第十五話 皇女とメイドがやってきた
皇女……って、最近だと転生先の職業(?)のひとつになってますよね。
王女じゃなくって皇女という響きに憧れるのです。
「ひゃいっ……!」
そこには敷居もなければ段差もなかった。
それでもその人影は存在しない何かに器用に――いや、不器用につまづき、とと、とバランスを崩した。その拍子に一点を見つめたまま彫像のように立ち尽くしているアルマの腰あたりにすがりつくようにしてぶつかってしまう。
「わわ……! あう………………す、すみま……せん……」
お世辞にも手入れが行き届いているとは言い難い不揃いでぼさぼさの前髪の奥から、今にも消え入りそうな謝辞の台詞が発せられた。わずかに覗くその顔はもう真っ赤で、自分の存在すらも今すぐ消し去ってしまいたい、とでも言いたげに、ひたすらうつむき身を縮こませていた。アルマはその手を振り解くことなく、表情すら一切変えずにただただ深々と溜息を吐く。
「だ……大丈夫ぅ?」
「あ……ひ……」
有栖川教諭にここまで心配そうな声をかけられる奴なんてそうはいない。その一言を耳にして我に返ったのか、今まできつく握りしめていたアルマのスカートの裾から大急ぎで手を放すと、怯えた顔付きで、ざざざっ、と背後の黒板ギリギリの位置まで下がった。
「はい。あの……だいじょぶ……でした」
相変わらず蚊の鳴くような声で頬にも朱が射したままだったが、それでももう一人のメイド姿の転校生は少しばかり落ち着いたように見えた。そのまま遠慮気味におずおずと口を開く。
「……アルマ様は、グラディス皇国の第七皇女であらせられます」
ざわ……とは誰もできなかった。我らのスポークスマン、三上でさえこの場の空気に押されて沈黙したままだ。
それにしても………………皇女だと?
ほんの一瞬、俺の脳裏にちらついたのは、何故か愛すべき姉、大神志乃の含み笑いだった。
「――日常生活に不自由がない程度には日本語は堪能でいらっしゃいます。ただ、今まであまり他人と交わる機会に恵まれなかったもので……。どうか皆様、これからは同じ学び舎に集う学友として、気軽に接していただけたら幸い……です」
本来ならここで盛大に拍手というシーンだ。
だが、クラスはシーンと静まり返ったまま誰も言葉すら発せず、誰ひとり身じろぎもしなかった。いわゆるダブルミーニングって奴。ちっとも上手くないな。
「あ………………あれ……?」
メイド姿の転校生の口から狼狽あらわな呟きが漏れ出た。小動物を思わせる落ち着かなげな素振りであちこち見回すが、どこからも助けの手は差し伸べられなかった。まあ、そりゃそうだろう。
「……はあ。肝心なことを忘れていると思うのだけれど?」
アルマの口から飛び出した台詞はいくぶん手厳しい物だったが、口調はわずかに柔らかい。
「それで。貴女は一体誰なのかしらね?」
「あ」
そうでした、と一層小さくなる。
それから言った。
一際小さな声で。
「私はアルマ様の専属メイド、奈々瑠=ティアーレと言います。奈々瑠と……呼んで下さい」
ぱちぱちぱち……。
ようやく拍手が鳴り響いた。タイミングを逃してしまったせいで若干足並みは揃っていなかったが、それでも硬質ガラスのように張り詰めていた空気を粉砕して皆に安堵の息を吐かせるにはそれでも十分だった。
「はぁーい。みんなぁ、仲良くしてあげてねぇ。じゃぁ、アルマさんに奈々瑠さん……で良かったかしらぁ? 二人の席はぁっと――」
露骨なまでに表情を緩ませた有栖川教諭は、いまどき小学校くらいでしか言いそうにない台詞で鳴り響く拍手をまとめ上げ、んっとぉ、と大して広くもないクラスの中を手のひらをひさしのように額に当てて見渡すそぶりをする。
「んー。席が離れちゃっても大丈夫よねぇ?」
「構いません」
皇女様は少しも迷わず即答したが、その隣では、え? え? としきりに呟いているメイドがいた。こっちはお世辞にも大丈夫そうには見えない。にしても同じ「制服」とは言え、この高校でメイド服を着こんだ奴なんて見たのはさすがに初めてだ。
彼女の服装はいわゆる「メイド喫茶」の店員にあてがわれるような薄手の安っぽいコスチュームではなく、相当本気度合が強い上に、サービス精神の欠片も感じられない「作業着」だ。つまるところヴィクトリアンメイドとか言う正統派スタイルの一品である。スカートの丈は長く、何が入ってるんだ的な不自然なふくらみも遊びもほとんどなく、シルエットは腰のラインからそのまま、すとん、と床まで落ちていた。
さも当然とでも言いたげに、主の無茶振りに従って煽情的に胸元を強調するようなデザイン上の趣向なんてものはカケラもなく、きっちりと生真面目にかけられたボタンを上の方まで辿っていくと、小さな白襟だけが首元からちょこりと控え目に覗いている。そして、とてもメイドと呼ぶには似つかわしくない印象のぼさぼさ髪の上には、レースをあしらった白い頭飾り――確かホワイトブリムとか言うんだっけ――がこれまた済まなそうに、ちょこり、と載っていた。
あー。
これ、俺の知ってるメイドと違うんですが。
まあ所詮、アニメや漫画で仕入れた知識なんてそんなものだ。
男連中は皆、同じような失望を抱いていることだろう、とぼんやり思っていたところで、
目が合ってしまった。
「――っ!?」
完全な不意打ちに、俺は怯んだ。
でも、それはお互い様だったようだ。せっかく治まりかけていた奈々瑠の頬が再び真っ赤に染め上げられるより早く何とか目を反らすことに成功したものの、最後まで視界の端に映っていたのは、表情をすっかり隠してしまうぼさぼさ髪の奥の方にある、困ったような、怒ったような、涙で潤んだ奈々瑠の丸くて大きな黒い瞳だった。
一体何故――理由は簡単だ。
俺以外のクラスの連中は皆、注目を集めてしかるべき存在であるもう一人の転校生、皇女・アルマの方へ、ただ一点へと視線を注いでいたのだ。
奈々瑠を見ていたのは――たった一人、俺だけ。
だからこそ彼女は気付いた。気付かざるを得なかったのだ。
悪意も下心もない。
しかし、無邪気さを装った好奇の目で見ていたのではないか、と責められれば即座に否定はできなかった。
そして――。
それはかつての俺が、最も嫌っていたものの一つ。




