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2: Youkhi Akai

陽妃(ユウキ)」の英字表記はサブタイトルの通りです.

......The Red-Sun-Set Princess



「そう。私は、あなた一人のためだけの――ひとりぼっちだよ」



 赤井陽妃(あかいユウキ)は、真面目な少女だった。

 だからいつも彼女は自身について問いかけていた――或る日のテーマは。

 何故私はこんな能力を得たのだろうか。思考のために、心の中で自身に問いかける。

 ――そう、思考のために。

 思考。思想。思念。思惟。思々惟々……。

 世界中で変わる前の世界を覚えているのは、私と、彼と、あの吸血鬼と〝吸血鬼〟だけ。

『能力は――その人の心に抱えた願望とか不安とか恐怖とか、そういったものが発現するものなんだよ』

 その後、延々と「心とは何か。意識と無意識とは何か」という命題について語っていたけれど、高校受験程度の倫理しか勉強していない彼女にはさっぱりだった。

 ……するっていと。私の能力は、私の願望なのだろうか。

 鉄郎くんじゃあるまいし――否。

 ――私も、母親がきっかけで、母親の影響で、そうなろうと望んだのだから、たいして変わらないのかもしれない。

 彼女の母親はよく彼女を叱った。彼女が何かできなかった度に。彼女が何か失敗する度に。

『どうしてそんなこともできないの?!』

 ヒステリックに金切り声を上げた。

『そんなに怒ることないじゃないか』

 と父親が言っても、

『あなたが口を挟まないで! ろくに給料貰ってないのに!』

 斜め上に八つ当たりされて、けれど彼にはぐさりとくるようで、母親に何も言い返せない。

 いつだったか、母親が自分の本当の母親ではないのではないかと――小学校高学年の頃、そういった知識を得だす時期にちらりと思ったことがあったけれど、そんなことをそんな歳で確認できる筈もなく、ただ、恐らく単純に母親がそういう性格なだけで、両親と自分は一親等の自然血族だろうと、次第に思うようになって結局、そのまま。

 今、彼女が思い返すことができる小さい頃の記憶は、「いつも母親に怒られてばかりだった」というものが殆どだ。

『ひとりでだいじょうぶだよ。わたしもう、だいじょうぶだよ』

 陽妃がそう言ったのも、そんな時期だったように思う。

 ……思うのだけれど、もう、だいぶ記憶が薄れてしまってきている。

 楽しかった記憶なんてなかったけれど、嫌な記憶も、家族で過ごした記憶が――

 ――小学校低学年のとき、テストで百点を取って珍しく褒められたことがあった。

 ……けれどそれ以降、たとえ九十五点を取っても怒られるようになってしまった。

『成績が落ちてるじゃない!』

 いつの間にか、何をどうしても、屁理屈をこねるように、揚げ足を取るように、彼女は怒られるようになってしまった――その理不尽に、彼女は固く心を閉じた。

 まるで〝機械〟のように――何も感じないような心に。

 ――感情が煩わしい。痛みが、怒りが、悲しみが、苦みが、苦しみが――憎しみが。

 ……それでも、父と母を憎しみ切れない――憎しみ、切り捨てることができない、この心のノイズに。

 まるで〝機械〟のように――何も感じないような体に。

 ――感覚が煩わしい。母親にぶたれても、掴まれても、何の痛みも感じない、そんな体に。

 まるで〝機械〟のように、何も感じず、何も考えず――プログラミングされた過程を繰り返すようなものに。

 ただ生きているだけの何かに。

 思考。思想。思念。思惟。思々惟々……。

 何も、考えない何かに。

 そんな、デカルトもパスカルも一蹴するような――そんなことを、考えながら。

 死にたくはない――けれど、今のこのまま生きていたくもない。それでも、今以上に状況が悪くなるのは避けたい。

 優柔不断なようだけれど――ただの生存本能だ。





赤井陽妃(あかいユウキ)(YOUKHI Akai)。永美(えいび)二十二年、十二月二十三日午後五時二分、赤井(ソラ)、赤井(旧姓・神前(こうさき)(イト)夫妻の元に生まれる。満十八歳。生命保険のバリバリの営業だった赤井穹と、三百年続く『神前養蚕』の一人娘・神前糸(『交差』『生糸』とはニクいネーミングセンスである)は駆け落ち気味に結婚。そのとき既に糸の胎内には陽妃を妊娠していた」

「あれ、あれだよね……何婚だっけ」

「行きずり膣出し婚」

「ど真ん中ストレート!」

「あーあ、やっちゃった婚」

「惜しい! なんか惜しい!」

「挿すカリ婚」

「ど真ん中に変化球来た!」

××(チョメ)出た婚」

「何が出たんだよ!」

 暮内一緒は百枚に及ぶ時代後れな紙の資料――ダブルクリップで纏められている――をぺらぺらと目繰る。暮内宵はそれをうんざりしながら見つめていた。

 暮内一緒と暮内宵。

 二人はそんな、毒にも薬にも副作用にもならないような意味のない会話をしていた。意味のない会話を、楽しそうにしていた。

 退屈だった。

 あれから一週間、東京郊外に存在する住宅街の一角、一般的な木造二階建て住宅である赤井家の前の細い路地にある電柱の上に二人腰掛けて赤井陽妃を監視していた。監視していたが。

 全く何も起きていない。

 街全体が――静かに眠っているように。

「一週間も経てば少しはボロが出ると思ったんですけれどね……こんな強力な〝結界〟」

 一緒と宵は赤井陽妃が創り出した街全体を包み込む〝結界〟の中、一週間。

 何の成果も得られなかった。

 ――暮内宵の一〇八つの煩悩を消すことなど微塵もなく。

 既に新しい年が始まっていた。





 明日になれば――陽はまた昇るわ。

 ――とは、よく云ったもので。

 この「よく」というのは、英語で云うと〝often〟という頻度を表す副詞でも解釈できるし、〝well〟という程度を表す副詞でも解釈できる。どちらで解釈していただいても構わないし――どちらもで解釈していただいた方が、わかりやすいかもしれない。

 また、「あした」という日本語には、「翌日」という意味が近年では主だが、「朝」という意味もあるのだ。

 どんなに辛い夜でも、翌日になれば――朝になれば、陽はまた昇るのだ。

 明日は「明るい日」と書くのだ――

 赤井陽妃は、自分の部屋の自分のベッドの上で目を覚ます。

 赤井陽妃は、自分の部屋の自分のベッドの上で目を覚ます。

 いつもと変わらない、冬の冷えきった朝。ぼんやりとした視界の中、上半身を起こしてベッドの横に置かれた(デスク)に手を伸ばし、眼鏡を掛けて周囲を確認する。

 いつもと変わらない、冬の冷えきった朝かを確認する。

 すっと澄んだ冷たい空気が肌を刺す。

 すっと澄んだ冷たい空気が肺を満たす。

 真っ白な壁紙には傷一つない。この年頃の女子高生にありがちな、お笑い芸人や、ヴィジュアル系バンドのポスターも貼ってはいない。

 部屋にある家具は、今彼女が座っているベッドと、彼女が今手を伸ばした学習机と、それに付随した回転椅子しかない。クローゼットを家具と云うのかは知らないが、その中にはハンガーに掛けられた制服――セーラー服とコート、それに三段カラーボックスの中に巨大なブラジャーとパンツ、キャミソール、ソックス、その他の洋服が詰まっている。

 学習机にはラバーのシートが敷かれているが、そこには何も、イラストも文書も挟まれていない。机上の二段になっている棚の下段には教科書とクリアファイルが整然と並んでいて、上段には、国語辞典、漢和辞典、英和、和英、英英辞典が並び、その横は空けたままになっている。が、埃一つない。

 カーテンは青色で、その向こうにはレースの白いカーテンが掛けられている。ちょうど日の出の時刻で、陽光が僅かにカーテンを透かしている。

 部屋の電灯は、リモコンで明度を変更できるもので、現状消灯されている。

 何の無駄もない。

 何の無駄もない、「まるでドイツ人のような」機能的な部屋。

 誰の侵略も受け付けない、彼女だけのための六畳間。

 そんな部屋を見回す――までもなく。

 そんな部屋を見回す――間もなく。

 気付きたくなかったけれど――気付いてしまう。

 それは、眼鏡を掛ける以前に――眼鏡を掛ける直前に、気付く。

 昨晩眠る前に置いた座標とぴったり一致する位置にあったその眼鏡。手にとって、それを耳と鼻に引っ掛けた眼鏡は、度数もぴったりで、とてもしっくりと掛けられたのに、色彩が見覚えのないものだった。あまりファッション性はない、シンプルに機能的な銀色だったその眼鏡の下の縁が、ほんのりと赤く染まっていた。

 まるで、昨晩殺した人間の血を吸ったかのように。

 まるで、吸血鬼のように――

 永美四十年十二月二十三日、日曜日。

 赤井陽妃の、十九回目の誕生日。

 〝無血〟としての彼女の誕生日。

「はあ」

 と彼女は一つ白い溜息を吐く。

 パジャマ姿の彼女は、掛けた眼鏡の縁を右手の人差し指でさっと撫でて、ベッドから、右足から降りて立ち上がる。眠るときは当然下ろしている髪がはらりはらりと舞い、眠るときもブラジャーを付ける派らしい彼女の胸が暴れる。胸が暴れ出す。

 もともとフローリングだった上に絨毯が敷かれた床を、彼女は裸足で歩く。

 ふかふかの絨毯の毛が、彼女の足の指の間を舐める。

 彼女は部屋のドアを引き開けて、冷たい空気で満たされた廊下に出る。

 より一層冷たい空気が彼女に纏わりつく。鼻を刺す空気は相変わらず感じ慣れた、自宅の匂いだ。

 そこにはもこもこと温かそうなピンク色のスリッパが置かれていて、彼女はそれに足を通す。

「寒い」

 と、彼女は白い息と共に零す。

 自分の腕で自分を抱いて、彼女はぱたぱたと階段を降りて、一階のリヴィングルームへと向かう。窓のない階段は仄暗く、部屋、廊下からまたもう一段と寒く感じられる。

 気温としては、廊下と階段では全く相違ないのに。

 ――どうやら、昨日のことは全て夢ではなかったらしい。彼女はそう諦め、現在は「全てが夢ではなかった」か「全てが夢だったというわけではなかった」かの確認作業中である。

 一階に到着して、リヴィングルームのドアを押し開けて、室内へと入る。

 床は一面フローリング――なんだか同語反復(トートロジー)である。南側の庭へと降りられる巨大な窓と、東側の出窓はきっちりと雨戸が閉められていて光が射し込む余地がない。……余地がないのに、彼女の目にははっきりと、部屋の全容が映っている。いくら勝手知ったると云っても、経験と想像による脳内の視界再現にしては、あまりに微に入り細を穿ちすぎていた。

「……はあ」

 と、一つ溜息を吐く。それはまた白く染まって、闇に消える。

 闇に消える様子が、暗視スコープ以上に――陽光のもとにあるようにはっきりと見える。

 ……そう云えば、さっきも廊下と階段の気温を正確に把握できていたし。

 両親は、まだ起きていない。今日は日曜日だから、二人は恐らく少なくとも昼まで起きてはこないだろう。共働きで、二人とも自分の仕事に誇りをもっている。結婚しても、彼女を産んでも、母親が産前産後休暇を取り、父親が育児休暇を取っても――二人とも給与は殆ど変わらないのだ――二人は、仕事を辞めようなんて一瞬たりとも思わなかった。

 自分が誰かに必要とされることが嬉しかったのだろうか、やりがいだったのだろうか。陽妃は知る由もない。二人に訊いたことはないし、訊こうとも思わない。

 聞きたくもない。

 二人は働いてばかりで――……顔を洗って、朝ご飯を、食べよう。

 彼女は思考を切り換えて、洗面台へと向かう。

 ……洗面台の鏡には、昨日までとは全く違う自分がいた。

 髪型が三つ編みではないのは眠るときには当然(ほど)くのでそのことではない。眼鏡の縁がほんのりと赤く染まっているのは先程確認したが――髪の色が、脱色したように薄くなっている。その上昨日切断された例の三つ編みを担当していた襟足の髪がない。……あのときナイフで適当に切られたまま。

 そして頭上には、灰色の輪が浮かんでいた。

 ……それは昨晩、描写したことではあるのだけれど、彼女自身が確認するのは、これが初めてだった。

 彼女は眼鏡を外し、顔を洗った。そして眼鏡を掛け直す。

 輪は消えない。見間違えではない。眼鏡は赤いままだ。髪の色も薄茶色のまま。

 どうやら、私は本当に〝無血〟になってしまったようだ――

 ……朝ご飯を食べることにした。

 と云っても、トーストを焼くだけだけれど。

 化粧水と乳液が一緒になったジェルクリームを塗りたくった後、彼女は台所へ場所を移し、冷凍庫から食パンの包みを取り出して一枚だけ出してその他を戻し、冷蔵庫から「シュガートースト」という名のクリームを取り出し、それをパンに薄く塗り、電子レンジをトーストモードにしてそれを焼く。

 ……チーン。

 しゃくしゃくとシュガートースト(クリームではなく完成品)を齧りながら、彼女はぷらぷらと台所から廊下へと出、また階段を昇る。ぽろぽろと、ヘンゼルかグレーテルのようにトーストの粉を零しながら。乾燥した空気の中、水分も摂取せずに。

 部屋に戻る頃にちょうどトーストは無くなり、ドアを開けるとちょうど、机の上に置かれた彼女の携帯電話がメールの受信を告げる。彼女は携帯電話を開いて内容を確認する。

『ive arrived』

「……」

 片方の眉を少しだけぴくりと動かして、彼女はそれを机の元の位置――携帯電話スタンドに戻して、クローゼットを開け、着替えを開始する。

 と云っても、彼女の着替えに一切の無駄はない。

 前述の通り眠るときにブラジャーをする派の彼女はパジャマを脱ぎ、キャミソールを着て、黒色の長袖ヒートテックを着、上下ジャージを着て踝ソックスを穿いて着替えは終了。髪の毛をポニーテイルに結って、部屋にある姿見で確認して――

 ……部屋に姿見があるのに、彼女は起きてすぐそれを見ることを拒んだようである。

 彼女は気を取り直して携帯電話とタオルを持ち、また階段を下って玄関でランニングシューズを破棄――

「……」

 ランニングシューズを履き、鍵を開けて外へと繰り出す。

 冬の朝の冷気に、全身をぎゅっと締めつけられる。同じ空気が、つんと鼻を刺す。

「おはよう」

 そこに待つ少年――霧雨晴雪(きりさめハルユキ)が、彼女とは、別にお揃いでも色違いでもなんでもない、ただたまたまメーカーが同一のジャージを着て、門の前に立っていた。

 ただ彼は普段していない黒いニット帽と白い風邪予防マスク、眼鏡に黒い手袋をしている。

「おはよう」

 陽妃も、彼に挨拶を返す。

 ――そう、何を隠そう、霧雨晴雪は昨晩、赤井陽妃のピンチに駆けつけ(て、ぶん殴られて伸びてい)たところの少年なのである。当然、赤井陽妃は、霧雨晴雪と知り合いである。

 クラスメイトで、しかも陽妃はクラスの委員長で、実のところ生徒会長でもあったのだ。クラスメイトの名前を覚えていないわけがない。それに、二人は日常的に会話をする程度の仲だった。しかも晴雪の引っ越しの関係で、中学以前には出会わなかったものの、現在家がご近所さんになっている。

 ――で? それでなんでこんな朝早くに一緒(いっしょ)にジョギングするような仲になっているわけ?

「誕生日おめでとう、陽妃」

 門を開ける陽妃に対して、晴雪が祝辞を述べる。

「ありがとう、ハル」

 彼女もそう返して、そして二人で準備運動をし、ジョギングを開始する。

 簡潔に云えば、この年代のこの仲の良さに当てはまる関係性としてあらかた想像できるように、二人は「付き合っている」のである。

「じゃあ、行こうか」

「うん、そうだね、行こう」

 晴雪と陽妃は、そう言って付き合い始めてから毎日続けている早朝ジョギングに出発した。

 ところで――「付き合っている」とは、どういう関係のことを表現しているのだろう。

「突き合っている」なんて下ネタは、使い古されて幾星霜。そしてどの辺が突き「合っている」のかは、想像に任せる。

 取り敢えず、高校生レヴェルの「付き合っている」と云うのは、どういう関係なのか。

 何をする関係なのだろう――キスをする関係? それ以上の肉体関係をもつ関係? それともただ手を繋いで一緒(いっしょ)に帰ったり、遊園地や水族館にデートに行ったりする関係?

 と、彼女は脳内で思考を言語化して、自身の彼に対する認識を、正しく整理し、整頓している。正しく自身と彼の関係を認識しようとしている。

「まるで私が『突き合っている』の流れを思考していたかのように著さないでください」

 ……。

 二人は、傍から見ても、彼ら自身としても、その関係性を云うならば「男女のお付き合いをしている」関係である。

 二人が同じクラスになった今年の春に、晴雪が告白し、陽妃がそれを許可したのだ。

 文字通り許可したのだった。

 そして、今でも二人の「お付き合い」は続いている。

 手を繋ぐことはする。一緒(いっしょ)にどこかへ――それこそ遊園地や水族館へデートに行ったり、登下校は一緒にしたり、勉強も一緒にしたり、塾も一緒に行ったり――

 けれど二人は一切の肉体関係をもっていない。

 まるで、それを知らない小学生の遊びのように。

 まるで、初めてに戸惑う中学生の恋のように。

 ――けれど、そんな初々しさも、微笑ましさも、彼女たち自身は感じていない。

 ただ淡々と、「二人が一緒(いっしょ)の場所で一緒の行動をすることこそが『付き合い』である」と云わんばかりに――『ちょっと付き合ってくれよ』と、まるで上司が部下を居酒屋に誘うときに使う「付き合う」こそが男女の「付き合い」であるとでも、云わんばかりに。

 彼ら二人は、付き合っている。

 けれどそれでも、二人がしていることは、「高校生の清い男女交際」に見えるのだから、主観と客観の違いとは、興味深いことである。

 ……と、彼女はジョギングしながら考える。

「……だから私は」

 まあ、大方無実である。

「それ『事実で無い』って意味じゃねーから!」

 という晴雪のツッコミが冬の夜明けにこだまする。

 ただ、彼女が思考するためにジョギングを――軽い運動をしながら考え事をすることを好んでいるということは、彼女も、晴雪も知っていることである。



 三十分程、二人はいつものコースを、「下町」と呼ばれる彼女たちの町を黙々と走り、陽妃の家に戻ってきた――検証の結果。

 朝の早い町のおばあちゃんもおじいちゃんも、或いは家の前を竹箒で掃き掃除しながら、或いは自慢の盆栽を愛でながら、陽妃と晴雪のカップルに笑顔を向け、挨拶をする。

 ……彼らからしたら、陽妃と晴雪は「カップル」ではなく「アベック」かもしれないが。

「誰も、私のことを見て手を合わせたり祈りを捧げたりするおばあちゃんもおじいちゃんもいなかったから」

 陽妃は眼鏡を右手で外して、首から掛けたタオルを左手でとって額の汗を拭きながら、

「たぶんこれは関係者以外には見えないのでしょう」

 彼女はぼそりと呟く。

「……」

 晴雪は無言で、その言葉を受ける。もしかしたらただ聞こえていないだけなのかもしれない。

「……で、俺は、今日一日君といたほうがいい?」

 晴雪は話を換える。

 彼は薄々察しているのだ。彼女の心の戸惑いを。

 もともとまる一日、この朝のジョギングから夜のディナーまでずっと一緒(いっしょ)にいる予定だったのだろう。恐らく、ずっと以前から。

 彼女は眼鏡を掛け直して、タオルも首に掛け直す。

「……夜のディナーまで」

 そこで彼女は、一つ大きな息を吐いて。

一緒(いっしょ)に、いて」

「…………」

 晴雪は胸のきゅんきゅんで数秒言葉を喉の奥で詰まらせていたが、

「勿論、喜んで、お姫様」

 晴雪は彼女に向かって芝居っぽく片膝をついて手を伸ばし、顔を伏せる――まるで、彼女に仕える騎士のように。陽妃は、その手を恭しく取る――まるで、一国の王女であるかのように。

 そして二人は手を取ったまま。晴雪は立ち上がり、陽妃はそのまま。

 二人とも、身長はさほど変わらない――少しだけ晴雪のほうが高い。それがまた、二人を何だか「お似合いのカップル」に見せる要因になっている。

 彼らは、赤井陽妃の家に入っていく。

 彼女の両親はまだ眠っている――昼までは、起きてこないだろう。

 まだ、あと四時間半もある。





「あの子が『一国の王女』だったら私なんか『一刻の女王』だっての」

「それは〝時間操作〟的な意味でか!」

 暮内(くれない)一緒(ヰオ)暮内(くれない)(ヨミ)がそんなことを言い合いながら、電信柱の上で身を寄せ合って座っている。

 まるで、そうして互いを温めるように。

 体を寄せれば心も寄るものだと云わんばかりに。

 ……因みに、彼女の能力である〝時空間操作〟は、大別して二つの能力に分けられる。

〝時間操作〟――時間を操る能力。

〝空間操作〟――空間を操る能力。

 そしてその後者では、通常世界中のどこでも、覗き見することができるのだ。

〝時間操作〟も合わせれば、その能力はさながら「タイムテレビ」である。

「〝現在〟と〝過去〟しか、見えないのですけれどね」

 ただそんな便利な能力であっても、〝無血〟たる赤井陽妃を覗き見することはできない。一緒があんなことを言ったのは、たまたま同じようなことを考えていたからであると考えられる。

 静かな街。

 閑静な――と云うに言葉が足りない程に。

 物音一つさえ聞こえない。

 街一つを包み込む強力な〝結界〟。

 赤井陽妃はどうやってこんな〝結界〟を張ったのだろうか。流派や流儀が一緒(ヰオ)のものとは違う。

「えっ〝現在〟しか見えないん……ごめん」

 言いながら彼は一緒(ヰオ)の表情を見てデリカシーのないことを言ったことに気付いた様子。

「百年経ってもそんな気遣いもできないんですか。どうしようもなく、あなたは……」

 と、はあ、と優しい溜息を吐いて。

「あなたはクズなんですよ」

「優しい溜息とはなんだったのか?!」

「あなたにはこの愛溢れる優しさが解らないんですか?」

 と、今度は寂しげな溜息を。

「……結局この場に来ても、赤井陽妃を監視することも観察することもできません」

 永美四十年十二月二十三日。

「まあ、こんな強力な〝結界〟、暫くすればボロが出始めるでしょう」

 ……。

 そんな暮内一緒の読みはまんまと外れるわけである。





 夕陽が沈む。

 結局、二人の両親はこの時間になるまで起床しなかった。よくあることだが。

 ――陽妃の家族三人は、ある時期までは三人とも気を遣って――もとい時間を作って、朝食と夕食は一緒(いっしょ)に取っていたのだけれど。

 早朝五時に朝食――二十一時に夕食。

 保育園まではもう少しまともだったと記憶している。朝食があと一時間遅くて、夕食があと一時間早かった……確か。

 両親はずっと無理している――と陽妃は思っていたけれど。

 両親はずっと「娘のため」と思って、ただひたすらに――それこそ文字通りに「一生懸命に」頑張っていただけで、そこには道理も無理もなく、ただ家族への愛でそうしていたのだけれど。

『ひとりでだいじょうぶだよ。わたしもう、だいじょうぶだよ』

 小学六年生になった赤井陽妃は、ずっとずっと甘えていたくなくて。本当は小学三年生のときに両親にこのまま甘えていてはだめだって思っていたのだけれど。

 正直早朝四時に起きて、夜二十二時に眠るのは小学生には厳しい生活リズムだったし。

 その日――小学六年生の陽妃がそう言うと。

『そうか……陽妃もそんな歳になったのか』

『そうね……陽妃が言うのなら』

 と、彼女の両親は、まるで言い訳のようにそう言って。

 無理はしていなかったとしても、この提案によって二人が楽になったのは確かだった。

 母親がああなったのがこの時期とほぼ重なるが、それはまた別の話――仕事が忙しくなったとか、たぶんそんなどうでもいい話だ。

 三年生のときからこのときに備えてずっと母親と一緒(いっしょ)に夕飯制作の手伝いをしていてよかったと思ったと同時に、陽妃は、呆気なさに一つ溜息を吐いたのだった。

 その言葉以降、彼女たち家族は、それぞれ好きな時間に好きなものを食べるようになった。

 そうして、彼女の生活は更に規則的に――そして独りぼっちになっていった。

 ……そんなことを、陽妃は台所に立つたびに思い返す。

 カレーをぼんやりと煮込みながら。

 隣には、晴雪が、彼もエプロンを着て立っている。

 こちらをじっと、ニコニコ見ながら。

 休日の夕飯だけは、家族三人で取ることになっていた。

 平日の夕飯は、ばらばらだったけれど――けれど、別々の時間ではあるものの、三人は毎日同じ料理を食べている。

 毎日陽妃が料理をしていて、それは彼女が中学生になったその日から続いている。朝は以前からトースト一枚だとかそんな軽食だったけれど。彼らの昼食も、節約のためなのか、弁当として陽妃が全員分作っている。両親に、勿論自分の分と――

 晴雪の分も。

「……おはよう、陽妃」

「……おはよう、陽妃」

 全く同じ台詞をバラバラに言いながら、彼女の両親が眠気眼でダイニングキッチンに顔を出した。二人ともパジャマのままだ。

「おはよう、お父さん、お母さん」

「おはよう、お義父さん、お義母さん」

 聴覚的には全く同じながらも視覚的には意味が全く変わってくる台詞をバラバラに言いながら、陽妃と晴雪は彼女の両親に向かって言う。当然二人は、汗をかいた朝のジャージからは着替えて、シャワーも浴びて、服装は普段着である。

 ……さすがに二人とも着替えは別々に、風呂場に併設された洗面所兼脱衣所で行っているよ。

 因みに陽妃の格好は、上は徳利(とっくり)のセーター。

「『徳利』っておいお前何歳だよ!」

 晴雪の台詞である。

 下は紺のデニムのロングスカート。

「まるでおばさんのような普段着だな。そのボーダーのもこもこソックスとか特に」

「パジャマのお母さんに言われたくない」

 晴雪の格好は、ジーンズにパーカーという、普段着というよりは部屋着といった風情だ。

 ……と云うか、もう二人の関係は両親の公認なんだね。

「両親公認じゃなきゃこの場にいないでしょ」と陽妃。

「そりゃあそうさ。陽妃が一人で寂しそうなのは、どうしようもなくわかっていたからね」

 どうしようもなく、どうしようもなかったと、父親。

「晴雪くんになら、陽妃を任せられるよ」

 私たちがすぐに駆けつけられなくても大丈夫だよと、母親。

 それは体よく陽妃を晴雪に押しつけているようで。

 娘の一人立ちに――「二人立ち」に、心底安心しているようで。

「私たちもあなたぐらいの歳にはね――」

 と、いつも通り晴雪が陽妃の家にやってきたときにしている話を始めようとして、

「やめてくれよ(イト)、恥ずかしいだろ」

 陽妃の母親の名を呼んで、陽妃の父親がいつも通りその話を止める。

 毎回陽妃の父親が止めるので、二人はこの話をこの冒頭しか聞いたことはない。

 本当にそんな話があるのか、ちゃんとしたオチがあるのか、それさえもわからない。

「お義母さん、二人が俺たちぐらいの年齢のときから二人は交際していたんですか?」

 と、特に意を決したわけでもなく、けれどずっと何となく訊けなかった質問をする。

「ふふふ、それはね……」

 と糸は、そういう人が見たら迷わずヒモになってしまいそうな妖艶な笑みで――

「やめてくれよ(イト)、恥ずかしいだろ」

 話! 進まない!

「もうやだー(ソラ)ったらー」

 糸は、自身の旦那である赤井穹に、「右手の一の腕を地面に垂直にして相手に掌を向け、そこから手首を九十度振り下ろす」という、おばさんがよくする「やだー」の動きをする。

 彼らは皆一様に一つ息を吐いて、四人で食卓を囲むように席に着く。

「寒いなあ。そろそろここテーブルじゃなくて炬燵にしようか」

「もう年の暮れに今更?! それにここはダイニングキッチンでテーブルじゃないと変でしょ!」

 穹の一言に糸が寝起きとは思えない程テンション高くツッコむ。まあ、寝起きと云ってももう陽は暮れているのだけれど。

 穹と糸の夫婦は、いつも忙しくてもとても仲良しで。

 それを見て陽妃と晴雪の二人は顔を見合わせて、そしてほっこりと微笑む。

 こんな二人になれたらいいと――こんな四人になれたらいいと。

 ……四十代中盤の二人のこんないちゃいちゃに慣れてきているのは事実であるが。

「それじゃあ、陽妃特製アップル×ハニーカレーライスを頂こうか」

 四人で配膳を済ませて、木製のテーブルに並べられたのは、トマトとキュウリとサニーレタスのしゃきしゃきサラダ(単に洗って切っただけ)と、とろとろ煮込んだ陽妃カレー(と、らっきょうの瓶と福神漬けの入ったタッパー)。

 そんな――そんな楽しげな食卓。

「ピンポーン」

 インターフォンが鳴る。

「あー……すっかり忘れてた、ケーキを宅配してもらうように手配してたんだった」

 と、穹が今思い出したようにそう言って、フォンには出ずにそのまま玄関へと向かう。

 ……別に忘れていたとして、「宅配便の中身がケーキ」であることまで口に出さなくていいだろうに。

 程なくして、穹が長さ三十センチメートル程の直方体型の箱を持ってダイニングキッチンに戻ってくる。

「これはなんでしょーか?!」

「お父さんさっき言ってたけど?!」

「あれそうだったっけ……?」

 なんてわりとマジそうな感じで穹が首を傾げる。……それを見て三人が三人とも彼をスルーした。

 テーブルの上に箱を置き、彼が箱を開くと伐採され倒された巨木を模したチョコレートのロールケーキだった。

「まあ、箱開けちゃったけど、これはご飯の後だね」

 と、何とも二度手間なことをしてしまったことを告白しながら、穹はその箱を再び閉じ、そのまま冷蔵庫に終う。

「誕生日おめでとう、陽妃」

「今っ?! ケーキ(しま)った今っ?!」

 やけに陽妃のテンションが高いのは、週に一度の家族の夕食だからなのか、年に一度の自身の誕生日だからなのか。

 自身が今までいた平穏な日常を、じっくりと感じた――実感したからなのか。

 それでも、今日の午前零時に起きた〝変化〟が、違和感としてどうしようもなく身に纏わりついているから――その気を紛らわすためなのか。

「それじゃあ」

 と気を取り直して、席に戻った穹がまた口を開く。

 食事の音頭――それを取るのはいつも、父親の穹だ。

「命の恵みに感謝して」

 四人は合掌。

「「「「いただきます」」」」



 夜――二十時。

 夕食会も、赤井家主催の赤井陽妃誕生日記念パーティーも、この消灯され綺麗に片付けられて閑散としたダイニングキッチンとそこにあるテーブルを見る限りでは、どうやら終了したようである。

 仄かに香る蝋燭の甘い香りと生チョコクリームの甘い香りが、そしてカレーライスの中辛な香りが絶妙に混ざり合いながら漂っている。空腹感が襲ってくる匂いである。

 ……さて、赤井陽妃と霧雨晴雪、そしてその家族は。

「ぐーう」

 彼女たちの両親は、既にそれぞれ自身の部屋で眠っていた。

 彼女たちは――赤井糸と赤井穹は、この休日中、起きていた時間はだいたい一時間半程度である。彼女たちの消灯された寝室を覗いてみると、

『はたらかない』

 ……アイマスクにそんなことが書いてある。

 因みに、明日も振替休日であるので彼女たちのアイマスクの文字は変わらないのだろう。

 それでも――そんな休日の過ごし方をしていても、若くして責任ある役職にいる彼女たちの会社での地位は揺るぎないのである。

 ……彼女たちは会社の同僚を一度も自宅に連れてきたことがなく、それは会社の様子とのギャップを見せないようにという或る種の配慮であり、自宅でまで頑張りたくないという或る種の怠惰である。

 そんな赤井糸と赤井穹の仲良し夫婦はさておき。

 ――赤井陽妃と霧雨晴雪の仲良し夫婦は。

「星が綺麗だね」

「ああ、そうだね」

 彼女たちは、屋上にいた。

 ……と云っても、彼女たちの家は一軒家だけれども屋根が平らな設計になってはおらず、つまり彼女たちの座っているそこは三角屋根の河原の上である。

「……寒くない、陽妃?」

「ううん、平気」

 瓦の、上である。

 真冬の夜の屋根の上に、二人はお揃いの分厚いロングダウンコートと手袋を着用して、陽妃はマフラーとニット帽、晴雪はネックウォーマーで防寒している。

 見上げれば、晴天。

 自動車が走らなくなったためか、天空は何のPM2.5の影響もなく透き通り、何光年も向こうまで見通せていた。

「……」

 宇宙はどこまでもどこまでも広がっていて。

 二人の未来はどこまでもどこまでも――どこまでも、この夜の闇のように、広がっていた。

「……ごめん、今日、俺のせいで予定がこんなことになっちゃって」

 晴雪が、彼女の手を手袋の中で少し強く握りながらそう切り出す。

 二人の「お揃いの手袋」というのは、つまり隣り合った二人の間の二つの手が一つの手袋に入っているという例のあれである。

「違うよ、ハル」

 陽妃は大きく首を横に振りながら。

「だから、気にしなくていい」

 陽妃も彼の手を強く握り返す。

「まだ明日もあるんだしさ」

 そう、明日はクリスマス前日なのだ。

「今はこんなにいい天気だけれど、明日は雪になるんだって」

 だから、大丈夫だよ。

 と、陽妃は晴雪に微笑む。

「そう……かな」

 と、晴雪も陽妃に――ぎこちない笑みを向ける。

「じゃあ、明日は、今日行けなかった新宿駅前のデパートで買い物して、ランチして、また買い物して、東京スカイツリーのイルミネーションと、他のいろんなところのイルミネーションを見て、帰って来たらまた陽妃の家族と四人でホームパーティーをして」

 晴雪が指折り数えながら。

「お父さんたちが寝たら、二人で『シザーハンズ』を見て」

 陽妃が、それに頷きながら。

「そんな平和な」

 平和な日常を。

 素敵なクリスマス・イヴを夢見て。

「じゃあ、俺は帰るよ。帰って眠る努力をしよう」

 晴雪はそう言って、またぎこちない笑みを彼女に向けて、彼は立ち上がる。

「うん、私も、もう眠るよ」

 と陽妃も今度はぎこちない、苦笑いも混ざったような笑みを、彼に向けて立ち上がる。

 恐らく自分がそう簡単には眠れないことを、二人とも理解している。

 理解してしまっている。

 それは翌日が楽しみな日であるというのもあるだろうし。

 今日の午前零時に、何もかもが劇的に――文字通り劇的に、変わってしまったことからくる不安も――不安定さもあるのだろう。

 それでも。

 どれだけ不安でも、不安定でも。

 彼女たちは(しとね)を共にしない。

 それが二人の絶対的なルールであり境界線であり、云ってしまえばA.T.フィールドなのである。「もしそうしてしまったら、それこそ全てがどうしようもなくなってしまう」と、二人は考えているのだ。

 ただ、君が隣にいればそれでいいという――そんな関係が。

 セックスによって――理性ではない本能によって、全てが崩れてしまうと。

「「ごめんやっぱり――っ!!」」

 二人が同時にそれぞれを向き合って、

 互いの顔が数センチメートルの、鼻がぶつかり合いそうな程の距離になって、

「「――――っ」」

 二人は慌てて、顔を背ける。

「……やっぱり、今日は――今晩だけは、一緒(いっしょ)にいないか」

 晴雪は語尾を上げずに、けれど彼女に背を向けたまま、そう言った。

「……、……うん」

 陽妃も俯いたまま、頷く。

 二人は、顔を真っ赤に染めて。

 そして向き直る。二人向き合う。

 ――二人はそれから朝までずっと手を繋いだまま。

 陽妃の寝室で、一切眠ることなく、自分たちの将来のこととか、そんななんとなく意味のあるようなないような会話をしながら朝を迎えたのだという。





「……結局、ここ一週間、赤井陽妃に動きが見えたのは例の事件の翌日、昨年十二月二十三日一日だけでしたね」

 永美四十一年一月一日。

 一緒(ヰオ)の〝時空間操作〟でも赤井陽妃が「どこにいるか」がぼんやりとわかるだけで、こうしてわざわざ日本に二人は再び出向いてきたわけだが。

 結局これだけ近くに来ても赤井陽妃が「どこにいるか」がぼんやりとわかるだけで、こうしてわざわざ日本に二人が再び出向いてきた意味はあまりなかった。

「……帰りますか」

「……そうですか」

 彼女の一言に宵は(もっと早くても良かったのでは)と思ったが、思うだけに留めておいた。

 珍しく空気を読んだ。

 ……当然。

 赤井陽妃を監視していた一週間も、眠る時間になったら城に帰還して眠っていた。

 別に一週間ずっと日本のあの街に留まっていたわけではなかったのである(叙述トリック)。

 ……そうして。

 そうして二人は腰掛けていた電線から尻でジャンプして飛び下りた――――――――――。

 ――そのまま二人は、彼女たちの居城、ルーマニア・シギショアラ歴史地区の二人の城の食堂の天井から現れて、石造りの長い机の短辺に向かい合って二人は腰掛けた。

 暖炉と肖像を背にした席――主人の席に座る一緒が座ったまま、薔薇柄のテーブルクロスをばさあっと波打たせる――反対側の五メートル程先に座る宵の元まで波が届く間に、色とりどりの料理が現れる。

「「いただきます」」

 と、吸血鬼と〝吸血鬼〟の二人は声を合わせ、手を合わせる。

「ってさ、このコンビニ弁当どこの弁当だよ?」

 色とりどりのコンビニ弁当でした。

 〝空間操作〟でどこかからパチって来たもののようである。

 寒々しい、広々とした、コンクリート打ちっぱなしの十坪ぐらいある食堂。

「坪て!」

 暖炉には火が灯っているものの、無論この広々とした部屋というのも烏滸がましい空間全体にその熱が伝わることはなく――彼女の席には辛うじてその熱が伝わってくるが、彼の席からは暖炉の灯火さえ確認できない。

 蝋燭の灯りが、ゆらりと揺らめく。窓が雨戸で塞がれたこの空間ではそれだけが唯一の灯火だ。

「雨戸て!」

 因みに高い天井にぶら下がったシャンゼリゼにも蝋燭が設置されていて、そこにも火が灯されている。

「Aux Champs-Elysées !」

 意味は「シャンゼリゼ通りには」である。

「……で、このコンビニ弁当はどこの弁当なの?」

 と、暮内宵は天に向かってツッコむのを止めて、話を戻す。

「これですか? これはカメリアのです」

「ドラえもん!」

「のび太の!」

「「創 世 日 記!」」

 ……おわかりいただけただろうか。

 二人は、そんな「自分たち二人だけわかればいいや」みたいな会話をしながら。

 二人の世界観は、二人だけで完結していた。

 ただ同姓なだけの――同棲しているだけの。

 同衾さえしていない、肉体関係さえない二人。

 因みに、現地時刻――ルーマニア・シギショアラの現地時刻は正午。

 永美四十一年一月一日正午である――まあ、「永美」は日本の元号なのでシギショアラ(ここ)では使われていないけれど。

 正午である。真っ昼間である。日本よりは緯度が高いから南中高度は低いものの、太陽は澄んだ「#3387D4(明るい紫みの青)」色の空の中心に君臨している。

「日本ではちょうど夕飯ぐらいですかね」

 と、お節でもお餅でも蕎麦でもなく幕の内弁当の梅干しを頬張りながら、一緒は言う。

「年明けまで待てば初詣くらい出掛けると思ったんですが、それも無駄だったみたいですね」

 独り言のように。

「そうだ……そうでもなかったんじゃないかな」

 と、カツ丼弁当の葱を除けながら、宵は奇跡的に空気を読んでそう相槌を打つ。

 真っ昼間なのにガンガンに目も冴え冴えに、彼らは食事を取っている。

 彼ら二人は――暮内一緒は誕生して初めて自分の国を離れたときから、そして宵は百年前、〝吸血鬼〟になったときから知っていることだが、勿論彼らは重要な「或ること」を説明する気も機もないだろうので、地の文がこの説明を担当しようと思う。

 吸血鬼であるところの暮内一緒、そして〝吸血鬼〟であるところの暮内宵には、数多くある特性の一つとして「死のような深い眠り」というものがある。

 すなわち「太陽が昇る頃になると、吸血鬼[〝吸血鬼〟]たちは棺桶に入って眠る。陽が落ちるその時まで、寝返りを打つことも、夢を見ることもなく――何をされようとも」と云う――それは「吸血鬼」が誕生した時から歴然と存在している――〝ルール〟の一つである。

 では、この「太陽が昇る頃」というのは地球上のどの地点でのことなのであろうか。

 では、この「陽が落ちるその時」とは、地球上のどの地点でのことなのであろうか。

 始祖の吸血鬼二人から既に、世界を股にかける程度の特殊能力をもっていたが。

 と云うか、「世界を股にかける」って――「股に」「かける」ところの「世界」というのは、一体全体、どんな白濁液なのだろうか?!

「静かにご飯ぐらい食べさせてくれないかな」

 なんか「調子乗った紳士」的に暮内宵にツッコまれましたけど?

「反抗的!」

 ……さて、それで……ええと、そう、吸血鬼が世界中を移動可能な中で、地球上のどの地点で「夜」である時間に起床して、どの地点で「昼」である時間に眠らざるを得なくなるのか、ということなのだ。

 地球は、丸いのだ。

 地球上のどこかは夜なのだ。

 つまり、理論上、移動を続ければ夜明けによって引き起こされる「死のような深い眠り」に襲われない、ということになる――

 空論上。

 実際には、いくら吸血鬼でも、ひたすら頻繁に〝吸血〟したとしても疲労は溜まり、眠ることによってそれを取り除く必要があるのだが。

 そんな、空論上でも「ルールの隙間」を埋めるための補足ルールがある。

 法則(ルール)がある。

 設定(ルール)がある。

 ――「地球上のどこか一点を、アルキメデス的に時間的な定点とする。その点の日の出・日の入りの時刻に、彼らの〝眠り〟は左右される。いつ何時でもこの定点を移動することができるが、その際、丸一日眠ることになる」。

 つまり、現在一緒と宵の二人の〝定点〟があるのが日本の某半島にあるのでそれを例として説明すると、現状彼らはシギショアラにいるが、日本にある〝定点〟では陽が暮れた夜であるので彼らは起床していられるのである。もし彼らが〝定点〟を変更する場合、彼らは変更したその瞬間から、二十四時間強制的に睡眠状態に入り、そして二十四時間経過後のその地点の日の入りの時刻に起床する、ということになるのだ。

 ……まあ、わかりにくいのであれば、この〝定点〟はいわば補足であるので、別に理解しなくてもいいかもしれない。〝定点〟を変更する術式の解説など蛇足も蛇足、五本目の足である。

「……それなら、時間の無駄です」

 と彼女はどうやらこの説明の間に食べ終わってしまったらしい二人分の弁当のゴミを〝転移〟でどこかのゴミ箱に捨てる。いや、一緒が二人分食べたわけではなく、「宵と一緒が食べた分」で合わせて「二人分」ということである。

「そんなことわかってます! ……よね?」

 と、彼女は誰にともなく訊ねる。

「ぐーう」

 宵は、彼女の腹の虫が食欲を訴えるのを欠伸をすることで優しくスルーした。



 食事を終えた二人は、リフォームしていないために昇降機もない城の階段を何段も上る。

 ガラでもなく、〝転移〟せずに自身の足で歩いている。

 ……歩いているのは一緒を肩車している宵だけだが。

 そうして宵だけがふうふう息を吐きながら。

 塔の頂上に存在する彼女たちの寝室――その天蓋付きのキングサイズベッドに腰掛けた。

「話を戻すけれど」

 暮内宵は疲れ切った様子で肩で息をしながら――

 ……本当に肩に口と鼻がついて呼吸をしていた。

 暮内宵の〝変化〟はそんなこともできるのだ!

 ……そんなことできても仕方がないのだが!

「話を戻すけれど!」

 彼は声をから揚げる。

「さっき食べたけども!」

 カレーは声を荒下痢。

「カレーと下痢を同時に発言するな!」

 話を戻すけれど。

「話を戻すけれど!」

 と彼は、

「声を荒らげる!」

 と彼は自ら言った。

「なんで赤井陽妃は僕たちを襲ってきたの?」

「だから、……私は吸血鬼、あなたは〝吸血鬼〟で、赤井陽妃は〝無血〟なのですよ。対立して当然です――って説明しましたよね? 〝無血〟は存在論的で予定説的な存在なのです――とも」

「……もう一回詳しく説明してくれない?」

「百年前、あなたのおばあさんに聴いたんでしょう?」

 一緒は一つ、溜息と共にまた何かを諦めた。

「〝吸血鬼〟は、元々私が作った私の劣化コピーです。暫くはやりたい放題――ヤリタイ放題やっていました。産めや増やせやしていました。それがいけなかったのでしょうか――いつの間にか〝無血〟が現れました」

 さて、暮内一緒のこの台詞に適合する四文字熟語を記しなさい。

「はいっ! 自業自――」

 キッ――と音がする程。

 一緒は宵を視線で突き刺した。

「……」宵は黙る。

 そして一緒は、何事もなかった様子で。

「まるでウイルスを排除する白血球のように」

 彼女はそう例えたけれど。

 彼女たちがウイルスで。

 赤井陽妃が白血球で。

 白血球が守るものは何なのだろうか。

「わかっているくせに」

 と、一緒は呟いた。

「……それで?」

 と宵は先を促す。

 一瞬一緒は目を眇めて、

「〝無血〟は、私が――或いは私が〝吸血鬼〟にした者が、血を吸った元人間に、寄り添うべき人間が持つ性質です」

「ごめん文節がよくわからなかったからもう一回」

 ふーん、と一通り聴いた暮内宵は本当に納得したのかしていないのかそう漏らす。

「……じゃあ僕のパートナーとなる〝無血〟がいるってこと?」

 暮内一緒の話から真っ先に宵が気になったのはそんな身も蓋もないことだった。

「あなたのおばあさんも〝無血〟でしたね」

 懐かしそうに一緒が述べる。

「え、ばーちゃんはじーちゃんの……ああ、そうか」

 まさに奇跡としか云いようがない、めったに見られない宵の察しである。

 いや、わりと最近宵は冴えている――生命の危機を感じたからだろうか。

「あ、わかった! この前ピンチから救った赤井陽妃が僕のパートナーなんじゃ」

「一度脳味噌消し飛ばしましょうか。それで脳味噌カツとかいいですね。それとも脳味噌煮込みうどんにしましょうか?」



「……そう言えばさ」

 と宵は話を換える。苦し紛れに――

 どうやら脳味噌カツ丼の晩餐会にはならなかったようである。

 まあ、実のところ〝吸血鬼〟である暮内宵のもとに〝無血〟が現れない理由は幾つか考えられるものがあるのだが、誰もそんなことを考古学的にも史学的にも研究していないので正確なところはよくわかっていない。

「まじで?」

 宵は一瞬思考するように眉をひそめるが、それは愚考に終わったようである。

「『愚考』って字のままの意味じゃ使わなくね?」

 彼はひそめていた眉を緩め、「ところで」と話を戻す。

「……最初のうちは僕のこと『宵』って呼んでいたけれど、いつの間にか『あなた』って呼ぶようになっていたよね……実はずっとどきどきしてたんだけど」

「そういう『旦那様』的な意味での『あなた』ではありません!」

 彼女は照れ隠しでもなんでもなく即答した。

「それにあなたは私の旦那でもないですし」

 そしてばっさりと切り捨てた。

「え? 百年も一緒(いっしょ)にいて僕と君の関係は夫婦じゃないの?」

「違いますよ――もっと深くて、切っても切れない関係ですよ――」

そう言って彼女は悪戯に――徒に微笑んで。

「主従関係です」

「吸血鬼的な意味ですよね?!」





 年が明けて――冬休みが明けた。

 赤井陽妃と霧雨晴雪の高校のシギショアラだ。

「始業式」

 二人は日本の東京都世田谷区に存在する母校――ではなくまだ在学中の高校へとやってきた。

 登校してきた。

 まあ、彼女たちは受験生で、全国共通一次試験直前のこの時期は登校の義務はないのだが。

 なんとなく。

 行く宛てもなく。

 陽妃と晴雪は二人並んで、高校の正門を通る。

 重たくどんよりと、鈍色(にびいろ)の雲が空を蹂躙している。

 そのまま落ちてきそうなほどに――まるで洞窟の迷宮で天井が落ちてくるトラップのように。

 二人とも高校指定の黒いコートを着て、校則が許す範囲の地味な色のマフラーとニット帽、赤井陽妃は膝下丈のプリーツカートの下に、五百九十デニールの真っ黒な色気のない、ひたすらに保温だけを目的としたタイツ、霧雨晴雪は制服のズボンの下にはレギンスを穿いている。

 殆ど露出していない筈なのに、肌を寒さが締めつける。

 マスクから洩れた吐息が紅い眼鏡を白く曇らせる。

 登校義務のない二人の学年では今日から学級でのショートホームルーム(と、この学校でも呼ぶのだろうか)がないため、二人は自分たちの教室のロッカーに自分たちの荷物を置き、体育館シューズを取って体育館に向かう。

 教室には誰もいなかった。登校していないか、登校してきた変わり者ももう体育館に向かったのだろう。

 教室も廊下も、今日が新年初めてだからか、全ての窓が開かれて徹底的に換気されている。

 換気扇がごおごおと音を立て。

 それと競うように暖房がゔんゔんと声を上げる。

 聞こえるのは、その二つの音と、二人の足音だけ。

 リノリウムの廊下――彼女たちはこの建材がそんな名前だとは知らないが――をこつんこつんと上履きで歩く。いくら暖房が活動していても窓が全開なので、防寒着を脱ぐことができなかった。

 中庭を吹き抜ける風に身を震わせながら渡り廊下を通り、体育館に到着した。

 一、二年生は出席者全員が既に集まっていた。登校義務のない三年生も、(まだら)だが存在していた。

(まば)ら」

 病気かよ、と彼女は小さく呟いた。

 体育館も、開けられる窓はキャットウォークまで全て開け放たれ、巨大な扇風機のような形をした暖房設備ががんがん温風を送っていてもまさしくどこ吹く風、体育館は外と変わらない気温だった。

 始業式が、司会の教師の掛け声から始まる。

 体育館では国歌に続いて校歌が斉唱され、その後校長からの有難いどころか有ってもしょうがない訓示があり、教育指導から冬休みにあった校則違反とその処罰を列挙された後に今後の学校生活の注意がなされ、最後に取ってつけたように受験生に対する叱咤激励が述べられて終わった。

 二人は同じ道を辿って教室に戻る。

 戻った教室には赤井陽妃と霧雨晴雪の他には誰もいなかった。

 登校義務のない――と云うのもあるだろうが。

 ……結局、担任も来なかった。二限目が始まる時間になって(始業式が一限目だ)、学年主任がやってきて、

「いたのか」

 と一言目。

「明けましておめでとう、受験、悔いのないように頑張れ」

 とたった二言だけ口にして、彼は去っていた。

 他の学年は二限目がロングホームルームで、三限目が大掃除の筈だ。

 二人は学年主任が来るまでの十分間程、教室の自分の席にそれぞれ座っていたが、彼が去って行ったタイミングで晴雪が陽妃の前の席に移動してきて、その机を後ろ向きにして二人が向かい合うように腰掛けた。

 静かだった。

 静謐――と云う普段絶対に使うことのない受験熟語が、しんと頭に浮かぶほど。

 二人は――こんな時間が好きだった。

 二人だけになれる時間が好きだった。

 誰もいない、下校時刻直前の教室。

 晴雪がどこで身に付けたのかピッキング技術でこじ開けた屋上。

 彼女たちが学校で二人でいられる時間も場所もこれまで殆ど存在しなかったが。

 これからは違う。

 二人はノートと教科書を開く。

 陽妃は世界史、晴雪は数学。

 成績上位である二人は特段教えあうわけでもなく。

 ただ黙々と、自身で自身に課したノルマを達成すべく勉強するだけである。

 話もせずに。

 しん――

 耳の奥に無音が響く。

 しんしんと。

 天上が重みに耐えかねて、雪の結晶が落ちてくる。





 陽妃の血漿が――落ちてくる。

「……」

 暮内一緒が異変に気付いたのは、赤井陽妃と霧雨晴雪が下校時刻である十七時に下校したその三時間後。

 永美四十一年一月七日二十時頃。

(赤井陽妃は確実に、前回より自身の能力を使いこなしてきていますね……)

 この二週間、結局一緒は陽妃の〝結界〟に手出しすることができず。

 手を(こまね)いていたところにこれである。

「よくこんな状態で『黙々と勉強』なんてできましたね……」

 どうやらタイムテレビ的〝空間操作〟は、遠隔的には使えなくとも、まさにその現場では使えたようである。

 この場で起こった過去の様子を、暮内一緒は見た。

 血の海だった。

 血の海面上には、肉塊どころか肉片も残っていなかった。

 ただ一面に。

 ただ一様に。

 床も壁も天井さえも、元々白かったであろう壁が真っ赤に塗りたくられていた。

 天井からはぽたりぽたりと、まだ固まりきっていない血液が滴る。

 そして足跡が数人分。

 外はしんしんと雪が降り積もりつつあり、一目見たら新しい年を祝っているようだった。

「こんな紅白飾りはごめんですね」

 暮内一緒の大好物の臭いが――「匂い」と云った方がいいだろう――充満したこの建物内の惨状は、云うまでもなく赤井陽妃によるものだ。

 暮内一緒は。

 それまで土足だった彼女は茶色のレザーブーツと毛糸のピンクの靴下を脱いだ。

 右手にレザーブーツ、左手に靴下――それぞれを(くさ)いものを持つように人差し指と親指で摘む。

 血液が流れ始める。

 暮内一緒の足元に向かって――彼女の足の裏から、凝固した血液さえが吸い込まれていく。

 皮膚呼吸ならぬ皮膚吸。

 三分。

 たっぷり三分掛けて、彼女はこの学校を元の白い建物に戻した。

「何か……物足りませんね」

 たっぷり四キロリットルの血液を百五十センチメートル・五十キログラム(自称)のその肉体のどこに吸収したのか――それだけの物量を摂取して何が物足りないのか。

「……やることがなくなってしまいました」

 一通りの探索を終えて、今大量の血液を摂取して。

「連絡はまだですかね……」

 そう、暮内一緒は連絡待ち――救援待ち。

 赤井陽妃が張った〝結界〟は、この学校で未だ健在――

 暮内一緒を誘き寄せて閉じ込めるこの〝結界。

 彼女がこの学校から出られなくなって二時間が経つ。



 遡ること二時間程前。

 永美四十一年一月七日十時頃。

 ……遡りすぎかと思われるかもしれないが、現地時刻で、である。

 現地――フランス・パリ。

 全世界におよそ二百ヶ所以上存在する二人の吸血鬼[〝吸血鬼〟]の拠点の一つ。

 第一の拠点は勿論シギショアラ、そして第二の拠点は暮内宵の実家である日本の地方都市である。ここはその他大勢の一つ――これらの拠点は、宵が〝吸血鬼〟になって、彼女たちの食事の手配をできるだけ穏便に行うことを二人で取り決めたときに、何かと便利な場所として設置されたものだ。

 そしてその、食事の手配というのは――『自殺相談』。

 二人は所謂『自殺者を集めるサイト』を運営して死にたがりを見つけて、実際に集合場所を決め、そして二人は表向き探偵事務所として、彼ら彼女らに直接面会する。相談によって死を留まれるようなら帰らせ、後がない者たちを彼女たちは喰うのだ。

 あとは『デスノートサイト』を作って、殺してほしい人間を書かせて、書いた本人と書かれた本人を両方喰うとか、そんな。

 まるで中学生が考えるような「世直し」みたいなことを。

 二人は「食料調達」という微弱な言い訳を楯にして、(おこな)っていた。

 さて、閑話休題。

 一月一日付けでパリの或る地点を〝定点〟としていた吸血鬼と〝吸血鬼〟の二人は、完全に爆睡と云ってもいい眠りに就いていた。

 まだ陽が昇って間もない――そんな時間。

 ふ――暮内一緒は目を覚ます。

 誰の趣味かわからない、真っ白なネグリジェ姿の彼女。

 暗い、暗幕がきっちりと下ろされた、シャンゼリゼ通り沿いのアパルトマン(アパートメント)。

 その寝室。二つの破道の九十が並んでいる。

「黒棺!」

 言いながら彼女は棺の蓋を中から開いて上半身を起こし、棺から這い出る。

 彼女たちが絶対に目覚める筈のない時間。

 目は冴え渡り、けれど体は思ったように動かない。

 全身の皮膚が粟立ち、冬なのに冷や汗がだらだらと流れてくる。

 違和感――違和感違和感違和感違和感違和感違和感違和感違和感違和感違和感違和感――

 あの日と同じ。昨年の十二月二十三日午前零時(日本標準時)と同じ。

「宵、起きてください! 宵!」

 一緒は宵の棺の蓋を開ける。

「何だよ一緒……昨晩の続き?」

「何もしてないでしょうこのヘタレ!」

 一緒は蓋で殴る蹴るの暴行。

「……で、何だよ一緒?」

 全身打撲が一通り治った後、水色のパジャマ姿の宵が一緒(ヰオ)に訊ねる。

「えっ?! あなたはこの寒気を感じないのですか?!」

 一緒は驚愕の表情で宵の目を見つめる。

「いや、確かに今日は寒いけれど」

 と、宵は眠気眼のまま。

「……だから何? まだ眠いんだけど」

 一緒は一通り彼に対して呆れた後、考え方を変えた。

 ――ついに、赤井陽妃が再起動したのですね。しかも以前より高い強度をもって。

「長い冬休みだったみたいですね」

 と一緒はこの大陸の東の果て、その海岸線の方向をぼんやりと見て――それは部屋の壁だったけれど――一人――独り、ぼやく。

 そして彼女は、振り返って宵を見る。百年連れ添った相方を見遣る。

「……」

 棺の蓋が閉まっていた。

「……」

 実のところ一緒よりも更に吸血鬼[〝吸血鬼〟]的縛りが強い筈の宵が、この時間に目が覚めたこと自体、緊急事態と云えるのだが。

 暮内一緒は考える――考えうる可能性を全て考える。

 この頼りない彼をここに置いていくことによって起こるであろう諸々。

 この頼りない彼を違和感の発生元へと連れて行くことによって起こるであろう諸々。

 ――彼女は誤った。

 結果から考えると「誤った」としか言いようがないのだが、どちらの選択を採っても同じ結果だったかもしれない。

 暮内一緒には、それを確認する手段は存在しないが。

「宵、そこで大人しく眠っていてください!」

 彼女は彼を置いて現地へ向かうことにした。

一瞬ぐっと額に力を入れて何かを確認した後、

「はあ」

 と一つ息を吐いて、ふっ、とアパルトマンの屋根の上に〝転移〟する。どうやら赤井陽妃の〝無血〟的〝結界〟によって、直接現地へ〝転移〟することができないようである。

 暮内一緒は真っ黒な傘を広げる。成人サイズで、持ち手が日本刀のような鍔のついた柄の形になっている、観光地の土産仕様のものだ。

 そんな傘一つでどうやってぎんぎんの冬の朝日を遮っているのか――またこれも魔術が掛けられているのだろうか――朝日を浴びて、巨大な翼を広げる。純白のミニスカドレス姿に変わる。

「……仕方がありませんね」

 一緒は〝時空間操作〟で、彼女らのフランスにおける拠点であるその部屋に、彼女も或る種の〝結界〟を張る。

 巨大な漆黒の翼を一つ二つと羽搏かせて――まるで〝転移〟したかのように。

彼女は衝撃波だけを残してヨーロッパを去る。



「――これは……!」

 現地時刻は十八時頃で、太陽が沈んで一時間半程。教室も外ももう真っ暗だが、吸血鬼である彼女の目は赤外線カメラ並みによく見えている。

 暮内一緒は三瞬から四瞬ぐらいかけて、東京都世田谷区に存在する赤井陽妃と霧雨晴雪の母校――ではなくまだ通学中の高校に到着した。暮内一緒が違和感を抱いた中心地であり、結果から云うとこの瞬間に彼女は赤井陽妃の〝結界〟に取り込まれた。

 気付いたら取り込まれていた。

 かなり離れた場所で空中停止した筈だったが――それこそ県外ぐらいのレヴェルで離れていたのだが、いつの間にか学校の中だった。

 外観を確認する間もなく建物の中にいたが、窓から見える外観には何の変哲もなかった。

 問題は静内(しずない)だった。

「……」

 暮内一緒にはツッコむ余裕さえなかった。

 肉体はかなり疲労している。それに伴って魂も浪費している。

 〝死のような眠り〟を阻害されたのだ――それにこの〝結界〟。

 無言のプレッシャーがある。

「重力が」

 強まっている。

 彼女がいる場所は違和感の発生した場所――赤井陽妃と霧雨晴雪が所属する学級であるところの三年三組。一階の、昇降口から二番目に近い教室がそこだった。

 彼女は焦っていてそのままだった服装を変える。白のぼんぼんの付いた白とピンクのボーダーのニット帽、同じ柄の毛糸の手袋、雪のように真っ白な膝丈のコート、そこから覗くのは二百デニールの白の十分丈レギンス、そして茶色のレザーブーツ。……どうやらこの能力、と云うよりはむしろ機能と云うべきか、吸血鬼の再生能力にオプションとしてそのとき着ていた服装を再現する、というものを応用して、皮膚から服を再現しているようである。

 問題の室内――赤井陽妃の所属する学級であるところの三年三組。

 そこら中が真っ赤であるのは前述の通りだが、その机。

 二つの机を除く全てのそれの上に、花瓶に挿された真っ白な菊の花が置かれていた。

 一緒がその一つ――一番後方の扉に近いところにある真っ白な花瓶に触れようと――

「!!」

 魔方陣が――見えなかった。見えなかったが確かにそこに存在することを彼女は確信できた。触れた瞬間に、この席の人間がこの教室に来たときに体験させられ――恐らくその後殺害される、その魔術に巻き込まれるだろうそれが。

 ……この魔方陣、何度か体感した気がする。内容は恐らく別の魔術だろうが。それはかつての彼女が、吸血鬼を捉え抹殺するための罠に何度かかかり、その度に悠々と脱出していたものに似ていたが、今回のこれは吸血鬼[〝吸血鬼〟]捕縛・殺害用のものではなく。

 赤井陽妃が、望んだ力。

 暮内一緒はその花瓶全体を折り畳み式の携帯電話で撮影し、携帯電話に登録された中で唯一現在でも通じている者に写真付きメール――通称写メールを送信する。因みに暮内宵のそれではない。

『これがどんな術かわかりますか? また、この術を破壊することはできますか?』

『不可能』

 ものの数秒で返信がきた。

『この魔術は云わば〝固有結界〟であり、仮に私が術名を付けるのなら〝封印指定〟といったところか。指定した相手を〝結界〟内に封じ、術者――この場合赤井陽妃が望む風景・空気・状況を再現する。恐らくその後〝封印指定〟された相手は絶命するだろう。死なない程度に体感したければ添付ファイルを開け』

 一緒がクリップのマークを選択して「決定」ボタンを押す。

『×開けません(サイズオーバー)』

 骨董品の日本製折り畳み式携帯電話では重すぎた。

「ふざけんな!」

 一緒が携帯電話を叩きつけようとしたところで着信。

『〝der Nacht Flug〟』

 その声とともにいつの間にか携帯電話のモニタから青色に輝く魔方陣――円形の内部に幾何学模様が描かれたものが3D映画のように飛び出してきて一緒を包み込んで――


『……』

 そこは変わらず教室だった。ただ時間帯は、光の加減からしてどうやら朝のようだ。

『おはよう暮内さん』

 少し頭と尻が軽そうな女が挨拶をしてくる。

『……』

 一緒は彼女をガン無視して視線鋭く周囲を確認する。

 先程までと異なるのは、菊が生けられた花瓶が先程一緒が一番近くにいた席、要するに後方扉から一番近くにあった席一つに置かれていて、その机には誰かが思いつく限りの罵倒が油性マジックや彫刻刀で書かれたり掘られたりしていたことと、朝のホームルーム開始前なのか、他の生徒たちがいることぐらいだろうか。

『……』

 否、暮内一緒の服装がセーラー服になり、なぜかお下げにして丸い眼鏡を掛けていた。

 暮内一緒はその席に腰掛けながら、眉間に皺を寄せて険しい表情で思考を展開する。

 またベタな――一緒は思う。

『おはよう委員長。よく学校に来れたね』

 さっきの尻軽のすぐ後ろにいた、そばかすだらけで恐らく髪を多少脱色しているような細目でスカートが無駄に短いブスが、更に後ろに二人ほど同様のブスを連れてくすくすと笑う。

『あ?』

 濁点付きでガン付ける一緒。

『今日もよろしくね――』

 そう言ったそのグループのデブが、その場で全身を強く打って間もなく死亡した。

『やれやれだわ』

 教室は血に塗れ、一緒は口にストローを銜えている――それの中身は真っ赤な何か。

『……〝結界〟の中じゃ味はしないですね』

 言っている間に、他の三人も同様に全身を強く打って間もなく死亡した。

『……』

 一緒が殺害した。

『やだー、まだあの子来てるよ』

 教室の中の他の場所にいた人間が、その惨状を認識していないかのように無視して、暮内一緒を見てくすくす笑いながら陰でない陰口を叩く。

『あのガリ勉ブスまた来てるとかまじ笑えるんだけど」

『なにしてんの? あいつ。委員長のくせにあの性格はないよね』

『そうそう、何あの澄ました態度。絶対私たちのこと見下してるよね』

『うわ、こっち見た』

『あいつがああして教室にいるだけで空気が悪くなるし』

『ああやって力があるから一人でいい、って白けてる感じがむかつく』

『早く帰れよ』

『かーえーれ』

 そんな調子で帰れコールが始まる。なんだこれ。

 その全ての女子が首から血を流してばたばたと斃れた。

『……はあ。おいしくないですね』

 彼女は空気をストローで吸いながら嘆く。

 と、時間が吹き飛ばされたかのように状況が変化する。

 と云っても、元の変わらない教室で(血糊も綺麗さっぱり無くなっている)一緒は例の席に着き、クラスの誰一人として欠けていない状態で、授業が執り行われているというだけだ。

 要するに先程一緒(ヰオ)によって抹殺された女子生徒たちも元通りで、一緒が着いている席は落書きされたままで、花瓶も置いたまま。

 一緒は溜息を吐いて、「まあ、そういうものなのですかね」とこの〝固有結界〟の突然の変化をテキトーに理解する。

 消しゴムが彼女に向けて飛んでき――

 すぱっ

 彼女は左手の手刀で真っ二つに切断した。

 そしてそのまま所謂〝飛ぶ斬撃〟でその方向にいた消しゴムを投げた犯人の女子生徒は真っ二つに袈裟斬りにされて果て、ばたんと大きな音を立てる。

『おい暮内』

 どうやら保健体育の授業だったようで(保健体育なので男子は別クラスで受けているし、その席を埋めているのは恐らく隣のクラスの女子だ)、これまでこちらに背を向けて板書をしていた、体育会系の白髪混じりで無駄にガタイのいい、襟付きの半袖シャツと下はジャージに身を包んだ四十代後半の体育教師のおっさんが、こちらを鬼のような形相で見る。

『鬼を「鬼のような形相で見る」とは滑稽ですね』

 一緒は歯をぎりぎりと軋ませながら笑う。

『授業中だぞ。静かにしろ』

『は? お前何言ってんの? ふざけてんのは他の奴らだろ』

 一緒はこの〝結界〟に入ってから口調が統一されない。無理もないが。

『ふざけてるのはお前だ』

 と何の悪びれもせずにその体育教師は言った。

『お前がそういうことの対象になるから、こうやって授業が妨害されるんだ』

 お前のせいだ――と彼は言った。

 そして一緒(ヰオ)の席までどかどかと馬鹿みたいに肩で風を切ってやってきて続ける。

『お前がそういうことの対象になるのはな、お前が変で特殊で、社会不適合者だからだ』

 髪の毛を掴んで。

『わかったか』

『わかるか』

 一緒は髪の毛を〝操作〟して、それを以て彼女の髪の毛を掴んでいる忌ま忌ましい体育教師の手をずたずたに切り刻み、頸動脈から左手の刀を脳天の方向へと突き刺してこれも殺害した。

 ――また状況が変わる。

 何故か一緒はトイレに腰掛けていた。

 肉体の消化の仕組み上全く何も催すことがない筈の一緒が催して、女子トイレの個室の便座に腰掛けていた。

 唐突に。

 ざばーっ

 個室のドアの上からバケツをひっくり返したような水と、バケツが降ってきた。

『きゃははざまーみ――』

 ばかん――と、一緒が立ち上がって扉を蹴り飛ばして、扉の向こうにいた二人の女子が扉と壁に挟まれて圧死した。もう一人いたらしい(生き)残っていたもう一人は一緒(ヰオ)に首を喰い千切られて血を流して倒れ、間もなく死亡した。

『はあ……。私は本当に水――特に流水は苦手なのですが……』

 ――と、彼女の防水性ぽんこつガラケーが着信を告げる。

『とまあ、君の場合はこんな中途半端になってしまった』

 と暮内一緒が左耳に当てる携帯電話が成人男性の声で話し出す。

『君がそうやって反撃できるからこのようになったが』

 本当なら、と彼は付言する。

『自分が嫌な部分を徹底的に――まるで学校で「からかわれる」ように言われた挙げ句』

 暮内一緒は再び唐突に、教室にいた。机は一掃され、いつの間に現れたのか、目の前には。

 赤井陽妃――制服姿に二本の三つ編み眼鏡の姿。

 何の拘束具もなく唐突に、一緒は四肢を大の字に教室後方の壁に打ちつけられ、そのまま磔にされる。動けない。両手両足をどう動かそうとしても、どう能力を使おうとしても動けない。

 目の前の赤井陽妃の右手にはピーラー。

 言い換えれば皮剥き器である。

『そんな、ジアースのレーザーで復讐(さつがい)するみたいに、楽に死なせたりするわけないでしょ』

 彼女はただ白けた目で暮内一緒に向かってそう言い、ゆっくりと一緒(ヰオ)の千歳になっても繊細なままの腹部に手を伸ばす。

 左手で制服を捲って、右手のピーラーで――


「……」

 元の暗闇の教室に戻ってきたようだ。……ただ、格好はミニスカセーラー服に黒のオーヴァーニーソックス、黒縁眼鏡に高めのポニーテイルという、〝封印指定〟内のものとも先程のものとも異なるものになっていた。

『体験版ではここまでだが、最後まで体験したければどれでも好きな花瓶に触れることだ。恐らく君でも逃れられないだろう。効力はまだ続いているみたいだし』

「……これを、彼女は?」

「これ」とは「この待遇」のことを指している。

『全てに対して無視』

 電話の相手がそう答えて、しかしこう付言する。

『けれどたまに、彼女はぽろりと涙を零すんだ』

 またそこが、彼らにとっては面白かったんだろうね。

 彼は何の感情もなしに。

 彼は何の感傷もなしに。

「……」

 暮内一緒が何も言わないでいると、

『他にも今回、大きな事案が発生しているんだ』

 と彼は話を少し変える。

『それはここで行われた〝封印指定〟と似た仕組みのものなんだが、一見すると〝プログラミング〟と似たような性質を持ったもの故、今回私たちは〝システム〟と呼んでいる。すなわち、全自動で或ることを管理する能力』

 要するに昼――と云うか朝なのか、パリで感じた「違和感」はこれが発動したことによるものだったということか――と一緒は思う。

「……赤井陽妃の〝機械〟には、そういう情報機械的な――電子計算機的な能力も備わっているのですか……」

 一緒はそう独りごちて一人で納得した。

『……』

 あー、と彼は思い出したように。

『……君は気付いていないかもしれないが、もう一時間経っているよ』



 それからまた一時間が経っていた。

 現在時刻は二十時頃。

 暮内一緒は学校中を彷徨って探索していたわけだが、彼女の携帯電話の相手が寄越した『体験版』は現実時刻は十秒程だった筈だ。

 現に彼女自身が体感している時間はまだ二十分程である。

『この〝結界〟――学校に張られた〝結界〟は、この学校中の殆どの生徒や教師を殺した〝封印指定〟とは別のようだね。君も体感している通り』

「わかっています……」

 疲れ果てた彼女はそれは絶対にダメだと思いつつもやむにやまれず、「ええいままよ」と学校中の血液を――学校中の埃や塵や芥屑(ごみくず)一緒(いっしょ)に吸収して回復を図ったのだった。

 ただ当然この〝結界〟の仕掛け人の赤井陽妃はそんなことは予想済みである。

 それが見え見えの罠であっても欲望に簡単に敗北することは予想済みである。

「どうりで物足りないわけです」

 血液の匂いがし、血液と同色の、ただの水。

 ――それはそうだ。

 この〝封印指定〟。発動当時パリで爆睡中で気付かなかった一緒は知る由もないが、この学校で赤井陽妃が行なった「これ」はただの実験であり予行演習で――当然本番は先程〝システム〟と呼ばれていたものだ――その実験は陽妃たちが学校にいる間――一緒たちが眠っている間になされたものだから。

 血液が本物ならば凝固していないわけがない。

 一緒は「『違和感』から即時に対応した」という自身への過信と焦りから判断を誤った。

 ただの水を流したのだ――自分の足元へと。

 流水。

「気持ち悪い……」

「吸血鬼」は流水を渡れない。

 彼女は流水が苦手なのだ――それを体内に流してしまった。

『時間を留まらせ、重力さえ操る〝結界〟』

 電話の相手は引き続き一緒と電話をしているようである。

 どうやって話しているのだろう。

『私も自分の時間を君の時間に合わせて流しているだけだよ』

 さいですか。

「……落ち着いてやっとわかりました」

 頭に水が入ったからでしょうか。

 暮内一緒は電話口に言うでもなく。

「罠……」

 いやそれは最初からわかっていただろう。

 わかっていることを確認するようで悪いが、と携帯電話はまた語り始める。

『この赤井陽妃製の〝結界〟には本来君にしか侵入できない。君を出して上げたいのは山々だが――実のところ私と私の相方もそのすぐ近くに来ているのだが、前述の通りだ。自力で何とかしてくれ。

「……、……――!!」

 頭を冷水にして――もとい、頭を冷静にして彼女はようやっと気付いた。

 もっと大事な――現在の彼女にとって最も大事なことに。

 ――彼女は判断を誤った。

 そして今も、誤り続けている。

『……今気付いたの?』

 割りと素で驚いた声が受話器から聞こえる。

『受話器』

 間違いではない。

 一緒は一つ舌打ちをして、ばさっ――翼を広げて窓ガラスに向かう――校舎表面全てに張り巡らされたほぼ無色透明の〝結界〟に触れんとしたところで、暮内一緒は牙を剥く。

 呟く。

「貫く力を《potestas penetrans》」

 大きく翼を広げ。

 一つ――羽搏く。

 瞬く間に――羽搏く間に。

 音もなく。

 幾重にも張られた〝結界〟を一枚一枚彼女は突き抜けていく。

 その牙によって。

 〝結界〟を喰い破っていく。

 本来一緒は〝結界〟に触れれば体が陽光に触れたかのように蒸発していく筈だが(そういう〝結界〟で、彼女を閉じ込めるという罠だったのだが)――当然のように、彼女は貫いていく。

 牙に触れるまでに触れる彼女の高い鼻やつるつるおでこは〝結界〟を越える度に蒸発・炎上しては再生を繰り返し――足の爪先が抜けたぎりぎりのタイミングで彼女が〝結界〟に開けたその穴がまた閉じてしまう。

『ふむ、そんな方法があったとはな』

 一緒が左手に握ったままの電話から発声される。

『ああ、あと今言うことではないかもしれないが』

 と、全く今言うべきではないような、そして今更言うべきではないことを彼は言う。

『呪文は統一したほうがいいと思うよ。トッペマ・マペットでもチョキリーヌ・ベスタでもスゲーナスゴイデスでもメモリ・ミモリでも。基本自分の名前かな』

「……私の名前じゃ長すぎです」

『あー、それじゃあダメかな』

「……」

 そのまま彼女は〝結界〟を喰い破り終わり、一気に高度を上げる。日本海上空を高速飛行していた一緒が黙ったままでいると、電話はぷつっと切れて。

 そのタイミングで、彼女は〝転移〟した。





Oh(オー)……シャンゼリゼ……」

 暮内宵はまるでくだらないダジャレのようなことを言った。

「〝Les Champs-Elysées〟の和訳詞を担当した人に怒られてしまえ!」

 (ヨミ)が叫ぶ――フランス・パリの高度百メートル程の上空にいた。

 そしてその眼科には、凄惨な光景が広がっていた。

「僕もむしろ眼科に行って『あなたの目は悪くなっていますね』って言われた方がマシだと思うよ……」

 そしてその眼下には、凄惨な口径が広がっていた。

 ガトリング砲――その中で最も有名な、M六十一バルカン、その銃口。

 ……広がっていただけで、その銃口は火を噴くことはないのだが。

 パリ上空に、つい先程まで暮内一緒と宵が眠っていた部屋がそのまま浮かんでいた。

 家具はそのままに、壁や天井、床は透明に――家具は二つの棺しかない。

 起き上がって、閉められた棺の蓋に座った宵の目前に、仁王立ちした赤井陽妃の右腕の銃口が突きつけられた状態で、全てが停止していた。

 暮内宵は地味なグレーのスウェット。

 赤井陽妃はふわりと棚引く右耳後ろの一房の三つ編み。真っ赤に輝く縁の眼鏡。白いロングのダッフルコートのホックを首の前まで閉めてファーで首を覆い、手編みのニット帽を眼鏡の上まで深く被る。コートの下は、相変わらず制服である。つまり下半身はスカートと黒タイツ、そしてローファー。背にはB―2ステルス戦闘機の横広の二等辺三角形の翼。頭上には輪。肘から先は二メートル弱のガトリング砲。

「紹介の分量差別!」

「私たちは閉じ込められてしまったみたいですね」

 赤井陽妃が言う。

 二人の肉体は前述の状態で停止していたが、そこから幽体離脱しているかのように、二人は幽霊みたいにふわふわと、その部屋を漂っていた。

「……これ、君がやったんじゃないの?」

 赤井陽妃の言葉から数秒経ってから、びくびくと怯えながら恐る恐る訊ねる。

「そ、そんな怖がってないし」

「……私がやりました」

「なんだ……」

「嘘です」

「?!?」

 本当のところを云うと。

 暮内一緒が赤井陽妃の罠にかかったように。

 赤井陽妃も暮内一緒の策に嵌まったのだ。

 嵌まった時刻、一月七日午前十時過ぎ(現地時刻)。

 暮内一緒は宵を置いてここを飛び立つときに予防線を張ったのだ。

「〝この部屋の全てのエネルギーを外部に排出することでこの空間を凍結させる〟」

「……へ?」

 幽体で正座をして目を瞑って少し俯いた赤井陽妃が、ふわふわと部屋を漂いながらぼそりと呟く。つん立ちの格好をしてこちらもふわふわしていた暮内宵が気の抜けた相槌を打ち、彼も居住まいを正して正座する。

「まあ、私の内燃機関がそのうち動き始めますので、ただの時間稼ぎですけどね」

「……その、あ」

 どうやらコミュニケーション能力が著しく足りない宵が何かを言おうとしている様子である。

「……あ、つまり、ここのエネルギー全てを外に排出したせいで、外がこんな爆心地みたいな状況になっているってこと? ……ですか?」

 彼は日和って敬語で返した。

「まあ、そんなところかな」

 逆に陽妃のほうがタメ口になった。実年齢では勿論だが、彼が〝吸血鬼〟デビューした年齢と比べても彼の方が年上である。

「外の状況もだけれど」

 と彼は少し落ち着いたようで、現状を量りにかかる。

「この中の状況はどうなっている……んです?」

 自身より上の存在に対して経緯を払うのは日本人の仕方ない性なのである。

「この中の状況、ね」

 と彼女は、まるで「1+1=2」なのは何故かと問う小学生を優しく諭すように。

「魂と肉体の話はあの女から聴いてる?」

「……、……はい」

「何故嘘を吐いたの」

「いや……、ごめんなさい」

 赤井陽妃の正座と瞑目の威圧感の中「当然知っている」(てい)で訊ねられて「知りません」と返せなかったらしい。

「私たちは今完全に停止した肉体から抜け出した魂だけが活動して――たまたまでしょうけれど可視化してしかも会話までできています」

 通常はそんなことはないんですけれど、と付言しつつ。

「この世界には『この世』と『あの世』があります」

 まるで先生のような口調で言う。

「『この世』とは今私たちがいるこの場所。『物質界』と言ってもいい。対して『あの世』とは『精神界』です」

 陽妃は出来の悪い生徒に教えるように短く区切って説明する。

「私たちの肉体には魂が宿っています」

 話が跳んだな、と宵はこのとき思ったが口を開くことさえしなかった。そんなことができる空気ではなかったからである。

「『あの世』にはこれまで生きてきた、そして現在とこれから生きる全ての人間の魂が保存されています」

「保存?」

「あなたにわかるように言いました」

 と皮肉でもなんでもなく彼女は言う。

「現在生きている人間たちの肉体に宿っている魂は、『あの世』に保存されている魂の一部なのです」

「一部……」

「〝人間の脳は三十パーセントしか使われていない〟って聞いたことあるでしょう?」

 彼は無言で頷く。

「実際人間の脳はほぼほぼ百パーセント使われていることが実証されているんですが、『脳』を『魂』に置き換えるとほぼ真理になります」

「〝人間の魂は三十パーセントしか使われていない〟?」

「よくできました」

 と彼女は褒めることも忘れない。

「現在生きている人間の魂も、個人差はあれど『あの世』にだいたい七十パーセントは残ったままなのです。肉体に宿った三十パーセントも、肉体の一部に偏ることなく全身を満たしています。『あの世』に残った魂と、現在『この世』で生きている人間の肉体に宿った魂は臍の緒のような不可視の紐で繋がっている。また『この世』で生きている人間の肉体に宿った魂の量によって、人間は能力が決まります」

「……僕たちは」

 と、そこで一つ彼は息を呑んだ。

「僕たちの魂は……僕たちの肉体に宿った魂は?」

 それは確信だった。

 そして核心だった。

「ちゃあんとあなたにも」

 コミュ障のあなたにも、と言外に含めつつ。

「察する能力があるじゃあないですか」

 赤井陽妃は正座で目を瞑ったままほんの少しだけ口角を上げる。

「人間たちは『あの世』に魂が残っているから、死ぬことができます。肉体が死んで、魂はその紐を頼りに『あの世』へと還り、安らかに眠ることができる」

「……」

「〝吸血鬼〟は」

 彼の不安を察して彼女は言う。

「だいたい五十から七十パーセントです。最大でも百パーセント未満です」

「でも〝吸血鬼〟は不死身じゃ」

「あなたたちは太陽に燃やされて死ぬし、悔いで心臓を打たれても死ぬでしょう?」

「さすがに後悔では死なないよ!」

「ただ――」



「――()――

           ――(せつ)――      

  ――(くう)――

             ――(だん)――」



 宵にはやけに間延びしたように、その耳慣れた声が聞こえた。聞こえた気がしたが、彼女は呟いただけなのだけれど。

 技名を叫ぶなんて恥ずかしい真似はしていないのだけれど。





 暮内一緒は到着した。

 赤井陽妃が暮内一緒の策にはまって二時間。

 暮内一緒がフランス・パリを出発してから二時間。

 フランス・パリ。現地時刻一月七日正午。

「……〝亜空(あくう)切断(せつだん)〟」

 暮内一緒はぼそりと呟く。

 音声認識全自動――と云うよりは、発声によって発動する魔術。……似たようなものか。

 彼女の握る、持ち手が日本刀の柄の形をした黒い傘が、閉じたままの傘が、ぐっと絞られる。

 そのまま日本刀に変わる。

 彼女は日本から成層圏近くを超速で飛行してきたその勢いのまま。

 翼を小さく畳み、墜落する速度で。

 パリ上空に浮かぶ彼女が構築した〝この部屋の全てのエネルギーを外部に排出することでこの空間を凍結させる〟――正確に云えば〝この部屋の全てのエネルギーを外部に排出することでこの空間と時間全てを凍結させる〟結界魔術目掛けてその日本刀で切りつける。

 多重に。

 多次元に――空間だけでなく時間さえも。

 〝この部屋の以下略〟結界が崩壊する――


「待ってたよ」


 かしゃん

 と〝切断〟魔術の規模の割りに、〝結界〟は拍子抜けな音を残して透明な硝子のように砕けた。その一瞬、魂が肉体に戻って馴染むまでの一瞬――赤井陽妃の〝機械〟のような肉体が再起動するまでの一瞬に、二撃目を喰らわそうとする暮内一緒の耳元で。

 目の前で。

 暮内一緒の日本刀を受け止める透き通る洋剣。柄や鍔までも、何の飾り気もなく、まるで硝子でできたような程に透明な剣。全体で一・五メートル、刀身は一・二メートル。

 彼の心をうつしたようにうつくしい剣。

「霧さ、め……は……る雪……? なぜ……」

 たった一人、この四人の中でたった一人暮内一緒だけが、驚愕の表情で彼を見つめていた。

 黒色の、肋骨当たりまでの丈のダウンの下には白色のカッターシャツ。黒色のチノパンを穿き、革靴を履いている。

 暮内一緒は声を荒らげる。

「なんであなたが生きてここにいるんですか!」

 霧雨晴雪が、そこにいた。


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