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第八話 キモ川

 序


 Aは息を呑んだ。二人の血まみれの亡霊が目の前にたたずみ、打ち付ける強風にも、写真のように微動だにしないのだ。ここは広々とした校舎裏の空き地。生え放題の雑草の上に、それらは、真昼に突如現れた奇怪な星のように、ぴたりと浮いている。


 だが、Aが驚いたのはそればかりではない。彼は、その二人を知っていた。同じクラスの、あの二人。最近起きたおぞましい事件に、直接ではないにしろ深く関わっていた、あの不快な連中だ。


 彼は凍りつきながらも、じりじり下がった。

 すると亡霊どもは、突っ立ったまま、虚空をすーっと移動し、こちらへ寄ってきた……。




 二体の亡霊は、その日の正午すぎ、その高校の数箇所で目撃された。前述の校舎裏の空き地のほか、一階廊下の窓から見える裏庭など、いずれも吹き荒れる強風の中、それをまるでないもののように髪一本も動かず、この世とちがう別の空間が突如ひらいたかのように、ただ目を見開き、全身から血を垂らして、じっと並んでいたという。


 Aのクラスでは、二人の霊が現れたと大騒ぎになった。そのさなか、Aは空き地において、その死人たちと対峙していたのである。


 血にまみれた、見るもおぞましい二体の亡霊。

 だがそれは、これから始まる、さらにおぞましい惨劇の幕開けにすぎなかった……。


 


 一


 ・キモ川の手記より


 俺の名はキモ川。

 本当は○川という苗字だが、これが完全な通り名になっているから、もうこれ以外を名乗る気はない。

 こんな手記を書いているのは、俺がいつこの世からオサラバするか分からないからだ。



 俺は高校二年。クラスはおろか、おそらく学校中に俺を知らぬものはいないほど有名ないじめられっ子だ。いつ自殺してもおかしくない。そして、日に日にエスカレートするいじめに対して、担任もクラスの連中も知らん顔だ。


 それはそうだろう。「よだかの星」という童話があるが、俺の顔は、そのよだかそっくりだ。鼻はつぶれ、分厚いタラコ唇をした口は、汚れた雑巾を硬くよじったように醜くひん曲がっている。上目づかいの細くて気味の悪い目には、幼少からいじめられ続けてきたどす黒い恨みが、いつも嵐の中の沼のようにぐるぐると激しく氾濫し、それが醜悪に込みあがった頬にだらだら流れ落ちて、ますます嫌な腐臭を放っている。

 小学生の頃にその童話を読んで、よだかは俺のヒーローだった。いつかは、あんなふうに星になるのだ。もちろん、自殺である。

 だが、まだ俺にはすることがある。



 顔が醜いだけでなく、俺の背は猫背だ。ノートルダムの鐘のカジモドみたいに世をすねた最悪の姿勢で、誰でも一目みて俺という人間を理解する。

 どんなに見た目が悪くても、性格が明るくてイイ奴で温和だったら、なんの問題もないばかりか女子にモテさえするが、俺はそれとは真逆もいいとこのウザい陰気の塊で、終始ドブ川にでも顔を漬けているような、潰れたしかめっ面をし、周りに不快などす暗いオーラを撒き散らして生きている。教室の隅、俺の座る机は日陰でもないのに黒い影がさし、通路を行く奴らは一様に腰を引いて避ける。


 高校に上がり、数日でもう「キモ川」の称号で呼ばれることになった。キモいからキモ川。なんのひねりもない。

 だが、これでも昔よりはマシになっているのだ。小学生の頃のあだ名は、バイキンだった。たとえ悪口であっても、いちおう人間っぽい名に格上げされたわけだ。




 両親は俺になんの関心もない。たぶん死んでも気にしないだろう。精神分析の本とかを適当にかじった知識によると、親に愛されないで育った奴がてめえも親になると、やはり同じことの繰り返しになって、自分の子供を愛することが出来ないらしい。

 たとえば俺が指を怪我したり、警察の世話になって帰ってきても、奴らはいちおう不機嫌にはなるが、それだけで叱らない。俺は怒鳴られるでも叩かれるでもなく、ただ暗く重苦しい失望だけを泥団子のように食わされて終わる。


 奴らは何かを恐れている。たぶん自分が親に冷たくされたことを思い出したくないので、心の奥底にしまいこんで鍵をかけている。だから奴らはものすごく無感情で冷たく、心が麻痺している。何も感じないよう、鉄のヨロイで精神を覆っているのだ。何かを隠している奴は、心を麻痺させて、なるだけ感じないようにするらしい。だから奴らを見てると、いつもぼうっとして眠そうだ。


 そして、そいつらに育てられたこの俺も、いつも眠そうにぼうっとしている。学校でぼうっとしていれば、誰かが後ろから後頭部にエルボーを食らわせ、背中を蹴り飛ばし、しゃんとするまで暴行を繰り返す。しゃんとすれば、仲間として受け入れる用意があるからだ。

 だが、いくらやっても無駄だと分かると、そいつにはある地位が与えられる。クラスのお笑い担当、道化。つまり、いじめられっ子である。



 教室で誰かがいじめをやっていると、怒る教師もいるようだが、俺のクラスの担任は話の分かる奴で、クラスの秩序を崩さぬよう、俺が何をされようが見て見ぬふりをしている。俺が痛めつけられ、恥をさらすことによって、クラスの平穏が保たれている。それほどまでに学校に通う俺らには、学業で競争させられ、管理され、抑圧されるストレスが溜まっているわけだ。 それの解消方法のひとつが、俺になっている。しいたげられ、最悪の姿をさらす俺の犠牲により、クラス全員の気が楽になる。


 本物の囚人には悪いが、俺はこんなとこは監獄だと思っている。生徒が犯罪者で、教師が看守だ。まだガキで未熟で、ちゃんとしてないことは、それだけで犯罪であり、裁かれて服役する必要がある。狭い牢屋に犯罪者がひしめき、弱いものが強い奴の慰みものになる。そういう社会の構造を、ガキのうちに叩き込むところなんだろう。


 つまり社会も豚箱なのだ。学校を出たって何も変わらない。強者でなければ誰にも自由はないし、なにも好きなことなんて出来ない。なにかやろうとすると、警察だか役人だかの国家の犬が、銃や鉄パイプをチラつかせて、こう言うだけだ。

「やりたいことをやりなさい。ただし、誰にも迷惑をかけないようにな。誰にも、だ!」


 俺は生まれてから、誰の迷惑にもならない行動を取ったことがない。つまり、「お前のような奴は何もすんな、大人しくしてろ」ということだ。




 俺が教室で蹴りを入れられたり、ズボンを脱がされたりしていじめられると、クラス全員が面白がってゲラゲラ笑うが、俺を率先していじめる奴が三人いる。

 馬場と黒澤と青柳だ。


 馬場は馬面を縦に潰して普通にしたようなつまんねえ顔をしていて、でかい鼻の穴がかろうじてウマ科の面目を保っている。背は低くも高くもない。ただ、やや猫背気味なのが俺と似ており、それが近親憎悪をたぎらせるのか、クラスでは机の通り際に一番蹴ってくる。目が市松人形を思わせる黒目がちで、いかにも心を完全に麻痺させきった本物のアホオである。家はわりと裕福らしいが、親の酷さは俺とどっこいかもしれない。


 黒澤はデブだが図体はでかくない。顔が横に長く、コッペパンみたいで色白だ。膨らんだ鼻と福耳が恵比寿や布袋っぽいが、凶悪な目つきと非情に結ぶ口元がそれを台無しにしている。

 中学のときは不良だったらしく、人が陰気に座っているとすぐキレてやたら絡んでくる。蹴りよりも殴るほうが多い。体育で足が遅いだの、どうでもいいことをいじめのネタにして前髪を引っ張って「どうすんだ、てめえこのやろう」などとすごんでくるが、そういうときの目の奥に正気でない光があるので、クラスの連中にもたぶん怖がられている。もちろん一番怯えているのは俺だ。


 そして、青柳。

 馬場が潰れた馬なら、こいつは人語を話す狂犬だ。ちゃんとすれば男前なんだろうが、その幼い脳みそと、人に文句ばかり垂れるウザさが、こいつを人から病気持ちの犬へと転落させた。

 この三人は遊びと称して俺を池に突き落としたりいろいろやるが、一番程度の低い、小学生もしないような幼稚ないじめを思いつくのが、この青柳だ。俺の背や顔に「バカです」と書いた紙を貼って廊下を歩かせる。女子トイレの個室に入らせて痴漢だと騒ぐ。くだらない。でも、あとの報復が恐ろしいので、するしかない。


 青柳は砲弾を撃たれて大穴でもあいたようにいつも口がひらいていて、誰かの顔を見ればそいつにケチをつけるか、ほかの誰かを悪く言うだけだ。しわの寄った眉間が常に「俺は不満だ」とアピールし、こいつの前を通るときは、誰もが上っ面だけ友達のふりをして、逃げず関わらずの距離を保ち、怒らせないよう上手に立ち回らねばならない。そんな曲芸が出来るのは、まともな家庭に育った普通の人間だけだ。すべてがまともでない俺は、いつも青柳さまの逆鱗に触れて、制裁を加えられ続けるだけだ。




 いじめは幼児期から続き、俺には当然のことなので慣れていたし、心もしっかりと麻痺させているから、精神が崩壊して入院するようなことは起きていない。

 だが、俺の人格が豹変でもしない限り、いじめは永遠に続くだろう。学校を出て会社に入れば、そこの上司や社員にやられるだろうし、歳取ってジジイになれば、周りのジジイやババアにバカにされオモチャにされ、死ぬまで傷つき続けるだけだろう。はっきりいって、何十年生きようが、なにも状況が変わることはないと思われる。


 だから世のいじめられっ子は、ガキのうちに自殺して楽になるわけだが、前述のように、俺にはやることがある。高校に入って二年間毎日やられる俺を見て、「お前、そんなんで、どうして生きてんだ」と哀れむように言われたことがあるが、実はこんなにつまらない人生でも生き続けているのには、理由がある。俺には、好きなものがあるのだ。


 ミミズだ。




 ミミズは、美しい。

 暗い桃色といっても足りない、赤いというと言いすぎのあの独特の色合いに、エナメルのようにつややかな肌。鞭のようにしなやかに動く長くスリムな体。芋虫やムカデじゃダメだ、かっこよくない。


 園児の頃、雨上がりの幼稚園の入り口、タイヤの跡の水溜りにうごめくその姿に魅せられて以来、俺はミミズの虜だ。雨につられて地上へ上がってくるので、うちの裏庭に水が溜まると、わいてくるミミズを軍手で捕まえ、父が釣りで使ったのをもらった発泡スチロールの箱に入れ、そこで密かに飼った。箱の底には泥を詰め、表面に水に漬けて柔くした落ち葉を大量に敷き、そこに放す。その腐った葉が餌である。箱は三十センチ四方あったが、飼えるのはせいぜい三匹がいいとこだった。いい気になって十匹も入れると、お互い圧迫され、弱って早死にした。

 それでも一年は生きるらしい。蚊やハエとはえらい違いだ。ムカデやナメクジは、どれだけ生きるのだろうか。


 いま飼っている三匹に名前を付けている。太郎、次郎、サクヤだ。雌雄同体だから別に男にしなくてもいいのだが、誰が誰だか把握しているわけではない。見たって区別はつかない。ただ、顔を見たら適当に「おはよう太郎」とか「元気かサクヤ」とか呼びかけるだけだ。


 親は知っているようだが何も言わない。廊下にでも這わせたらさすがに嫌がるだろうが、スチロールの白い壁を上がるのは無理のようなので、今まで逃げ出したことはない。


 ともかく、ミミズの飼育が俺の生きがいで、日々学校でどんなに虐待されようが傷つけられようが、帰って太郎たちに会えば、全てを忘れた。たまに霧吹きをかけて湿らす黒い土の中を悠々と泳ぐ彼らを、丸椅子の背にあごを乗せて何時間でも眺めていられた。一緒にいるだけで幸せだった。


 世間では「一日中ひどい目に遭わされている哀れなキモ川くん」と思われているようだが、学校では何が飛んできて当たろうが、何も感じないように全ての感覚を麻痺させているから、あんなところには行っていないも同然だ。

 ただミミズのために生きてきたし、これからもそうだろう。学校生活など、俺の人生の範ちゅうには含まれていない。馬場や青柳が品格を汚物以下にまで下げて便所に流されようが、俺の知ったことではない。




 二


 校舎のはるか反対側にある組の同級生である、白井ののと芦沢一樹が、うちに来たことがある。芦沢は以前、廊下で例によって馬場が俺に蹴りを入れているとき、奴の背に蹴りの直撃を食らわせて追い払ったことがある。


 なぜそんなことをしたのか、よく分からない。普通は関わらないようにするだろう。弱いものいじめとか、卑劣な暴力に腹を立てる理由が分からない。卑劣なんて普通だろう。見て見ぬふり、不運で不器用なドジ野郎は死なせて当然だろう。それが社会の常識ってもんだ。きっと常識を知らない男なんだろう。

 とにかく、彼は怒っていた。「おい大丈夫か、気にすんなよ」とまで言った。こんな、誰が見てもムカつくだけのキモい奴をわざわざ助けるなんて、そうとう変わってると思った。


 人前ではいつも恐怖の塊なんで、もちろん彼に礼は言えなかった。いやむしろ、「よけいなことをしてくれた」と胸が悪くなった。馬場のストレスが増えると、それは全てこっちに返ってくるだけだから。こんなことをされたら、後が怖い。助けるなんて行為は、俺にとって無意味どころか、大迷惑である。




 その数日後、今度は奴は白井と一緒にうちに来た。白井ののは霊能者だという噂があり、俺が学校で殺されたら真っ先に目撃してくれそうだ。俺が幽霊になっても、うちのクラスじゃ誰も気づく奴はいそうにないから。


 俺はしぶしぶ部屋にあげてやったが、気が利かないので、お茶も何も出さなかった。彼は「なんかあったら、俺たちが相談に乗るから。なんでも言ってくれ」などと言い、聖者のようなご親切な施しのお顔をしてやがるので、俺はそれをぶち壊すべく、押入れから例のスチロールの箱を出して見せた。たちまち芦沢の顔は引きつった。

 白井は眉ひとつ動かさない。霊能者なのは本当なのかもしれない。きっと身の毛もよだつような死霊や化け物を見慣れていて、この程度のキモさはなんでもないのだろう。


「す、すごいな」

 冷や汗のまま芦沢がやっと言い、二人は帰った。

 帰り際、玄関で白井がちらとこっちに変な目を向けた。白い目で見られるのには慣れているが、なんだかそういう感じではなかった。俺の顔に死相でも出ていたのかもしれない。


 芦沢は「助けてやる」と言い、実際に助けてくれた。だが、彼が同じクラスにいない以上、自分のことは自分でしなくてはならない。そして、出来ない。ということは、「出来ない」という状態をし続けろ、ということだ。それが「出来ること」だ。


 もちろん、今はここに誰もいないから言ってられるだけで、一歩外に出れば、こんな冷静に考えられるはずもなく、ただおびえ、おろおろしてるうちに、ヤラれて終わる。ここが戦場でなくて良かった。ヤラれたら本当に終わりだからだ。


 しかし、本当の終わりは、意外にすぐやってきた。

 今度はあの汚物三人衆が、うちに来たのだ。




 思えば、今までそういうことがなかったのは不思議なくらいだが、いつも学校が終わるとすぐ逃げるので、放課後まで奴らと付き合うことがほとんどなかった。だから、そこはやや安心していたのだが、どう住所を調べたのか、いきなり来た。馬場が押入れをあけ、あれを見つけた。翌朝、俺の名は「ミミズ野郎のキモ川」に「格上げ」されていた。


 いじめはさらに熾烈になった。「おら泥くえよ、ミミズだろ!」と顔と机を泥で真っ黒にされ、教師が来るまでに拭き取るのが大変だった。担任以外は俺を無視せずに怒るからだ。

 しかし、俺の顔や机に多少の泥がこびりついていても、何か聞いてくる奴はいなかった。俺の場合、人と変わった状態なのは、あるていど当然のことだったんだろう。



 クラスの連中は、俺がミミズを飼っていると知ると。ますます冷たくなった。前のように、あの三人と一緒になってはやすことがなくなり、氷のような目で、それを遠巻きに見るだけになった。たぶん、外見だけじゃなく中身も普通じゃないことを知って、真剣に気持ち悪くなったんだろう。


 だが世間の常識では、ミミズを飼うような奴が好かれるはずもない、と分かっていたから、むしろ理由が出来て良かった。「そうだよな、こんなに気持ち悪いんだから、やられても仕方ないよな」と納得し、クラスに受け入れられることをあきらめきれた。おかげで何をされても、前よりたいしてダメージを受けなくなった。


 心優しいあなたは、「より執拗にヤラれるようになって、ますます無感覚になっただけじゃないのか」と思われるかもしれない。だが、俺はどんなに学校で虐待されようが親に無視されようが、完全に感情を失うことはなかった。テレビでは相変わらず子供の自殺や凶悪犯罪を報道しているが、俺がそうなる可能性はゼロだと思った。なんせ好きなものがあるのだ。生きる意味があるのだ。


 あの三人が太郎や次郎をキモがるだけで手を触れずに帰り、そのあと二度とうちに来なかったのは、本当にありがたかった。この世でいちばん大事な太郎たちに何かされたら、本当に俺には何もなくなってしまう。飛び降りたとか、めった刺しにしたとかのニュースを聞くと、俺もそうなれば簡単にやるな、と思った。


 だが本当の終わりは、すぐに来た。





 その朝、目もくらむほどに形のいいミミズを通学路の路肩に見つけたのが、運のつきだった。俺は弁当箱の中身を捨てて泥を敷き、ミミズを入れてハンカチでくるむと、そのまま学校へ持っていった。


 もう名前をつけていた。クリスだ。なぜそうなったのか、なぜ女なのかは分からない。とっさに浮かんだ名前だった。それほどに、クリスは優雅に見えた。路肩の泥の上、朝日を浴びて黄金のようにきらきらしていた。干からびたら大変だから、ホームルームが終わったら急いで校舎裏の水道で泥を湿してやろうと思っていた。


 だが担任が去ると、黒澤が机に掛かっていたカバンを取り、中をあさった。別にいじめではなく、教科書を貸せというだけだったが、俺はあわてた。間違って弁当箱を引き出した黒澤は、横長の顔を不審にゆがめた。

「ずいぶん軽いな。もう食っちまったのか?」

 あっと床に落とし、ハンカチがほどけ、二つに割れた箱からわっと飛び出たそれに、クラス中が大パニックになった。クリスが通路をするすると這うと、女子から悲鳴の嵐が起きた。俺は必死に飛びつこうとしたが、馬場が蹴った。周りがビビって飛びのく中を、クリスは窓際までずずーっと滑る。


「学校まで持ってきてんじゃねえよ、変態!」

「キメえ、とっとと死ねよ!」 

 黒澤と馬場が怒鳴ったが、窓際には青柳がいた。いつものように口があきっぱなしに、しわの寄った不満の眉間だが、口元は変に吊りあがっている。なにかたくらんでいる顔だ。やばい。


 奴はハンカチでクリスをつかむと、あいた窓に手を入れた。俺はバネのように飛び出していた。奴が手を放すと、俺は窓に吸い込まれ、外に飛んだ。頭が下になり、落ちるクリスの踊る赤い姿が見えた。


 一瞬でまっ暗になった。

 俺は即死した。



「私は死にました」などと書く手記があるはずがない。死んでいくときに、ペンなんかでものを書くことは出来ないし、まして死んだあとはなおさらだ。


 それでも俺は書いている。

 要するに、これは幽霊が書いているのだ。

 あなたが、いま読んでいる、これは――

 死人が書いたものである。






 いったん暗くなったあと、俺は自分の部屋にいた。

 すべては夢かと思ったが、そうではなかった。なにかを触ろうとしても、手がすり抜けてつかめないのだ。ただ、ものを考えると、続きの紙面に文字が追加されるのがノートの外から見えたので、こうして続きを書いているわけだ。


 廊下に出ると、母親が俺を見て腰を抜かして逃げた。たぶん、死んだことになっているのに、ここにいるから驚いたんだろう。学校に行ってクリスの死体を探したかったが、やはり部屋から出られなかった。机やベッドなど部屋の中の何もつかめないうえ、ドアや壁には触れることはおろか近づくことも出来ず、あまり寄るとはじかれてしまう。


 当然、押入れも開けられない。もう太郎たちの世話も出来ない。

 悲しかった。みんなあの箱の中で干からびて死んでいくのだ。なにも分からずに。


 そうだ、すべてはあいつらのせいだ。

 あの三人、とくに青柳があんなことをしなければ、四人もの命が犠牲にならずにすんだのだ。


 そうだ、俺はお前らを許さない。

 必ず同じ目にあわせてやる。

 必ず。



 三


 ・週刊金星 十月六日の特集記事より(敬称略)


 ○川――いや、ここはあえて通称を使い、キモ川と呼ぶことにしよう――の死後、二年X組の教室では数日間、重苦しい沈黙が続いた。見殺しにしたという意味ではクラス全員に非があったものの、特に日ごろ率先していじめていた三人は、さすがに重度の罪悪感にさいなまれたようである。ミミズを窓から投げ捨てた青柳は、「まさかキモ川が外に飛び出すとは思わなかった」と警察に証言した。


 彼の仲間である黒澤と馬場も、この事件以来、口数が少なくなり、しばらくはめいめいの机にかじりついて生活した。が、三日もすると、もう元通りに笑いを取り戻し、以前と同じようにクラスでお互いにふざけあうようになった。それを見て嫌悪感を持つ者も少なくなかったようである。



 その一人、Aはキモ川の後ろ三人目の席にいた。彼はクラスの中では、この事件の唯一の証言者であるが、この事なかれ主義の担任をはじめ、他人に対して決して冷淡でも悪魔でもないが、個人ではぴくりとも動けないという、日本人の典型みたいな連中の中では、最もキモ川に同情し、その最期を悔いていたかもしれない。

 Aは次第に次のいじめのターゲットにされはじめ、第二の犠牲者は自分かもしれない、などと漠然と思っていた。なぜなら彼は故人ほどあからさまではないが、暗い性格を隠して表面を明るく取りつくろう、いわゆる「擬態」に長けていなかったのだ。



 いじめっ子三人衆に徐々にいじられ、何かと絡まれてつつかれるまでになったある日の昼休み、彼は校舎の裏に出た。風が強く、うなりを立てて木々を右に左に押し曲げる嫌な天気だったが、中にいたら三人に会うかもしれないので、このほうがマシだった。Aはキモ川事件以来、昼休みを誰もいない学校の裏で一人過ごすようになっていた。


 裏は塀の向こうに空き地が広がり、地表をびっしり埋め尽くすおびただしい緑の雑草が強風にざわざわとなびいていた。塀にあいた穴から外に出られるので、実質ここは生徒の遊び場である。Aの唯一の安らぎの場でもある。

 空き地に出ると、いつものように向こうに雑木林が延々と続き、曇りのせいで黒ずんで見えた。Aが風を受けながら雑草を踏んで進むと、不意に背後に言い知れぬ気味悪さを感じた。


 何かいる。

 気配といってもいいが、こんな嫌な感じを受けるのは初めてだった。彼は恐る恐る後ろを見た。

 驚がくした。

 全身の血が一気に凍りついた。



 そこには二人の人間が立っていた。鼻の穴のでかい猫背の男子生徒。その隣に、コッペパンのような横長の顔に福耳で太った、これも学ランを着た男子生徒。

 馬場と黒澤だった。


 いつもなら、また絡まれると気を張るところだが、その必要は微塵もなかった。

 二人は普通の状態ではなかった。



 馬場は首を右にかしげて目を苦痛に見開き、頭からまっかな血をだらだらと流していた。顔面を血の流れが川になって注ぎ、黒い制服のズボンの下までそれは続いて、袖やすそから丸い血の玉が、ぼたぼたとしたたっている。


 黒澤は、前にややうつむいてかっと白目をむき、やはり頭から膨大に出血している。頭上には、ぽっかりあいた穴があり、血染めの肉のあいだから白い骨のようなものまで見えた。血は団子っ鼻の上や両脇を豪雨のごとくざあざあ流れ、足元まで滝になって落ちている。



 Aは吐き気がした。二人の足元を見て背筋がぞっとした。雑草の上、数十センチの空間に上履きが垂れ下がっている。

 つまり彼らは宙に浮いているのだ。しかも、こんなに風が強いのに、二人は服のすそがなびくこともなく、写真のように完全に静止している。こんなことは、ありえない。


 Aは知った。

 そうだ、この二人は、もう、この世の者ではないのだ。

 これは二人の、馬場と黒澤の幽霊なのだ。

 そして、彼らをこんなふうにしてしまったのは――。


 見ているそれらの、あまりの異常さ、おぞましさに息も止まり、しばらく固まったが、どこかで首をねじ切られるように悲痛なカラスの叫びがして、はっと正気に戻った。必死に足を動かし、じりじりと後ずさると、二人の亡霊も、ゆっくりと宙を滑り、すーっとこっちに近づいてきた。

 Aは腰が抜けた。苦痛に顔をゆがめた血みどろの亡霊どもが、目の前に迫っている……!



 思わず叫びかけたそのとき、いきなり後ろで声がした。見れば青柳が、まっさおな顔で両のこぶしを握り締め、わなわなと震えている。

「き、キモ川! あの野郎がやったんだな! ちくしょう、出てきやがれ! もういっぺん殺してやる!」

 周りに怒鳴りちらしたが、二人を殺した犯人は出てこない。Aはその場に座り込んだまま、どうすればいいか分からなかった。


 が、不意に、妙なことに気づいた。



 二人の足元である。

 上から血がしたたっているのだから、血はそのまま地面まで糸を引き、雑草を濡らしているはずだ。ところが見ると、血は雑草まで達していない。風になびく葉先のすぐ上に、深紅の血が溜まり、右へ左へ流れて層を成している。そこに見えない床でもあるかのように、雑草に達する直前でストップし、そこで揺らめいている。空の熱帯魚の水槽に、ホースで水を入れだしたときと同じだ。


 そこに、「何か」がある。


 そう思った瞬間、青柳が飛び出した。彼を見ていなかったAには、その理由が分からなかったが、馬場の片目が顔からぽろっとこぼれ落ちたのが見えたので、矢も立てもいられなくなったのだろう。

 だが彼は友人を助けるどころか、触れることさえ出来なかった。相手が霊だからではない。その目の前で何かにぶつかり、はじき返されたのだ。


 壁だ。


 気がつかなかったが、我々と馬場たちの間には、見えない壁がある。彼らは透明の何か分厚いものに囲われている。だから、いくら血が流れても、地面へ達しないのだ。



 Aが徐々に真相を分かりかけてきたそのとき、背後で叫びがした。しりもちをついた青柳が不意に空高く、数十メートルも浮きあがったのだ。

「うわあああ! 助けてくれえええ!」

 彼は悲鳴をあげて空へ浮き、ある一点で静止したと思うと、いきなり下へ向かって、虚空をボールのように転がりだした。それはまるで見えないトンネルの中を――それもかなり広く、巨大な筒の中を――頭から転げ落ちていくように見えた。奇怪なのは、彼の叫びが全く聞こえなくなったことだ。彼の体は、完全に目に見えぬ別の空間に移動していた。


 彼はそのまま、馬場の左隣にすとんと降り立った。そこは狭い場所のようで、馬場たちは前後左右から体を何かに圧迫されて立たされているのだ。血にまみれてすでに事切れているであろう馬場の隣で、青柳は恐怖の表情で周りを見た。Aの姿は見えているようで、こぶしで前の壁を何度も叩き、助けを乞う口をしたが――やはり、声はしない。


 そのうち彼は自分の頭を押さえだした。始めはぎょっとして上を向き、すぐに脳天の辺りを手で押さえ、顔を苦痛にゆがめた。上から頭に何かが落ちたのだ。

 たちまち彼の黒い髪の中から、おびただしい深紅の血がどろどろしたたりはじめ、彼は強固な空間の獄中で、空しくもがいた。隣の馬場の首がもげて足元に落ちるのを見ると、彼は誰にも聞こえぬすさまじい叫びをあげた。



 Aが這うように逃げ出すと、背後で草を重く引きずる、ずずずずっ! という音が響いた。今までは風のゴオゴオいう音で全く聞こえなかったが、今はやんでいたので、それが初めて聞こえた。

 大地をうごめく何かの音。そこでは、山のように巨大な何かが、地面を引きずって動いているのだ。



 Aは全てを悟った。

 馬場と黒澤は、幽霊だったわけではなかった。


 彼らはこの空き地で、生きたまま、ある巨大な生物に飲まれ、胃の中に落ち込んだのである。さっき青柳の頭に落ちたのは、消化液だった。馬場たちは、この巨大な化け物の腹の中で、立ったままゆっくりと時間をかけて「消化」されていたのだ!


 Aは自分も殺されると思ったが、その透明の怪物は彼には目もくれないのか、地響きを立てながら、校舎のほうへ向かった。数分後、彼の教室は轟音とともに菓子のように潰れた。崩壊するコンクリの壁と天井に、担任を含む彼以外のクラスメイト全員が押し潰され、耳をつんざくような悲鳴をあげて死んでいった。隣の教室から続々と生徒が逃げ出し、見えない怪物は、そのまま校内をその透明の体でぐりぐりと押し潰していく。校舎がひとりでに崩れていくように見えるので、被害者たちは、何が起きたか、まるで分からなかったろう。



 すぐに警察が来たが手に負えないと分かり、自衛隊が来たがこれも無理だと判断、最終的に霊能協会に連絡が行った。

 回葉高校の校舎のほとんどが壊滅し、瓦礫の山に何かがうごめいている。逃げられる生徒は全て門の外へ避難し、Aもその中で事態を遠巻きに見ることになった。




 四


 ・キモ川の手記より


 なにかおかしい。

 背が高くなっている気がする。

 頭が天井に着きそうだ。

 視界も広まって、部屋全体を一目で見渡せる。


 もしかしたら、体が大きくなっているのか? これ以上膨張したら、部屋の中に詰まってしまう。なんせ壁には近づけないんだ。


 いったい、なにが起きている……?


 ついに頭が上に着いた。

 おや、感触がある。さわれる。

 もしかしたら……と窓に手を伸ばそうとして、絶句した。


 手が、ない。

 自分の姿は見えないが、そう感じる。


 踏み出そうとした。

 なんてこった……!


 足も、ない。


 俺は、どうなっちまったんだ……?




 ・週刊金星 特集記事より


 校舎は瓦礫になったが、ずるずる這いずる音と飛び散る硝煙で、そこにまだ何かいることは分かっていた。しかし姿が見えない。そこで自衛隊の戦闘機が数台呼ばれ、校舎の上を旋回し、瓦礫全体にくまなくスプレーをかけた。白い塗料を浴びせかけ、怪物の正体を暴こうというわけだ。




 ・キモ川の手記より


 頭と胴体はあるようだから、俺は思い切って窓に頭から突っ込んだ。ガラスはガチャンと派手に割れたが、俺の体が大きすぎた。

 窓もろとも周りの壁をぶち抜き、俺は外に出た。

 俺は胴体だけで、ずるずると地面を這っていく。


 そうだ。

 ずっと気づかなかったが、俺は幽霊になって部屋にいたときから、ずっとこうだったのだ。ただ、元のサイズだから、てっきり人間の姿をしていると思いこんでいただけだ。


 そうだ、

 今の俺は、もうあの情けないいじめられっ子のキモ川ではない。

 今の俺は――

 俺は――!




 ・週刊金星 特集記事より


 おびただしい白ペンキを浴び、廃墟の中に、途方もなく凄まじい怪物が、ついにその姿を現した。

 それはなんと、まっ白な胴体をくねらせ、地響きを立てて瓦礫の山をうごめく、全長五十メートルはあろう、一体の巨大なミミズであった。


 汚染された黒い湾岸からぬっと現れた大海蛇のごとき、そのあまりのおぞましい姿に、生徒や群集は一様に悲鳴をあげ、もんどりうってその場を逃げ出した。門の外は阿鼻叫喚の地獄と化し、警官や自衛官さえ腰が抜けたり、職務放棄して駆け出す者も少なくない。


 彼はキモ川。

 その怨念により巨大なミミズになり、復讐のため、よみがえったのだ。(終)

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