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【第1話】作家はいいぞ

 西方の大陸は、熱狂の渦に包まれていた。

 “大娯楽小説ブーム”。

 一八世紀半ば。君主制度がまだ残る『新星ルマ帝国』では、娯楽小説が貴族たちの最大の関心事となっていた。

 そんな熱気沸く帝都ウィエゴから、遠く離れた地。農業区レデミスで暮らす、ある貧困な一家があった。



 オンボロ屋根の家の中で、赤ん坊が泣いていた。

 薄汚れた服を着た少年が、雨漏りを避けながら、そっと赤子を抱き上げる。


「よしよーし、リッサ。いま兄ちゃんがミルクをやるからなー」


 まだ三歳ほどの少年だった。短い金色の髪に、青く澄んだ大きな瞳。

 小皿のミルクを慎重に飲ませながら、優しく赤子へ微笑みかける。

 慈愛に満ちた、年齢以上に大人びた表情だった。


「ルー、いるか? 聞こえるか? なあ、ルー……」


 今度は部屋の奥から、少年を呼ぶ声がした。

 ベッドに、若い成人男性が横たわっていた。

 彼もまたオンボロな服装だが、それ以上に痩せこけた頬が不健康をものがたっている。

 少年は妹をバスケットの中に戻し、男性の側に屈んだ。


「父さん。ボクならちゃんと、そばにいるよ」

「あぁ……良かった。ルー、今日はたしか誕生日だったよな? ちゃんと覚えてたぞ」


 虚ろな目で、男は空中に手を伸ばす。


「え〜と……どこだっけな。ここら辺に置いてたんだけどなぁ」

「父さん……」


 いたたまれない気持ちになって、少年は思父親の手を取る。

 すると彼はニヤリと笑みを浮かべ、握られた手をゆっくりと開いた。

 彼の手の平には、リボンの付いた鍵が乗っていたのだ。


「フッフッフ! ちょっとした手品だ、驚いたろ? 今日のために練習したんだ」


 キョトンとしたまま、少年は鍵を手に取る。


「ちょっとしたサプライズだ。なあ、すぐそこに鍵付きの棚があるだろ? 開けてみな」


 言われるがまま鍵を差し込むと、中には本が入っていた。

 キレイな装丁の分厚い本が五冊。少年は目に入った文字を読み上げる。


「……グッドマンと、なんとかのくみ? グッドマンと風のなんとか……グッドマンと……ええと」

「それは、娯楽小説って物だ」

「ごらく……しょうせつ?」

「ルー、お前は字が読めるし頭もいい。病気の俺に代わって立派に働いてるし、母さんが亡くなってから、リッサの面倒もよく見てる。俺にはもったいないくらい自慢の息子だ」

「……父さん」

「だが、それだけに心配だ……自分の時間がない。人生ってのはあっという間に過ぎてくが、寄り道も大切だ」


 彼はベッドから身を起こし、少年の方を向いた。


「読んでみてくれ。古い友人がくれた、俺の大事な宝物だ」

「たいせつに読むよ。どれもぜんぶ、なんどだって読むよ」

「ああ、きっと気にいるさ」

「うん……! プレゼントありがとう、父さん」


 少年はギュッと父に抱きついた。

 父も息子を抱き寄せ、そっと頭をなでる。


「ルー……感謝してるのはこっちだ。いつもありがとな」

「気にしないでよ。ボクはだいじょうぶだから」

「……もし俺が死んだら、町にいる弟んとこに行け。お前たちの世話を頼んである」

「……」


 少年は口をつむぐ。肩の上に、雫が滴り落ちていた。


「いい父親になりたかった……なりたかったけど……ごめんな」


 これはルーこと、ルードゥスが四歳の誕生日を迎えた日のことである。

 そしてこの二週間後に、最愛の父親は息を引き取った。



 まだ一歳の妹ソンリッサを抱え、ルードゥスは叔父のいる、北方の町へと向うことにした。

 馬車に乗り込むと、妹をあやしながら父から貰った小説を開いた。


(どうしよう……いきなり読めない字だ)「“グッドマンと秘密の組織”」


 驚いて顔を上げると、隣に座っていた初老の夫婦が微笑みかけていた。


「どれ、時間もたっぷりあることだし。読み聞かせてあげようかね」


 彼女の口から語られる、小説の中身。

 それは“グッドマン”と呼ばれる青年騎士が、単身で悪の組織と闘う、アクションありコメディーありの冒険活劇。

 さまざまな場面を想像しながら、ルードゥスは物語に没頭した。

 特に気に入ったのは、主人公グッドマンの不屈の精神である。

 どんなに希望を打ち砕かれようと、泥にまみれ地面に這いつくばろうと、決して前に進むことを諦めないタフさ。

 絶体絶命な状況でも、ニヒルな笑みでピンチ切り抜けていくカッコ良さ。

 そして更に、仲間を助けるためなら、自分が傷付くことさえ厭わないのだ。


(なんだろう……ときどき父さんのことを思い出す。ぜんぜん関係ない人の話なのに……)


 時間はあっという間に過ぎていき、馬車は見知らぬ村で停車した。


「私たちはここまでなんだ、ごめんねぇ」

「君がとても楽しそうに聞いてくれたから、私たちも良い時間を過ごせたよ」

 

 老夫婦が名残惜しそうに微笑む。


「ありがとうございました。文字もたくさん教えてくれて……おかげで続きも読めそうです」


 夫婦に見送られながら、ルードゥスたちを乗せた馬車は再び走り出した。

 席に戻り、少年は妹に語りかける。


「決めたよ、リッサ。これから毎日、僕が本を読み聞かせる。こんなすてきなの、一人で楽しむなんてもったいないもん!」


 本を手に取り、表紙に書かれた著者名を見る。


(すてきな本をありがとう、作者さん。ええと……マティマティカ……アピリア? ふしぎな名前〜)


 一本道を進む馬車の先には、スターンの町が広がっている。

 窓から顔を出し、ルードゥスは目を輝かせた。


「リッサ、やっと叔父さんちが見えてきたよ!」


 これから始まる新しい生活に、少年は胸を躍らせる。

 ところがである。

 叔父の家に到着すると、中から心底うんざりした表情でこちらを見下ろす叔父と叔母が出てきた。


「お前らがあの、出来損ない兄貴のガキどもか」


 義夫婦は、甥っ子を歓迎してくれなかった。



 ルードゥスは納屋でひとり座り込み、息を潜めていた。


(叔父さんも叔母さんも、まるで僕が”いないもの”みたいに無視する。それでも──)


 壁の穴から母屋の様子が見える。

 叔母が顔色ひとつ変えず、淡々とソンリッサのオムツを交換していた。


(リッサのことは見てくれてる……それなら僕は、我慢しなくっちゃ)


 夫妻が寝静まった夜中。

 ルードゥスはこっそり母屋に忍び込み、ゴミ箱から食べ物を漁った。


(誰も助けてくれない……それなら、自分でどうにかする!)


 残飯や野菜のヘタを拾い上げると、少年らニヤリと笑った。


(グッドマンだって、収容所に入れられた時こうして生きながらえてたッ!)


 グッドマンの様に生きたい。

 グッドマンならこうするはず。

 そんなグッドマンへの強い想いが、ルードゥスの心を支え続けた。



 やがて時は流れ──妹ソンリッサが6歳になった頃、転機が訪れた。


「ねー、しってる? おじさん、さいきんギャンブルにハマってるんだって」


 真夜中の納屋にて。

 卵とハムを持って来てくれた妹から、ルードゥスはそんな話を聞いた。


「誰から聞いたの?」

「おばさんが、そー言ってた」


 目を細め、ソンリッサは呆れた様子で溜息をついた。

 兄と同じ、青い瞳と金色の髪。肩まで伸びた長い髪は、キレイに整えられている。

 そしてボロを着ているルードゥスとは違い、彼女はオシャレなワンピースを着ていた。


「その服、よく似合ってるよ。また買ってもらったの?」

「うん。おばさん、わたしに”あまあま”だからねー」


 ルードゥスは思い出す。

 当時まだ3才のソンリッサがスラスラと文字を書くのを見て、夫妻が仰天していたのを。

 原因は、自分にあった。

 毎晩毎晩、妹に小説を読み聞かせていたのだ。

 グッドマンシリーズはもちろん、叔父の書斎に忍び込んでは、棚にある小説を片っ端から読んであげた。

 そして妹に物心が着いてくると、熱心に読み書きを教えた。

 夫妻は、そんなレッスンが行われていた事など知る由もない。

 何も教えていないのに読み書きができるソンリッサを天才だと思い込んだ。

 神童だと近所に自慢して周り、彼女をトコトン甘やかした。

 特に叔母の溺愛っぷりは凄まじく、ソンリッサが欲しがるものは何でも買い与えている。


「ギャンブルにハマるとか、おじさんオトナなのになさけないよねー」

「リッサ。お世話になってる叔父さんのこと、悪く言うもんじゃないよ」

「へーきへーき。おじさん、ワタシとおばさんにはジュージュンなザコだから」


 ニヤニヤと、八重歯を覗かせて笑みを浮かべる。口の悪さも相まって、それは小悪魔めいていた。

 少年は静かに彼女を見つめ返す。


「なーに? 怒っちゃったのー?」

「ううん。リッサが元気に育って良かったって、感動してたとこ」

「あっはー。それはおにぃちゃんのおかげだしー」


 そう言うと、ソンリッサは兄の耳元に顔を寄せて囁いた。


「いっしょにさー、早くこんなトコぬけだそーね」


 生意気に育った妹だが、それでもずっと面倒を見てくれた兄は特別らしい。

 兄のために持って来た服と食料を置いて、ソンリッサは母屋へと帰っていった。

 他にも本や遊具。紙とペンなどの勉強道具もそろっている。

 生活環境は改善された。しかし、少年の表情は暗い。


(リッサのおかげで、なにも不自由ない。でもこのままじゃ、僕に縛られ続けちゃう……)


 ふと目に入る、五冊の『グッドマン』。


(自立しなくっちゃ! そしてリッサを自由にさせるんだ。グッドマンだって、きっとそうするッ!)


 ルードゥスは決意を固め、妹への置き手紙を残して家を去った。

 直接言わなかったのは、引き止められると思ったからである。

 もし引き止められたら……振り払える自信がなかった。

 妹のためとはいえ、本当は離れたくなかったのだ。



 ──それから五年が経過した。


「あのチビがもう一四歳か〜! もう立派な鞄職人だな〜!」


 ルードゥスは、鞄工房の人たちに囲まれて誕生日を祝って貰っていた。


「先輩たちのおかげです。これからもよろしくお願いしますッ!」


 暖かな同僚たちの眼差し。

 少年も笑顔を浮かべているが、置いてきた妹のことが気になっていた。


(リッサ……きっと今も、良くして貰ってるよね)


 彼女が学校に通う姿を目にしたことがある。

 数人の友達と楽しそうに話しているのを、草葉の陰から見つめた。


(これで良かった……良かったはずだ)


 楽しげな雰囲気の中、工房長が神妙な面持ちでやってきた。


「ルー。さっき噂を耳にしたんだが……君の妹さん、大病に罹ってるらしい」

「え……?」


 突然の知らせに、ルードゥスは呆然とする。

 同僚たちも心配そうに少年を見つめる。


「それでリッサは……何処の病院に?」

「いや、恐らく自宅だろう。父親が借金取りに追われてると聞いた」 


 かつて妹から聞いた話が思い出される。


(叔父さん……! まだギャンブルをッ)


 工房のみんなに促され、ルードゥスはすぐさま妹の元へと向かった。



(大丈夫だ……長年働いてきたお金がある。これで治せるはずだ……!)


 叔父の家へと走る馬車の中。父親のことが頭を過ぎる。


(あの時は貧乏で、父さんの病気を治療できなかった……! もう二度と、あんな気持ちになりたくない)


 溢れ出てきた涙を拭う。


(今度こそ救う! 今なら救える!)



 久しぶりに帰宅したルードゥスを出迎えたのは、夫妻でも妹でもなく、借金取りだった。

 五人の屈強な男たち。そして部屋奥のベッドには、横たわる妹の姿があった。

 妹の元へ駆け寄ろうとしたが、男の一人に道を塞がれた。


「おい、ガキぃ。お前ぇもこの家の人間だろ? 貸したモン、返してくんねーかな?」

「僕は妹に会いに来ただけです……!」

「アララぁ、かわいそ〜な妹ちゃん。クズ親には逃げられ、今度はお兄ちゃんにも見捨てられんのかぁ〜」

「何を言ってるんですか? とにかく妹に会わせてくだ──」


 言い終わるより先に、ルードゥスの腹に蹴りが入った。

 突然の痛みに、思わず屈み込む。


「払うの? 払わねーの? さっさと決めてくんねーかな?」


 ルードゥスの身体は震え出していた。

 周囲の男たちから漏れる嘲笑。

 自分があまりに非力であることを、嫌でも実感させられる状況。


「はら、払いますッ……! 払うから……妹に会わせてくださいッ!」


 妹のために持って来た全財産を、叩きつけるように床に置いた。

 いま少年にできる、唯一の抵抗だった。

 周囲から「おおおぉ〜!」と言う感嘆と拍手が鳴る。


「マジ〜? 男気すげー。感動モンでしょ、コレ」


 そう言って男が床からお金を拾うと、ルードゥスの肩にそっと手を置いた。


「でも足んねー。ぜんっぜん、足んねーんだわ」

「そんなッ……!」

「いやいやいや、なに被害者ヅラしての? こっちは貸した金持ち逃げされてんの! ちゃんと返してくんねーと困るじゃん?」


 今さっき出した全財産。そこには工房の人たちからのカンパも含まれていた。

 妹の入院治療費の足しにと、みんなが出してくれたのだ。

 もうこれ以上、頼ることはできない。

 かと言って、お金を借りるアテもない。


「……ったく。どーしょーもねーって顔してっから、特別に教えてやっか? 金がねー時は、盗んでくんの。常識だろ?」

「え……」

「あ? なに? 妹ちゃん見捨てんの?」

「違いますッ! でも……」


 男は舌打ちすると、ルードゥスを外へと連れ出した。

 もう夕刻になろうとしている。

 沈み始めた太陽が、町を紅色にそめていた。


「あそこに酒場があんの見えっか?」


 坂を上がった先にある、灯りのついた建物を指差した。


「もうじき、仕事終わりのおっさんが集まる。ソイツらから盗んで来い」


 長く伸びた、赤レンガの煙突から煙が立ち昇っている。

 酒場と言うには、いささか小綺麗な建物だった。


「夜になりゃ、みんな酔っ払ってクソみてーな話でブチ上がってっからよー。お前ぇみてーなガキなんざ誰も気にしねぇ。獲りまくれ。そんで今日中に金を持って来りゃ、ちゃ〜〜〜んと妹に会わせてやっから。な?」


 そう言い、男はルードゥスの背中を叩いた。



 日は完全に降りた。

 ルードゥスが指定された酒場へ入ると、身なりの良い大人たちが所狭しとテーブルを囲んでいた。

 中流階級の商人たちが集まる店らしい。

 厚切りベーコンとポテトのチーズ乗せや、牛肉と香草の串焼きなどの肉厚な料理が並んでいるのが見える。

 他にもシチューが入ったパイや、一口サイズの果物を茶色い液体に付けたりなど、少年が見たことも無いモノもあった。


(言ってた通りだ……)


 どこもかしこも酔っ払って、上機嫌に語り合っている。だからなのか、明らかに場違いなルードゥスを誰も気に留めていない。

 店員すらも接客の対応で手一杯のようだった。

 目的を果たすには、絶好のチャンスである。

 かつては生きるため、叔父たちが寝ている間に家の中にある食品を漁っていた。

 叔父の書斎に忍び込んで、何冊も本を借りたこともある。

 ひっそり物を取ることには慣れているのだ。

 しかし、ルードゥスの気は重い。

 どんなに貧しくても、金品を盗んだことはない。


(やるしかない……! 僕がリッサを救うんだッ)


 視線の先に、話に夢中なっている男がいた。

 隣には口を開けて置かれた鞄。隙だらけだった。

 それだけではない。

 ルードゥスは鞄工房に勤めたことがある。

 男の鞄は、工房で手がけたことがある型だった。


(あの鞄なら、中の構造を知っているッ! どこに財布をしまうか、おおよそ見当が付くぞッ)


 ルードゥスは何でも無さそうに、自然を装って近づいた。

 鞄まで、あと数メートル。


(手早く財布を抜きだす。そのお金で妹を救う。ただそれだけ……)


 目的だけに集中しようと、頭の中でこれからする事を繰り返す。

 ところが、いざ実行しようとしたところで、ふと男の話が耳に入った。


「んでよぉ〜。ホントにウチの娘が可愛くて可愛くてしかたなくてさ〜〜〜! 『パパだいすき』っつって、オレの似顔絵をキャンバスに描いてくれたんだよ! もぅ〜天使だよ……今度の誕生日には、本を買ってやろうと思ってんだ」


 話を聞きながら、ルードゥスは何もせずに横を抜けた。

 そしてそのまま少し進んだのち、物陰に座り込んだ。


(盗めない……盗める訳がない。みんな幸せに暮らしてるだけなのに……どうして僕が、それを邪魔しないといけないんだッ!)


 湧いて来たのは、怒りの感情。

 いま自分が置かれている、理不尽な状況への憤りだった。

 悪に染まらなければ、助けたい命を助けられないという理不尽。

 他にどうしようもないという己の無力さ。腹を立てるしかなかった。


(くそッ! くそぅッ! 何でなんだ……! なんで僕は、こんなに無力なんだッ!)


 怒りの収まらない少年に、再びチャンスが訪れる。

 カウンターの座席に、ポツンと鞄が置かれていた。

 近くに人は居ない。持ち主はトイレにでも行っているのだろう。

 あまりの不用心さを見て、ルードゥスはふと思う。


(僕はきっと、あの鞄と同じだ……ただただ無防備で、だから好き勝手に奪われる。その後でいくら怒っても、何の意味もない。僕はなにも分かってなかったんだ……)


 静かな足取りで、まっすぐ座席へ向かう。


(奪う者がいて、奪われる者がいる。自然なことじゃないか……今だけ、僕は奪う側になった。それだけじゃないかッ)


 心の中でそう呟きながら、放置された鞄を掴む。

 ズキリと、心に痛みが走った。

 ふと思い浮かぶ、妹や両親の顔。

 まだ後戻りできるかもしれない……そんな思考が頭を過ぎる。

 それでも鞄をしっかり掴み、ルードゥスはそのまま振り返ることなく店の外へと向かった。


(リッサ……良い兄ちゃんになれなくて、ごめん……!)


 その直後だった。

 少年と入れ違いで、トイレから黒髪の女性が出て来た。

 ハンカチで手を拭きながら席に戻ると、自分の鞄がなくなっていることに気がついた。


「……」


 通路の先の、入り口に目向ける。

 ドアが半開きになっているのを見て、女性は静かにその場を後にした。



 外に出たルードゥスは、鞄の中身を確認するため、近くの小屋に潜り込んだ。

 板をならべ、灯りが漏れないよう注意しながらランプに火を入れる。


(ここに財布がなければ、また盗んで来ないといけない……!)


 祈るような気持ちで、入念に鞄の中を見る。しかし財布らしきものは出てこない。

 よく分からない小物がたくさんと、キレイに折り畳まれた紙があるのみ。

 ガッカリと肩を落とすルードゥスだったが、念のため紙を確認することにした。

 質の良い紙なら、それなりの値段で売れる。収穫ゼロよりはマシである。


(これは……?)


 広げてみると、長文が書き連ねられていた。

 


─────


 黒いマントをなびかせながら、男爵は問いかける。

「グッドマンよ! この世はいま、強者が弱者から一方的に奪い取るばかり! こんな理不尽な国、守る価値があるか? 命を掛けて戦う価値があるか?」


─────



 目についた一文を読み終え、ルードゥスは固まった。


(グッドマン……? グッドマンだって……!?)


 目の奥が、急激に熱くなっていく。

 その時だった。


「動くな、少年」


 突如、真後ろから女性の声がした。


「そのままゆっくりと、持ってる物を鞄に戻しなさい。そうすれば、命は奪わない」


 ルードゥスの首元には、棒状の細い刃物が当てがわれていた。

 女性はルードゥスを追跡し、いつの間にか背後を取っていたらしい。


「どうして……ですか?」

「愚問だな。私が持ち主だからだ」

「どうして……グッドマンがここにいるんですか……?」


 ルードゥスの目から、涙が流れ始めていた。


「どうしてなんですか……どうしてグッドマンが……」

「……なぜ泣く? 泣きたいのはこっちだ。財産より大事な物を盗まれたんだ」

「グッドマンは、僕の……心の支えです……支えだったんです」


 涙声で少年は続ける。


「でも僕は……グッドマンの様にはなれなかった……」

「……」


 女性は武器を引っ込め、ルードゥスの正面に回った。

 木材をどかし、ランプの火を強める。小屋の中全体が、温かな光でぼんやりと照らされた。


「どうやら私は、自作の読者に鞄を盗られたらしい。実に嘆かわしい事態だ」

「……えっ?」


 少年は驚いて顔を上げた。

 明かりを背にし、長い黒髪の見目麗しい女性が立っている。

 その姿は、どこかこの世ならざる、神秘的な存在に感じられた。

 身長は、頭一個分よりさらに高い。

 ルードゥスは特別小柄ではあったが、それを抜きにしても長身の女性である。


「ひょっとして……あなたは、マティマティカ・アピリア?」

「ああ、そうだ」


 口調は硬いが、彼女の声色は一貫して穏やかだった。それこそ、背後から刃物を突き付けていた時からずっとである。

 奇妙なほどの一貫性だった。


「著者を把握しているとは感心だ。キミの名を聞こう」


 涙と鼻水を拭い、ゆっくり返答する。


「……ルードゥスです。ルードゥス・イグニシオ」

「“イグニシオ”だと?」


 アピリアはルードゥスの顎を軽く持ち上げると、身をかがめ、ジッと顔を見つめた。


(わあぁ……近いッ!)


 息が掛かるほどの距離である。

 朱色掛かった、澄んだ紫の瞳。間近で見ても、息を呑むほど美しい顔立ち。

 少年は自分の頬が赤くなっていくのを感じた。

 対して、アピリアの表情には何の変化もない。一本調子な声色と同じく、ずっと穏やかであった。

 怒っているでも、突き放すでも、無気力なワケでもない。ただただ、ひたすらに温厚な表情が保たれている。

 嫌な感じはない。安心感すらある。

 しかし結局のところ、何を考えているのかわからない。妙なミステリアスさがあった。


「ひょっとしてキミは、デセオ・イグニシオの息子か?」

「えっ? そうです。デセオは僕の父の名前です」

「……なんということだ」


 ようやく顔を離すと、アピリアは背を向けて黙り込んだ。

 考えごとをしているらしい。しばらくその状態のままだった。


「あの……父のことを、何か知っているんですか?」


 気になって問いかけると、ようやくアピリアは振り向いた。


「……その質問に答える前に、キミが鞄を盗んだ理由を聞こう」


 表情は変わりなく穏やかだった。


「罰したいからじゃない。興味がある。キミが“鞄を盗む”に至るまで、どんな人生を辿って来たのか」

「僕の……人生?」

「そうだ。是非、聞かせてくれ」


 なぜそんな事を聞きたいのか、ルードゥスには分からなかった。

 分からなかったが、話し始めると止まらなかった。

 貧困な生活。両親の死。妹との日々。グッドマンとの出会い。そして──いま現在に至るまで。

 アピリアは静かに、実に興味津々といった様子で相槌をうつ。


(そんな聞き入るほどの話かな……)


 ルードゥスは未だかつて、ここまで自分の事を話したことがなかった。

 自分の話など無意味で、価値のないものと思っていたのだ。

 そんなものより、他人のため、家族のために生きることの方が大切だと信じていた。

 初めてのことである。ここまで真剣に、自分のことを聞いてもらえた事など。


「……これもまた、運命か」


 話を聞き終えると、アピリアは静かにそう呟いた。


「運命……?」

「いや、それはともかくだ。キミの事情は理解した。なぜ盗みを働く必要があったのか、よく分かった」


 長い髪をかき上げ、少年を見おろす。

 ルードゥスは改めて自分の状況を思い出し、顔を強張らせた。


「鞄を盗んだこと……本当にすいませんでした」

「その件は、目をつむるとしよう。それより、先ほどのキミの質問だが」


 ルードゥスの父親と、彼女の関係についてである。


「キミの父デセオとは、歳は離れていたが、友人だった。私が作家になってからは疎遠だったがな。まさか……既に亡くなっているとは思わなかった」


 彼女の表情は相変わらず平穏だったが、ほんの一瞬だけ、どこか悲しさをまとって見えた。


「父は……『古い友人から貰った宝物』と言って、あなたの小説を僕にくれました」

「宝物? そう言ったのか?」

「はい。いまは僕の宝物です」

「……」


 アピリアは再び、少年に背を向けた。

 腕を組み、しばらく目をつむっていた。


「ひとつ提案なんだが……ルードゥス君」


 重たげに口を開き、振り返る。

 穏和で静かな瞳が、真っ直ぐ少年を見つめた。


「キミ、作家にならないか?」

「えっ……??」


 突拍子のない提案に、少年は驚いた。

 あまりにビックリしたので、開いた口が塞がらない。

 それでもアピリアは、落ち着いた口調で続けた。


「いまこの国の貴族たちが、もっとも熱狂しているものは何か? 『娯楽小説』だ。オペラでも、戦争でもなく、『娯楽小説』。作家になれば、妹の治療費を稼げる。確実にだ」

「えぇ……いや、でも……」


 そうは言われても、とルードゥスは思った。

 小説を書いたことも、書こうと思ったことすらない。


「もちろん簡単な道のりではない。しかし私が手取り足取り、キミが作家になれるように教え込む。そうすれば一年……いや、一年未満でキミは作家になれるだろう」

「一年……?」


 工房で働いて来たのだ。技術習得の困難さを、身に沁みて分かっていた。

 どんなに教える側が上手くても、実践するのは素人の自分である。

 一年で作家になるなど、どう考えても無茶に思えた。


「僕は……妹を助けられるなら、なんだってやるつもりでいました。それこそ、盗みだって。でも……実際のところ、自分にやれる事なんて、ほんのわずかなんだと思い知りました」

「仕方のないことだ。誰しも限界はある。だがキミはまだ、作家になろうと挑戦したことはないだろう?」

「そうですけど……」


 まだ釈然としない様子のルードゥス。

 そこでアピリアは、自分の鞄を少年の目の前にストンッと置いた。


「今のキミは、これと一緒だ」

「えっ……?」


 ルードゥスはドキリッとして、目を見開いた。

 口を広げた鞄を指差し、アピリアは続ける。


「これに何を詰める? 何を入れたい? 何が入っていたら、キミは『嬉しい』と感じる?」


 難しい質問だった。

 しばらく固まっていると、アピリアは中から小説を書いた紙だけを取り出し、鞄を放り投げた。


「えぇ!?」

「私はこうする。大切なのは、こっちだからな」

「そんなッ! 何を入れるかを聞かれたのに……」

「一理ある。だがこれも『何を入れるか』に関する話だ」


 アピリアは自ら投げ捨てた鞄を拾い上げ、その中に再び紙を入れた。

 とても大事そうにしまうのを見て、ルードゥスはハッとした。


「僕は……妹を助けたい。そして守りたい。そのための力が欲しい……!」


 そしてその『力』は、妹に誇れるものでありたい……少年はそう、強く思った。


「ルードゥス君、作家はいいぞ。身分は不問。誰でも可能性がある」


 作家という、未知の世界。しかし誘いの主は、あのグッドマンの作者である。もう二度とこんな機会はないだろう。

 少年の瞳に、もう迷いはなかった。

 アピリアを見上げ、真っ直ぐな視線を向ける。


「もし本当に、僕にチャンスを頂けるというのなら……! ぜひ僕を、あなたの弟子にしてくださいッ!」

「二言はない。私はキミを歓迎する」


 アピリアはそう返すと、シャンっと背筋を伸ばし、平らにした左手と拳にした右手を突き合わせた。


「これは“抱拳礼”。作家は皆、挨拶する際にこれを行う。キミも同じようにやってみなさい」


 そうなの? と疑問が浮かんだが、ルードゥスはひとまず見よう見まねで抱拳礼をしてみた。


「上出来だ、ルードゥス君。では早速、妹の元へ案内してくれ」

「えっ!? でも僕、まだお金が……」

「案ずるな」


 アピリアはルードゥスの頭に、ポンっと手を置いた。


「私は作家。流派は『活劇』。そろそろ胸のすく展開が必要だ」


 小屋を出ていくアピリアの背中を見つめながら、ルードゥスは疑問に思った。


(一体どうするつもりなんだろう? 鞄にはお金は入ってなかったけど……)



 一〇数分後──。

 二人は叔父の家にて、借金取りと対面する。

 そこから先は、冒頭のシーンの通りである。

 『作家』マティマティカ・アピリアは、どういうワケか『武術』の達人だったのだ。


「ルードゥス君。作家になる者は全員、武術を身につけなければならない」

「いや……まったく分からないですッ! どうして作家を目指すのに、武術を学ぶ必要があるんですか!?」

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