ラブコメは他所でやって!
きっとポテンシャルはあったんだろう。認めたくないけれど――だってなにしろあたしの周りにはそれっぽいヒトたちがたくさんいたんだから。
まず、女の子に間違われちゃうような、ちっちゃくて愛らしい男の子。
その男の子の幼馴染で、男に間違われるようなカッコいい女の子。
最後に、人の話なんててんで聞こうとしないモデルみたいな容姿のナルシストな先輩。
そんな3人がいる時点でもうすでにどこの漫画だ! って感じ?
今すぐにでも物語がスタートしても違和感ないシチュエーション。
けど、誓っていい。
あたしはいたって普通だった。
中学の時少しばかりみんなより勉強ができたからそれなりの進学校に入学して、少しばかり絵が好きだったから美術部に所属して、少しばかり世間に疎かったから特別目立つわけでもなく、だからといっていじめのように無視されるというわけでなく平凡な毎日を過ごしていた。
それなのに。
どうしてこんなことになってしまったんだろう?
それはずっと分厚い雲が覆っていた空が少しずつ晴れやかさを増し、テストさえ終われば世間一般的な『青春』の代名詞、17歳の夏がやってくるっていう、素晴らしい季節のことだった。
その嵐の警鐘はあたしの気持ちになどお構いなしに唐突に、そして高らかに鳴り響いた。
テスト二日前、放課後の美術室。
こんなところにやってくるのはあたしくらいのものだ。それなりの進学校であるこの荒神高校の生徒であるならば、図書館、または帰って家でまじめに勉強するのが普通だろう。
そうでなくとも、美術部なんて幽霊部員ばかり。まじめだった3年生の先輩たちが本格的な受験勉強を始めてしまってからはほとんど1人で活動していた。
どこか埃っぽい、しかし絵の具の匂いに満ちた空気が迎えてくれる。いくつものキャンバスが描きかけのまま放置されている。スケッチ用の壺や、人間の上半身を象った石膏像が後ろの棚の上にずらりと並んでいた。
いくつもの石膏像の視線を受けながら棚の前を横切り、日が差し込む窓辺にカバンを置く。そして、いつも持ち歩いているスケッチブックを鞄から取り出した。
ぱらぱらとめくると、最初の方のページはほとんどが同じ人物の絵で埋められている。正面、横顔、全身の画も、後ろ姿まで様々な角度から描かれている。
「本当に……綺麗なひと」
このスケッチブックに描かれた先輩は、性格には難ありでもモデルとしては一級だった。だから、あたしはその造形的な美しさに魅かれて、何度も何度もスケッチした。
一つ一つ、丹念に手をかけて創られた美術品のように左右整った目鼻立ち、180cm以上はあるだろうすらりとした長身、すべての女の子を虜にしてしまうであろう柔らかな微笑み。
それも、モデルになっても見られていることを意識せず、照れずに自然な表情でいられるという天性の――ナルシストだった。
「はぁ……」
あの性格さえなければね。
ぱたん、とスケッチブックを閉じた。
そして、今日もしばらくキャンバスに向かって、入学してから何度も何度も繰り返してきた壺のスケッチでもしてから帰るつもりだった。
ところがそうはいかなかった。
カラカラ、と軽い音を立てて美術室の戸が開く。
普段なら誰が来ることもない美術室にやってきたのはいったい誰?
そう思って振り向くと、そこに立っていたのは――天使のように愛らしい少年だった。
大きな目をきょとんとさせてこちらを見ているのは、クラスメイトの今井俊太。
女子として平均よりずいぶん低身長のわたしよりも5cmは低いだろう。小さな丸顔と愛らしい童顔のせいで、まるでテレビに出ている子役のようだ。パステルカラーのフード付きパーカーの袖から小さな手が半分くらい覗いている。色白の肌の中に頬がかすかに色づいていた。丸い目と小さめの鼻と口が完璧なバランスで顔の中に配置されている。色素が薄く焦げ茶色に近いサラサラの髪もよく似合っている。
「今井くん、珍しいね」
とても同い年とは思えないほど幼く見える彼は、その容姿からクラスのマスコット、またはペット的存在としてみんなから可愛がられている。
また、この可愛らしい少年は、美術部と吹奏楽部を兼部している。そのためこちらにはめったに顔を出さないのだが、何か月も見ていない幽霊部員たちよりはよっぽど部員らしい部員だった。
「こんにちは」
おずおず、と美術室に入ってきた彼ににこりと笑いかけた。
「吹奏楽部の方は?」
「今日はテスト前だからお休みだよ」
吹奏学部は多忙だ。この期末テストが終われば高校野球の応援と夏のコンクールが待っているはずだった。
「久しぶりに絵が描きたくて、きちゃった」
はにかむように笑った顔も完璧だ。男とか女とか、そんなものもすべて超越している。
この子は、平凡なあたしにとって唯一の癒しだった。この愛らしい子と少し話して、少し近くにいるくらいは許されるよね?
「隣でぼくも描いてていいかな?」
「いいよ。今日はきっと誰も来ないはずだしね」
「ありがとう!」
そう言ってにこりと笑った今井くんを見て、決めた――今日のモチーフは彼にしよう。うん、きっとそれがいい。
そして、この間描いたテディベアのラフスケッチの横に飾るとしよう。
その時、再び美術室の扉が開いた。
今日はお客さんの多い日だな。
「やあ、久しぶり!」
振り返る前に声が飛んできた。
やあ、なんてわざとらしいセリフ、本気で口に出す人間は一人しか知らない。できればこのテスト前には聞きたくない声だった。
「……お久しぶりですね、川島先輩」
「おや、つれないな。きっと君が一人で暇をしていると思って構いに来たというのに」
「どうせ先輩が受験勉強に飽きたんでしょう? 美術部員でもないのに息抜きにこの部室を使わないでください。受験、落ちても知りませんよ?」
ため息とともに振り返ると、スケッチブックの大半を占めている姿がそこにあった。
「相変わらずのツンドラ気候だねえ」
意味不明のセリフを吐いてひょい、と肩をすくめたのは川島耕太先輩――この荒神高校では最も有名な3年生。
有名な理由はやはり、この容姿にある。ついこの間までバスケ部でフォワードを務めていたため、すらりと引き締まった長身の持ち主で、またモデルを自ら申し出るほどに整った顔立ちをしている。それだけでどこにいても目立つというのに、頭に超の付くほどのナルシスト。
身長151cmのあたしにとっては、かなり見上げなくてはいけない相手だ。
しかしながら、見上げた顔はやっぱり男前だった。
視線に気づいたのか先輩の口角が少し上がる。
「見とれているのかな、風見響子さん?」
「そうです」
ただし、あたしがこの先輩の顔をまじまじと見るときは、美術品を鑑賞するときと一緒だ。
美しいものを見る。
ただ、それだけ。
「君はいつもそうだな。俺を真っすぐに見ている。他の女の子たちは真っ赤になってすぐ目を逸らすというのに!」
「赤くなる理由も目をそらす理由もありませ」
「だが、いくらでも眺めてくれて構わないよ! 俺も鏡の中の自分の顔を見飽きることはないからな」
「……帰れ。もしくはヒトの話を聞け」
ぼそりと本音を呟いたが、川島先輩には届かなかったようだ。
じろじろとあたしを見下ろして、ぽんと頭に手をおき、しみじみと息を吐いた。
「しかし、相変わらず君は小さいな。そんな身長できちんと世界が見えているのか?」
「っっ!」
お前がでかすぎるんだ。そんなセリフは飲み込んだ。
軽く頬がひきつったがこんなことで心を乱していては川島先輩の相手はつとまらない。
平常心、平常心。
「世間では牛乳を飲めばいいと言うらしいから試してみてはどうだ?」
「もう伸びません。成長期は過ぎました。それに牛乳飲んで背が伸びるなら、今頃は世界中の仔牛が八頭身ですよ?」
「ああ、だがそれでは伸びるまでに時間がかかるな。それまでこんな姿でいるというのは非常に不憫でならない」
「人を勝手に不幸にしないでくださ」
「それじゃあてっとり早く……引っ張ってみてはどうだ?」
「ご心配ありがとうございます。でも、本当に不便してないので大丈夫です。そんな暇があるなら世界が100人の村だったらどうなるかってことについてでも考えててください」
そう言うと、川島先輩は唇を子供のように尖らせた。
「君は我儘だな」
「……っ!」
むかっとしたが、何とか抑える。
平常心、平常心。
しかもこれらの台詞がいやみでも挑発でも何でもなく、心の底から出ていることも分かっている。
この先輩は本気であたしの身長について心配してくれているのだ。そのうちあたしの首をつかんで引っ張りだす、という事態にもなりかねない。
まあ何にせよ、この先輩の相手は面倒だ。おとなしくモデルになっていてくれれば全く問題ないが、テスト二日前の今日、あたしも早めに帰りたかった。
はあ、と大きなため息をつく。
これはナルシストというより自信家だろうか。
もちろん言葉通り、川島先輩の成績は学年でトップクラスだ。それは知っている。
顔がよくてスポーツができて勉強ができたらどうしてもこんな人間が出来上がってしまうのだろうか? それなら、神様はもう少しでいいから能力の配分を考えた方がいい。
川島先輩はなぜか上機嫌で美術室を見渡し、突然の訪問者に呆然とたたずんでいた今井俊太に目を止めた。
「誰かいたのか。せっかく一人で寂しくここにいる君の相手をして俺の評価を上げようという計画が台無しじゃないか」
「先輩、考えてることが全部口から洩れてますよ? それにそんなことであたしの中の先輩の評価が上が」
「そこの君! いったい誰だっ!」
……ると思ったら大間違いっ、最後まで人の話を聞けーっ!
いやいや、平常心平常心。
ひとつ、深呼吸。
「あたしのクラスメイトです。美術部員だけど、吹奏楽部と兼部してるから川島先輩は初めて会うかもしれませんね」
「あ、やっぱりあなたが川島先輩だったんですね」
先輩の大声とオーバーアクションにびくびくして窓際に寄っていた今井くんは、少しほっとした顔をしてこちらに近づいてきた。
うわ、身長差が目測で約40cm。あたし以上の身長差だ。きっと先輩は今井くんの旋毛しか見えてないに違いない。
しまった、今井くんの首を掴んで引っ張りだす前に引き離さねば……!
ところが。
なぜかここで、予想外の事態が起きた。
「はじめまして、川島先輩!」
首いっぱいに見上げた今井くんがにこり、と微笑んだ瞬間。
先輩の動きが停止した。
いつもなら笑みを湛えている口元が、茫然と開かれている。綺麗な形をした眼が大きく見開かれていく。何より、頬がみるみるうちに真っ赤に染まっていった。
「はっ、ははは、はじめっ……まして!」
川島先輩が異常なまでに緊張した口調でそう絞り出した――この人がこんな様相を呈するのは、後にも先にもこれっきりだった。
その様子を見て今井くんがきょとん、と首を傾げる。
うっ、これは……!
あたしの中で警鐘が鳴り響く。
人が恋に落ちる瞬間を見てしまった――なんて、どこの少女漫画だ、それは!
確かに今井くんは童顔で、笑った顔なんて本当に女の子のように愛らしいと思う。私服登校のこの高校において、男だと思われるより女に間違われた回数の方が多いんじゃないだろうか。
彼が少々、いやかなりぼんやりとした性格で、間違いを否定しないからその勘違いは加速度的に広まっているのだが……!
「先輩、落ち着いてください! この子は……」
「おおおお、俺を知っていたのか?」
「はい。だってヒビキちゃんのスケッチブックにいっぱい描いてあったから。ずっときれいな人だなって……会ってみたいなって思ってました」
うっ、今井くんの笑顔がまぶしいっ! キラキラと後光までさして見えるよ! そしてそれは今の先輩にとって目の毒だっ!
「ふ、ふふふ、そうか。そうだろう!」
先輩は大きな手で今井くんの両肩をつかんだ。
ちょっと先輩、なにする気?!
ところが今井くんはさらに不思議そうに首をかしげて先輩を見上げている。
ちょっとは抵抗しなさい!
「えと、川島先輩?」
見つめあってないでっ! いや、この図、絵的にはすごくいいんだけど。
刹那、さらに美術室の扉が乱暴に開かれた。
ああもう、いったい今日はどうしたというんだろう? こんなことならさっさと帰っておとなしくテスト勉強でもすればよかった!
もう勘弁して、と振り向いたそこにいたのはこれまた整った顔立ちをした少年だった。
「こんなとこにいたのか、シュン」
今井くんに向かって不機嫌そうに眉間にしわを寄せたのは、中性的に整った顔立ちの少年……いや、実は少女だ。
クラスメイトの緋村琴音。和風美人な名前とは裏腹に、髪はベリーショート、常に男ものの服を身につけているせいで、今井くんとは対照的に男に間違われることの方が多い。空手部唯一の女子部員にして170cmオーバーのすらりとした長身、ボーイッシュな顔立ちで学校中の女子生徒を虜にしている。
今井くんとは幼馴染で、はたから見れば付き合っているようにも見える。見た目性別が逆転しているとはいえ、非常に見目麗しい二人だ。美少女と美少年、並んでいても絵になる。
ところが現実は、しっかりした緋村さんがオトボケ今井くんの保護者をつとめている、というのが正解らしい(本人談)。
「あ、ひぃちゃん。待ってて、少し絵を描いてから帰るから」
川島先輩に肩を掴まれたままの今井くんがボーイッシュな少女ににこり、と笑いかける。
その瞬間、少女の眉間の皺が倍増した。
うっ、なんか……この部屋だけ気温が一瞬で氷点下?! これぞまさにツンドラ気候?!
「おいシュン、誰だ、それ」
「えーとね、川島先輩」
「んで? 聞くが、そいつが何でお前に触っているんだ?」
幼馴染の少女の問いに今井くんはさぁ、と可愛らしく首をかしげる。
突然の乱入者に驚いていた川島先輩も、はっとして今井くんの肩から手を離した。
首を傾げる今井くん。睨む緋村さん。そして慌てる川島先輩。
はたから見れば学校一のイケメンの先輩(?!)が可愛らしい少女に一目ぼれ。そこへ少女の幼馴染の少年が現れてあわや乱闘、みたいな?
いや、先輩は明らかに目の前の愛らしい子が「女」で、乱入者が「男」だと思っているだろう。だからこそ、厄介だ。
「いったい誰だ? 一緒に帰るとは、まさか恋人! 君たちは恋人同士なのかっ?!」
3人の容姿を考えると、まるで恋愛小説のワンシーンのような光景。絵的にはいいんだ、絵的には――もし今井くんが女で緋村さんが男ならね!
愛らしい今井くんと対照的に、非常に男前な緋村さんは、なぜか先輩ではなくあたしに向かって聞いた。
「うるさいな、こいつこそ誰だよ。なあ、ヒビキ!」
この先輩を知らない女子生徒は荒神高校中を探してもあなた一人ですよ、緋村琴音さん。
仕方なく川島耕太先輩について簡単な解説をしてあげた。
すると彼女はきょとん、とした顔をして川島先輩を指差した。
「耕太? この顔で耕太? 耕作の耕に太郎の太?」
「そ、そうだけど……た、太郎の太?」
「似合わねーっ!」
げらげらと爆笑する彼女は心の底から楽しんでいる。
いや、でも突っ込みどころはそこじゃないでしょう?
学校一のイケメン(自称と言いたいところだが本当なのが悔しい)だとか、バスケ部のエースだったとか、模試でもしばしば全国ランキングに名を連ねているとか……気を惹く話題には事欠かない先輩の、なぜわざわざ名前に突っ込む?!
しかもその瞬間にあたしのすぐ隣でツンドラ気候と正反対、サバナ気候が爆発した。
「……人が気にしていることをおおお!」
え、先輩、自分の名前気にしてたの?!
ど真ん中ストライクで先輩の傷を抉った緋村さん本人はすでに臨戦態勢。冷やかな目つきで今井くんの向かいに佇む先輩を見ている。
「君はっ……誰だ?!」
川島先輩がかろうじて絞り出した声に、緋村さんは今井くんを指差し、情の欠片もない声で言い放った。
「こいつの、幼馴染み」
「うおおお! 幼馴染みかああ!」
美術室の机に突っ伏して悶える川島先輩。
「そんな最強の称号を所持しているとはあぁ……誤算だったああ!」
「誤算も何も先輩はいつも計算なんてしてないでしょうに」
馬鹿だから。
ぼそりと呟いた言葉は先輩に届かなかった。
「いや、俺にもポテンシャルがあるぞ。学校一のイケメンだというポテンシャルがな!!」
自分で言ってりゃ世話ないよ、とため息。
どちらにしても誤解は早く解かねばならない。
「だが、幼馴染みではあるが付き合っているわけではないんだな?!」
「……」
緋村さんが一瞬口を噤む。
こんな時なのに、あたしは思わず頭の中の疑問をそのまま口に出してしまった。
「……あの、前から気になってたんだけど」
「ん? 何だ?」
「緋村さんて今井くんとどういう関係なの?」
「だから幼なじみ。もしくは保護者。あとは……弟みたいもんかな」
「恋愛感情とかはないの?」
そう言うと、緋村さんは目を大きく開いた。
そして、すぐにはじけるような笑みを見せた。
太陽のようなその笑顔に思わず釘付けになってしまう。学校中の乙女たちを虜にしている理由が何となくわかってしまった、ような……じゃなくて。
「ヒビキ、お前のそう言うところが好きだっ!」
「?」
どういう意味?
アレ? しかも今の何気に告白デスカ? これ、緋村さんを崇拝する後輩の女の子たちに聞かれたらいじめ問題発覚だよ? 靴なくなって筆箱隠されて体操服切り刻まれて机に落書きだよ?
「聞きにくいことずばずば聞く感じ? 躊躇ないって言うかなんかずれてるよなー。しかもシュン本人の前で!」
そう言うあなたも本人の前なんですが。
当の本人、今井くんは完全に硬直してしまっている。泣きそうに大きな目を歪め、唇を引き結んでいる。この様子ではあたしたちの会話が耳に入っているかも微妙だ。
そんな今井くんをちらりと見てから、緋村さんはあたしの耳に唇を近付けると、ぼそり、と呟いた。
「全くない、って言うとウソになるかもな。でも、今はこの関係がいい」
「え? それって……」
「ほんというとさ、シュンがヒビキに懐いてるのもちょっと妬けるんだよな」
にやり、と冗談めかして言ったセリフに一瞬どきりとする。
それは……牽制?
しかもこの距離。同性のあたしが惚れそうな微笑みが近すぎる。
「俺を無視するな!!」
先輩の叫び声ではっと我に帰った。
まあ何にせよ、誤解は解かねばならないだろう。
「川島先輩、今井くんは」
「とにかく二人は付き合っているわけではないんだな?!」
「聞いてください」
「ということはまだ俺が入り込む隙もあろうというもの!」
「だから」
「負けん!!」
「人の話聞け」
思わず出た本音だったが、相変わらず先輩の耳には届いていないようだ。それどころか、今井くんは硬直しっぱなしだし、緋村さんは臨戦態勢。
この場にあたしの声が届く人間なんて存在していない。
「ヒ、ヒビキちゃん……ひぃちゃんも川島先輩も、二人とも、どうしちゃったの……?」
気がつけば今井くんはあたしのカーディガンの袖をぎゅっと握ってふるふると震えていた。
あーもう何? このかわいい生き物!
君を取り合っているんだよ、とも言えず、あたしは口を噤んだ。
だけれども、とりあえずみんなのマスコット兼ペットであるこの少年を、そしてあたしの目の保養と精神の癒しの対象であるこの愛らしい生き物を、川島先輩に渡すわけにはいかない!
と、思ってはいるのだが、暑苦しい川島先輩と絶対零度の極寒冷気を放つ緋村さんとの間に割って入る度胸はない。
隣の今井くんと共にただオロオロするのみだ。
「お前、じゃあシュンの誕生日知ってるのか?」
「うっ! そんな幼馴染的な質問は許さんっ!」
「知らねーんだろ。今日だぜっ!」
「何いいぃぃ! 誕生日おめでとう、シュンちゃんっ!」
くるり、と今井くんを見て極上の笑顔をキメる川島先輩。
が、祝われた本人は困惑したように言った。
「僕……誕生日、冬だよ?」
その瞬間、笑顔は脆くも崩れ去る。
「騙したなあっ! 貴様っっ!」
「敵を騙して何が悪い!」
「ふむ、それもそうか」
ってか、何気にあの二人、会話が成立してる?!
すごいよ、緋村さん! あの川島先輩とちゃんとした会話ができるなんて! あたしなんて一年間ずっと通じないままだったよ……むしろ君が川島先輩と付き合っちゃいなよ!
「だが許さんっ!」
「じゃあシュンの好きな食べ物は?」
「きっとショートケーキに違いない」
「……っ! 何で分かった?!」
「愛だ! ははははは!」
「じゃあ好きな花は?」
「うーむ。きっとアサガオだ。趣味は観察日記をつけること!」
「あほかぁっ! 小学生じゃあるまいし、ひまわりを育てて種を喰うことでした!」
その答え、すでに好きな花ってお題じゃないよ?! てか今井くん……ひまわりの種、好きなのね。そう言えば以前、好きな画家はゴッホだと言っていた気がする。いや、特に関係ないとは思うが。
それよりもやばい、このままじゃ終わらない。
隣で震える今井くんのためにもあたしがどうにかしなくては。
この時のあたしは、相当テンパってたに違いない。そうじゃなきゃ、ちゃんと川島先輩に今井くんが男で緋村さんが女だと伝えてしまって、ハッピーエンドだったのだ。
こんな風に、物語がスタートすることもなく。
「そんな問答やめてくださいよ! もっと他に解決法があるでしょう?!」
あたしの必死の叫びは、なぜか二人に届いたようだ。
二人は言い争いを止めて一瞬こちらを向いた。
「ふむ、それはいい考えだね、風見響子さん」
「そうだな。そうする事にしよう」
にやり、と二人が同時に笑った。
「バスケットボールで」
「空手で」
「「勝負だ!!」」
二人の声がハモる。
どっちがどっちかは言うまでもないだろう。
本当に、この二人は……!
付き合ってしまえ、お前たち。
「なんだよお前、元バスケ部なんだろ? バスケ勝負は不公平だろうが!」
「驚いたな! 自分に自信がないからそういうことを言うのだろう?」
あたしは、緋村さんがさっきの川島先輩紹介(=元バスケ部だってこと)をちゃんと聞いていたことの方が驚きです。
「何おうっ! ヴァイオレンス・バスケにしようぜ! それなら公平だろ!」
「いいだろう!」
何がいいの?!
ヴァイオレンス・バスケって何?! それスポーツ?! 一対一で出来るの?! 何でそこ、話が通じてるの?! そんなに有名なの?!
つーか名前が超絶物騒なんですけど?!
「あと二人、仲間集めて来い! 明日中にメンバー揃えて、明後日の朝、7時に体育館で待つっ!」
あ、3on3ルールなのね。
じゃないってば!
「望むところだ。俺は負けん!」
どうしてこんなことに……現況になった可愛い少年はあたしの横で震えてますよ? ていうかあなたたち、もう今井くんのことどうでもいいでしょ? 勝負したいだけでしょう?!
それでも、今更止めるに止められなくなったあたしは、今井くんと二人で硬直するしかなかった。
「じゃあシュン、そう言うことだから今日は一人で帰ってくれ! 明日もなっ!」
「ええええ?! ひぃちゃん?!」
そう言って片手をあげ、颯爽と去っていく緋村さん。
「明後日の朝は君も来てくれよ、風見響子さん! 審判がいないと試合にならないからね!」
「あたしに審判させる気ですか?!」
バスケのバの字も知らないのに、いきなりイレギュラールールのヴァイオレンス・バスケ審判なんて無理に決まってる! ていうかそれ何?! 誰か教えて!
そしてお願い、誰か止めて!
あたしは心の中で叫んでいた。
違うんだ。あの場所にいた中で、唯一これを止められる可能性があったとしたらあたし一人だったんだ。誰かに頼んだって無理――その相手がたとえ神様だとしても。
だってもし、今井くんと川島先輩が出会ったことも、そこへ緋村さんが乱入してしまったことも神様が仕組んでたんだとしたら、神様も少女マンガみたいな物語を望んでたに違いない。
その神様がこの無茶苦茶なプロローグを止めさせてくれるはずもなく。
そう、もし神様に願うとしたらこうだ。
「あたしを巻き込まないで!」
しかもこれがただのプロローグでしかなくて、あたしみたいな善良な市民を巻き込んだ物語がスタートするなんて、思ってもみなかったから。
自分を守るには自分で頑張るしかない。
そんな簡単なことがなぜ分からなかったんだろう! 中学で学級委員を3年連続で押し付けられた時も、友達が誕生日にくれて大事にしていた傘をパクられた時も、可愛がっていた飼い犬のリリが死ぬ時も、世界はいつだって助けの手を差し延べてくれなかったっていうのに!
そして二日後、朝6時50分。
あたしは重い頭を無理やり叩き起こして体育館に向かった。もう、気が重くて仕方がない。
この時間なのに廊下に生徒が多いのは、きっと気のせいじゃないだろう。
大々的にメンバー募集をしたのが学校一のイケメンと名高い川島耕太先輩と、女子生徒にカリスマ的人気を誇る緋村琴音さんなのだ。注目を集めないわけがない。
いかに荒神高校が進学校と言えど所詮は高校生。お祭り大好き、イベント大好きであることに変わりはない。
がらり、と重い扉を開けると、早朝の体育館は、二人の決闘(?)を心待ちにする生徒で溢れかえっていた。
ふと、二階席の最前列に陣取る上級生の会話が耳に入ってきた。
「んで、何で川島は2年の緋村を敵に回したんだ?」
「さあ? 本人に聞いたけど、あいつもいまいち覚えてなかったみたいだぞ」
「まあ、仕方ないか。川島だからな」
「そうだな、川島だからな」
その会話で一気に脱力する。
やっぱり……もう勝負したいだけなんだよね、二人とも。もう今井くんのことなんてどうでもいいんだよね。合言葉は「川島だからな」――それだけで、先輩がどんな扱いを受けているか知れるというもの。
大きなため息をつきながら、バスケ部の有志によってすでに用意されたコートに向かっていると。
「ヒビキちゃーん!」
後ろから愛らしい声が追いかけてきた。
今回の騒動で一番不幸な、でも全くその不幸を感じていない少年が駆けてきた。
「おはよう! すごいねえ、ひぃちゃんも川島先輩も人気者だね! でも僕、ひぃちゃんに勝って欲しいなあ。川島先輩も嫌いじゃないけど、ひぃちゃんの方がもっと好きだもん」
「……おはよう」
思わず顔が引きつったのは、今井くんがさらりと緋村さんへの好意を示したからではなく、彼のパーカーのフードに溢れんばかりのお菓子が詰め込まれていたからだ。
キャンディー、ガムに、チョコレート。それどころか食べかけのお煎餅の袋まで入っている。
「今井くん、後ろ……帽子の中、すごい事になってるよ?」
「えっ?」
今井くんが慌てて後ろに手をやると、その反動でお菓子がばらばらと落ちた。
「わっ、うわっ!」
慌てて動く度にお菓子が体育館の床に散らばる。
もう一度ため息をついてから、一緒に拾い始めた。
「あのねー、たまにねー、フードにお菓子が入ってるんだあ。でも、こんなに多いのは初めてだよ!」
実は、荒神高校の生徒の間で、今井くんのフードにお菓子を入れるというゲームが流行っている。
今井くんがまったく気づかず、それどころか『天使の分け前』と言って喜んでいるため、その流行は全く収束を見せないのだが。
今日はまた一段とひどい……いや、今井くんが喜んでいるからむしろ豊作?
一生懸命拾っていると、上から大きな声が降ってきた。
「さあ、風見響子さん! 試合を始めるとしよう!」
あああ、そんな大きな声で、こんなたくさんのギャラリーの前で名前呼ばないでよ、先輩!
あたしはあなたと違って穏やかな高校生活を望んでいるんですぅ……。
などという心の声は届かない。だって先輩には声に出したって届かない。
なぜか空手着に身を包んだ緋村さんが完全に戦闘態勢で川島先輩に指をつきつける。手首に巻いた真っ赤なリストバンドがよく似合っている。
それだけでギャラリーから歓声が沸いた。
「手加減しねーぞ」
その言葉は、なぜか歓声に負けず、凛とこの空間に響いた。
緋村さんのチームはクラスメイトの葛葉くん(空手部員)と、桂くん(野球部のエースピッチャー)。葛葉くんは先日の新人戦で地区代表になったって噂だし、桂くんもスポーツ万能の高校球児だ。
どうやら緋村さんが強引に誘ったようで、葛葉くんは眠い目をこすっている。面倒くさがりな彼のことだ、そのうち『帰ろうぜ〜』なんて言い出すのは目に見えている。
しかも、桂くんの方だって夏の大会が近いんだから野球部の朝練習があるはずだが。
「望むところだ」
対する先輩も不敵な笑みで応える。
先輩のチームは二人とも見た事はない――いや、左隣で制服のままため息をついているのはついこの間までバスケ部のキャプテンをやっていた大井先輩だ。川島先輩ともそれなりにうまくやっていた名キャプテン。温和な性格で知られているのだが……無理やり引きずられてきたんだろう、可哀想に。
もう一人は後輩だろうか。ちゃんとバスケ部のユニフォームを着ているあたり、生真面目で先輩の頼みを断れなかったんだろうことは一目で分かる。
多くの人の犠牲の上にこの試合は成り立っているんだなあ……。
すると、あたしの元におそらく一年生と思われる坊主頭のバスケ部員が駆けてきて、ホイッスルを渡した。
何? これ、吹けって?
はやくはやく、と目でせかす一年坊主に押されて、大きく息を吸い込んだ。
――ピイイィィーーーーーっ!
開始の笛が鳴った。
こうして、もう理由も目的も分からなくなってしまった勝負が、スタートしたわけである。
ヴァイオレンス・バスケたるもののルールはいまいち分からないが、最初はジャンプボールと見せかけて……なんと、真ん中で緋村さんと先輩がじゃんけんを始めた。
えっ?! なんか名前の殺伐さと裏腹に微笑ましいんですけど?!
と、思ったのも束の間。
じゃんけんの勝負がついた瞬間、緋村さんが先輩に向かって上段蹴りを繰り出した。
すれすれでかわした川島先輩は、手にしたボールを背後にいた制服の大井先輩に向かって投げる。
と思った時には、すでに大井先輩の背後に回っていた葛葉くんが鋭い突きを繰り出していた。
「へっ?」
思わず間抜けな声が出た。
何これ?! いったい何が始まったの?!
会場のテンションは最高潮!
ヤジと歓声が飛び交っている。
「避けんな、コータぁ!」
「はっはっは、避けるぞっ! 当たると痛いからな!」
その間も緋村さんの攻撃は止まない――上段蹴りから後ろ回し蹴り、さらに連続足刀へのコンビネーション。
流石の川島先輩も防戦一方だ。
と、先ほどあたしに笛を渡したバスケ部の一年坊主がちょちょい、とその様子を指差す。
どうやら笛を吹け、と言いたげだ。
仕方がないのでとりあえず笛を鳴らす。
「ピイィ〜〜っ」
「赤、ヴァイオレンス。オーバーアタック!」
はっ?! もしや、今のは何かの反則?
慌てて隣の一年坊主に聞く。
「何、今の、反則なの?」
「ボールを持っていない人に攻撃を加えるのはオーバーアタックというヴァイオレンスです」
ヴァイオレンス、って『暴力』……そのままじゃねえかあぁ!
はっ、いかんいかん。思わず笛を床にたたきつけるところだった。
「ほら、すぐ! 笛!」
「ピィ〜〜」
「赤、ヴァイオレイション。 トラベリング!」
ん? ヴァイオレイション? は、『違反』……こっちもそのままかよっ!
紛らわしいわあああ!
第一、全員動きが速いしボールがあちこちぽんぽん飛び回っているせいで、スポーツなんて体育以外やったことのないあたしには、全く試合についていけない。
と、思った瞬間、葛葉くんの正拳突きがユニフォームを着たバスケ部2年の腹にヒットした。
手に持っていたボールはてんてんと床を転がる。
あっ、これさすがに殴ったんだから反則じゃない?
そう思って勝手に笛を吹く。
「ピィィ〜〜」
ところが、一年坊主の口から出たのはむしろ葛葉くんのポイントを告げるものだった。
「赤、正拳中段突き、技ありっ! 赤2ポイント!」
技ありぃっ?! 何だそれええ?!
すでにバスケじゃないよね。今の、バスケじゃないよね?!
攻撃がジャストヒットしたバスケ部員は床に崩れている。
その間に葛葉くんはボールを拾い上げて緋村さんにパスを回した。
「ちょ、えっ? 今の、いいの?!」
「当たり前じゃないですか。技の入り、タイミング、引き、気合い……完璧でしたよ!」
聞きたいのはそこじゃねええぇ!
つーかルール完全に把握してんなら、お前が笛を吹け!!
もう帰りたい。
目の前では制服の大井先輩と、ボールを持った桂くん(高校球児)の間で目にもとまらぬ攻防が繰り広げられている。
桂くんがボールを庇って防戦している間に、川島先輩が後ろからボールを奪う。
「ナイス・スティール! 川島っ!」
「川島先輩かっこいいーっ!」
観客から声援が飛び、ボールを持った先輩はそのまま余裕でシュートを決めた。
調子に乗った先輩は、ギャラリーの声援に応えてそのままウィニング・ラン。
腐っても(腐ってないけど)川島先輩は元エース、それに元キャプテン大井先輩、現役バスケ部員の3人が相手なのだから、純粋なバスケでは、緋村さんチームに勝ち目はないだろう。
さあ、どうする……って、なに乗せられてんの、あたし?!
いつしか鳴り物まで登場して、発熱する会場。
ああ、もうみんな好きにして……
「ピィ〜〜」
「上段回し蹴り、技ありっ!」
緋村さんの蹴りが、パスを受けた瞬間の大井先輩の頭に炸裂した。
「きゃああああ! 大井先輩―っ!」
「緋村先輩、がんばって〜!」
女子生徒から黄色い声援が飛ぶ。そして笛を吹くタイミングをつかんできたあたし。
しかし、緋村さんの蹴りを側頭部にもろに受けながらも、大井先輩は立ち上がった。
そのままシャツの袖をまくりあげ、きっちりと止めてあったボタンを2つほど外す。そして、軽く息を吐いてから体の調子を確かめるようにトントン、と軽くその場でステップした。そうして、ずいぶん身長差のある緋村さんを見下ろした。
緋村さんだって170cm以上はあるはずなのに……さすが大井先輩。2m近くあるんじゃないだろうか。そしてその頭部に蹴りを入れた緋村さんの身体能力は常軌を逸している。
つーか、大井先輩まで本気モード?!
あの川島先輩ともそれなりにうまくやっていたくらいに温厚な大井先輩が声を荒げた。
「板割ることしか能がない、空手部なんかに負けるかっ!」
「板なんか割ったことねーよ! いや、割れると思うけどな? ……ちっとは空手について勉強しやがれっ」
相手は先輩だというのに、緋村さんが口汚く応酬する。
ていうかあれ? 空手って板割るんじゃないの?
なんて素人大爆発の疑問には答えてくれるはずもなく、緋村さんと葛葉くんが順調にポイントを稼ぎ、一度もゴールを揺らすことなく先輩チームと競っている。
ある意味このヴァイオレンス・バスケというゲームは彼らにぴったりの勝負だったのかもしれない。
ところが、この試合で唯一得点に絡んでいない人物がいる。
「がんばれっ! 桂くん!」
ずっと隣で拳を握って応援していた今井くんの愛らしい声援が飛んだ。
そう、野球部員の桂くんは戦闘でも籠球でもまったく得点に絡めないでいたのだ。まあ、それは……仕方ないっちゃ仕方ないのだが。
とても女性と思えない身体能力を発揮している緋村さんをはじめとして、完璧なタイミングで攻撃を仕掛ける葛葉くん、それにバスケ部員3人の中に入ってしまっては、このルールで高校球児の活躍の場などない。
「ぴぃ〜〜。赤、ヴァイオレイション。インターフェア!」
鋭い一年坊主の声が飛ぶ……って、あたし笛吹いてないよ?! いま、自分でぴーって言ったでしょ、そこの一年坊主!
勝手に審判し始めた一年坊主の首にこっそり笛をかけておくと、彼は気づかずにそのまま笛を持ってコートを駆け回り始めた。
よし、これであたしがいなくなっても大丈夫……
「ヒビキちゃん、桂くん大丈夫かな……?」
こっそり逃げようと思ったのに!
逃げようとしたあたしの服の裾を、今井くんがしっかりと握っている。
そんなうるうるした瞳で見つめないで!
「桂くんだけまだ一点も……しかも、焦ってるみたい」
確かに彼は先ほどから反則を連発している。
きっと自分だけ役に立っていないという焦りからだ。
「赤、ヴァイオレンス。オーバーアタック!」
とうとう桂くんはボールを持たない川島先輩に攻撃を仕掛け、反則を取られてしまった。
「何だよ……あいつだけ足手まといじゃん」
「ゲームに水差すなっての」
観客の心ない陰口。
桂くんがぐっと唇をかみしめた時だった。
観客席から凄まじく大きな声が降ってきた。
「桂―――っ!」
会場にいた全員の視線が集中する。
そこには、顔を泥まみれにした野球少年の姿が――あたしの記憶が確かなら、あれは野球部の時期キャプテンと噂され、桂くんの女房役に当たるキャッチャーの相馬くんだ。
朝練習を途中で抜けてきたのか、大きく肩を揺らして息を整えている。
「なっ、相馬?!」
驚いた顔の桂くんに、相馬くんが何かを投げる。
遠くてよく見えないが、どうやらあれは……野球のボール?
「使え、桂っ! 野球部の底力、見せてやれ!!」
「相馬……」
ぱし、とボールを受け取った桂くんは、そのボールを大事そうに胸に抱え、そして唇を引き結んだ。
「うおっしゃあああ! 野球部なめんなああ!」
彼は気合い一閃、大きく振りかぶった。
か、桂くんの背後にマウンドが……甲子園が見えるっ?!
「甲子園に……」
エースピッチャーの投球。
「つれてってええええ!」
目測150km/h!
まっすぐに飛んだ剛速球は、ユニフォームを着たバスケ部2年の腹に鈍い音を立てて突き刺さった。
そのまま後ろ向きに吹っ飛ぶ姿を、会場の全員が声も出せずに見守っていた。
静まり返る体育館。
はっとしたあたしはとりあえず笛を吹いた。
「ピーーーッ」
あれっ?!
ちょっと待て、なぜに笛があたしの手元に戻っているんだ?!
と、思ったらいつの間にか隣に戻ってきていた一年坊主が叫んだ。
「赤、武器使用により退場!」
って、えええええ?!
ポイントじゃないの?!
「武器使用って一発退場なの?!」
しまった、突っ込みたかったのはそこじゃないのに!
「当たり前です。そうしないと、みんな火縄銃や火縄銃や火縄銃なんかを使いだして収拾つかなくなります」
「……それが野球のボールでもダメなの? ていうか火縄銃? これ、どこの国のスポーツ? ていうか本当にこれスポーツ?」
「例外は認めません」
ああ、そんな……ようやく桂くんが活躍の場を見出したっていうのに!
あっ、ちょっと待って、あたし感情移入しだしてる?! このハチャメチャな状況を呑みこみつつあるの? ああ、嫌だっ! それだけは嫌だ!
「桂くん……かっこよかったね」
ぽつり、と隣の今井くんが呟いて、にこりと笑った。
ああ、その笑顔だけでもきっと桂くんは救われると思うよ。
会場内を割れんばかりの拍手が渦巻いている。
桂くんの勇姿を湛えて。
その桂くんは、照れくさそうに観客席の相馬くんに向かって手を振ると、体育館を後にした。
その後、エースピッチャーの直球を食らったバスケ部員は戦闘不能で退場。
川島先輩・大井先輩の3年バスケ部チームと緋村さん・葛葉くんの2年空手部チームで勝敗を喫することとなった。
「時間ねーぞ、緋村っ」
最初は眠そうな顔をしてたくせに、いまや汗がきらきらと輝いて完全に青春真っ只中!の真剣な表情をした葛葉くんが緋村さんに檄を飛ばす。
緋村さんはそれを聞いてきゅっと眉を寄せる。
「分かってるさっ」
試合は先輩チームが一歩リード。
とはいえ、すぐにでもひっくりかえせる点差だ。
「一か八か、ゴール狙うぞ、葛葉!」
「おうよっ!」
阿吽の呼吸で同時にダッシュした緋村さんと葛葉くんは、それぞれ大井先輩と川島先輩に飛びかかっていった。
いつの間にかラブコメでなく青春スポーツマンガへと変貌を遂げていることに、あたしは突っ込みを入れる暇もなく。
目の前の試合は佳境を迎えていた。
「はっはっは! バスケ部に純粋なバスケで敵うと思うなよ、空手部!」
川島先輩があっさりとドリブルで葛葉くんを抜いていく。
「しまっ……!」
3対3だったというのに(今は既に2対2だけど)、コートはフルコート。
30分近く走り続けた葛葉くんの足は限界に来ていたようだ。
足をもつれさせて盛大に転んだ葛葉くんを振り向きもせず、川島先輩はゴールへと向かう。
先輩の手から放たれたボールは、音もなくリングを通り抜けた。お手本のようなシュートだ。
「……!」
残り時間が少ないこの状況で点差が開くのは絶望的だ。
緋村さんも荒い息を整えながら、床に転んだまま起き上がれないでいる葛葉くんの元へと向かった。
「大丈夫か?」
「……すまん、もう足が……」
どうやら葛葉くんも限界のようだ。立ち上がることすらままならない。
「ありがとな、葛葉。お前はここで待ってろ」
「どうする気だ? 緋村」
緋村さんが葛葉くんの耳元で何かを囁くと、葛葉くんの表情がぱっと輝いた。
「まじで?! それ面白いぜ?! ってか、俺キルアじゃん!! やったー!」
へ? キルア? あれですか? 休載が売りの某連載漫画の?
あー、そろそろ続き読みたいです。
ってそんなことはどうでもよくて。
「よし、任せろ、緋村ぁー!」
「おうっ、頼むぜ!」
コート外からのスローイン。
思いきり投げたボールは、コートの中央あたりに座り込んだ葛葉くんに届いた。
ボールを受け取り、高く掲げた葛葉くん。そして、すぐに中央まで走り、葛葉くんの前で腰を落とし構えた緋村さん。なんだか引いた拳に気を集中させているように見える。
もしや、アレですか?! ドッジボールの試合で某漫画の主人公と親友の暗殺者くんがやってたアレですか?!
「そんな思いつきの技が通用するとでも思うのか!」
「やってみなきゃ」
緋村さんがカッと目を開く。
ボールを頭上に掲げそれを待ち受ける葛葉くん。
でもさ、せっかくボール持ってるんだからバスケらしく普通に投げようよ……なんてあたしの声は誰にも届かない。
「わかんねーだろっ!」
繰り出された正拳突きが正確にボールの真芯を捕えた。
凄まじい勢いで飛んだボールはそのままバックボードに激突し、そして、その反動で大きな音を立ててゴールリングを通り抜けた。
「ピイィーーーっ」
文句無しの得点。
そして、両チームの点差は1点だ。
残り時間はとっくに1分を切っている。
しかし、何とここへきて、先輩チームに焦りが出てしまった。
何と大井先輩が痛恨のパスミス!
ボールの所有は緋村さんチームへ。
もちろん彼女はすぐにそのボールを葛葉くんへ。
これが入れば逆転だ。
「次はオリジナルな!」
そう言って緋村さんは助走をつけて飛び上がった。
まさか今度はボールを蹴る気?!
「させるかあっ!」
ところがなんと、大井先輩が葛葉くんにタックルをかました!
笛を吹こうかと構えたが、そう言えばボールを持ってる人への攻撃は反則じゃないんだった。ああ、ここへきてアグレッシブだなぁ、大井先輩。
ボールを持つ葛葉くんの体が衝撃で倒れる。
何とか体勢を立て直したものの、予想外の攻撃に、ボールの位置がずれている。
すでに蹴る体勢に入っていた緋村さんは、葛葉くんだけは当たらないようにと無理やり蹴りの軌道を修正した。
体勢を崩しながらもなんとかボールに蹴りのインパクトを持ってきたが――
「しまった!」
ボールはと言うと、狙いよりも低く飛んだがためにゴールとのライン上で待ち構える川島先輩のもとへまっすぐ飛んだ。
「川島、避けろ!」
大井先輩の声もむなしく。
制御を失ったボールは、先輩の顔面にめり込んでしまった!
「ばちぃん!」
あっちゃあ、綺麗な顔が台無し……じゃなくて、すごい音したけど大丈夫?
顔面でボールを受け止めた川島先輩は衝撃を止めきれず、そのまま後ろに大きく仰け反った。
観客席から悲鳴が上がる。
緋村さんは大きく目を見開いた。
「っ!!」
残り時間は数秒。
もう勝負は決まったものと、そこにいた全員が思った。
ところが。
「がんばれ、ひぃちゃん!」
今井くんの声が響き渡った。
彼はあきらめていなかった。彼だけは、時間いっぱいでもまだ希望を捨てていなかった。
ひぃちゃんに勝って欲しいな――試合前にそう言った彼の必死の叫びは、きっと彼女の心に届くはずだ。
「シュン……」
会場の割れんばかりの声援と悲鳴を越えて。緋村さんの唇がそう動いたように見えた。
その瞬間、緋村さんの瞳に闘志の炎が戻ってくる。
「まだ終わってねえ!」
川島先輩の顔の上に乗っている状態のボールを見据え、大地を蹴った。
「ひぃちゃんっ!」
緋村さんは、最後に今井くんを見てにこりと微笑んだ。
一瞬なのに瞼の裏に焼きつくくらい、魅力的な微笑みだった。
「くらえっ、必殺……」
まるで羽根でも生えているかのように、緋村さんは軽く宙を舞った。
そのまま体を捻って先輩の顔の上のボールに狙いを定める。
「ウィリアム・テルっ!」
息子の頭の上の林檎だけを射抜いたかの有名なウィリアム・テルのように、先輩には全く触れずにボールだけを正確に蹴り飛ばした緋村さんは、その反動で背中から床に落下した。
ボールは真っ直ぐにゴールへ飛んだ。
ががん!
凄まじい音がしてボールはバックボードに激突する。
そのままリングとの間で跳ねまわる。
会場中がそのボールの行方を目で追っていた。
少しずつ、少しずつボールの動きは収まっていく。
そして。
ボールがリングを通り抜けたその瞬間。
あたしは、思いっきり、笛を吹いた。
――ピイイィィーーーーーっ!
その音は体育館中に響いて、まるで一瞬だけ時が止まったかのような静けさがその場を支配した。
響くのはボールが床を転がる音だけ……
「よっしゃああああ!」
緋村さんの雄叫びが上がる。
「わーい! ひぃちゃん、おめでとう!!」
嬉しそうにぴょんぴょんと飛び跳ねる今井くんは、きっと勝利の女神(?)だ。
またフードからチョコレートが飛び出しているけれど、今は教えないでいてあげよう。
すべてが終わった……と思ったあたしたちの耳に、現実の鐘の音が響き渡る。
そう、予鈴だ。
だって今日は――
「しまったああああ! テストがああぁぁ!」
その川島先輩の雄叫びで、体育館内は騒然となった。
慌てて教室へ向かう者、焦りすぎて二階席から落下する生徒、そして動転したのかおもむろにモップがけを始める生真面目なバスケ部員。
それでもなぜか全員がテストに間に合うよう席に着いたのは、奇跡としか言いようがないだろう。
テストの結果がどうだったかは別として。
「はあぁ〜、疲れたっ」
どうにか3日間にわたるテストを終え、あたしの後ろの席でぐったりと机に突っ伏したのは、あの対決以来さらにファンを増加させている緋村さん。
今も教室の外では下級生の女の子がちらちらとこちらを窺ってたりする。
そして、あたしに向けられる視線はちくちくと痛い……もしや、上履きがなくなるのは時間の問題か?
「……お疲れさま」
苦笑いで返すと、緋村さんもちょっと眉を歪めた。
「なあ、ヒビキ。結局あいつ、なんだったんだ?」
あいつ=川島先輩。
「うーん、それは……」
口ごもった瞬間、どどど、と大きな足音がして、教室の扉がばたん! と開いた。
嫌な予感。
恐る恐る振り向くと、そこにはあたしのスケッチブックの大半を占める顔があった。
鼻の頭に絆創膏をはっているのは、3日前の試合で顔面にボールを受けたせいだろう。まあ、そんなものきっと川島先輩にかかれば『俺の美貌を損ねる理由になりはしない』のだろうが。
その先輩は颯爽と教室に入ってくると、机にぐったりと突っ伏している緋村さんにびしりと指を突き付けた。
「今回は負けたが次は負けんぞ! 緋村あああ!」
あれ、先輩はその名前をどこで覚えたんだろう?
そして、つかつかと今井くんに歩み寄り、どこから取り出したのか小さな赤の髪留めをぱちん、と彼の柔らかそうな髪に留めた。
「そしてシュンちゃんに誕生日プレゼントだ」
「あ、ありがとう先輩!」
うわあ、可愛い笑顔向けちゃってるよ。っていうかそのヘアピン可愛いんだけど。もうなんか女の子にしか見えないんだけど。
っていうか、クラスの誰か突っ込めよ。
と思って周囲を見渡したが、誰も関わりたくないんだろう。もしくは面白がってわざと教えないでいるのか……みな遠くから見守るだけだ。
「でもね先輩、僕の誕生日は……」
その瞬間、絶対零度、ツンドラ気候の空気を纏った緋村さんがその間に飛び込んだ。
「シュンは渡さんっ! お前、勝負に負けたくせに往生際がわりーぞ!」
「誰が一回勝負だと言った! 次は駅伝で勝負だ!」
「なにぃーっ?! ただの駅伝じゃ面白くないから、フラッシュ計算駅伝にしようぜ!」
「この俺に算数で挑もうとは笑止千万! 返り討ちにしてくれるわあ!」
「お前らは小学生か」
ぼそりと呟いたが、やっぱり誰の耳にも届かない。
あたしの声を聞いてくれる人は、この先現れてくれるんだろうか。
はあ、と大きなため息をつくと、つんつん、と肘のあたりが引っ張られた。
振り向けば、そこには泣きそうな顔をした今井くん。
「……ね、ひぃちゃんと川島先輩、なんでまた喧嘩するの?」
それはね、君を取り合っているんだよ……相変わらず口には出せず、心の中で飲み込んでしまった。
「お前にシュンの何が分かる?!」
「無論、何でも!」
「じゃあシュンの親父の名前は?」
「健太郎っ!」
「はずれ!」
「では健二だな?!」
「違う!」
「健三郎っ!」
「それも違う」
「健四郎!」
「どんだけ『健』好きなんだっ。正解は『耕太』でしたっ! 耕作の耕に、太郎の太っ」
その瞬間、先輩の額に青筋が浮かぶ。
「その名を呼ぶなああ!」
ホント仲いいよね、この二人。だからお前たちが付き合えばいい(シンドリーちゃん風)。
またもめちゃくちゃな言い争いを始めてしまった二人を見ながら、今井くんに尋ねてみる。
「ちなみに今井くんのお父さん、本当は何て言うの?」
「健太だよ」
うっ、ニアミス?!
「でもさ、二人とも、またあんな風に戦ったりするのかなあ」
終わる事のない言い争いを見てため息をついた今井くんの為に、「この争いをやめる」という選択肢はあの二人にないのだろうか。
が、今井くんはにこりと笑って、言った。
「うん、でもひぃちゃんは負けないよね。だってすっごく強いもん!」
そんな今井くんの笑顔は、あの最後の瞬間に見た緋村さんの笑顔とダブって見えた。
お互いを信じる事が出来る、それこそが幼馴染のポテンシャルなんだろう。
可愛い今井くんと、カッコいい緋村さん。
きっと二人はこれでバランスがとれているに違いない。
そう思ったら、知らず、笑みがこぼれていた。
次のモチーフは、あの時の彼女の笑顔にしよう。
うん、きっとそれがいい。
そして、今井くんのスケッチの隣に飾るとしよう。
窓の外には、あたしたちの物語を飾るのに相応しい、最高の青空が広がっていた。