手に握られた剣は剣先十センチメートル辺りまで罅が入っていた。
「私の血を吸って」
陽妃は有無を言わせぬ口調で続ける。
「……わかった」
晴雪も有無を言わず彼女に従った。陽妃はすっと肩をはだける。美しく白い肌。どこからかはらはらと舞ってきた雪が鎖骨の窪みに沈み、すっと溶けていく。彼は口を開き、前歯と犬歯を剥き出しにする。そっと歯先が彼女の首筋に触れる。ぷっ――陽妃の朱殷色の血が彼の牙と彼女の肌の隙間から一筋垂れていく。
「んっ」
艶かしい声。陽妃が優しく噛み締める歯の隙間から洩れ出る。
彼の剣の罅がすっと消えていく。
「やっと」
がしゃん、と。
唐突に――二人の目の前に黒い骸骨が倒れる。
「全てを把握しました」
暮内一緒が一人そこにいた。今の音は、左肩に担いでいたらしい〝機械〟の骸骨を放り投げたそれだった。彼女は一つ、煙草でも銜えているかのように長い息を吐いた。
「今の世界の人口は何人ですか」
一緒は問うた。陽妃は答える。
「……七万飛んで二千二百五人」
「〝機械〟の数は?」
「……ん、詳細は把握していませんね、一億ぐらいでしょうか」
「……」
三人分の沈黙。……本当はそこに――暮内一緒の右手の傍の地面に刺さっている円柱形の長槍が暮内宵が〝変化〟した姿なので四人なのだが、まあそんなことはどうでもいいのである。どちらにせよこの状態での彼は言語を発することはできない。
「わかってしまったのでしたらしょうがないですね」
赤井陽妃は立ち上がる。伴って霧雨晴雪も――彼の右手を、自身の左手で握り締めて。
恋人繋ぎで、二人は結ばれたまま。
「晴雪」
赤井陽妃は、右手で三つ編みを撫でて。
「ありがとう」
彼女は笑みもなく、彼の方向を見ることさえなくぼそりと呟く。
彼女は大地を見つめたまま。罅割れて乾燥し、汚染された大地を、そしてそれから決して逃れられることのできない自身の足を、見つめたまま。
大地が。
大地の全てが青白く輝き始める。
「これは……」
四人の影が天へと伸びる。
これは――魂の光。
魂の輝き。
「天地閉闔」
陽妃の両手に二本の刀が現れる。
「〝地晴雨〟」
*
――定義をしよう。
彼ら吸血鬼並びに〝吸血鬼〟、及び赤井陽妃に限り発現した〝無血〟の能力は、彼ら彼女らの精神と経験と人格形成と、欲望によって発現し、その性質が決まる――と云うのは前述の通りであるけれど、彼らの能力名は、いかにして決まるのか。
それはちょっとした会話からであったり、好きなゲームから取っていたり、自分で考えて決定していたり。少なくとも、暮内一緒が「暮内一緒」になる遥か前は、能力名などつけてはいなかった。ただ、「時の流れを支配する能力」と「空間を自由に操作する能力」だった――便宜的にも、能力を呼ぶ必要がなかったからだ。
……恐らく彼女の能力に名をつけたのは、生前の飛頼だろうけれど――まあ、別の話だ。
暮内宵の場合は、……どうせ、〝変態の化身〟を略して〝変化〟だろう。
……「ふざけるな! 僕の能力名はだな――」という心の声が聞こえた気がするが、気のせいだろう。
では、霧雨晴雪の場合は――
その日は確か、彼女たちが人間とは別の存在になった年の、十二月三十一日、大晦日だった。
その年も、例年通り誰の煩悩も払うことなく除夜の鐘が鳴り響き、百八回目と同時に日付が、年が、変わる。
……てことは一月一日じゃないか。
『で、どんな能力なの』
赤井陽妃は語尾を上げずに彼に問う。どうやら彼女たちの高校近くの、地方の寺院の……屋根の上にはいない。あの高いところ大好きバカ二人と違って。
ざわざわと盛り上がっている人混みの中で、隣に立つ晴雪に、彼女は訊ねた。
――二人は、手を繋いで。
晴雪は、自身が〝吸血鬼〟となったときに覚醒し、直観的に把握した自身の能力を告げる。
『ふうん、そう……それなら名前は〝追従〟、なんてどう?』
彼女は今度は語尾をあげて。
彼自身、彼女に名前をつけてもらおうと考えていたわけではなく、ただの世間話的に、能力を教えたまでだったのだけれど、彼女は気を利かせたのか、ただの気まぐれなのか、と云うか彼が能力にまだ名前をつけていなかったのを知ってか知らずか、そんなパズルの最後の一つのピースを嵌め込むような、ぴったりの名前を、彼の能力につけたのだ。
無論、その名前を一考だにせず彼が採用したのは云うまでもない。
と云うわけで彼の――霧雨晴雪の能力名は、〝追従〟という。
彼が触れた人間、或いは〝無血〟、或いは吸血鬼、または〝吸血鬼〟の能力を「劣化コピー」する能力である――であるからこそ、彼の能力名は〝追従〟であるのだ。
〝追従〟――〝追従〟。
決して、コピー元の人間、或いは〝無血〟、或いは吸血鬼または〝吸血鬼〟の権利を、権威を、奪ったりしない――逆に引き立てる能力。
それこそが彼の能力であり、それこそが彼の望むところであり――
彼の外部環境が十八年に渡って作り上げてきたところの、彼という人格的特性なのだ。
そんな彼は――霧雨晴雪は独りごちる。
……それでは、赤井陽妃の能力の作用によって自動車も飛行機もなくなったのに、電車と船が残っているのは何故だろう。
いや、船に関しては大型でも帆船だから違うのか。
昔から地下を走るのは殆ど電車だけだったけれど、今では、路面を走るのはスクールバスを除くと電車だけである。
では何故電車だけが、陽妃が能力を発現して尚、存在し続けているのか。
――なんだろう、彼女個人が、電車の事故に関して、理不尽さを感じないからだろうか。
電車の運転手は、自動車と違って専門家だ。プロだ。職業運転手だ。
つまり、自動車と違って居眠り運転なんて極端に少ないし、ましてや飲酒や無免許運転なんてない――殆ど、ない。
人身事故にしたって、大抵線路に勝手に落ちたり、飛び込んだり、閉じた踏み切りに入り込んだり、踏み切りで自動車が故障したり――大抵電車側に悪意はない。
どこだったかの、脱線事故ぐらいだ。
電車の時間は――日本を基準に作られた世界中の電車の時刻表は正確で、一本乗り遅れても次が五分と経たない内に来るし、そもそもそういった事故や、或いは天候がよっぽと不順でない限り、遅れることはない。
そしてそもそも渋滞という概念がない。
――ここまで電車のいいところをあげつらってみたけれど、恐らく彼女が電車通学だったら、また変わっていただろう。
毎朝毎晩満員電車に揺られて揉みくちゃにされて――彼女のダイナマイトボディなら尚更だろう、文字通り「揉みくちゃ」だ――ひとたび人身事故、大雨、大雪になれば特に都市部の場合、駅前はパニック状態になる。その日の内に帰られなくなり、駅で眠ることになる人も大勢でてくる。
また脱線事故などが起きれば、被害の人数は膨大なものになるし、またそれによって多大な損害――それは人にとっても、国にとっても――が出る。
それこそ世界が変わるほどの。
それこそ人生が変わるほどの。
彼女は自転車通学だったから、そんな問題点が、実感をもってはわからないのだろう。
彼女は自転車通学だったから、身近な自動車の脅威や問題点ばかりが目についたのだろう。
――そんな彼女本位な、彼女の身勝手な経験と体感と欲望によって、〝世界〟はこんなに不安定に変化してしまった。
まあ実際、現状、彼女が構築した〝プログラム〟によく似た〝システム〟が走っているので、電車の時間や運行も線路の幅も更に云えば運転も、ほぼ完全に管理されているのではあるが。また、船の運行に関してもほぼ同様のことが云える。
更に補足すると、彼女があまり関わりのなかった業界である、農業機械や、或いはフォークリフトトラックやクレーンなどはまだ健在である。それらがこの道路――公道を走ることは、もはやないだろうけれど。
ゆるやかに終わっていく世界の中で。
ゆるやかに終わっていく社会の中で。
ずっとずっと以前から、世界は終わり始めていたのだ。
或るとき完全に完成してしまった世界は。
或るとき完全に完成してしまった経済は。
ゆっくりゆるゆるゆるやかに――〝終末〟へと向かっていた。
まるで循環小数のように。
美しく、繰り返しながら沈みゆく。
全ての人間がそれなり以上に幸福で。
全ての人間がそこそこ以上の生活をして。
そんな〝完成〟した世界から。
ゆっくりゆるゆるゆるやかに――〝完全〟から再び遠ざかる。
人間は再び醜くなっていく。
人間は再び戻っていく。
それは絶対で必然で。
世界は――〝変化〟し続ける。