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朝起きて、すぐ目に飛び込んできたのは母親の顔だった。
うわあ、とげんなりした声が漏れる。母は日中は私に厳しいくせに夜、私が寝ている間はベッドに潜り込んでくる。正直やめてほしい。
私はもう添い寝されるほど子供ではないのだ。
父はもうベッドにいない。朝の庭のお手入れに行ったのだろう。
母を置いて着替えして部屋を出る。
階段を降りてまず向かうのは食堂。朝ごはんだ。
「あ、おはよう」
明るく声をかけてきたのは、リオさんだ。
私とは一文字違いの名前だけど、本名はレオナルドというらしい。
かつて都会で働いていた料理人で、髪の長い男の人。たまに「内緒だよ」って言いながらおやつをくれるから好きだ。
おやつを食べている時、リオさんはたまに昔話をしてくれる。本名も、その時に教えてもらった。
「皆集まってくるだろうから、もうちょっと待ってね。それまでは、はい」
「わあい」
今日もやっぱりリオさんは気前がいい。ほかほかふわふわした特製オムレツを頬張っていると、「やあ、おはよう」と新しい人が入ってくる。
門の雪かきをして鼻が赤くなった、クリスさんだ。
「おはようクリス。お茶いる?」
「ああもらおう。この調子じゃいつ風邪を引いてもおかしくない。君も気をつけるんだぞ。スタンリーが言っていたが、風邪の引き始めは個々人で症状が違うから…」
クリスさんは執事で、おしゃべりが大好きだ。いつも私にあれがこうなった、それがああなったと一部始終解説してくれる。
私の母と一歳差らしいけど、母より若く見える。本人に言ったら「童顔って言いたいのか?」と大層ショックを受けていてちょっと面白かった。
お茶を次々飲むクリスさんの話にうんうん楽しそうに頷いていたリオさんがふと首を傾げた。
「…あ、ごめん、奥様の薬草茶を届ける時間だ。ちょっと行ってくるね」
「わたし、届けようか?」
「本当?落とさず持てる?」
「持てるよ!」
「じゃあ、お願いしようかな。ありがとうね」
両手でトレイを持って、その上に湯気の立ったコップが乗せられる。ゆっくり歩く私を二人が室外まで追いかけてくる。「大丈夫だよ!」とムッとしながら言うと、「気をつけてね…!」「無茶するなよ」と散々応援してくる。心外だ。
奥様、ヘレンおばあちゃんはいつも一階の自分の部屋にいる。でも私が一人で行くとお駄賃をくれる、優しい人だ。
今日は、残念ながら先にロバート様がいて二人きりにはなれず、ごほうびは延期になった。
「あら、届けてきてくれたの?ありがとう!」
「一人で持ってきたのか、子供の成長は早いものだな」
「本当にねえ」
ベッドに上体を起こしている白髪のおばあちゃんがヘレン様、そのそばの椅子で書き物をしていたのがロバート様。私の父と母の雇い主、いわゆるボスだ。
ロバート様はちょっとかっこいいおじさんって感じだけど、ヘレン様はシワシワのおばあちゃんで、ずいぶん年の差婚なんだね、と言ったことがある。その時ヘレンおばあちゃんは微笑んでいたけど、そばにいた母に激怒された。
曰く。奥様は、皆を助けてきた特殊能力の積もり積もった副作用で急激に年老いてしまっただけで本当はお若いのだと。私なんぞよりもよっぽど本物の麗しき聖女なんだと力説された。
母はちょっとおばあちゃんが好き過ぎる。
「ねえ、今日もおばあちゃんとロバート様は皆と一緒にご飯を食べないの?」
「ごめんなさいね、私も、本当は皆と一緒にいたいんだけど…ロバート、貴方は私に付き合う必要もないのだから」
「すまないが、これ以上時間を削ることはできない。…悍ましき洗脳から私を救ったが故、そんな姿になってしまったお前を放っておくなど耐えられない」
「貴方のせいじゃないって何度言ったら分かってくれるのかしらねえ…」
「少なくとも決定打になったのは私だ。挙句解決策も見つけられず、せめてこれだけでも…私が責任を取る」
「責任を取って結婚したの?」
私の質問に、ロバート様は驚いた顔をして、顎に手を当てしばらく固まった後「…いや」と首を振った。
「愛しているから結婚したんだ」
「子供の前で何言ってるのよ?」
「構うものか」
まっすぐ見てくるロバート様に、いつも真っ白な顔をしているおばあちゃんがほっぺたを赤くしている。
こういうの、犬も食わないって言うんだって母が言ってた。
そっこく、退散!
「なんだお前、どうした」
「あっ入っちゃいけないんだよフレディ!お邪魔虫!」
「なんで息子の俺が邪魔に…ああ、そういう…」
ため息しつつ額に手を当てて、フレディは私を連れてヘレンおばあちゃんの部屋の前から遠ざかる。
私と一番年が近いのはフレディだ。けれどクリスさんよりも母よりも背が高くて見た目は大人びている。見た目だけ。
身長で言えば、父が一番高い。横幅も多分父が一番広い。大きな父は心も大きく、何かにつけて小言を飛ばしてくる母にやられる私を慰めてくれる。しかし母よりも断然父の方が道徳について厳しいことを私は身に沁みて知っている。
「ていうかお前呼び捨てにすんなって言ってるだろ。あいつの影響ばっか受けやがって」
「だってフレディはフレディだもん」
「お前なあ…」
小さい頃から遊んでもらった。今は枯れない植物の研究だかで家より都会の学校にいる時間の方が長くて、外見こそ雰囲気イケメン(母語録)貴族だけど、フレディは昔と変わらない、ただの兄ちゃんだ。
でも、気になるところはある。
母もフレディに対しては特別な信頼を寄せているようだし。フレディも若い母にベッタリだったと聞くし。
「ねえフレディ。フレディはママのこと好きだったの?」
「は?気持ち悪いこと言うなよお前、どこから出た発想だよ」
「そうだよね、ママはパパのこと大好きだし、どうあがいても絶望だもんね」
「お前の語彙本当にあいつそっくりだよな」
母は元は別の世界で暮らしていた人なのだという。私が生まれた時期でも会話すらままならなかったとか。そのため、私と同じ時間をかけてこの世界の言語を習得した。慣れなのか頻繁に母国の文脈を混ぜてくる。
私も母の癖がうつって、たまに使ってしまう。時折本当に何を言っているのか分からないけど。
お茶も届けたし、そろそろ朝食の時間だ。皆集まってるはず、と思ったら食堂の前で人にでくわした。
「あ、スタンリー様だ」
「だからなんで俺は呼び捨てでスタンリーは様付けなんだよ!」
「だってママがスタンリー様はお医者様だから偉いって」
「観念が固いな…」
しみじみ呟くスタンリー様はヘレンおばあちゃんほどじゃないけどおじいちゃんだ。無愛想で無口だけど、私が怪我したらすぐ診てくれる。
リオさんと同じく、昔は都会でお医者さんをやっていた。今でもたまに出かけて行って、屋敷にこもるロバート様に毎回「老体に鞭打ちやがって」とぼやいている。
フレディが扉の中から聞こえてくるクリスさんとリオさんの話し声に耳を寄せた後、スタンリー様に尋ねる。
「皆もう揃ってるのか?」
「いや、まだ二人が来ていないな」
「パパとママまだなの?」
「ああ」
ひょっとして母は未だに私のベッドで眠りこけているのだろうか。そんな悪寒を吹き飛ばすように、「おはよう」と優しい低い声が後ろからした。
「パパ、おはよう!」
振り向いた勢いに任せて飛びついてもびくともせず受け止めてくれる。もうちょっと時間があったら体を持ち上げてぶんぶん回してくれるけど、今はご飯前だからお預けだ。
父に抱き上げられると安心する。父は絶対に私を離さないと分かっているからだ。例えば私が悪戯をしたら相応のつぐないをさせようとしてくるけど、必ず隣にいて導いてくれる。
まるで父の方こそつぐなっているみたいに真摯だ。
何かを察したのかフレディとスタンリー様がさっさと食堂に消えていく。
代わりに現れた人影が私を見下ろす。
「おはよ…朝から暴れないで。危ないでしょ」
「ママは何を言ってるの?何が危ないの?パパが私を受け止め損ねるなんて万に一つもありえないって分かってるのに何を指して危ないって言ったの?ママがパパを取られて嫉妬してるだけじゃなくて?」
「ガキが…舐めてると抱き潰すぞ」
どうやら機嫌が悪い。いつもだったらもうちょっと呆れた感じで「屁理屈を捏ねないの、私じゃないんだから」とかたしなめてくるけど、今日は例の意味の分からない文言を口にしている。
「あ、帰ってきた?ありがとうね、奥様にお茶届けてくれて。はい、お小遣い」
「わーい」
ちょうどよくリオさんが顔を覗かせ、私の口にジャム付きのパンのかけらを放り込んでくれる。その隣で母がぽかりと口を開けた。
「え、奥様にお茶ですか…?」
「そうそう。一人で届けてくれたんだよ、ね、とっても偉いよ」
「…なるほど」
頷き、母は私と目線を合わせるようにしゃがみ込む。
「リア」
まっすぐ私の目を見つめて、笑う。
「お手伝いしてくれてありがとう。愛してる」
これだから嫌なのだ。母は、私がごく稀に善行をするとこうして馬鹿真面目に伝えてくる。こんな人前で、恥ずかしい。
父が母ごと私を抱きしめた。いつの間にかリオさんがいなくなっていて、私と父と母だけになっている。
…だったら、いいかな。
でも、それを表に出すと調子に乗るから、出してやらない。
「もう、ママもパパも子供なんだから」
両親は、顔を見合わせて笑う。そして、「さ、ご飯食べよう」と手を引く。
私は二人に挟まれて、温かい部屋の中に踏み出していく。
最後まで読んでいただきありがとうございました