#4
学校に戻ることもできた。もう、ネフスキー先生はいないのだから。でも、学校に通うようになったら、リズと一緒に勉強する必要がなくなる。
それはダメだ。
事情があって学校に行けないリズを置き去りにはできない。そもそもぼくはリズと勉強がしたい。リズと一緒にいたい。だから、学校には戻らないと決めた。これまで通りがいい。
その日は夜中に家をでた。夜のピクニックにさそわれたんだ。
母さんが紅茶とクッキーを持たせてくれた。集合場所はいつも遊んでいる秘密の入り江だ。
船も着けられない小さな入り江で満ち潮には海に沈んでしまう。ここで遊べるのは昼間の短い時間と夜中だけだ。
10コールはありそうなタウリラの木の間をぬけて砂浜にでるとふたりの姿があった。ランタンを囲むように並べたチェアーに座って空を見上げている。
つられて空に顔を向けたぼくは声をあげていた。
夜空に敷きつめられた星々がまたたいている。
「ノイー!」
リズが手を振っている。
「星が降ってきそう!」
楽しそうな声にぼくのわくわくは止まらない。
ぼくたちは星空の下で持ちよったお菓子をつまみながら、歌をうたったりゲームをしたりした。楽しい時間はあっという間にすぎてしまう。
気が付くと、すぐそばにまで波が届くようになっていた。
次はいつにしようか、何を持って来ようか、話し合いながら帰りじたくをしていたときのこと。
大きな音がした。
水のはねる音だ。
びっくりして音のしたほうに目をやると、波打ち際に何か落ちている。今の今まで、そんなものはなかったのに。
「・・・・・・なんだろう?」
つぶやいたリズが近づいて行くから、ぼくはランタンを持って後を追った。だんだんそのもののが輪郭が見えてくる。
パーメか何かが座礁したのだろうと思っていたけど、どうもちがうみたいだ。「きゃっ!」と叫んだリズが顔をそむけた。
真夜中の秘密の入り江に打ち上げられていたもの。
それは、ひとだった。はだかのおじさんは傷だらけだ。
ランタンを近づけて顔をのぞきこむと、重たそうなまぶたを開いたおじさんと目が合った。暗い瞳に光がともる。
「・・・ああ、ミーシャ 生きて・・・ 大きく・・・」
聞き取れた言葉はとぎれとぎれだった。ぼくを別の誰かとカンちがいしてるみたい。でも、ちがうとは言えなかった。
おじさんのうれしそうな顔は今にも泣き出しそうだったから。
ぼくに向かってのばそうとする手が震えるている。ランタンを置いてその手をにぎりしめると、おじさんは大粒の涙をこぼした。
「ふううう」と長い息を吐いて、ゆっくりと目を閉じたおじさん。眠ったのかと思ったけれど様子がヘンだ。
「誰か、助けを呼んでくる!」
ランタンを持って走り出そうとしたぼくをするどい声が引き止める。
「待って!!」
振り返るとゆっくりと顔を上げたリズと目が合った。
「もう死んでる」
星明かりに照らされたおじさんの上に夜の闇が降り積もっていく。
そうか、死んでいるのか―――
頭のしんがじーんとして、体が冷たくなる。
「と、とにかく、ひとを呼んでくるよ」
「ダメ。」
ぼくがしぼりだした声はかすれていたけれど、リズの声ははっきりとしていた。目の前に死体があるっていうのに、怖くないの? ぼくはさっきから震えが止まらない。
「で、でも、放ってはおけないよ」
「ひとを呼んで来たらここはもう秘密の入り江じゃなくなっちゃう」
リズは何を言っているんだろう。そんなことを気にしてる場合じゃないのに。
「じゃあ、どうするの?!」
ぼくは半泣きになっていた。
「このひとは海から来たんだから海に帰ってもらえばいい」
こともなげに言い放つリズにあぜんとするばかりだ。
「ティアン、手伝って」
リズは本気だ。
「ほら、ノイも押して」
言われるまま砂がつまった袋みたいに重たい死体を海に向かって押した。
「あとは波が沖へと運んでくれる」
なんとか浮かび上がらせることに成功したときにはみんなずぶぬれになっていた。疲れと恐怖とでもうフラフラだ。
「せっかくのピクニックが台無しだね。後片付けはティアンとやっておくから、ノイはもう帰って」
リズの言葉に甘えることにした。1秒でもはやくここから離れたかった。
家に帰り着くと、何度も何度も手を洗った。それでも死のにおいが残っているような気がして手首から先を切り落としたいとさえ思った。
不思議とリズのことは心配にならなかった。たぶん、リズには前にも同じようなことがあったんだ。でなければあんなに冷静でいられるはずがない。
次の日も、その次の日もリズの家には行かなかった。リズに会うのが怖かったんだ。
あの夜のリズはぼくの知らないリズだった。姉弟が抱える事情を教えてもらって何でも知ってるつもりになっていた。とんでもないカンちがいじゃないか。
死体は、、どうなったのだろう。
あの後テレビのニュース番組は必ずチェックしているし、新聞も隅から隅まで目を通しているけれど、それらしいニュースはない。今のところは。
どうにも落ち着かないし、母さんに心配をかけたくもない。3日目にはリズの家に足を向けていた。
リズはいつも通りの笑顔で迎えてくれた。いつも通りに勉強をしてランチを食べて、ふたりに変わったところは何もない。
ぼくは勉強に集中できないし、母さんが作ってくれたサンドウィッチも味がしない。
ぼくが動揺しすぎなの? あんなことがあったんだよ。次に同じことがあったら冷静でいられるの?
・・・・・・無理だ。それがぼくの知らない誰かだとしても、ひとの死にふれるのは恐ろしい。
リズにはこれが何度目なの? ぼくの知らないリズは、明るくて強引でちょっとわがままな彼女がひきずっている影のような気がした。
光が強ければ強いほど落ちる影は濃くなると、いつか読んだ本に書いてあった。
それからのぼくはリズを注意深く観察するようになった。友だちだと言ってくれたリズのことをもっと知りたいと思ったんだ。
もちろんリズのことは大好きだけれど、リズの表面しか知らないぼくの気持ちが薄っぺらいもののような気がした。ちゃんと知って、ちゃんと友だちになりたい。
数日間は何もなかったかのようにすぎて行った。死体はまだ上がっていない。もしかすると、もう2度と誰かの目にふれることはないのかもしれない。
このままあのいまわしい記憶が薄まってしまえば、また秘密の入り江に行けるようになるのだろうか。
そんなことを考えるようになっていたある日のこと
世界が壊れる音を聞いた―――
リズの家から帰って来ると、玄関先に若い女のひとが立っていた。母さんと話している。
ぼくに気付いた母さんが「おかえり」と言うと、その女は振り返って「おかえりなさい」と言った。
親しげにほほえむこの女は誰なんだろう?
「人を探しているんですって。トーニはこの人を見かけたことはない?」
母さんに渡された写真に目を落としたぼくの息が止まった。
まちがいない。――――あのおじさんだ。
引き延ばした証明写真のおじさんはまっすぐにぼくを見ている。写真を持つ手が震えた。
「知っているのね!」
声をかけられて我に返った。
ぼくの顔をのぞきこむ女の目にはおびえるぼくが映っている。
「いつ、どこで見かけたの?」
なかったことになんてならない。ひとがひとり死んでいるんだ!
つま先からはい上って来た恐怖が全身を包んでいく。うまく息ができない。
女の視線から逃げられずに後ずさる。ちゃんと言わなきゃ。ちゃんと!
「し、知らない!」
しぼりだしたひと言をそこに残して自分の部屋に逃げ込んだ。
母さんがぼくの態度をわびる声が聞こえて、女は帰って行った。その日、ぼくが部屋からでることはなかった。