とあるホストは揺り篭で眠る
新宿歌舞伎町のとある一軒に構えるホストクラブ、ジェニファー。
ここに務める、一人の男、高崎裕次郎、22歳。
開店2年半で集客、売上ともに中規模に昇り詰めた要因の一つとして、彼の活躍があった。
高崎裕次郎、ジェニファーのナンバー1、彼の源氏名は「優人」。
その名に恥ない物腰の柔らかい接客と優しい笑顔は、数多の女性を虜にしていた。
いわゆる「母性本能をくすぐるタイプ」といったところか、彼はその際たる人間だった。
彼の寝顔は、たとえ同性であっても、惹かれてしまう「優しさ」があった。
しかし、夜の世界に身を投じる多くの人と同様、
ジェニファーに務めるまでの彼の人生は決して順風満帆ではなかった。
母子家庭で育ち、母のわずかな収入に無理を通して、
唯一の特技であった「絵」の才能を活かすため、高校を卒業後、都内の芸術大学に進学した。
ところが、進学した芸術大学では、周りの人間の才能、実力に圧倒された。
「井の中の蛙」、彼は自分自身に失望した。生きる目的、存在する意味を見失った。
そして、逃げるように大学を2年で中退、母にはそれを直接伝えることができなかった。
中退後、母の援助を受けず生活していくために、彼は仕事を探していた。
そこで現在のマスターである男に、声を掛けられたのである。
当初の彼は、元々の人見知り性格もあり、なかなか固定した客がつかなかった。
暮らしていくのがやっとの収入、荒んだ生活、地元に帰ることも何度か考えた。
そんな時期、仕事を終え、酒を帯びた体のままで、通勤ラッシュ前の電車に乗った。
彼は疲れ果て、通勤中の女性OLにもたれかかるように眠った。
その女性は彼の純粋で無垢な寝顔を見て、何も注意をしなかった、したくなかった。
朝の憂鬱な通勤電車の中で、天使のような寝顔を預けられたのだから、当然のことだった。
彼は降車する駅に近づいていることに気が付き、目を覚ました。
目の前には、頬を染め、斜め上をじっと見つめている女性の姿があった。
彼は何も考えず、ただ自然と、その女性にジェニファーの名刺を渡していた。
その朝を経た夜のこと、女性はジェニファーの扉を開け、迷わず優斗を指名した。
この出来事は、彼が彼自身のセールスポイントを理解できた、大きなターニングポイントとなった。
優しさ、純粋さを道化し続けることで、彼は一気に固定客を獲得、それに伴って売上は伸び続けた。
そして彼はジェニファーの看板ホスト、売上ナンバー1のホストになった。
電車で通勤中の女性にもたれかかり下車する際に名刺を渡すこと。
成功の要因となったこの戦法は、ナンバー1になり、大きな自信を得た今でも怠ることなく実行している。
成功率はそれほど高くはない、だが優人はこの戦法にこだわり続けた。
女性に横顔が見えるように眠る、下車する前に名刺を渡す、この2点をあくまで自然に行うことが重要だった。
そして今朝、この戦法を実行するコンディションとしては、いささか酔いが深く眠気も強かった。
やがて彼は車内で目を閉じ、眠りの世界へと移っていた。
夢を見た、それは幼い頃の夢。
内気で友達が少なった、兄弟もいなかった、母は夜遅くまでファミリーレストランの厨房で働いていた。
彼の当時の喜びは絵を描き、それを母に褒めてもらうことだった。
だから算数や国語のノートの最後のページから順に絵を描き続きた。
夢の中で彼は、笑ってる姿、働いている姿、泣いている姿、様々な母の姿を描き続けた。
その絵からは、彼しか描くことのできない、母の油と香水の混じった香りが描写されていた。
下車駅を知らせるアナウンスで彼は目覚めた。
気がつくと、いつものように、女性の肩にもたれかかっていた。
あまりにも自然な眠り、懐かしい感覚、それを与えてくれた隣の女性。
慌てて彼は名刺を渡し、振り返ることなく、急いで降車した。
夜はやってくる、平等にやってくる。
その中で、社会的不満を持ちながら金銭的に充実した女性が癒しを求めてジェニファーの扉を開く。
しかし、午後9時にやってきた女性は、その大くとは異なっていた。
何度も着たような服、安い香水をつけ、ブランド物は何一つも持っていなかった。
ただ、社会的不満など一切感じさせない純粋で無垢な笑顔を持っていた。
高崎恵子、その女性は裕次郎の母だった。
恵子の指名した相手は、もちろん優人、ではなく裕次郎だった。
恵子は慣れない言葉とはにかんだ笑顔で1500円のカクテルを注文した。
裕次郎は震えが止まらなかった。しかし、涙をこらえながら笑顔を作り、それに答えた。
裕次郎にとって、今宵の二人の涙が混じったカクテルは、
今までのどんな高価なお酒よりも、どんな高価な貢物よりも、嬉しい注文であり優しい贈り物になった。
有償の優しさは自覚できても、無償の優しさは中々自覚できないものです。そんなときは、子供時代を振り返れることで、気づけるかもしれませんね。