史の初リサイタル(4)
開演時間となった。
史は、ステージ袖口から、ゆっくりと歩き、ステージ中央、ピアノの前に立った。
そして、満員の聴衆に向かい、深くお辞儀。
ピアノ前の椅子に座り、少し位置を調整。
ゆっくりと指を鍵盤の上に。
そのまま、バッハに平均律クラヴィア曲集第一巻を弾き始めた。
「ふう・・・いいすべりだし」
舞台裏で聴いていた大旦那が一言もらした。
奥様は、その胸をおさえている。
奥様も、相当緊張しているようだ。
マスターも、舞台裏に。
「大丈夫、史君だもの」
由紀は、震えてしかたない。
とうとう、椅子にすわってしまった。
そんな内輪の緊張した雰囲気はともかく、史のバッハは流麗に、そして深い音楽性を持ち、進んでいく。
満員の聴衆は、声一つ、咳一つ立てる人がいない。
目を閉じて聴きいる人、じっと史から目を離せない人、それぞれあるけれど、全員が史のバッハに集中している。
まるで一音、一つのフレーズだけでも、聞き逃したくない、そんな集中が聴衆全体を包んでいる。
由紀は、顔を両手でおおいながら思った。
「史、すごい、こんなにピアノ上手だったの?」
「一音一音が、すごく心に響く」
「今まで、馬鹿にしたり、文句ばかり言って・・・ごめん」
「もっと、たくさんの人に史のピアノ聴かせたい」
由紀の隣に里奈が立った。
里奈も胸をおさえている。
由紀が里奈の顔を見ると、その目が潤んでいる。
里奈も、相当緊張しているようす。
由紀はゆっくり手を伸ばして、里奈の手を握る。
そして立ち上がった。
客席で聴いている内田先生は、深く感動している。
「このバッハの精神性を、ここまで表現できる人は、ほとんどいない」
「史君の音楽性は、音楽の技術、ピアノの技術だけではない」
「その奥の深い精神性というか、理解力に支えられている」
「ただの、鋭い感性だけではない、何かを考えて、それを表現できる」
「人間性が、いろいろ深まれば、トップになれる」
「いわゆる感性頼みとか、ビジュアル頼みの薄っぺらい演奏家ではない」
史のバッハ平均律クラヴィア曲集第一巻は、深い感動のうちに、終了した。
史が、立ち上がって、また聴衆に深くお辞儀をすると、本当に大きな拍手。
立ち上がって拍手をする人も多い。
史は、何度もお辞儀をして、聴衆の拍手に応え、そして舞台裏に戻ってきた。
鷹司京子が、史にさっと冷たい水を差しだす。
「お疲れ様、史君、素晴らしいバッハでした」
史は、鷹司京子に頭を下げ、冷たい水をゴクゴクと飲み干してしまう。
「京子さん、ありがとう、美味しい」
「何とか、バッハは終わりました」
いつもの通り、冷静な史の表情に戻っている。
由紀と里奈が手をつないだまま、史の前に。
由紀はちょっとウルウル。
「史、よかった、すごかった」
里奈は、史にウィンク。
「聞き惚れました」
また、金平糖を渡している。
大旦那が史の前に歩いて来た。
「素晴らしかった」
「モーツァルトも楽しみだ」
史はにっこり。
「はい、おまかせください」
奥様は、そんな史の笑顔に目を細めている。




