【第4話】良い寝顔だった
「ルードゥス君。作家に必要なものとは、何かわかるか?」
女性が背後にいる少年に問いかけた。
ルードゥスと呼ばれた少年は、動揺しながら彼女の問いに答える。
「えっ? “選択すること”ですよね?」
「素晴らしい。よく学んでいる」
女性は返答しつつも、まだ背を向けていた。いや、そうせざるを得なかった。
彼女はいま、一糸纏わぬ姿で座っている。
いや、正確には前面をタオルで隠している。
しかし、そこのみである。
長い黒髪は頭の後ろで小さく纏められており、背中はすっかり全体を晒していた。
少年は一度ツバを飲み込み、師匠に問い返す。
「アピリア先生……! どうしていま、こんな状況でッ! わざわざそんな事を聞くんですか!?」
二人はいま、アピリア宅の風呂場にいた。
湯気が立ち込め、周囲を真っ白に包み込んでいる。
あるはずの壁や窓も、ぼんやりとシルエットを残すのみ。
まるで世界に二人きりになったような、不思議な空間と化している。
そんな中で、ルードゥスの目の前に師匠の背中がある。
シミ一つない、きらびやかな素肌。
蒸気が水滴となり、彼女の肉体をなだらかに滑り落ちるのが見える。
「キミのその疑問、一理ある。だがよく考えて欲しい。師匠が、弟子と混浴。これが作家になるための修行の他に、何の理由がある?」
いつも通りの穏やかな声色だったが、ルードゥスは敏感に師匠の“心”を感じとっていた。
(アピリア先生……もしかして、怒ってる!?)
少年はすぐさま姿勢を正す。
そして、どこか浮かれていた己を恥じた。
(先生がわざわざ無防備な姿を見せていると言うのにッ! 僕はなんてダメダメな弟子なんだッ! こんなの怒られて当然ッ!)
弟子が心を引き締める気配を察知し、アピリアは話を続けた。
「良い心掛けだ。では、ルードゥス君。その手に持ったあわあわのタオルで、私の背中を丹念に洗いなさい」
「えッッッ!?」
いつの間にやら、少年の右手には泡のついたタオルが握られていた。
「どうした? 弟子が師匠の背中を洗う。作家は皆、これをやっている」
「いや……でもッ」
「ルードゥス君。背中には、人の生き様が現れる。いわば自伝だ。洗いながら、師を読み解いて学んでいく。大切な修行だ」
「……ッ」
「それとも私の背中は、洗う価値もないほどつまらないか?」
「そんなことッ! 先生の背中は……ッ」
ルードゥスは刮目し、改めてアピリアの背を見つめた。
自分より高い背丈。美しい骨格。
武術によって作られた、しなやかな背筋。
高らかにそびえ立つそれは、もはやただの人間の背中ではない。
(まるで……岸壁ッッッ!)
少年は、おそるおそる手を伸ばす。
飛び出した岩に手を掛けると、急に足元が浮く感覚に襲われた。
視線を落とす。足は宙をさまよっており、岩を掴む右手のみで己の身体を支えていた。
「どうした、ルードゥス君。早く上がって来なさい」
遥か上空から、アピリアの穏和な声が聞こえた。
岸壁は雲を突きぬけ、その先まで続いている。
(さすがあの、グッドマンの作者ッ! 座高だけで、天を貫くデカさだッッッ!)
雲の先にある師匠の頭部を目指し、ルードゥスは断崖絶壁を登っていく。
ところが──。
「わッ……わァッ!?」
掴んでいた岩が、壁から剥がれ落ちた。
反射的に伸ばした手は空を切り、ルードゥスはそのまま谷底へと落下した。
眼前に広がる、晴天の空。
強烈な風に全身を包まれた瞬間、柔らかな衝撃があった。
「わァ!? わわッ!?」
情けない悲鳴と共に、ルードゥスはベッドの上で目を覚ました。
「え……夢??」
ホッと胸を撫で下ろしていると、再び頭上からアピリアの声がした。
「どうした? 悪夢でも見ていたのか?」
だいぶ近くからだった。位置的に、頭のすぐ上である。
そこで少年は気がつく。横向きに寝ている自分の前に、真っ白な布の膨らみが二つ並んでる。
アピリアの呼吸音に合わせて、その白く巨大な出っぱりも静かに揺れる。
明らかに彼女の胸部であった。
「あの……アピリア先生? どうして同じベッドに先生が……?」
「弟子は、師匠の安眠を助ける抱き枕になる。作家は皆、やっていることだ」
「何を言ってるんです??」
一体これが、何の修行になるというのか? さすがに変である。
ひょっとしてこの先ずっと、“修行”と称して変な要求をされるのでは??
そんな不安を感じつつも、少年の視線は彼女の胸に釘付けだった。
「しかしルードゥス君。キミが変な声を出すので、私はすっかり目が冴えてしまった」
モゾモゾと、アピリアが身体を動かす。
目の前にある膨らみが近づき、少年は思わず頭を引いた。
「何処へ行く? 離れてしまっては、抱き枕の意味がない」
「いやッッッ、でもッッッ!」
「そうだ、ルードゥス君。キミに何か、面白い話をしてもらおう」
「えっ??」
「十秒以内だ。出来なければ、全身抱擁の刑だ」
「え……? えッッッ!?」
無茶振りである。
慌てふためく少年を尻目に、アピリアはゆっくりとカウントダウンを始める。
「十……九……八……七……」
「そんなッ、先生ッ! 面白い話なんて持ってないですよ……!」
「六……五……四……三……」
穏和な声で、無慈悲に告げられる減数。
しかし、こんな土壇場で愉快な話が思い付くはずもない。
「二……一……〇……〇……〇……」
なぜ“〇”を三回繰り返したのか?
理由はわからないが、その瞬間ルードゥスの視界は真っ暗闇に包まれた。
直後、顔に触れる柔らかな感触。
一度や二度ではない。
ぽふんっぽふんっ、リズムを刻むように何度も顔に触れている。
(んッ……あれ??)
違和感である。
あまりに、顔に触れる面積が小さい。
そこでようやく、少年は目を覚ました。
「起きたか、ルードゥス君」
目を開けると、アピリアがこちらを覗き込んでいた。
「あ……先生。おはようございます……」
まだ頭はぼんやりしている。
これもまた、夢の中だろうか?
しかし、アピリアは紅色のワンピースを着ている。見たことのない服装である。
今度こそ現実かもしれない。
そんな事を考えながら体を起こすと、師匠の手に何かフワフワしたものが握られているのに気がついた。
おそらく先ほど、顔にポンポン押し付けられていたものの正体である。
「それは一体……何ですか?」
「メイク道具だ。ちょっと見て欲しい」
そう言うと、アピリアは少年に手鏡を向けた。
鏡面に映るのは、ルードゥスではなく、見知らぬ美少女の顔。
「なかなかのものだろう?」
「え? 誰です、これ??」
「当然、キミだ。鏡が嘘つきでなければな」
やはりまだ夢の中だろうか?
ルードゥスは思わず、自分の頬をつまんだ。
しっかり痛い。残念ながら現実だった。
「あの……これは何の修行なんです?」
「修行ではない。ただの、私の趣味だ」
「ただの趣味」
「良い寝顔だった。ふと、インスピレーションが沸いた」
「いんす……何です?」
「“感じた”という事だ。思考ではない。私も冷静なら、男子に女子メイクを施そうなどと考えない」
意味は分からないが、とりあえずルードゥスは、彼女の思いつきで女装メイクをされたらしい。
理不尽ではある。しかし『修行と関係ない』とハッキリ言われたことに、少年はどこかホッとしていた。
(良かった……現実のアピリア先生は、何でもかんでも『作家として当然の修行だ』とか言ってくる変人じゃないんだ……!)
すべては変な夢のせいである。
そんな弟子の胸中など知る由もなく、師匠は長髪のカツラとドレスを持って来た。
「折角だ、ルードゥス君。完璧を目指さないか?」
やはり変な人かもしれない。
そう思いながら、女装の提案を丁重にお断りしたのだった。
テーブルに着くと、朝食に温かいミルクと黄色いパンを出された。
(なんだろう……初めて見るパンだ)
ルードゥスがおそるおそる匂いを嗅ぐと、ふんわりと甘い香りがした。
「それは、アルメ・リッター。よく溶いた卵黄に砂糖を加え、パンを浸して焼いたものだ」
一口食べてみる。しっとりとした食感の後、甘さが口いっぱいに広がっていった。
「しあわせ……ッッ!」
「好評で良かった。フルーツもあるぞ」
イチゴも数個いただき、少年はいまだかつてない幸福な気分だった。
「ルードゥス君。ソンリッサ君は、知り合いの診療所に泊めさせてもらった。しばらくはそこで療養することになる。その為の資金は、私が先に払っておいた」
少年は姿勢をただし、行儀のいいお辞儀をした。
「何から何まで、本当に感謝しています。お金は必ず、あとでお返しします」
「その日の一早い到来を、心待ちにしている」
脚を組みなおし、アピリアも姿勢を正した。
「それと、ソンリッサ君のことでもう一つ。私が許可するまで、会いに行かないと約束して欲しい」
「何故ですかッ……?」
「彼女はキミと会ったら、安静にしていられないだろう」
昨晩の様子を見れば、納得の理由である。
少年は目をつむり、静かに「はい」と返事した。
「近況は必ずキミに伝える。いまは修行に専念して欲しい」
ルードゥスを長期間預かる件も、後で工房に手紙を出しておくという。
もはや何も気にすることはない。作家になるため、修行に励むのみである。
ミルクも飲み終わり、そろそろ食器を片付けようとした……そんな時だった。
コンコンと、外からドアがノックされるのが聞こえた。
「しまったな。今日だったか」
「えっ?」
「隠れなさい、ルードゥス君。見つかれば……最悪キミは、死ぬことになる」
「ど、どんな来客です!?」
少年の質問に答える間もなく、入りの鍵が開かれた。
「合鍵を持たせている。もうじきここに来る」
よく分からないが、危険な状況なのは察した。
自分の食器を持ちながら、テーブルの隣りにある横長ソファーの裏に隠れた。
その直後、部屋のドアが勢いよく開かれた。間一髪である。
「お〜〜〜ほっほっほ! マティ様! 原稿を受け取りに来ましたわ〜〜〜!」
クソデカ高音ボイスが、部屋中に響き渡った。朝早くから、なんという元気の良さだろうか。
少年はソファーの隅から覗き、声の主を確認した。
(なんだッ!? この人!?)
ルードゥスは思わず目を見張る。
ハデな登場だったが、服装もハデハデだった。
バラ状のフリルが付いた、膝上丈の真紅のドレス。足もバラが付いた真紅のヒールを履いている。
しかし注目なのは、頭部である。
腰元まで伸びた、薄紫色のロングヘアー。前髪以外のほとんとが、クルクルと縦巻きのロールが掛かっている。
年齢は、アピリアより少し若いくらいだろうか?
長いまつ毛に、小ぶりな唇。美しい顔立ちだが、どこか他人を寄せ付けない、ツンとしたプライドの高さを感じさせる。
何はともあれ、貴族という概念を絵に現したような容姿であった。