第八話:深淵からの帰還、あるいは「厄災」の産声
「まずい。まずいよ、姉上!」
真っ青な顔をしたハインが全力疾走でジークリンデの私室に駆け込んだ。
「ハイン、一体どうしたの?」
「姉上、エドワード様が誘拐されました!」
息を整えることもせず、ジークリンデに衝撃の一言を伝えた。
「……えっ!?」
ベッドに横たわり、絶望の淵で沈んでいたジークリンデの動きが止まった。 ハインの言葉が、霧に包まれていた彼女の脳内に雷鳴のごとく響き渡る。
「……誘拐? エドワード様が? ど、どういうことですの? 彼は第一王子で、護衛も……」
「隣国の特権を悪用した、ソフィア王女の仕業です。魔力を持たない彼ら独自の手段で、殿下は連れ去られました。……今頃はもう、国境を越えようとしているはずだ」
ハインは息を切らしながらも、姉の瞳を真っ直ぐに見据えた。
「姉上。貴女が『エドワード様の幸せのために身を引く』なんて殊勝なことを考えていたのは勝手ですが、相手は殿下を奪いに来たんですよ? 望まぬ静寂に閉じ込められた殿下が、本当に幸せだと思いますか?」
「……っ!」
「姉上。貴女はアイゼンベルクの怪物でしょう? 奪われたなら、世界を壊してでも奪い返せばいい。――後悔なんて、姉上には似合いませんよ?」
その瞬間。 部屋の空気が、「凍りついた」。
物理的な温度が下がったのではない。ジークリンデから溢れ出した魔力が、あまりの高密度ゆえに周囲の分子の動きを強制停止させたのだ。
「……そうですわね。わたくし、何を迷っていたのかしら」
ジークリンデがゆっくりとベッドから立ち上がる。 先程までの青ざめた顔はどこへやら、その瞳には「極夜の如き冷徹な殺意」と、「太陽への執着」が同居していた。
「わたくしが身を引くのは、あの方が『平和』を望んだ時だけ。……泥棒猫に攫われるのを指をくわえて見ているなんて、わたくしの辞書にはありませんわ」
メリ、メリ……と、彼女の足元の床板が、魔力の重圧に耐えかねて悲鳴を上げる。
「ハイン。教えてちょうだい。その馬車は、どちらへ向かったの?」
「……西の街道です。国境の関所まで、通常の馬車ならあと二時間はかかるでしょうが……」
「二時間? ――三秒あれば十分ですわ」
ジークリンデは、窓を叩き割らんばかりの勢いで外へ飛び出そうとして――ふと立ち止まり、ハインを振り返った。
「ハイン。……ありがとう。わたくし、目が覚めましたわ」
「……ええ。存分に暴れてきてください、姉上。事後処理(という名の外交問題の揉み消し)は、僕と父様でなんとかしますから」
ハインが苦笑いして頷くのと同時に、ジークリンデの姿が「光の爆発」と共に消えた。 残されたのは、窓から吹き込む激しい風と、主を失って粉々になった寝室の家具だけだった。
◇◇◇
西の街道を猛スピードで走る隣国の馬車の中。
「ふふ……。これでいいのよ、エドワード。貴方は私と共に、正しい世界へ……」
眠るエドワードの髪を撫でながら、ソフィアが勝利を確信したその時だった。
ドォォォォォォォンッ!!!!!
空から巨大な隕石が落ちてきたかのような衝撃が、大地を揺らした。 馬車のすぐ前方に、直径十メートルに及ぶ巨大なクレーターが突如として出現する。
強制停車を余儀なくされた馬車の中で、ソフィアは驚愕に目を見開いた。
「な、何事……!? 敵襲!? いえ、魔法感知に反応はなかったはず……!」
砂塵が舞う中、クレーターの中心に「一人の少女」が立っていた。 プラチナブロンドを夜風になびかせ、怒りでその瞳を蒼く燃え上がらせた、この世で最も美しい「厄災」。
「……ごきげんよう、泥棒猫様。わたくしのエドワード様を、どちらへお連れかしら?」
ジークリンデ・フォン・アイゼンベルク。 彼女が、本物の「怪物」としての笑顔を浮かべて、そこにいた。




