大旦那
午後八時、夜の部のカフェ・ルミエールには、いつもの静謐な雰囲気が漂っている。
扉が開いて、入ってきたのは、珍しくも大旦那である。
「あ・・・これはこれは・・・」
大旦那の来店となれば、マスターも緊張する。
カウンターから出て、深くお辞儀をする。
大旦那は
「あ、いやいや、俺もここの内部の人間だ、お客を優先しろ」
マスターの肩をポンと叩き、カウンター前の席に座った。
そして美幸に少し微笑み
「トワイスアップで」と注文を出す。
そして、マスターの顔を見て
「ああ、今日は官邸に行った帰りさ」
大旦那はとんでもないことをサラッと言う。
「おや、官邸ですか」
マスターも、大旦那の顔を見る。
確かに、旧摂関家の本筋、様々な文化団体の筆頭役員に任命され、官邸に呼ばれることも過去から多い。
それに、大旦那が呼ばれるのは官邸だけではない、宮内庁や皇居まで出向くこともある。
それ故、大旦那が官邸に行ったからとしても、驚くにはあたらない。
「ああ、彼にちょっと話もしてきた」
「つまり、話は丁寧にしろと」
「落ち着いて世を治めろぐらいかな」
大旦那はトワイスアップを美味しそうに一口、美幸に少し頭を下げる。
マスターは
「そうですね、トップが落ち着かないと、国も落ち着かない」
「トップが猛々しいと・・・」
大旦那の話に何か感じるものがあるようだ。
大旦那は、また少し笑い、鞄の中から、一冊の本を取り出しマスターに渡す。
「マスター、これね、あげるよ」
「え?これ・・・きれいな草書・・・源氏ですね」
マスターは本をパラパラとめくり、まず源氏と見抜く。
しかし、本当にきれいなのか、見入ってしまう。
大旦那は、少し含み笑い。
「ああ、マスターの思った通り」
「源氏物語の写本のコピー、わが一族が千年保管してきたもののコピー」
「皇居つまり天皇家にも同じものがある」
「・・・こんなすごいもの・・・」
マスターは顔が紅潮している。
「ああ、いいさ、あげるよ」
「それから、晃君は、とっくに持っている」
「まあ、源氏学者だしね。源氏学者になったと同時に渡したけれど」
大旦那は、相変わらず穏やかである。
「しっかし・・・この字・・・そのものが、美しい」
「これも日本文化の頂点ではないでしょうか」
マスターは、うれしくて仕方がないようだ。
大旦那は言葉を続けた。
「ああ、この間の源氏談義には出られなかったけれど」
「次の地下ホールの時は、来るよ」
「解説をしてもいいかな」
とうとう、旧摂関家本筋による源氏物語講義の計画が立ち上がった瞬間である。




