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回転と他者論~行為としての回転と付随する他者。

作者: はすのこ

・はじめに。

 主題。主題とはタイトルである。タイトルを付けると、そこから開始される内容は、タイトルに依存するものとなる。それは著者の可能性を初手から封鎖するという明確な意志なのだ。中々、人はこれに気付かない、と僕は思う。タイトルを付けると、読者は「分かりやすい」という感想を抱きやすい。何故なら、読む際の〈指標〉が可視化されているからだ。目の前にぶら下がっているものに思考放棄し、行為していく。非常に楽だが、非常に残らない方法であり、別側面から見つめると、それは非常に優しくもある、が、優しい事は時として、悪手である。

 主題の放棄。そういう「ややこしい」思考。それを具体化した、「ややこしい」文字配置、その果ての奇妙な文章の羅列。それは極めて思想哲学的だ。今思えば、僕は、その様な文章textの読解に熱中していた過去がある。僕が、悪手を悪手と気が付きながら、悪手を選択する事。悪手という〈善〉手。悪手と善手の意味=矛盾。両者が自己完結する地平という名の脱地平化された平面上の土地。アイロニカルな…あえて選ぶという事。分かりやすい文体から脱却する事。脱明確化。

 これより開始される僕の文章は一般的に見て、分かりにくい、はずである。そう書く意味、文章を書き「残す」意味に焦点を当てると、読者放棄型の文章になりがちだが、「書物」は残す事に意味がある。分かりやすい事=分かりにくい事。読者の理解の及ばぬ地平への鮮やかな飛翔。僕の抽象化された文字媒体はその地平を目指しているのだから。


1.回転について。


…パズルを知らない者に、パズルの完成を問うこと…。


 回転。回転という行為。行為という回転。両者は似ているが、正しきは、前者である。回転とは、行為の総称である。総称。つまり、行為に潜む〈定義可能=範囲〉の全体を指すもの。

 円形。行為。二単語から想起される表象。それは幼年時に触れたコンパスの不可思議な体験である。

 コンパスで円を描く時、紙面上に針を刺し、角度を自己調整し、芯の部分を回転させる事で、円形運動が出現する。この運動は、人間の行為の始まりと終わりを如実に示している。僕が回転について語る時、それは前作の行為論であるE試論。その延長線上に位置された論考となる。コンパスの例えが秀逸なので、引用を続けていく。コンパスの針の部分に行為者である私(er)を配置する時、芯の部分には、行為内容が配置される。中心に配置された私の意志により、行為を展開していく。

紙面上に於ける始点。紙面と芯が接続される最初の点。そこは行為の初動作を指す。芯を回転させる事で、円形を形成していくが、形成過程は、行為途中を意味する。

 私は回転している、という自覚は回転中に得られる唯一の成果である。行為途中に、行為の真価に気付くもの。「とりあえず」や「あえて」という行為の純性を内側から崩す、意味の複数性、二重性。あえて、アイロニーな立ち振舞いをする。アイロニカルな複数性。「回ろう」として、回るのではなく、「回らず」して、回る様な…客観的な意味不明性。それは、哲学する人間には、必要な素質だ。途中に、途中の意味を問い直すようなもの。

 途中。途中という「中点」。回転は円形様である。円形には始点と終点、その狭間に配置される中点。私は回転している…この時の私は、円形の中心に居ながら、中点に接続したり、していなかったり、しているのだ。

 芯による円形の完成とは、始点との再接続を意味する。それは円形の一周であり、始点と重なる部分を「終点」と定義化したい。終点とは、行為の完成を私自身が定義化する事であり、それは外部による介入可能性の断絶を意味し、結果的には、閉鎖的な死の象徴にもなり得る。

 完成されている芸術作品が総じてつまらなく映るのは、他者による介入可能性を完成という枠組みに於いて、「閉鎖的」「断絶的」に扱っているからである。芸術とは、完成してはいけないのだ。

 それは、誰もが自身の外枠=自身存在としてのエピステーメーから逃れられない…言い換えると、私自身の絶対的帰結性を示すが、回転の意義性は完結しているはずの自身にのみ価値規定される、という閉鎖的な超曖昧さの中を思想的公式に於いて鮮やかに泳ぐ。

回転の中心には私が存在する為、回転数は私の側面数に比例する。そして、人には色がある。人の個別性を色という記号にする場合、回転には、色の濃度の問題が付加される。芯が濃いか、薄いかの問題。それは私の意志の濃度と比例する。その為、自動的に回転の濃度は私の思想的体調であるs/wに依存する。

 回転に於いて、時間性はどう定義化されるか。時間について、考える事は行為に対する愛情について、考える事と同義である。私が干渉する行為に私自身が好意的な態度を向けている場合、意識は自然と、変性意識状態に傾く為、時計を用いた…誰にも明確な「可視化された時間の世界」からは断絶される。つまり、回転を愛していれば、そこに時間感覚を問う事の無意味さに気付くのである。

回転し続ける事に言及していく。回転の連続とは行為の連続。そこには人生の存在が明確に映り、回転し続ける事は、生の意志の発現に他ならない。

終わる回転を、終わらせない意志。あれ、おかしいな…と又、回る事。アイロニカルな回転、開店と同時開始される思考の回転、それは再考を指す。再考の問題。

行為を一周目で完結させずに、二周目に移行する事は、再考の問題に移行される。考える事…それを行為に移す事。行為を一周目の時点で一度、完結させ、再び、行為に挑戦する事とは、再び考える事、つまり、再考である。行為について、再考させる時、行為自身にはどの様な変化が生じるのか。ここでは、過去と現在という2つの言葉を用いて、語っていく。

 物事について再考する際、その時間帯は自動的に現在に位置される。現在とは過去の連続の果ての存在である為、過去も又、存在する。行為の過去形を、過去-回転、行為の現在形を現在-回転と定義化したい。その場合、過去-回転から現在-回転への鮮やかな転移。過去-回転に於いては、差異-言霊化。現在-回転では、一新-維持化が発生する。

 差異-言霊化について、説明する事は、まず、差異に触れる必要がある。近代言語学の父、ソシュールは、言語とは差異の体系であり、差異しかないと語った。(一般言語学講義参照)この言説に対し、僕は同意出来ない。何故なら、言語の使用者は人間だからである。

 人間とは、感情の生態系である。そして、感情的に言語使用をするという事は、そこに感情が付属されるのである。この感情及び、言語に対する熱意を「言霊」と定義化し、言語体系には、差異と言霊が付属される、と僕は語りたい。

 そして、過去-回転について再考する事は、その時点で、「既に」現在-回転への飛翔を開始している。そう。この時点で、過去-回転と現在-回転との間に、埋められぬ差異が生じる。

差異の関係性と、再考という非意味的な行為に偏執する感情=言語に対する意志=言霊の発生。それは、過去-回転に対する差異-言霊化を示す。その瞬間、現在-回転には、行為者による、この考えは最適解に違いないという倒錯した感情が乗る。最適解と、「個人的に」定義化する限定的な感情。それは新しい玩具に偏執する子供の如き思想であり、一新-維持化と名付けたい。

差異-言霊化と一新-維持化の同時並列的な発生。これが再考の正体であるが、再考は意志の続く限り、無限に展開される。


2.他者について。

 

…ばらばらに配置された、見えないパズルを組むが如き…。


 他者とは、無限な存在である。他者に干渉しようとして、目の前に映る自己像に…自身が干渉する。原理に気付いてしまえば、その姿は些か、滑稽ですらある。私たちは、私の集合であり、仮想的な私達を演じる。そんな滑稽な演舞。集団の本質は、喜劇になり得ない喜劇であるのかもしれない。

目の前に映る他者は脳内で投影されし、仮想や仮像。そう知りながらも、私達は私達を求める。人を、他者を、求めるものだ。安心や安定の為、何処か落ち着こうとする弱い意思が作動する為…。

 私が回転する時、他者も回転する。回転の方向性が一致した際、互いの共感も得られやすいもの。不一致の際は、意志の衝突…古代以前より続く闘争という動物的な悲劇を迎える事となるだろうか。

私と他者の回転の一致。付随する融合。記号としての同一化、その中に交わらない個としての自己主張。それは同一性内に潜む、非同一性という意味=矛盾…反転する地平。いや、地平等、最初から無かったのかもしれない…そう思わせる様な非意味的循環。

 回転は重なると強化される様で、弱化したりする。大切である、は現象を問う事。どの様な変化が起きたか。その視座の獲得である。

回転する対象が他者である意味性の言及。他者の回転は参考になり得るか。自身の参考としての他者の私的利用。それは身勝手な模倣…換言するならば、盗用である。しかし、模倣を軽視してはいけない。回転の模倣は回転の性質変化。それは明確化する変質(=強欲の可視化)である。

回転の変質に挑戦する事。リスクやリターンといった単語をあえて、無視する様な軽快さ。過ちの様な誤りの様な、だが、劇的な反転。生きる事。延長線上の生き続ける事は、反転し続ける事。反転の対象が自身の価値観だったり、幸福だったりする。反転する事!その時に自身の核を意識する事が大切である。核なき反転。それは英断ではなく、戦略なき愚行。アイロニーの名も、その行為の前では、泣くのみである。

核の正体は自身の思想体系の中心。この構図。中心から派生されるコンパスのあの軌道…を想起する様。中心点が無い回転等、回転の定義から外れているのである。


3.透明について。


…思い描いたパズルの裏側を夢見ること…。


 透明。何故、透明か。何故、透明という言葉が登場したのか。透明という言葉の発明者、言葉における未知なものへの開拓者には拍手を贈りたいが、僕の透明性は、表象からは離れる。

繋がり。それは唐突に繋げる事。繋がらなそうなものを、繋げてみる行為。非切断=有構築?構築。重ねて「みる」という言葉遊び。その果ての概念の創造。

回転と透明、その繋がりの未規定性…回転に必要な要素である透明性。それは、人生論の話。指針。

 想像の話を一つ。私は白い個室にいる。そこには、大勢の人の集団がいるが、私は、認識されていない。何故なら、透明だから。認識されようがない存在、それは透明化された主体である個人。

 透明の意味する所。「ここにいながら、ここにいないこと」外部と内部との不一致。私と他者との不一致、遠巻きな「私」と〈私〉との不一致。僕が語っているアイロニカルな思想との酷似。その関係性が極めて重要なのである。

 僕の思い描く透明性。それは、図式としての一致、不一致の二重性や複数性。矛盾が目前に登場し、その…背後にあるもの。背後に配置された記号。それが思想としての透明性。表象としてのclearからは遠く離れた表象外の透明性。多重的矛盾性を孕む広大な地平、領域以上の性質、不可侵と侵犯→付随する「透明性」。


4.最適な行為態度。


…わたしのパズルと、異なる知らせを…。


 行為態度。これは、マックス・ウェーバーの用語である。行為、及び態度。「何か」に対する自身の在り方の総体、総称を指す言葉。最適な行為態度とは若干、矛盾しているのかもしれない。最適を目指すものではなく、自然と出るもの、それが行為態度なのだから。自然に最適を外部に出す。その手の表出。爆発する液体の発露。

 他者の前で見せる顔。私の本当の顔。顔、顔、顔。幾つもの顔が存在する中で、他者に見せるもの、その一側面にすぎない。顔を行為態度と、置き換えても良い。他者の前でする行動、総称足る回転。私は一体どちらを回っているのだろうか。貴方に見えた回転の方向性と違うものを、自身の内に秘めること。安定と不安定。過活動と休息。暴力と平和。他者と私?

 違う彩りを。違う色彩で形成された回転を、「内」で暴発させる事。この〈経験〉が大切だと、今の私は、確かに感じる。違う彩りで形成されたアイロニカルな回転。この行為に準じながらも、彩りを…彩りの全体を愛する事を忘れてはいけないという事が一番大切である。


・あとがき。

 揺れているのは、自分か、場所か。気付くのは何時だって、事後です。気付くためには、あえて、状況に対する意味のない〈切断〉をする必要がある。同じ様な事が我々の繋がりについても、言う事が出来ます。辛うじて繋がっている糸の大切さに、人は気付くことが出来ない。その答えを半ば、強制的に知りたければ、やはり切断が有効ですが…糸の存在を認知しない、積極的忘却という自壊的な策もあります。これは、僕自身、選んではいけない選択肢だとは思いますが。

何かと何かが、食い違う、噛み合わない、結果的な矛盾。矛盾の反対は。矛盾という言葉で終わらせてはいけない…という単純な思いから、今回の回転と他者論は始まりました。物事に付随する…深層に配置された二重性や複数性。これら、多元的なものを矛盾という言葉で「封殺」する事は物事に対する不敬だと、僕は感じます。正当な評価ではないと。そう思ったからこそ、私なりのアプローチを文章で表現しました。

 今回の文体について、謝罪を。私自身、書いている時に読んでいたのが、ロラン・バルトの胡散臭い言説だったり、マラルメの詩集だったりしたので、この様な詩的で非常に読みにくいものが出来ました。影響受けやすい人で、すいません。

 ここまで、お読み頂き、ありがとうございました。



・あとがきのあとがき。

 追記という文字が、何処と無く硬くて嫌い。あとがきの、あとがき。一つの単語を連続させる事は、言葉の意味や印象を薄くする効果があるらしい、という余談の延長線上に配置されている、どうでもいいことなのである。

 何が書きたかったか。今回の文章は、「終わってしまったこと」を自覚したという事実。前作は、中々に完成されていたような気がする。完成と非完成。それは、閉じられているか、開かれているか、の違い。

 僕の場合、書きたいことが無くなる、という事はない。現段階では、考えられない。だから、幾らでも、文章を「悪戯に」長引かせる事が出来る。だが、今回は、何故だか、終わってしまった。言い換えると、表現の完結ではなく、表現の自閉。不思議な体験をしたという報告。

 一文目から読むこと。何処からでも読めるという事実。この2つも又、反転している。読み方も、その身に、透明性を宿している。僕は、文章を書く時、常に後者を意識している。

 ほんとうに、おわりのおわり。


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