第一話 井戸のあるトンネル 四、イタチ野郎
まだ井戸の中の化け物は、そのままだ。そして私は、さっきと違う新しい気配を、部屋のドアの辺りに感じていた。
奴がいる。
芦沢君がぎょっとして指さす先に、イタチのような形をした粘液のお化けが、ぽつんとうずくまっていた。床にふせって顔をあげ、切り込みのような口元は吊りあがっているが、まがまがしくゆがむ二つの黒い瞳には、なんの光もない。そこだけが人間の目をしているのに全く感情がなく、それでいて口だけがニタアと笑っているので、ぞっとした。
これは霊だろうか。それともそれ以外の、妖怪かなにかだろうか。
芦沢君が期待の目でこっちを見たが、えらく困った。霊なら、さっきみたいに話が通じるかもしれないが、もし動物のように知能も理性もない奴だったら、お手上げだ。私には今のところ、話しかけてどうこうする以外のことは出来ない。どうしよう。とりあえず、さっきみたいに――。
そう思ったときだった。あっという間もなく、奴から不気味な細い手がするする伸びて、芦沢君の足を掴み、自分のところまで一気に引き込んだ。悲鳴もあげられない彼に、化け物は大きな口をあけて迫った。私は思わず全身で叫んでいた。
「だ、だめえええええ――!」
だが、その瞬間、カーテンがさっとあいて、日差しが部屋の中に満ちた。とつぜん照らし出されて、イタチ野郎は窓を見た。私も見れば、袈裟を着けて僧侶の正装をした小百合さんが、窓枠に腰かけ、机の縁に両足を乗せていた。
「あら、低級妖怪でも、いちおう驚くのね」
逆光でよく見えないが、彼女はそう言って長い黒髪を風になびかせ、微笑んでいるようだった。そして、いまや絶体絶命の男子に顔を向けた。
「ふせて、少年!」
怒鳴るや足を振り上げ、机の背を激しく蹴飛ばした。僧衣だが、足元は黒いスニーカーだ。少年は逃げ、机は一気に飛んでイタチ野郎にぶつかり、後ろの壁の間に挟んだ。妖怪は水道管がねじ切られるような金属的な恐ろしい叫びをあげ、そのまま小さくなって消えた。
聞きたいことや、言いたいことが腐るほどありすぎて、しばらくわなわな震え続けたほどだ。彼女が部屋に入って電気をつけると、ぱっとその綺麗な顔が見えた。私のやっとひり出た言葉は、「な、なんで、すぐ来てくれなかったんですか!」という、月並みなものだった。
すると彼女は、なんでもないように言った。
「実は、ここにきて用意してたとき、その前に済ませた仕事に不始末があると分かって、そっちに戻ってたのよ。でも封印の札を残らず使っちゃっててね。ほんと、これがあって良かったわ」
わけが分からず二人できょとんとしていると、小百合さんは机を引っ張って前に倒した。引き出しはなく、その裏面になにか白い札が貼ってある。黄色く色あせて、かなり古そうに見えた。
「この机、どこで買ったの?」
聞かれて芦沢君は、母が近所の質屋で格安で買ったものだ、と言った。彼女は「やっぱりね」と笑った。
「この机には、おそらくかなり凄い悪霊が憑いていたんでしょうね。この封印のお札は、ちょっとのことではめったに使われない超強力な奴だもの。この札の中に悪霊が封じ込められてるんだけど、そのあとも、まだ激しく結界の気を発し続けてるの」
「あ、それで明石君は窓から部屋に入れなかったんだ」
私が言うと、芦沢君は己の二の腕をつかんで震えた。
「お、俺、そんな机で今まで勉強したり、居眠りしたりしてたんだ……」
小百合さんはうなずいた。
「そう、家具でも服でも、誰かが使ってたものを買うときは注意してね。どこに何が貼ってあるか分からないから」
「じゃあさっき、それの中に、イタチ――じゃない、あの化け物まで、一緒に封じ込めたんですか?」
私が半ばあきれて聞くと、彼女はしれっと言った。
「ええ、さっき、あなたたちがいないときに来て、机にお札があると分かったから、利用させてもらったのよ。札を剥がすと破れそうだったから、机のまんま使ったわけ。破れたら、効かないからね。いやほんと、間に合ってよかったわ」
にこにこするのんきな顔を見て、ふと、周りに散在するものに気づいた。
「もしかして、さっき言った『用意してた』っていうのは、机の中身を外に出してた、ってことなんですか?」
「ピンポーン。本とか乗ってたら、重くて動かせないでしょ。君、悪かったわね」と芦沢君に言う。
「い、いえ、いいんです、そんな全然」
相手が美人だからか、変に照れたような苦笑いで言う彼を見て、なんだか面白くない気がしてきた。
「小百合さんなら、鉄が詰まった机でも、楽に蹴飛ばしたんじゃないですか?」
「あら、なに膨れてるのよ。まあ、とりあえず――」
彼女は、思わずはっとするほど爽やかに笑って言った。
「よくやったわ、のの。初仕事、成功、おめでとう」
お読みいただきまして、ありがとうございます。じつは前作「エスカレーター 星野小百合の心霊事件簿」には、独立した短編をシリーズにねじ込んだものが多々ありまして、これもそうです。元はトンネル内の壁に粘液が降りてくるところで終わっていましたが、これはののが絡んだために妖怪と戦うマンガっぽいオチになりました。シリーズにすると霊能者というヒーロー的キャラの存在により、どうしても恐怖のみの追求というわけにはいかず、バトルもののような違う要素が入ってしまいますが、これはこれでいいかと思っています。ただこのシリーズは、前回のような短編の無理やりなねじ込みは、極力抑えたつもりです。もしお気に入りでしたら、最後までお付き合いいただけたら、と思います。




