第七話 窓に消える母
兄の飼っているビーグル犬のジミーを、ガトーショコラのお菓子を条件に交代で散歩させています。やたら走り回るわ声はでかいわで、兄も最初はしつけに苦労したようですが、最近は私の言うこともよく聞くほどになついています。
夕方の時間帯に散歩に連れて行きます。というか学校帰りなので夕方しか無理なのですが。朝やりたければ日曜にするしかありません。最初はかったるかった散歩も、ジミーがだんだん可愛く思えてくると、日曜の早朝にわざわざ早起きして連れ出すようになりました。
吉岡さんとは、日曜の朝、近所の川原の土手にジミーを走らせているときに出会いました。季節は五月半ば、嫌な花粉も消えて、そろそろ半そででもいいくらいの暖かさの、とても気持ちがいい朝でした。
吉岡さんはかなり高齢に見えましたが、六十代後半くらいでしょうか。私と同じく犬の散歩中でした。綺麗な茶色の毛並みで、スパニエルのジョージだと言いました。毎週のようにここで挨拶し、互いの犬の楽しそうにじゃれあう姿を、土手にすえつけられているベンチに一緒に腰をおろして眺めるようになりました。
彼は年金生活で、定年後も仕事をしていましたが、腰を痛めてしまい、今は貯金と年金で、生活を切り詰めて暮らしているそうです。私は自分が霊能者だという話はもちろんしませんでしたが、このお爺さんの柔らかな声とゆったりした口調にほっとするので、気がつくと毎週、会うのを楽しみにしていました。
しかしある朝を境に、ぴたりと来なくなりました。さみしいとは思いましたが、ご高齢でもあるし、なにか事情でも出来たんだろう、と、そう気にすることはありませんでした。
そんなある日曜の朝でした。今朝は兄がジミーを散歩に連れて行くと言っていて、早起きする必要はなかったのですが、なぜか目が覚めました。茶の間で「あら、早いのね」と母に言われ、犬小屋を覗くとやはりもういないので、一人で出かけました。兄の散歩ルートは私とは間逆の方向なので、例の川原まで来ても、誰もいません。吉岡さんを最後に見て、もうひと月ほど経っていました。もしやと思って見回しても、やっぱりいません。
ところが、近くの橋げたの影に、誰かいるのが見えました。杖をつき、ひどく猫背になり、雰囲気もとんでもなく暗くなっていましたが、それは間違いなく吉岡さんでした。彼は橋から離れて川原を渡り、一度も振り返らずに住宅地に抜ける小道に出ました。私は後を追いましたが、声をかけずらかったので、黙っていました。今までに見たことのない、まるで十字架を背負っているような、重苦しい雰囲気で、彼はうつむいたまま、とぼとぼと歩きつづけました。そういえばジョージはどうしたんだろう。
そう思ったとき、彼は止まりました。そこは塀に囲まれた倉庫のような平屋で、入り口に門もなく、いったん止まった彼は、その中に入り込みました。私も躊躇なく入ると、庭は草ぼうぼうで人影はなく、長時間使われていない場所のようでした。
「ののちゃん、来てくれたんですね」
ついてきているのを知っていたようで、吉岡さんは不意にそう言うと、倉庫の前に放置されている黒ずんだ木の椅子に腰をおろし、杖を持つ手の甲をあごにあてて、じっとこっちを見ました。今日はじめて見たその顔は、びっくりするほど青黒く、目は虚ろで、今までに見た穏やかなご老人とは似ても似つかぬ病人でした。
「だ、大丈夫ですか?!」
私が聞くと、彼はいかにも無理に笑みを作って、すぐ真顔に戻りました。
「少し体を壊してね。なあに、大丈夫ですよ。医者も歩き回るくらいはいいと言ってくれてるし」
その言葉でいくぶんほっとしましたが、それでも重苦しい雰囲気は変わらず、心配でした。それを察したように、彼は小さく咳払いすると、倉庫の方を見ました。
「驚きましたよ。あの場所そっくりだ」
「あの場所?」
「あそこに窓があるでしょ。中は真っ暗だから、覗くと自分が映るはずです」
確かに、その倉庫と思しき建物には、壁に窓ガラスがはまっていました。黒ずんだコンクリの壁に、まだ廃屋というほど時間が経っていないのか、一メートル四方くらいの窓が、割れてもおらず綺麗にはまっています。もちろん中に明かりはなく、ここからはどす黒い空間があるだけで、中に何があるかは分かりません。
「昔――いやもう、大昔のことですが、私が五歳の頃、ここと同じような建物を見ましてね。母と買い物に行く途中でした。そのとき、なんとも不思議なことがあったんです……」
そして吉岡さんは、ゆっくりとですが、延々とある話をはじめました。
それは、奇怪としか言いようがない体験談でした。
「私が五歳の頃のことですから、もう五十年も前になりますね。あ、老けて見えますからね、七十くらいだと思いましたか。
いいえ、気にせんでください。もともと小さいときから、大人びた顔しとったんです。
六十年代の終わりといったら、暗い時代でね。ベトナム反戦で学生運動が起きたり、みんな貧しくて、テレビやラジオで流れるのも暗い歌ばっかりで。でも、それを吹き飛ばすような明るいのもありましたよ。水前寺清子の「三百六十五歩のマーチ」とかね。その日の夕方も、それを母と一緒に口ずさみながら、買い物に出かけたんです。
一人っ子で、両親に本当に可愛がってもらってね。午後の買い物にはよく、母と町外れのスーパーまで行ったもんです。私の母は、小柄でやせてましてね。その頃の母親はたいてい太ってでっぷりしちゃってたもんだけど。好景気のせいで食べすぎでね。小さい頃、貧しかった反動で。
でも、うちは貧乏なせいで、ろくなもの食べてなくて。だけどそのかわりにね、母はやせて綺麗だったんですよ。学校で貧乏なのを言われると、負け惜しみで『でも、母ちゃん美人だぞ!』って言い返してましたよ。
いつも喪服みたいに地味な黒いシャツを着て、スカートもまた白かったのがくすんでねずみ色になってて。でもその中に、トンネルの先にぽつんと見える光みたいな顔が、ぽっかりときらめいてるんです。怒ることもあったけど、いつも優しい、私に何かあったと思うと心配して、その細い腕に私をきゅっと包んでくれる……そんな母でした。
で、その日の夕暮れも、いつものように母と手をつないで買い物に出かけたんですが、住宅地を抜けて雑木林があちこちにあるさびれた場所――そう、ちょうど、ここみたいな(と、彼はいったん見回しました)――に出ました。歌いながら歩いているうち、いつもと違う道に来ていたようです。見たことのない景色でした。迷ったかと不安になると、それを察したのか母は『大丈夫、この先よ』と笑いました。
それで少し行くと、塀があって、入り口からさびれた平屋の倉庫みたいなものが見えました。なぜか、母は私を連れてそこに入りました。どうしてかと思いましたが、何かゲームのようで面白いんで、何も聞きませんでした。母は、禁止の場所を通って近道したり、時々いたずらっぽいことをするところがあったんです。
塀の中に入ると誰もいなくて、くすんだ倉庫の周りは雑草がぼうぼうで、ひっそりしています。本当に、ここそっくりなんですよ。こんな風に、やや大きめの窓ガラスがあって、中は真っ暗でね。
その前に並んで立つと、自分たちの上半身が、はっきりと映りました。母がなぜそうしたのかは分かりませんが、あんまり鏡のように綺麗に映るんで、私たちはしばらく並んだまま、ガラスの中の自分たちを見ていました。
そのとき、私は母と手をつないでいなかったんですが……。
ガラスに映る母の穏やかな顔を見るうち、なんだか言いようもない不安に襲われました。もう帰りたい、と思った、そのときです。
窓の中で、母がいきなり背を向けたんです。
あっと思って隣を見て、驚きました。
母がいないんです。
周りを見回し、大声で呼んでも、母の姿はどこにもありません。なのに窓の中には、こちらに背を向けた母が、ずっと映っているんです。ここにいないのに、ガラスに姿が映るはずがありません。
私は混乱して、母は窓の中に入ってしまったんだ、と思いました。私は窓の中に向かって、『おかあさあん!』と叫びました。すると、母は首を回して、ゆっくりとこちらを振り向き、にっこりと笑いました。嬉しそうでもないし、悲しげでもない、機械的な乾いた笑みでした。そして、すぐにまた前を向くと、そのまま向こうへむかって、ゆっくりと歩き出しました。
窓の中にある部屋の奥へ歩いていく感じではありません。いま母は、こことは全然別の場所、ここではない違う世界を歩いていて、もっともっと、私の手が届かない、はるか遠いところへ行ってしまう、と思いました。
私は窓を何度も叩いて、『おかあさあん! おかあさああん!』と叫びました。でも母は、それきりこちらを振り向かず、その後姿は闇の中でどんどん小さくなって、そのままいなくなってしまいました。
母は窓の中へ消えてしまったのです。
あとのことは混乱して、はっきりと覚えていません。泣いて元来た道を駆けて戻り、なんとか家に着いてから、父が仕事からまだ帰らないことに気づきました。それで交番に走って、巡査に『おかあさんがいなくなった』と言って、あの倉庫まで来てもらいました。倉庫の持ち主に鍵をもらい、中も庭も全部探してもらいましたが、やはり母は見つかりません。家に帰ってきた父も探してくれましたし、警察も東京中に手配を出しましたが、とうとう今日のこの日まで、消えた母の姿を見ることは一度もありませんでした。
そして父も亡くなり、私も所帯を持ちましたが女房と別れまして……。
今、こうして一人でジョージの世話をして、なんとか生きておるところなんです。
それが最近、重い病気になりましてね。――ああ、大丈夫、こんな顔色で咳もしてますが、出歩いても構わん、と言われてるんで。ジョージは、友達に預かってもらってます。
いや、ののちゃんにはもうジミーがいるし、ののちゃんとお話できて、ほんとに私は幸せだったんですよ。だから、これ以上、甘えるわけにはいきません。ごめんね、『しあわせだった』なんて言うと、もう終わりみたいで嫌な感じだよね……。
でもね、もっと謝らなきゃいけないことがあるんですよ。
医者が『出歩いていい』と言った、ってさっき言ったけど。ごめん、嘘なんだ。
でも、分かってるんですよ。今日限りなんですよ、私。もう今日の夜まで持たないって、言われたから、こうして、ここに来たんです。この場所に、また行けると分かってたわけじゃないが、あれはきっと、似た場所ならどこでもいいんじゃないかって、そう思う。必要なときには、どこにでも現れる、トンネルみたいなものじゃないかな。
とにかく、何かに呼ばれたように病院をそっと抜け出して、川原を抜けてきたら、こんなふうに、あの倉庫にそっくりの場所に来たわけです。ごほっ、そうなんだ。あの、子供の頃に母を最後に見た、あの場所と、う、瓜二つの。
ずっと探していたんだよ、俺は。あ、あのときの――
お母さんを連れて行った、あの――」
吉岡さんはそう言ったきり、杖に重ねる手にあごを乗せたまま、押し黙りました。そのとき、私は窓のほうに、一瞬ものすごい寒気を感じました。しかし、それは次第に人肌のように温かく、包み込むような気に変わりました。
見ていると、真っ暗な窓の中に、ぽつんと白い人の形が現れたのです。驚がくしました。それはどんどん大きくなり、向こうから歩いてくる一人の女性だと分かったのです。
三十歳くらいでしょうか、色白で、目を見張るほどに美しく、仏さまのように穏やかな顔で、黒い喪服のようなシャツにグレーのスカートを履いています。彼女は向こうから窓の前まで来て、その上半身だけが、ガラスの中にはっきりと映りました。窓の前に女の人が立っていて、それがガラスに映っている感じです。なのに、その外側に本人の姿はないのです。誰もいないのに、ただその映像だけが、窓の中にあるのです。
彼女は、そこから数メートルほど離れたところで見ている私には気づいていない様子です。気づけば、吉岡さんは立ち上がり、窓に近づいていきました。私は声をかけることも出来ず、ただ彼の後姿をじっと見ていました。窓の中の女性――それが、昔に消えた彼の母親である、と直感で分かりました。
彼は窓のすぐ前まで来ると、ゆっくりと右手を差し出しました。
すると、信じられないことが起こりました。窓の中の彼の母親も右手を差し出し、彼はそれをしっかりと握ったのです。その握っている手の部分だけが、窓に映った映像のように見えました。窓の向こう、母親のいるあっちの世界に、彼は今まさに入り込もうとしているのです。
「吉岡さん――!」
私は思わず叫んでいました。すると彼は窓の中の母と手を握ったまま、ゆっくりとこちらを振り向きました。
私は目を疑いました。
彼はもう、さっきまでの彼ではありませんでした。
五歳くらいの少年になっていたのです。
ただ顔は妙に大人びていて、いっけん十歳くらいに見えます。その子も母と同じように、うっすらと笑みを浮かべ、見るからに幸福そうでした。しかし、その笑みは妙にくすみ、色あせて見えました。いつの間にか、彼は窓の中にいたのです。
二人は手をつないだままこちらに背を向け、真っ暗な窓の奥へと、ゆっくり歩いていきました。その姿はどんどん小さくなり、やがて、消えてしまいました。
夜のとばりが落ちました。
私は闇の中に一人、残されていました。
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吉岡さんは失踪したとして警察に届けられましたが、結局、行方不明として処理されました。私は話しても信じてもらえないと思い、あのとき見たことを警察には言いませんでした。それ以後、彼の姿を見ていません。
でも、彼が迎えに来た母親に連れられて、窓の向こう側へ行ってしまったことは、私だけが知っています。(終)




