第五話:静寂という名の誘惑
放課後の図書室。
書棚の陰で、ソフィアがエドワードに詰め寄っていた。
「エドワード。単刀直入に言うわ。私と一緒に来なさい」
「……は?」
「貴方の知性と政治手腕は、魔法に頼りきったこの国では宝の持ち腐れよ。私の国なら、貴方にふさわしい地位と、胃薬のいらない『静寂』を用意できる」
エドワードは言葉を失った。
魅力的な提案だからではない。あまりに荒唐無稽すぎて、理解が追いつかなかったのだ。
彼は第一王子だ。生まれた時から「国を背負う」ことだけを教育されてきた。
「国を捨てる」なんて選択肢は、地球が四角いのと同じくらいありえない。
(……何を言っているんだ、この王女は。本気なのか? それとも外交的な揺さぶりか? どう返答するのが正解だ……?)
彼の真面目な頭脳がフル回転し、沈黙が落ちた。
しかし。
その沈黙を、偶然通りがかってしまったジークリンデは聞いていた。
(……エドワード様が、否定なさらなかった)
彼女の心臓が早鐘を打つ。
(『胃薬のいらない静寂』。……そう、それこそが彼が一番求めているもの。わたくしという嵐がいない世界こそが、彼の幸せ……?)
「……考えさせてくれ」
エドワードがようやく絞り出したその言葉は、ジークリンデにとって決定的な「さよなら」の合図に聞こえてしまった。
(……嘘。嘘よ)
ジークリンデは口元を押さえ、後ずさる。 信じたくない。けれど、エドワードの声はあまりにも真剣だった。
(『考えさせてくれ』だなんて……。まさか、本気で国を捨てることを迷うほど、わたくしとの生活が苦痛だったの……?)
彼が「静寂」を選ぼうとしている。 その事実は、ジークリンデが徹夜で作ってきた「慰めの品」を、あまりにも惨めなゴミに変えた。
力が抜けた指先から、可愛らしいラッピング袋が滑り落ちる。
――ガサッ。
静まり返った書架の陰に、乾いた音が響いた。
「! 誰だ!?」
エドワードの鋭い声が飛ぶ。 今の涙でぐしゃぐしゃになった顔を見られるわけにはいかない。 もし見られて、「行かないで」なんて縋ってしまったら、それこそ彼を困らせるだけの「怪物」だ。
(逃げなきゃ……っ!)
ジークリンデは唇を噛み締め、身体強化魔法を発動させた。 風のように、あるいは影のように。 彼女はエドワードが角を曲がってくるよりも一瞬早く、その場を飛び去った。
◇◇◇
「……誰も、いない?」
エドワードが書架の陰に回り込んだ時には、そこには静寂しかなかった。 だが、床には「痕跡」が残されていた。
「これは……」
落ちていたのは、ピンクのリボンで結ばれた小袋だ。 中には、どう見ても「炭」にしか見えない黒い塊が入っている。
見間違えるはずがない。 これは、リンデがよく作ってくる「見た目は地獄の業火で焼かれたようだが、味は絶品」という、彼女特製の手作りクッキーだ。
「……リンデ? まさか、今のを聞いていたのか?」
エドワードの顔から血の気が引いていく。
今の会話はどう聞こえた? ソフィアの「国を捨てろ」という戯言に対し、自分が「考えさせてくれ」と答えたところだ。
『考えさせてくれ』
それは、どうやって角を立てずに断るか言葉を選ばせてくれ、という意味のつもりだった。
だが、もし途中から聞いていたら? あるいは文脈を知らなければ? それはまるで、「君からの提案を前向きに検討する」と言っているように聞こえたのではないか?
「……まずい」
胃の奥が、キリキリと音を立てて痛み出した。 今までのどの「事件」よりも鋭く、重い痛みが、エドワードを襲う。
彼は拾い上げたクッキーの袋を握りしめ、誰もいない廊下を見つめて立ち尽くした。 その黒い塊は、まるで砕け散った彼女の心の欠片のように見えた。




