今と昔と、過去と未来と
暑い……。
ゲーム画面から目を離し窓の外を見る。雲ひとつない青い空だ。まったく、勘弁してほしいぜ、この部屋にエアコンなんていう、名前も知らない人が開発した便利道具はない。扇風機のみで夏をすでに二度耐えて過ごしていることで自分を励ましてみるが、一度感じた暑さはなかなか意識から離れてくれない。ほんとマジでやめろください。
画面に目を戻す。 画面の中では俺の命令で俺と同じ名前、七瀬というキャラクターが敵に向かって攻撃する。べ、別にいいでしょ、自分の名前使っても。ネトゲじゃないし…。
敵は灰となって消えていった。楽しいことには楽しいけど、作業だ。自分の中にある虚無感を埋めるための作業。
横には読み終わった本。本を読み終わった後の一抹の寂しさというか、何ともいえない虚無感をいつも感じる。そういう時には誰でもいいから会話をしたいと思うことがある。というかそういう時しか人と話したいとは思わない。人と会話することで、自分の中の穴みたいなものを埋めれる気がするのだ。
しかし、大学に来ても俺にそんな存在ができることはなかった。嘘。一人いる。昔から交友のあるやつが一人。けど、そいつに、今ちょっと物寂しいから会って話さない?なんてことは死んでも言いたくない。だって癪だし、あほらしいし何よりちょー恥ずかしい。
「にしても、ほんと暑いなあ…」
一人ぼやく。それは多分今考えたことを払拭するためだ、と思う。そう認識した瞬間、顔が熱くなってしまう。ああ、暑い暑い。勘違いだから、それは。そう自分に言い聞かせ、再び画面に集中する。いまやっているのはアクションゲーム。アクション系のゲームはいい。一つひとつの操作に集中する必要があり、思考のリソースすべて埋め尽くせるからだ。これが戦略系だとこうはいかない。考えながらしていると思考の隙間に余計なことが入ってしまう。
今日は夕方からバイトのシフトが入っている。
親から仕送りがない俺は、この夏休みほぼバイトで埋めるつもりだったが、最近働き詰めで店長から少し休めとの出勤禁止命令を受けてしまい、それが今日の夕方までなのだ。
別にバイトが好きなわけではない。むしろ仕事なんて大嫌いだ。しかし、いかんせん金が足りん。だから、仕方がなくいっぱい働いているのだ。仕方がなく。やだ、なにこれ、おニューのツンデレ?……べ、別に仕事なんて好きじゃないんだからね!いや、ほんとにマジで。
さっきから全然集中できてないなあ、と思いながらバイトの時間までやりこむぞーと心に決めた時、部屋のどこからか着信音が聞こえてきた。
おかしい……。俺は部活にもサークルにも入っていない。大学にも友達なんて呼べる人はいない。バイトからも電話がかかってくるような用事はないはず。しかし、実際に着たのだから出なければならない。
ぬおぉぉ…、と手を伸ばしなんとかスマホをとる。画面を見ると、着信なし……なんてことはなく、ちゃんと着信はあるのだが、知らない番号だ。一瞬出ようか迷ったが、間違い電話ならちゃんと間違いを教えないとまたかかってくるかもしれない。そう考え、出てみる。
「もしもし?」
「………久しぶりだな、七瀬」
親父だ。すぐにわかった。しかし、俺の番号を教えた覚えはない。いや、母さんが教えていてもおかしくはないか。
落ち着いた思考とは反対に、出てきた声は動揺していた。
「は?親父?何で……」
「わかってる。でも、今は落ち着いて聞いてくれ」
何をわかっているのだろうかと聞きたい気持ちに駆られたが、久しぶりに聞く声は、いつにもまして真剣みがあった。いろいろ言いたいことがありすぎて逆に話したくないが、今は、今だけは黙って聴くことにした。多分、本当に大事なことだと思うから。
小さく息を吐き、聞き逃さないように、親父の声に耳を傾ける。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・母さんが、死んだよ」
息が止まるような気がした。とても長い沈黙の後に伝えられた事実は、とてもじゃないがすぐに飲み込めず、受け入れることのできないことだった。
その死は、いつか、そう遠くないうちに訪れてしまうことだとわかっていたのに。
自分の中の穴が広がった気がした。
窓の外に見えた空は、相変わらず、雲ひとつなく晴れていた。
***
これは遠い昔。
といっても昔話ではない。俺の深いところに埋まっていた記憶だ。どれくらい前のことだろうか。たぶん十年ぐらい前の話だと思う。
そこは、どこだろうか。実家?公園?それとも、病院?そう、たしか病院だ。母さんはとても病弱だった。だから、これは母さんが入院している時に幼馴染のやつとお見舞いに行った時のことだと思う。
目の前には母さんの笑顔。そうだ、母さんはいつも笑顔を絶やさなかった。いつもニコニコ、まるで、というか太陽そのもの、なんじゃないかと錯覚したことがあったぐらいだ。
笑顔だけではなく、顔自体も一般的に見てかなり綺麗だったと思う。事実、クラスメイト(友達ではない)が羨ましいといっているのを聞いたことがある。まあ、それが要因でシャーペンをゴミ箱に捨てられたのは別の話であるけれども……。
『――――――――――――』俺の幼い声が聞こえる。内容は聞き取れない。
『――――――――――』
母さんが笑顔で応えている。何て言ったのだろう、思い出せない。でも、俺も母さんもとても幸せそうだ。
『――――――――――――――――――――――』
俺の横であいつが楽しそうに笑いながらしゃべる。それを聞いて、俺は照れくさそうに顔を背け、それでもまんざらでもなさそうな感じがして、母さんは相変わらず笑顔で頷いている。
ほんとに何の話をしているのだろう。まあ、それは追々思い出せばいいか。
幸せそうだ。ほんとに。こんなこと意味ないけれど、もし、もしも過去に戻れるとしたら、俺が選ぶのは必ずこの頃だろう。この頃はよかった、今に比べて毎日をただのほほんと暮らしていた。あの頃が、今の俺から見るととても眩しい。
どうして人は大人になるのだろうか。周りの環境を変えられなければならないのだろうか。その意味、意義を俺はまだ知らない。
***
母さんは今朝方、持病が急に悪化してそのまま逝ってしまったそうだ。
それから法事や葬式の予定を伝えられ一方的に切られてしまった。
もちろん実家に帰る、二年と四ヶ月ちょっとぶりに。いろいろ思うところもあるっちゃあるが、そんなことに構って入られん。葬式もさっさと終わらせるそうで今日中に帰ってこい、とのことだ。
大学とかバイトの店長に休む旨を伝え、帰省の準備を始める。といってもリュックに着替えを詰め込むくらいだ。あとは、スマホの充電器か。
準備を終え、家を出る。鍵はちゃんとかけた筈だ、たぶん。
歩きながら実家のある町への電車の便を調べる。幸い二十分後くらいに一本ある。これを逃してしまうと次は一時間以上もあとだ。別に急いで帰ることもないのだが、少しでも早く母さんの顔が見たい、そんなことを柄にもなく思っているからだ。
穏やかな顔で眠りについたのだろう、とてもとても長い眠りに。穏やかな顔で、というのは、最後に会ったときから母さんは変わっていないでくれという無意識の願いかもしれない。
でも、わかる。確信できる。まあ、会っていないといってもたまに連絡は取っていたのだが、母さんと弟だけと。
そんなことを考えていたとき、
「ナナくーん」
大きな声で俺を呼び、手を振りながら近づいてくるのは幼馴染の遠野彩音だ。まったく、元気なのはとてもいいことなのだが、近所迷惑は駄目だよ?
「珍しいね?どこ行くの?」
失敬な、と思うがしょうがないかもしれない。俺は基本用事がないと出かけない。そしてこいつは俺の受ける講義からバイトのシフトまで知っている。いや、ちょっと待て、何で知ってんだ?……まあ、いいか。今は、今のところは。
それにしても忘れていた。何で俺はまず彩音に母さんのことを伝えなかった?彩音は母さんをとても慕っていた、家族のように。
俺の沈黙に、彩音は不思議そうに首をかしげた。
ここで言うべきだろう。もし俺が言わなくても、そう遠くないうちに誰かから告げられるだろう。
どんな顔をするだろうか、どんな顔をされても見たくないけれど。
したたかな決心をして、小さく深呼吸をして、早口に告げた。
「母さんが死んだってよ。法事とか葬式あるから実家に帰る」
ポカンと、何を言っているのかわからないという顔をした後、ようやく言葉の意味がわかったようで、泣きそうな顔になる。でも、涙は流さない。いや、違う。本当なら人目も憚らず泣きたい筈だ。それをぐっと堪えている。昔は結構な泣き虫だった彩音の俺が知らなかった変化だったのかもしれない。
母さんの病弱さと持病は彩音も知っている。いつかこんな日が来るとはわかっていたのだろう。
ああ、見たくない。彩音のこんな顔は見たくなかった。思わず顔を背けてしまった。
「行っていい……?」
泣きそうな声で尋ねてくる。俺はゆっくりと、極力優しく答えようとこころがけた。
「……ああ」
断る理由がない、というかそのほうが母さんも喜ぶだろう。
腕時計を見る。たしかこれも母さんが大学合格祝いの一つとして買ってくれたんだっけか。大事な形見だ。
分針は家を発った時からもう十分も進んでいる。歩いていってもぎりぎり間に合うかもしれないが、一緒に帰るのだ。一本遅らそう。そう決めて、彩音に向き直る。
「一本遅らせるから準備して来い。駅でまってっから」
彩音は答えない。
早々に立ち去りたい気持ちに駆られる。これ以上かけてやれる言葉が思いつかない。無力な自分を嫌いになりそうだ、別に俺が悪いわけでもないのに。こいつは昔に比べ強くなった。なのに、俺の弱さは昔となんら変わっちゃいなかった。惨めだ。惨め過ぎるじゃないか。
駄目だ、こんなことを考えていては。
自傷的な思考を捨て、何とか言葉を紡いだ。
「じゃあ、先行ってるから。」
言って背を向け歩き出そうとした時、そんなこと許さないかのように、指を、掴まれた。顔だけ振り返ると、俯いたまま何も言わない彩音がいる。こういう時はだいたい決まっている。伊達に何年も付き合っちゃいない。
「はあ、わかったよ。行きゃあいいんだろ」
仕方がねえなあ、こいつは、という感じを全面に出したため息をつきながら言ってやる。
「……ごめん。ありがと」
「別に、お前が帰る途中で大泣きしたら後々俺も困るからな」
…俺も俺で仕方がねえなあこいつはと思う。素直じゃないね、ほんと。
「あはは、そうだね。うん、でも、ありがと」
なんだこれ。なんかすげえ照れくさいんだけど。むずむずする……。
「早く行こうぜ、次のに乗り遅れたらかなわん」
「うん。」
そう言って二人で並んで歩き出す。相変わらず指は掴まれたままだ。その手をこちらから掴んでやると、驚いたような、それでいてどこか嬉しそうな顔で見てきた。
他意はない。ただ、なんとなくこんな時ぐらいはのってやってもいいと思っただけだ。そんなツンデレ気味の旨を言葉なしに伝えてみる。
ふふっと彩音が笑った。よかった。
でも、ちゃんとわかってんのかね、こいつは。わかってないんだろうなあ。まあいいか。
ここで注釈しておくが、俺と彼女、彩音はいわゆる恋仲ではない。それでも昔からよく構ってきたものだから勘違いされ、ちゃかされた。昔そんな話があったりなかったりしたが、もう忘れてしまった。とにかく、俺と彼女はそういう関係ではないのだと自らに言い聞かせる。
そんな修行僧のような思考をよそに、すれ違う奥様方があったか~い目で見てきやがりくださる。なんなの?あったかいんだから~とでも歌いだしちゃうんですか?
恥ずか死ぬ!やめて、そんな目で見ないで!という意図を含んだ講義の視線をぶつけてみるが、まったくもって気づいてくれやしない。うむ、攻撃力を下がらせるには失敗したようだ。おかげでさっきからSAN値がガンガン削られてますどうも。
一方彩音のほうはというと、こんにちわーとさっきから普通に挨拶していた。
やだなにこれ、俺が勝手に自分ひとり恥ずかしがってんじゃないですか。マジか、恥ずかしさ倍増でほんとに死んじゃいそうだよ。何かの陰謀?チョコレート会社はないな。いや、その可能性も微レ存か?
どうでもいい思考と無心になることを繰り返しながら、炎天下の中懸命に足を動かし続けた。残念ながら八月だけど十五日ではない。赤目にはなりませんすいません。
並んで歩き始め十〇分ぐらいでやっと彩音の住むアパートまで来た。やっと。
暑すぎるでしょ。なんで世のリア充たちはこんな中でも普通に外出できるのかなあ。
夏は暑すぎて家にいるのが最善だし、冬は逆に寒すぎて外出なんて論外。じゃあ春秋はというと、ちょうどいい気温で家の中がさらに快適になるから外に出ようなんて気分になるはずがない。つまり家は最高かつ最強。アイラブマイホーム
いくら俺が家好きだといっても、幼馴染だといっても、プライベートな空間なわけだし、図々しく入れない。そうはいっても、こんな炎天下の中彩音が準備している間耐えられるだろうか、いや耐えられるわけがない!(反語)
「あの、玄関まで入っていいか?くそ暑いし」
「最初から外で待たせる気はないよ。わたしを何だと思ってんのよ…」
何って…何だろ?一応女子だということは認識してるけど。
「そうですか。…んじゃ、おじゃまします。」
入るといい香りがした。あれだ、下駄箱から南国の香りがするとか、とてもあっつい全国的に有名な人がやってるCMのあれだ。
「はいはーい、上がって上がって」
「いや、それはその、遠慮しとく」
「……なんで?」
こらこら、上目遣いはやめなさい。落ちちゃうでしょうが。何にだよ。
「その、ほら、準備すんのに邪魔だろ?それにいろいろ見えちゃうかもしれないし」
「……別に気にしなくていいのに」
おいこら、小声で言ってもこの距離だから聞こえてるんですよ?僕、難聴系じゃないんですよ?
「じゃあ、ちょっと待ってて。お茶くらいは出すよ」
と中に入っていった。
ふうぅ……。思わず深く息を吐き出した。無意識に気まずさを感じていたのかもしれない。もしくは、やっぱり母さんのことでいっぱいいっぱいになっているのかもしれない。そんなことを今更ながら気づかされた。
ほっと一息ついていると、すっと目の前にお茶を差し出された。
「はい、どうぞ」
「お、おう、サンキュ」
渡され、くいっと一口で飲み干す。ぷはーっ、うめえ!酔ってきた。嘘。
コップを返そうと、彩音を見ると、ぼーっとこちらを見てきている。
「……何だよ。」
「えっ?…ああ、えっと、何考えてたのかなあって」
「んや、別に、なんも考えちゃいねえよ。暑さに頭やられてるからな」
「……そっか。」
「早く準備して来い、先行っちまうぞ」
言うと、はいはい、と再び中に入っていった。
顔に出てしまっていたのだろう、情けないなと思う。
それから十分程して、準備が完了したようで(予想ではもっとかかるものだと思っていた)駅に向かって出発した。
外は、さっきより幾分か涼しく感じた。
***
俺が二年以上も実家に帰らなかったのは、親父と仲たがいしたからだ。原因は俺が親父の、漁師の跡継ぎを拒否して大学に行くと言ったことだ。
『大学行きたいんだけど、金大丈夫?』
俺が聞くと、
『はあ?俺の跡継ぎはどうすんだよ』親父は馬鹿を見るような目で見てきた。でも、こればっかりは譲れない。
『いや、だから昔から継がないって言ってるじゃないですか』
皮肉気味に言うと親父は激怒して、
『大学なんて行かせないぞ!うちにいて大人しく漁師やっとけ!』
うるさかった。酒は百薬の長というが、そんなに元気なら飲む必要ねえだろと思った。
『なんのために必死こいて勉強してきたと思ってんだよ……』
『まあまあ、いいじゃないの。七瀬がしたいことをさせてあげれば』
母さんが親父を説得しようとしたが、酒が回っている親父はいつも以上に物分りが悪く、認めん、認めんぞ!と断固して許すことはなかった。絵に描いた頑固親父だった。
母さんがバックアップしてくれたおかげでなんとか大学に入ることはできた。奨学金使って。その後、彩音にそのことを伝えると偶然同じ大学と聞いたとき、驚いて数秒固まってしまったのはまた別の話であるが。
***
電車が来るには三十分くらいの待ち時間があったが、幸い駅内には扇風機が設置してあり、それで暑さを凌いだ。
電車の中では互いにほとんど無言だった。
彼女はちょくちょく実家には帰っていたみたいだが、それでも今回の帰省に思うところがあるのは当然だろう。それはまた俺も然り。
約二年半ぶりだ。この二年という月日で何が生み出され、何を失ったのかはまだわからない。でもやっぱり大きいと思う。後悔していないと言えば嘘になる。結果的に母さんは亡くなってしまったのだから、一度でも帰ればよかった、否、そうするべきだった。
過ぎてしまったことだ、仕方がない。何と言っても無駄なことだ。
それから、疲れていたのだろうか、眠ってしまった。
「起きて、もう着くよ」
彩音の声で目を覚まし、窓を見る。当たり前といっては当たり前かもしれないが、見える限りでは我が故郷はほとんど変わっちゃいなかった。田畑があり、その向こうには海が見える。
「……帰ってきた」
思わずそう呟いた。いろいろな感情を含んだ呟きだ。後悔や喜び、不安とか懐かしさとかその他大勢。
リュックを背負って、下車する。
切符を駅員さんに渡すとき聞こえた、おかえり、という声は気のせいだったのだろうか。
駅を出て、喉がかわいていたためジュースを買い、迎えの車を探した。電車に乗る前にあらかじめ親父に(仕方なく)連絡しておいたのだ。駐車場には停まっていないからまだ来ていないのだろ。あんまりというか、会いたくないけど暑いから早くきてほしいなあ、なんて思いながら待っていた。
結果的にそれほど待たずにはすんだ。「あ、来たよ!」という彩音の指差す方を見れば、なんとなんと知らない車だ。何言ってんだこいつはと思ったが、その車はこちらに近づいてきて、目の前で停まった。マジかよ、車変えたのかよ。母さんからもそんなことは聞いていない。サプライズのつもりだったのかな?すげえびっくりだよ、でも母さん、死んだら元も子もないでしょ!
俺が知らなくて、幼馴染である彩音が知っているのが少し可笑しかった。
「早く乗りなさい」と親父が助手席の窓を開けて言ってきた。
歩いていくから、なんて今更言えないし、そもそも歩いて帰れる距離ならわざわざ親父を召喚しない。そんな俺のためらいを知ってか知らずか、彩音が先行して車に乗る。それに続いて俺も乗る。
発進した直後、
「久しぶりだな、元気にしてたか」
驚かざるおえなかった、あの頑固者が、と。
「…ああ、まあ、そこそこ」
驚きのあまりこんな言葉しか返せなかった。いや、普通か。うん、普通だ。
その後はこれといった会話は無かったが、始終居心地の悪さは否めなかった。彩音というと、なんか機嫌良さげだったんだけど、普通逆じゃない?普通。
さて、電車からは変わっているようには見えなかったが、なにかしらの変化がないものかときょろきょろと注意深く探してみる。
以前はそこにあったはずの商店がつぶれていたり、住居の数も気持ち少なくなっている感じがする。……Oh、我が故郷よ、順調に衰退しているじゃないですか。全国的に地方高齢化が進んでいるとよく聞くが、ここも例外ではないらしい。俺はそんなに地元愛があるわけではないが、一応家族も住んでいるわけだから気にはなってしまうのだ。
「なんか、ちょっと廃れたか?」
「お前が帰ってこない間にな」
「なな君が帰ってこない間にね」
俺が皮肉交じりにつぶやくと、それ以上の皮肉が返ってきた。
やめてよ二人とも、なんか怖いよ。
二人の物言いに俺が、うっと言葉に詰まると笑われた。それにしても、やっぱり親父がどことなく変わっている。角がとれたみたいな。川で流されたのかな?
それからは彩音があそこにあれこれができて、どこそこの人がやっと結婚できたんだよ、といろいろ話してくれた。俺はふ~んとかほーとかへーとか適当に相槌を打ちながら聞いていた。
「知ってるよね?八宮君、私たちと同じ高校に行ったこと」
「ああ、まあな。母さんから聞いたよ」
そうだ、弟の馬鹿宮もとい八宮は俺たちと同じ進学校に入ったのだ。何を思ったのだろうか、昔は、俺と違って親父の後を継ぐとかなんとか言っていた筈なのに。俺が言えたことじゃないがどういう心境の変化なのか聞いてみよう。
「かなり頑張ってたみたいだよ」
「だろうな。じゃなきゃ、受験人数があいつ一人とかじゃないと無理だろ」
あいの心境の変化はともかくとして、よく親父が許したものだ。
「八宮のこと、よく許したな。どういう心境の変化だ?」
「……弟子にしてほしいってやつが来てな。だから、あいつもお前と同じように好きにさしてやろうと思っただけだ」
……弟子、だと…?マジか、そいつすげえ物好きだな。冗談はともかく、間があったのは、やっぱり、あいつこそはと思っていたのだろう。少し申し訳ないと思う気持ちがないでもない。でも、後悔はしていない。
車で駅から二十分ほど走ってようやく着いた。彩音は一旦家に帰ってまた戻ってくるということで、親父が送っていった。といっても車で走れば三十秒ほどなんだけどね。
引き戸の前に立ち、深呼吸して開けようとしたとき、
「おっそい!」
手をかけかけていた戸があちらから開けられ、妹の十華が出てきた。びっくりした…うちに戸を開ける専門の幽霊でも住み着いてるのかと思ったぜ。それ何カン?
「はあ、ただいま」
「おかえり!」歓迎の言葉とともに腹パンされた。歓迎してねえだろこれ。
中学生の腹パンだ、全然痛くはないが、心が痛い。
「おかえり~」と、十華の後ろからだるそうな八宮の声がした。
「おう、ただいま」
普通だ、とても。まあ、こいつらも俺と親父のことを理解していたのだろう。面倒ごとが減って結構だ。
「……母さんは?」
「畳の部屋で寝てるよ」
八宮が答えた。俺は、そうか、と言って玄関を上がり、母さんのいる和室に行く。
極力静かに戸を引いて入る。横に座り顔をのぞく。
「母さん、ただいま。……ごめんな、帰ってこなくて」
きれいな顔だ。少し、やっぱり笑っている気がする。死んでまで笑ってたら怖いよ。まったく。
目頭が熱くなるのを感じ、涙がこみ上げてきたが堪えた。母さんが笑っているのだ、俺も笑っていよう。そういえば、俺は母さんの顔の眉間に皺がよっているのをほとんど見たことがない。怒っているのを見たことがない。親父が頑固者で、反抗すればすぐに怒り出すような性格だったからか、それとも、もとから怒らない性格だったのか。まさに聖人と呼ぶにふさわしいような人だ。でも、なんかこう、すべてを愛すような感じだったから、そこらの聖人よりよっぽど神々しい。
そんな人が親であることがとても誇らしいと思う反面、そんな人からなんでこんな子供ができてしまうのだろうと不思議に思う。あ、中和されたのか、親父のあれな性格とで。そうかもしれない、そうに違いない。恨むぞ親父。
そろそろ戻るかと立ち上がろうとした時、いい忘れていたことがあるのを思い出す。
「俺、検事になることにしたわ。……見守っといてくださいな。みんなのことも」
立ち上がり、部屋を出て戸を閉めた時に見えた母さんの顔は、やっぱり微笑んでいた。
不安だったが俺の部屋はちゃんと残されており、定期的に掃除もされていたようだ。マジ感謝。六道という仏教の教えがあるが、母さんそのまま仏に行っちまうだろ絶対。
自分の部屋に入り、リュックをベッドに放り投げる。そのまま体もダイブした。
ふうぅ……疲れた。でも、眠いというわけではない。いろんなことが頭の中をぐるぐるしてて眠気が襲ってくる隙がない。
仰向きのままずっとボーっとしていた。
***
目を開けると天井がある。もちろん知っている天井だ。決して異世界には来ていない。
眠気は襲ってこないと思っていたが、いつの間にか眠っていたようだ。どれくらい寝ていたのだろうと体を起こして壁にかけてある時計を見る。
そして気づく、おかしい。実家に着いたのが二時か三時くらいだったはずだ。しかし、時計の短針が指しているのは八の数字。周りは明るいことから夜ではない、というか今日は法事のはずだから誰かが起しに来ないとおかしい。もしかして、ドッキリ?と思った時、昔使っていた勉強机が目に入った。机の上に並んでいたのは大学受験の資料とかだったけど、今おいてあるのは、小学生向けの国語辞典とかだ。
なるほど、とようやく納得いった。俺はまだ寝ていて、これは夢なのだと。夢の中でこれが夢だと気づくことは珍しいことではないと聞くが、いざそういう感覚を経験してみるとなんだか不思議な感覚だ。
「早く行こうー」
そんなことを考えていたとき、一階から声が聞こえてくる。声の主はすぐにわかった。こうして聞くとあいつも声変わりしたんだな(まあ、これは記憶の再生みたいなものだが)と思いながら部屋を出て一階に降りる。最後の一段を降りきったとき、目の前に小柄な影が走る。幼いころの俺だ。
「いってきま~す」
めんどくさそうな挨拶に、
「いってらっしゃい、気をつけてね」
今一番聞きたかった声の主が、振り返るとそこにいた。
「あっ……」
思わず声が出た。母さんがそこにいる。笑顔で、ランドセルを背負った俺と彩音を見送っている。二人は一言二言話した後、再び、いってきまーすと家を出て行った。
母さんを見る。電話とかメールでは話しきれなかったことが山ほどある。でも何から話していいかわからない。そもそも、こちらのことは認識していないだろう。
しばらく玄関のほうを眺めていたが、リビングのほうに戻って行く。まずい、ここで別れたら二度と会えない気がする。
「か、母さん……」
何かにすがるように声を出した。が、あちらからは聞こえないのがとても悔しい……!そう思った時、何かに反応したかのように母さんが止まり、こちらを振り返った。
そして、微笑んだ。
俺にはそれで十分すぎた。その微笑からすべてを察し、自分からの一方的な話なんてどうでもよくなった。
微笑んだのは一瞬で、すぐにリビングに戻って行った。
嬉しかった、自分の中にあった、穴がふさがっていく感じがした。
***
「ここは、どこだ?」
ベタな台詞を言ってみた。これたぶん世の男子高校生が一度は言ってみたいワードトップテンには入るんだよな。ほんと、男子って馬鹿ばっかり。
自分も昔はそんな馬鹿な男子だったな、なんて思いながら目を覚ました。もちろん俺の部屋で、今度こそ現実のはずだ、たぶん、洋画のあれに巻き込まれていなければ。
それにしてもいい夢を見た。気づけば少し……目から汗が出てるじゃないか!大変!……涙を拭き、時間を確認する。寝ていたのはほんの二十分ぐらいのようだ。
ふうぅ、と息を吐く。
そういえばもうそろそろ彩音が来てもおかしくないはずだ。
部屋を出るとちょうど、ピンオーンと音が鳴り戸が開けられ、ごめんくださーいという声がした。階段を降りきった瞬間、目の前を十華が通った。なんかすげえデジャブを感じるんですけど、わざと?
「どうもどうも!うちの兄がいつも世話になってます!」
「どこのリーマンだお前は。あと全然世話になってねえから」
はあぁ、とため息をつきながら、呆れた声で言う。それから彩音のほうを向き、和室のほうを指差しながら、
「母さん、あっちだから。」と言うと。
「あ、うん。ありがと。……えっと、お邪魔します?」
「何で疑問系なんだよ。上がれ上がれ、さっさと顔見せて来い」
そういうと、じゃ、じゃあと玄関を上がり、和室に行こうとする。その後ろ姿を見送っていると、ふと動きが止まった。次に顔を九十度、更に目を九十度回しこちらを見てきた。
「え、…何だよ」
「あ…あははは……」
何なのだろうと思っているといきなり腹に肘鉄を喰らった。何しやがるんがこらあ、という視線を十華に向けると、逆に睨まれた。その目は、空気読めカス、と言っている。いや、カスはないでしょカスは。まあ、わかってるんですけどね……。
はあぁ、ともう一度ため息をしてから、へいへいと仕方がなく了承する。
「行こう。」
彩音を伴って再び母さんのいる和室へ赴く。さっきとは違い簡単な枕飾りがしてある。俺が寝ている間に誰かがやったのだろう。
母さんの頭側に彼女を座らせ、俺はその隣に座る。
だんだん鼻をすする音がし、張り詰めていた糸が切れたように、でも、ゆっくりと涙を流し始めた。ずっと耐えていたのだろう。その手には母さんの手が握られている。やっぱり冷たいのだろうか、もしくは…。
俺はしばらく泣きじゃくる彩音を見ていた。ここで思う存分泣かしといてやろうと思っていたが、さっき自分も思いついた言葉をってやった。
「母さんは、笑ってるぞ」
涙や鼻水で少しどころかかなりぐちゃぐちゃになった顔をこちらに向けてきた。俺はその目を、その泣き顔を見たくないから、思わず目をそらしてしまった。
「あれだ、泣きたい気持ちもわからくはないけど、泣いてばっかじゃ母さんもあんまりいい気分じゃねえだろ。だから、まあその、ちょっとぐらい笑ってやってみ。」
「………うん、そうだね」
顔を拭きながら、それでも、止めどなく流れてこようとする涙をまた拭って、無理やり笑顔をつくろうと努力していた。俺はそんな彩音に偶然持っていたハンカチを渡した。汗で汚くなってなけりゃいいけど…。
やばいやばい、ここで止めてなかったもらい泣きしそうだったからやばい。でもこれ以上ここにいてもやばそうだからなるべく自然に、それらしいことを言ってこの部屋から出て行こう。
「のど渇いたから、お茶でも持ってくるわ。特にこだわりとかねえだろ?」
質問しておいて答えも聞かずにさっさと立って、部屋から出る。
目は赤かったけどすでに泣き止んではいたし、最後に見えた顔も無理な笑顔ではなかったから、大丈夫だろう。
リビングに入ると十華がテレビを見ていた。
「もう大丈夫なの?」
「何がだよ、主語はちゃんとつけなさい」
俺が答えると、十華は、むっとした。
「彩音ちゃんのことだよ……。言わなくてもわかるでしょバカ」
「ああ、まあ大丈夫なんじゃねえの?あと、バカって言ったほうがバカなんだぞ」
俺が得意げに言うと、バカ?、と真顔で言われた。……母さん、あんたの娘が真顔で人をバカにするようになったよ。
そういえば、八宮と親父の姿が見当たらない。
「八宮たちはどっか行ったのか?」
「近所の人たちに挨拶のついでに買い物行ったよ」
なるほど、でも買い物なんてあの二人で大丈夫なのかと問うと、
「大丈夫だよ、買うものリスト渡しといたから」
と。……初めてのお使い感が半端な過ぎてすごく不安なんですけど。ほんとに大丈夫かな…。
そんな心配をしていると、彩音が戻ってきた。そういやお茶入れてやるんだったな。
「あ、私のも入れてー」と十華が言ってきたため結局三人分入れて、それからテレビを見ながら三人で談笑していた。十華にこれまでの二年のことを延々と聞かれ続けた。
八宮と親父が帰ってきたのは結局日が暮れてからだった。なんでだよ……。
***
夜に海辺を歩いている。
俺と八宮、母さんを挟んで彩音と十華。堤防で海が見えないから星を眺めながら歩いている。しかし、やはり星だけでは満足できなかったのか、もう中学生にもなっているのに、俺は危ないとわかっていながら堤防をよじ登った。「危ないよ。」という母さんの制止を、大丈夫大丈夫と聞かずに。その夜は雲がなく、月が見えているのに星も見えていて、かつ、堤防の上からは海も見える。この上なくきれいな風景だったことをよく覚えている。
『すげえ……』
『ほんと?わたしも上る。なな君ちょっと手かして』と彩音が堤防の上に片手をかけ、もう片方の手を俺に伸ばしてくる。
『ほらよっ…と。なあ?』
俺が、きれいだろ?の意を二文字で聞くと、彩音は答えず、ポーっと景色を眺めていた。続いて八宮と十華も堤防を上ろうとする。
『あっちに階段があるじゃない』
母さんが指したほうには確かに堤防に上がるための階段がある。早く気づいていたらこんなところから上らなくて済んだのに。八宮と十華は階段のほうに走っていき、その後ろを一旦降りた彩音と母さんが歩いて追う。俺は上ったまま、落ちないように気をつけながら四人の後ろをついていった。
しばらく五人で並んで堤防に座り、月もある星空と、月明かりを反射する海の景色を堪能していた。水平線の近くに、とても小さく漁船の光も見える。
今思えば恥ずかしいことだが、当時無知な俺はこんなことを呟いた。
『月、きれいだな……』
『え?…ふふ』
『えっ、なに』
母さんのなぞの反応に、俺が聞くと、何でもないよとはぐらかされてしまった。今からすると赤面ものだ。
そういえば、あの時、左側にいた母さんの顔から前方の景色の目を戻したとき、右側にいた彩音はずっと下を見ていた気がする。まさかね…。あの頃から本を読むようなやつだったとは思えないし。
あの景色は今でも脳裏に焼きついている。
***
翌日、通夜の準備も滞りなく終えた。俺たち一家だけでは人手が足りなかったため、彩音を含む遠野家のみなさんにも手伝ってもらった。感謝感激マジ感謝。
俺がリビングで一息ついていると、八宮もだる気に戻ってきた。
「おう、お疲れ。遺物整理終わったか?」
「あ?ああ、終わったよ。……疲れた」
十華と一緒に母さんのものの整理をしていたらしく、こき使われていたみたいだ。妹にこき使われるのもどうかと思うんだけどな。
「なんか遺書的なもんは出てきたのか?」俺が問うと、
「いんや、残念ながら。急死だったから、用意してなかったんじゃないの?」
そういう八宮は、本当に残念そうだった。俺もだ。何か俺らに、伝えたいことがあったのじゃないかと思ってしまって当然だろう。
そういえば、八宮に聞きたいことがあったのだと思い出す。とりあえず、お疲れの八宮君に何か飲み物を出してやろうと思い立ち上がった。
「なんか飲むか?緑茶とか」
「こんなくそ暑い中にどんな嫌がらせだよ、普通に冷たいお茶でいいよ」
へいへいと、台所に行き、コップに氷を入れ、お茶を注ぎながら問う。
「今更だけど、俺らと同じ高校に行ったのは、どんな心境の変化だ?俺が言えたことじゃねえけどよ。漁師継ぐとか言ってただろ」
八宮はめんどくさそうに、ため息をついた。ああ、これまでに何度も聞かれたのだろう。そう思うと、少し、聞いたのを後悔した。
「別に、弟子ができたって聞いたでしょ?なら俺も好きなことしようかなあって」
よかった、大したことではなくて。でも、気になっていることがもう一つある。
「……親父、変わったよな?なんかあったのか?」
聞くと、さあ、と。特に変わったことはなかったみたいだ。曰く、変化は、唐突だったようなゆっくりだったような、ということだ。どっちだよ。わかんねえよ。
変化には気づいていたが、あまり気にはしなかったらしい。怒ることが少なくなったのだから、こいつにとっては、ただ面倒事が減ってよかったのだろうか。
その後は、これまた、めんどくさがり屋の八宮には珍しいことに、いろいろ聞いてきた。なんなんだよう、こいつら打ち合わせでもしてたのかよ…。戻ってこなかったのは本当に悪いと思ってますからさ。
親戚も集まってきて、時間もそろそろいい頃になって、俺はスーツ、八宮と十華は制服にそれぞれ着替えて向かった。
すでに、彩音は来ており、用意されている椅子の最前列に座っていた。彩音の家族は少し離れたところに座っている。よく知らないけど、こういうのって座るのはどこでもいいのかしら…。そんな不安を抱きつつも、まあ、息子だしどこでもいいでしょ、と結論付け、彩音の隣に俺、十華、八宮の順で座る。
彩音は隣に座った俺に向かって、
「遅いよ、もう結構待ったよ」と言った。その顔に、涙は無い。
別に待ってもらっていたつもりは無いんですけどね、と思ったが、そんなことを言うのは余りにも無粋だとも思ったので、悪い悪い、とだけ言っておいた。やだ、七瀬さんマジ紳士、惚れそうです。何を考えているんでしょうね、母さんの遺影を前にして…。
「大丈夫か?」と問うと、うん、とだけ。
イエイ、間違えた遺影を見る。やはりというか、遺影なのだから当然だけど、微笑んでいる。凛々しい雰囲気ではなく、むしろ、へんな言い方だが、お茶目な笑みだ。遺影を飾ってある花たちが要らない気もしてくる。どうか、この笑顔であの世の人たちも包まれますよに、なんてことを願う。
俺にとって初めての身近な人の死は、悲しいことではあったが、苦しいことは無かった。それは、予期していたから。このまま順当に行けば、次は親父、そして俺たち。そうやって世代が変わっていく。生まれた瞬間に、いつか来る死も確かに存在する。始まりは、終わりの始まりも意味する。
俺もいつか死んでしまう。イレギュラーなことが起こらない限り、ゆっくりと死ねるだろうか。
焦る気持ちが湧く。蝋燭のようにゆっくりと、でも着実に尽きていくこの命。何をしているのだろう、こんなことでいいのだろうか、不安になってくる。
大丈夫だ、なんとかなると思うし、ならなくても逃げてくればいいじゃないか。それに、母さんも見守っていることだろうからむちゃくちゃ悪いことにはならないだろう。人生なんて、どっかで失敗しても、どっかで帳尻合わせれるものだとどこかで聞いたことがある。不安なのはみんな一緒のことだ、不安という等しい条件を背負いながら生きているのだ。
そうやって、確信し、結論付け、励ました。
いいね、誰かが不安だとを言ってきたら、この新たな持論を展開してやろう。そんなときが来るかどうかもわからないが、勝手に少し楽しみになった。
親戚たちが次々と線香を挙げていく。俺はそれを、この人はどんなことを考えながら母さんの死をいたんでいるのだろう、と考えながらぼーっと見ていた。
***
通夜が終わり、親戚たちもだんだんと帰っていった後、のんびりと過ごしていた。
俺がトイレからリビングに戻ると、さっきまではいたはずの三人(彩音は泊まっていくらしい)がいなくなっている。その代わりに、親父が縁側で酒を飲んでいる。
「彩音たちは?」
「ああ、親戚がスイカを持ってきたから、庭で割ってる」
耳を澄ますと、いや、静かだから自然と彩音と十華が、そっちとかあっちとか言っているのが聞こえてくる。せっかくのスイカを台無しにしないか心配になったので、家の反対側の庭に様子を見に行こうとすると、
「七瀬……少し、話そうか」
親父に呼び止められた。その提案に、俺は少し思案して、まあいいだろう、受けて立つ、みたいな覚悟を決める。
「おう」そう返事をして、横に座る。
さて、何から話そうかと、俺もだが、親父も考えあぐねているのか、少しの間沈黙だった。
静かな夜。裏側から三人の声が小さく聞こえる以外、なんの音も無い。あるのは気まずさ。
話そうと提案してきたのは親父なのだから、もう丸投げしてしまおう、そう決めこんだ。それから一分くらい経ってからようやく、親父が口を開いた。
「大学は楽しいか?」「まあ、そこそこな」「そうか……彼女はできたか?」「聞くな」「ははははは、…………気持ちは変わってはいないか?」
最初、なんのことを言っているのかわからなかったが、すぐに跡継ぎのことだとわかった。
「………まあな」
「そうか」
俺の答えに、以外にも残念さが見受けられない。弟子ができたからか、それともまた別の理由なのか。
「何になるんだ?」
「あー、一応、検事になろうと思ってる。稼いで仕送りしてやんよ」
親父は驚いた顔をした後、また笑った。検事になることに笑ったのか、仕送りに笑ったのかはわからない。けど、まあ、愉快そうで何よりだ。そこで、思い切って、尋ねてみた。
「親父、変わったよな。なんかあったのか?」
俺が半分冗談を交えて言うと、親父は遠い目をして、
「……久しぶりに、いや、初めて、母さんが怒った顔を見た」
あんまり怖くはなかったがな、と付け加えた。今度はこちらが驚かされてしまった。あの、母さんが?怒った?
「お前が大学に行ってからも、俺はぐちぐち言っててな、それでな。いい加減にしなさいってよ」
合点がいった。なるほど、だから八宮のことも許したのか。親父が母さんに叱られている姿はあまり想像できない。怖くない怒り方をする母さんに対し、過去にないことに唖然としている親父の姿。言葉にすると、その光景はそんなに悪いものでもないと思ってしまう。なぜなら、その光景は、とても可笑しい…。
もう話すことは話したと言わんばかりに、親父は立ち上がり、
「明日も早いし、俺はもう寝るからな」
おやすみ、と。不意を突かれた俺は慌てて返事した。こんな寝る前の挨拶を昔は碌にやっていただろうか。俺が一方的に言って、返してもらえたことは大学に行くまで終ぞなかった。それが今ではこうだ。
あれが、親父の変化。
あの年で成長はないだろうと考え、そう称した。人間、根本的なところは変わらなくても、小さなことは変わるものだ。俺も何か変わっているのだろうか。何か成長しただろうか。
家の裏側に行くと、三人でスイカを食べていた。外皮がいびつな形をしているのをそれぞれ持っている。皿の中には、あと二切れ。
「お前ら、食いすぎ。」
俺が言うと、
「なな君が遅いのが悪いじゃん」「私はそんなに食べてない」「右に同じ」
三者三様の反応を見せるが、境界があるみたいですね。彩音が裏切られたような目を二人に向ける。
俺はため息をつきながら座り、スイカに手を伸ばす。大きいほうを母さんに残して、ちびちびと食べ始めた。美味い。思わず満天に叫んでしまいそうだった。
みんなが寝静まっただろう頃に、俺は寝付けずにいた。
明日もいろいろとしなければならないことがあるのに、駄目だなーと思いつつ、気分転換に散歩に行こうと決め、部屋を出る。決して霊的なものに招かれていません。
玄関で靴を履いていると、後ろから階段を下りる音が聞こえた。振り返ると、彩音がいた。
「どした」
「ちょっと寝付けなくて」
こいつも同じなのかもしれない。明日、母さんは火葬される、そして、骨のみになる。不安なことはないのだが、なんとなく眠れない。
ここで、一緒に散歩行くか?の一言ぐらい言えればいいのだが、生憎、持ち合わせがない。どう言うか考えあぐねていると、彩音のほうから
「一緒に行っていい?」
散歩に行くなどとは一言も言っていないのだが、察したのかもしれない。さすが幼馴染だ。でも、一人で行きたかったんですけどね、そこら辺は察してもらえなかったみたいですね、はい。
「偶然、同じタイミングで散歩に出かけるんなら、文句はない」
そんな捻くれた言葉が出てきた。いや、だいたい変わってないし、何言ってんだ俺は……。いや、待てこいつがいきなりこんなことを言うのが悪いのだ。俺は悪くないぃぃ。
彩音が靴を履き、顔を見合わせ、
「行くか」というと、
「あれ?なんか言ってること違くない?」
その返事を無視して戸を開け、夜の町へ歩き出した。
* * *
あの病室、そして三人の話し声。
今でははっきりと思い出せる。重要な思い出とかではないのだが、これまでの二十年間のなかで、確かに大切な思い出だ。
『俺は、公務員にでもなろうかな』
ああ、そうだ。将来の夢、みたいなことを話していたんだったか。つか誰だよこの餓鬼、この年で公務員なるとか、僕は現実見てますよとしか伝わってこねえ。…あ、俺か。
『えぇ…ほんと?』
母さんの声が聞こえる。すると、俺の隣で、
『じゃあ、わたしはなな君を家で迎えるね』
わあ、何この子。誰だこんなことを言われてるやつは、ぶっ飛ばすぞ。…あ、俺か。
幼い俺は顔を背け、不満そうな反応をし、でも満更でもないような。母さんは、そんな二人を見て微笑ましそうにしている。
今は失ってしまった懐かしい日々。でもちゃんと思い出せるし、昔ほど眩しくはないが、これからだって希望はある。
前を向かねば。
* * *
「懐かしいね、あそこで眺めてたとき最後落ちそうだったよね」横で懐かしそうに彩音が笑う。
今歩いているのは、あの堤防がある海辺の道。昨日夢で見て、なんとなく通りたいと思ったから俺から提案して今に至る。
確かに、あの夢の続きは俺が立ち上がったところで足を滑らし、危うく海にダイブしてしまいそうになったのだ。本気で死ぬかと思ったぜ…。
「その節はご迷惑おかけいたしました…」
俺がそう言うと、彩音はあははと笑い数歩先を行く。
今日もあの日と同じように晴れていて、満天だ。月は時間が遅いからもう沈んでしまったのだろう。
階段があるとこるまで来ると、彩音はよっよっよっと階段を上がり、またあのときのように座り景色を眺めた。俺もそれに習い腰をかける。そこに至って、あの時の彩音の俯いた姿がフラッシュバックしてきて、無性に恥ずかしくなった。暗いから顔を見られても赤が差しているのはばれないだろうが、意識して顔を見られないようにした。
水平線近くにはこれまた漁船の明かりが見える。月の代わりに海を照らしているようだ。あの時違うことといえば月が見えないことと、母さん、八宮、十華がいないこと、そして俺たちが成長したこと。
「就職どうするんだっけ?」
唐突にそんなことを聞いてきた。
「なんだよいきなり……一応、検事だけど」
「そっか、あのドラマじゃないけど大変だよね」
「だろうな、なるのも、なってからも大変だ」
「……誰かが支えなきゃ駄目だよね」
そういって、袖を握ってきた。
……ああ、なるほどそういうことか。やられた、まんまと誘導尋問に引っかかったわけだ。横目で握られた袖を見ながら、そう思った。ここでそんなことを言われては困る。いや、困るというのは正確ではない。また逃げようとしているのだ、彩音から。その彩音は、あの時のように俯いている。
俺は恐れている、彩音を、自分を、これからを。
「……大丈夫。大丈夫だよ」
それは自分自身に言ったのか、それとも俺に向かって言っているのか。ひとつ言えるとしたら、こいつも同じように不安なのだ。
でも、ちゃんと向かい合おうとしている。
なら、俺がそのことから目を逸らすことを許されるだろうか。
小さく、深呼吸をする。そして自分に大丈夫だと言い聞かせる。
「月がきれいだな」
ここからは見えない、でも確かに存在しているものに向かって言った。
* * *
その後、葬式も無事に終わり、俺たちが帰る間際になってのこと。俺が、本棚で母さんが好きだった小説を見つけ、なんとなく取り出してみると封筒が落ちた。
遺書だった。
開いて、自分で読むと、思わず笑ってしまった。それからみんなに見せると、それぞれの反応を見せたが共通して笑った。
実に母さんらしい遺書だ。B5の紙にはいささか不似合いだけど、本当はもう少し書くつもりだったのかもしれない。
遺書には端的に、こう書かれていた。
みんな、がんばって。 母より
生まれて初めて書く小説でした。書きながら、物語を書くのってすごく大変なことだと実感いたしました。読んでいただいた方、ありがとうございます。
これからも精進していきます。