第六話:消えた怪物、崩れる日常
アイゼンベルク公爵邸。 いつもの朝のはずだったが、今朝は朝食の席にジークジークリンデが姿を表さなかった。前代未聞である。
ハインは嫌な胸騒ぎを感じながら、ジークジークリンデの私室の前に立っいた。
ハインは、扉の向こうの姉の気配を探った。 いつもなら朝から魔力がパチパチと弾けるような、圧倒的な生命力に満ちているはずの姉の自室。それが今は、まるで深海のように静まり返っている。
「姉上、起きてますか? 遅刻しますよ!」
意を決して声を掛けた。
しばらくして、扉が開けられ、まだ制服に着替えていないジークリンデが顔を出す。
その表情は暗く、いつもの破棄が感じられなかった。
「ハイン、おはよう。……ちょっと熱があるみたいなの。今日はお休みするわ」
(姉上が風邪? ……ありえない。昨日だって、素手で魔導ゴーレムを解体していたじゃないか。原因は間違いなく、あの後に『何か』があったんだ)
「わかりました。ゆっくり休んでくださいね。……エドワード殿下にも、そう伝えておきますから」
「……あ、……」
扉の向こうで、ジークリンデが何かを言いかけて飲み込んだ。 「伝えないで」と言う権利すら、今の自分にはないと思っているのだろう。 ハインはそれ以上何も言わず、重い足取りで学園へと向かった。
◇◇◇
王立学園生徒会室。
その日の生徒会室は、異様な静寂に包まれていた。 いつもなら、授業の合間を縫ってジークリンデが「エドワード様ー!」と扉をバリケードごと破壊せんばかりの勢いで飛び込んでくるはずの時間だ。
「……来ない」
エドワードは書類に目を落としたまま、ポツリと呟いた。 机の端には、昨日拾い上げた「砕けたクッキーの袋」が置かれている。 あれから一睡もできず、どう説明すべきか考え抜いた。だが、当の本人が現れない。
「あら、エドワード。随分と顔色が悪いわね? 胃薬が必要かしら」
ソフィアが優雅に部屋に入ってくる。 彼女は結界のない生徒会室を「当然の権利」のように歩き、エドワードの隣に座った。
「……ソフィア。昨日も言ったが、君の提案を受けるつもりはない」
「あら、そう。でも、貴方の幼馴染さんはそう思っていないようだけれど? 今朝の登校風景を見たかしら。彼女、来ていないわよ」
「っ……!」
エドワードが立ち上がろうとしたその時。 扉が「静かに」開いた。
いつもならジークリンデの影に隠れているはずの、ハイン・フォン・アイゼンベルクが一人で立っていた。
「……ハイン君。ジークリンデは?」
エドワードの問いに、ハインは冷ややかな、けれどどこか憐れむような視線を向けた。
「姉上は休みです。『知恵熱』みたいですよ。……生まれてこのかた、知恵なんて使ったことのない人が出すはずのない熱ですがね」
エドワードは絶望に顔を覆った。 知恵熱。 つまり、彼女は一晩中、自分たちの会話を思い出して、悩み、考え、そして――「身を引く」という結論を出してしまったのだ。
「……あの日、彼女の手を握ったのは僕の方だったのに」
エドワードの独白は、誰にも届かない。 ジークリンデがいない学園。 それはエドワードにとって、ただの「退屈な義務の場所」へと成り下がっていた。




