第七話:牙を剥く理性、連れ去られた王子
放課後、人影のまばらな図書室。
ジークリンデが休んで三日が経った。 エドワードは、彼女がいないことでこれほどまでに自分の日常が「脆弱」だったのかと痛感していた。
(……結界がないだけで、こうも騒がしいのか)
廊下を通る生徒たちのひそひそ話、遠くから自分を伺う視線、そして何より――胸にぽっかりと開いた穴から吹き込む孤独な風。 胃の痛みはもはや慢性化し、意識を保つのが精一杯だった。
「……お疲れのようね、エドワード」
背後から、音もなく銀髪の少女が現れる。ソフィアだ。 彼女は手に、琥珀色の液体が入った小さな小瓶を持っていた。
「ソフィア。……何度も言っているが、君と行くつもりはない。僕は、この国の……」
「ええ、分かっているわ。貴方は『義務』でできている人。だからこそ、その呪縛から解き放ってあげなければならないのよ」
ソフィアの瞳は、どこまでも澄んだ氷のように冷たく、そして狂気に似た確信に満ちていた。
「ジークリンデは来ないわ。彼女は貴方を『愛しているから』、貴方に平穏を与えようと身を引いた。……なら、次は私の番よ。貴方を、この非効率な義務という檻から救い出してあげる」
「何を……っ」
エドワードが立ち上がろうとした瞬間、足元が崩れるような感覚に襲われた。 ソフィアが小瓶の蓋を開けていたのだ。 そこから漂うのは、魔力を持たない者だけが精製できる、強力な「対魔力者用睡眠ガス」。
魔力を持つ者は無意識に周囲の空気を魔力でフィルタリングするが、精神的に弱っている今のエドワードには、その無味無臭の毒を防ぐ術はなかった。
「……っ、ソフィア、君……」
「安心なさい。これは貴方の国にはない、最先端の科学の結晶よ。……眠りなさい、私の王子様。次に目が覚めた時は、あの騒がしい怪物も、胃を焼くような重責もない、静かな銀の世界よ」
膝をつき、意識が遠のくエドワード。 霞む視界の中で、図書室の影から、隣国の紋章を隠した黒衣の男たちが音もなく現れる。
(ああ……リンデ……)
叫ぼうとした声は、音にならずに消えた。 もし、彼女がいつも通り扉を蹴破って現れてくれたなら。 「エドワード様!」と叫んで、この卑劣な罠ごと図書室を吹き飛ばしてくれたなら。
だが、エドワードが最後に見たのは、助けを求めた扉が、静かにソフィアの手で閉じられる光景だった。
◇◇◇
その頃、学園の正門。
ハインは、胸を騒がせる不吉な予感に足を止めた。
「……静かすぎる」
ジークリンデがいないからだけではない。 学園の空気が、まるで獲物を仕留めた後の狩場のような、嫌な静寂に包まれている。
(まさか、あの眼鏡の王女……!)
ハインが全速力で校舎へと引き返そうとしたその時、一台の馬車が凄まじい速度で校門を駆け抜けていった。 隣国の、外交特権を示す旗をなびかせて。
「……っ、殿下!!」
ハインの叫びは、虚しくも夕暮れの空に溶けていった。 王立学園始まって以来の不祥事。 次期国王、エドワード・フォン・グランツライヒの「完全なる失踪」が成立した瞬間だった。




