あなたの海
人の体の中には海がある
千秋の知り合いが住む港街に向かう途中の砂漠で、透弥は誰が言っていたのかすら思い出せないそれをふと思い出していた。
心音や呼吸音、内蔵が動く音、血液が巡る音にその人の人柄が混ざると、海の中の音と類似するらしい。詳しくは思い出せないが、自分の記憶を確かめる術なんて今の透弥にはない。
そんな根無し草のような話を思い出しながら、目の前に座る青年に語って聞かせた。普段はこんな話はしない。基本自分は聞いてばかりだ。
「へぇ〜、面白いなそれ。人の体内が海かぁ」
小型のガスコンロで湯を沸かしながら、千秋は興味深そうに何度か頷く。
隣町くらいなら徒歩でも半日あれば着く、と豪語していたのにも関わらず辺りはとっぷりと暮れ、空には無数の星と綺麗な月がぽっかりと浮かんでいた。
目の前で「あ〜……」と困ったように笑っていた千秋に、だから無茶だと言ったのに、と言いそうになるのを飲み込み、夜の移動は危険だからと休息を提案したのは十数分前のことだ。
砂漠の夜は寒い。薄い布一枚を体にぐるりと巻き、首にはいつものマフラーを巻いた状態で膝を抱え、それでもまだ寒いくらいだ。
それなのにいつも通りのゆるゆるとした服のみを身にまとい、平然と笑っている千秋に透弥は言いようもない不気味さに近いものを感じた。この人に体感温度という概念はないんだろうか。
「でも海の中って、音がなくて静かそうだけどな」
そう言って星空を見上げる千秋に、透弥は小さく首を振り「そんなことないよ」と否定した。
海の中は沢山の音と命と色で溢れている。どこで知ったかはわからないが、そのことはもう随分と前から知っていた。
「海の中って賑やかなんだ」
魚や哺乳類、海老なんかが出す周波音、水の動く音や海底火山の噴火音なんかが、あちこちから聞こえてくる。
珊瑚の色、魚の鱗の色、光の屈折や深さで変わる水の色、岩の色や水中植物の色で溢れた世界。
「そーゆーのがさ、人の体の中の音と似てるのかも」
千秋に釣られるように空を見上げると、星空に混ざるように波の音と砂が風で揺れる音が聞こえる。
砂漠の隣に海が広がる不思議なこの場所を初めて見た時は驚いた。正反対のような砂漠と海が隣接しているなんて、想像したこともなかったから。
しばらく心地いい無言が続いたが、湯が沸いた音がして静寂が消える。特にすることもなくて、慣れた手つきでコーヒーを入れる千秋の手元をぼんやりと見つめた。
コーヒーはあまり好きじゃないが、千秋がくれるものを拒むのはなんだか嫌で、結局得意じゃないと言い出せないままズルズルと受け取り続けている。
「だとしたらさ、トヤくんの海は綺麗だろうなぁ。透明で遠くまで続いてて、沢山生き物がいて」
そんな人の気も知らず、ふふっと楽しそうに笑いながら千秋はコーヒーの入ったマグカップを渡してくる。無言で受け取りながら、透弥は小さく眉を寄せた。
こういう時の千秋には、なんだか妙な壁を感じることが多い。今もそうだ。
まるで自分の海に生き物なんていないような言い方だ。
「僕ってそんなにうるさい?」
「違う違う!ほら、トヤくんって真冬の朝ってイメージあるからさ」
「喜んでいいのそれ」
「俺にとったら綺麗なイメージだよ?」
柔らかく笑いながら、千秋はコップの中身を啜った。
しばらくゆっくり話したり話さなかったりとした時間が続き、気がつけば月が上まで昇ってきていた。
透弥の手の中に収まっているコップの中身は既に冷たくなっている。飲んだらきっと苦い。それでも残す気にもなれなくて、強引に喉に流し込む。
ヒリヒリとした苦味が口内に充満して、やっぱりコーヒーは苦手だと再確認する。
「さて、そろそろ寝よっか。明日にはつけるといいけど」なんて言いながら、千秋はコンロの火を消す。すると途端に辺りは月明かりと星の光の粒が反射するだけになった。
「着くよ、きっと。半日で行けるんでしょ?」
「あ〜……うん、そうだね」
曖昧にそう笑う千秋の隣に横になり、透弥は少し悩んでからその広く厚い胸元に飛び込んだ。服越しでもわかるひんやりとした皮膚に、やっぱり体が冷えている、と思った。
「と、トヤくん?どしたの?」
「寒いなって思ったから来たのに、アキさんも冷たかった」
余計に寒くなりそうとぼやけば、くつくつと喉の奥で笑われる。「じゃあ離れなよ」なんて言われても、離れるつもりはなかった。
静かな心音と、自分より大きい呼吸音。鼻腔をくすぐる、前までは馴染みのなかったスパイスとも思える独特な匂い。
眉を下げて笑う困り顔や、かと思えば大型犬を彷彿とさせる笑顔、悔しそうに歪める顔や、本気で怒った険しい顔、体の大事な部分を落としてしまったような、何も映していない空っぽの顔。天気のようにコロコロと変わる表情と、自分を蔑ろにする程の病的な優しさと異常な自己犠牲。
この人の海。
この人の中だけにある海は、果たして自分の海と繋がっているだろうか。この人の海は、あるいは僕の海は陸に取り残されていないだろうか。
「さっきさ、人の体の中には海があるって話したでしょ?」
「したね。それがどうかした?」
「きっと、アキさんの海は誰もいないんじゃないかってくらい静かで、少し暗いと思う。僕の中でアキさんは夜のイメージがあるから」
「……あれぇ?俺嫌われてる?」
眉を下げて困ったように、悲しそうに目を伏せる千秋に「でも」と透弥は続ける。
「でも、遠くから鯨の声が聞こえる」
低い周波音の鯨の鳴き声は、子守唄と言われる程の安眠効果と、それと同じくらい言いようもない神秘さと不気味さに溢れている。
今発見されている生き物の中で、最も大きな体を持つ種がいる鯨と千秋は、不思議とどこか似ているような気がした。
「だから、安心する。僕は好きだよ」
どうしてそんなことを言ったのか、自分でもよくわからない。言ってよかったのかもわからない。
それでも、自分を抱きしめた千秋の腕の力がいつもより少し強かったこと、微かに聞こえた「ありがとう」の一言に、透弥は満足そうに小さく笑って目を閉じた。
冷たかった千秋の体が、ほんの少し暖かい気がする。
自分の熱が少しでも移っていればいい。この人が少しでも寒いと感じなければいい。自分をちっとも大切にしない人だから、そんな人の海が少しでも美しかったらいいと思った。
その日は久しぶりに穏やかで深い眠りだった。夢も見た。
透弥は見たこともない暗い場所に浮かんでいた。これから自分がどうなるのかわからない。どこに向かうのかも、そもそもどこから来たのかもわからない。水面に上がろうにも、泳ぎ方がわからない。
不安で怖くて、孤独で、どうして自分の周りには同じように漂っているはずの仲間がいないのかと悲観に暮れる。もしかして置いていかれたのだろうか。それとも捨てられた?
そんな悲しい想像ばかりが働いて苦しくなる。
その時、遠くの方から鯨の歌が聞こえてきた。耳を澄まし、目を閉じる。
一定のリズムと、どこまでものびのびと歌うその声に自然と肩の力が抜け、一人思う。
まあ、こんな綺麗な歌が聞けたから、この後のことや今までのことは一旦忘れるとするか。