第一話 井戸のあるトンネル 三、のの
朝、下駄箱に入っていた芦沢君の手紙を読み、どうしようかと悩んだ。もちろん、今すぐ小百合さんに連絡して来てもらうべき事件だ。どう見ても、霊感があるってだけで霊能者でもない私に、どうこうできるレベルではない。手紙だけでは、相手は霊なのか、それとも別の妖怪かなんかなのかも分からないうえ、その犠牲者が依頼主を襲ってくる、というのである。
急いで電話する。ちっ、留守かよ。忙しいかんな、あの人。
メッセージを吹き込み、放課後なんか待たずに、一時間目が終わるとすぐ芦沢君を引っ張って外に出た。言い忘れたが、芦沢君は学校中で知らぬ者のない、めっちゃ可愛い童顔をしたイケメンである。だからそのとき、クラスの連中が変な噂を立てそうな目をしてたが、知るか。私は、私のできることをするんだ。もちろん、これは小百合さんの受け売り。
しかし、なんでこうもイライラするんだろう。今朝からずっと。手紙を読んでからだ。別に、彼の依頼の内容がどうこう、ってわけじゃない。
そうか。
自分が全然小百合さんのお役に立てないからムカつくんだ。ああ、この私が呪文一発で妖怪を退治して、小百合さんを笑顔にできたら。無理だよな。ただのど素人だもん。
でも、もしかして。
この場に化け物と化した明石でも現れたとして、本当に何かできないだろうか。私の力で。強く念じて霊波でも送れば、あるいは。
「霊能者の先生に連絡したから、もう大丈夫だよ。霊を何十人も一度に成仏させちゃうような凄い人だから」
「ほ、本当に? よかった……!」
校舎の壁に背をもたれてうずくまる芦沢君は、心底から疲れ果てているようで、無残だった。顔なんて死人のように真っ蒼だ。イケメンが台無しである。かわいそうに。どれだけ酷い目にあったんだろう。胸が痛んだ。
だが、そんな悠長なことはしていられなかった。彼が、とつじょ顔をあげて目を見開いた。ぎょっとして振り返ると、背後の並木に、それがあった。幹の向こうからこっちを覗く、ぎょろりとした目玉。
明石君だ。
そんなに彼をよく見たことはないが、その片方の大きな目だけは印象に残っている。そして、彼がもはやこの世のものではないことが、すぐに分かった。雰囲気の気味悪さも霊そのものだったが、それ以前に、幅が二十センチもないような細い木の後ろに隠れて、顔しか見えないはずがない。
今の彼には、体がないのだ。
私は慌てて芦沢君の手を引っ張って、再び走り出した。見れば、首しかない明石君が、ナメクジみたいに地面をぬるぬる追ってくる。妙に平面に見える顔が波打っていて、最高に気持ち悪かった。顔は黄色がかった緑で、こっちに顎をむけ、その向こうで視線がまっすぐにこちらを向いている。その下は黒い塊がうねうね動いていて、時たま白い宝石のようなものが光る。襟に付いていた校章のボタンのようだから、おそらくあの黒いものは、元は制服だったのだろう。
顔の色は、まさに濡れた壁に溜まる粘液そのものだ。一見、骨がないようだが、顔の形はかろうじて崩れないようなので、軟骨みたいになっているのかもしれない。いま彼は、本当にタコかナメクジのようなぐにゃぐにゃの化け物と化して、私たちを追っているのだ。
芦沢君の手は冷や汗いっぱいで離れそうで、必死にぎゅうぎゅう握りしめて走る。彼の心臓のばくばくが伝わってきて、こっちまで恐ろしくなる。
と、いきなりメールが来た。
小百合さんだ。
「芦沢君の部屋へ行きなさい」
わけが分からないが、言うとおりにするしかない。彼を先に走らせて、家に向かわせる。「ほら早くしなさいよ! 死にたいの?!」と、ほとんど並んでせきたてる。恐怖に足が震えながらも、彼は根性を出して走った。敵のぬるぬるは意外と速く、いきなり飛び上がって脇の電柱に当たったときは、心臓が止まりかけた。すんでのところでよけなかったら、背中に乗られていただろう。しかし、だんだん息が切れてくる。
この絶望の逃走は、彼の家に着いて一段落した。かなり引き離していた。家が近づくと、彼が「走る!」と爆風のように飛ばしたのだ。
彼の一戸建ての家には誰もいなかった。鍵は閉めても無駄だから放っておいて、土足のまま彼の部屋に突入した。ドアの隙間から平気で入るような奴である。戸締りなんぞ意味がないと、言葉もなくお互い分かっていた。
しかしカーテンの引かれた暗い部屋でがく然とした。小百合さんがいない。なんだよ、ここに来いって言ったじゃん!「ど、どうすりゃいいんだよ」と、芦沢君もあせっているが、それはこっちが聞きたい。
あっと見れば、ナメクジ野郎が部屋の中にいた。薄暗い部屋で見る明石の顔は、寺のお堂で見るすすけた仏像みたいだった。
そう思ったとき、急に彼がかわいそうになった。そうだ、いくら面白半分で幽霊を見に行った軽薄野郎だからって、殺されていい理由にはならない。いきなり変な化け物に引き込まれ、井戸の中で無残に殺され、同じような化け物にされたのだ。どんなに苦しかったろう、痛かったろう……。
「……ア、シ、ザ、ワ……ニ、ゲ、タ、ナ……オ、マ、エ……ニ、ゲ、タ、ナ!……ニ、ゲ、タ、ナ!」
途切れ途切れにくぐもった声で恨みがましく言う明石に、芦沢君は土下座した。
「わ、悪かった、すまない! でも分かってくれ、見捨てる気はなかった! ただ、怖かったんだ! 怖くて、助けられなかったんだ! 俺が悪かった! 本当に悪かった!」
すると明石は、不服そうな唸りをあげ、友達をにらみ返した。
「オ、レ、ヲ……ミ、ス、テ、タ……! オマエ、オナジ、ニ、シテ、ヤル! オレ、ト、オ、ナ、ジ、ニ――!」
恐ろしい怨念に満ちた声のはずなのに、私には、傷を受けた無力な子供の、身も世も無い苦しみの叫びに聞こえた。胸がかーっと熱くなり、目にたちまち涙があふれてきた。それに気づき、明石君は目を見張った。
「……ヤ、ヤ、メ、ロ……! オ、マ、エ……!」
口元が震え、何かを恐れているようだった。私は気がつくと祈るように胸の上で両手を組み、彼に向かって激しく念を送っていた。
(かわいそうに、寂しかったんだよね、苦しかったんだよね。分かるよ。私もずっと、そうだったんだ。ずーっと……)
「……ヤメロ……! オマエニ、ナニガ、ワカル……! ヤメロ! ヤメロ!」
彼のあせりと必死の強がりが伝わり、物凄く悲しくなった。言葉をかけたかった。なんとかしてあげたかった。
(もう大丈夫だから、一人じゃないから。あなただけじゃない、同じだから、私も……)
「ヤメロ! ヤメロ! ウルサイ!! ウルサアアアアアアイ!!!!」
わめきちらす声の奥に、全てに見捨てられたものの凄まじい孤独を見た。砂漠だった。暗くなんの潤いもない死骸のような荒野を、ごおごおと冷たい風が吹きすさぶ。
――だめ。こんなの間違ってる。絶対におかしい。こんなのって、ない――!
私は凍てついた悲しみから、とつじょ火のように熱い意思が湧き上がるのを感じた。これを止める。なにがなんでも止める。そして――
この人を、救う!
(つらかったでしょう、悲しかったでしょう。もう苦しまなくていい。休んでいいんだよ……)
相手を包み込むような熱いオーラが、自分の全身から放たれるのがわかる。いつしか口元に笑みが浮かんだ。まばゆい光が、彼を満たしていくのを感じる。
(あなたは、本当によくやった。よく頑張って耐えましたね。もう、休んでいいんです。休んで……)
「ヤメロヤメロヤメロヤメロヤメロオオオオオオオオ!!!!」
叫びは金切り声になり、彼の顔が激しくぶくぶくと泡立った。今、何かに生まれ変わろうとする者の死ぬようないきみ。生みの苦しみだった。
全身がぶくぶくと膨れ上がったかと思うと、彼は急に目を閉じた。叫び狂っていた口は緩やかな笑みになり、私はそこに黄金に輝く、美しく優しい仏の顔を見た。安らかだった。
怒とうのように涙が出た。立っていられず膝をつき、全身から熱い力がほとばしるのを感じる。
明石君は砂糖が湯に溶けるように見る見る小さくなり、そのまま消えた。あとには彼のいた痕跡のような、暗くけだるい気だけが、ぽつんと残った。
これが、私の始めての浄霊体験だった。
「だ、大丈夫か、白井?!」
一瞬、気が遠くなって抱きとめられ、見れば、芦沢君も顔をくしゃくしゃにして泣いていた。
「すごいぞ、お前がやったんだよな! 明石の奴、満足した顔で消えてったぞ!」
そして男泣きで、ありがとう、ありがとう、と何度も感謝する彼を見て、本当にいい奴なんだな、と実感した。
だが、すぐ我に返り、立ち上がった。
「まだ安心するのは早い」
言って、辺りを見回す。
「親玉がいるよ」




