「10」
女神から聞いた事柄を、帰路(城の人たちの援助もあって行きよりスムーズだった)でスタンリーに話した。
思わぬ収穫だな、と大量の新規情報に彼は嬉しそうだったが、ヘレンの力が龍にまつわる、というのには顔を渋らせた。
「…そうか、女神でもどうにもならんか」
「はい。でも、今度は真龍に会って治してもらうとか」
「龍はとうに死んだ。どうにもならんだろう」
そういえば、なんか昔スタンリーに聞いたことある気がする。龍は死んで、その意志を継ぐのが真龍派だとか言ってたような。
「母親が娘を思って授けた祝福が呪いになるとは、因果だな…」
「……」
ヘレンの母親がどんな人かは知らないが。彼女の性格を見るに、優しい人だったんじゃないんだろうか。
「まあ、それはお前さんには関係ないことだ。これはヘレンと…ロバートの問題だからな。お前さんはまず自分の心配をすればいい」
「…はい」
私には私の問題がある。
それを解決しなければ、他の人の心配をする余裕もない。
ありがたくそうさせてもらおう。
「しかし、女神の思惑が垣間見えるとはな…お前さん、全てが片付いたら、また女神に会いに行く気はあるのか?」
「…正直今は何とも」
いつでも待っているからまた話しに来て欲しい、なんて文面だけ見ると罠でしかない。
ただ、あの時の女神は態度が違った。声だけ聞いて相手の年齢を当てるとか難しくて無理だが、女神はせいぜい中学生…十五歳とかそこらへんの音域だったと思う。それがあの時は如実に現れていた。
「自分に反感を持つ者ほど贔屓する…か。道理で奴が何年も城に潜り込めていたわけだ」
「ヤツ…?」
「…お前さんも知っているんじゃないのか。ライアンという名の、第一王子の教育係だ。奴は真龍派だった」
「ああ…」
私の顔を焼いた奴な。あと私の腹蹴って首絞めて足をナイフで刺してきた奴。
王子と一緒に処刑された男だ。
「…ところで。お前さん、記憶が戻ったのはいつだったんだ?」
それは言わないお約束。
目を逸らした私をそれ以上スタンリーは追求してこなかった。ありがてえ。
屋敷に戻った。
出迎えたのは、ハリー。
他の人たちはお仕事にかかりっきりらしい。けれどヘレンもロバートも、そしてあの子にも、異常はないと教えてくれた。
「…あなたも、変わりはありませんか?」
「記憶は、戻ってない。ごめんね」
「いえ…」
悲しそうに笑われるとこっちが辛い。
でもどうしようもないことだ。
とにかく今、私は決断しなければならない。
元の世界に帰るか、もしくは、別の方法に縋るか。
本当は皆と相談したかったけれど。
本当の自分のことを話して、これからどうなるのかを説明して、先を相談したかったけど。
忙しいなら仕方ない。
そんな逃げ道を行こうとした私を、ハリーが止めた。
「大切なことがあるなら、きちんと話すべきだ」
今のハリーは私に厳しい。楽な道を許さない。昔が甘過ぎたとも言える。
食堂に、何度もお祝い事を開いてもらって皆でご飯を食べた場所で、私は相談をすることにした。
皆が集まってくれた。
リオもクリスもフレディも、感情のないロバートも、そしてなんとヘレンまで。
青ざめつつも彼女は微笑んで、「今は少し楽になったの。きっとアンが色々してくれたおかげね」と明瞭な意識を保っている。もしかしたら本当に女神が何かしらの処置をして彼女を助けたのかもしれない。
この機会を逃すことは許されない。
継続する寒天のために暖炉が煌々と燃えて部屋の中は温暖だ。のに、私の体は冷たい。
食堂まで移動させたベビーベッドの上に横たわる私の子を見つめ、気を落ち着けてから、私は口を開いた。
開いて。言葉が出てこない。
「……」
何と言えばいい?
何から話せばいい?
焦る私の手に、隣のハリーが手を重ねてくる。温かい。この人本当に記憶喪失なんだろうな?なんで私のことこんな理解してんだ。
深呼吸をする。
最初から、話そう。
分かり辛くてもいい。不恰好でも。きっと彼らは終わりまで聞いてくれる。
私は、仮面を外した。
「…私は、神崎天使と言います。別の世界から来ました。聖女として、この世界に呼び出されました。記憶喪失じゃありません」
傷のない顔を見てか、告白の内容のせいか。リオが目を見開いた。
この屋敷に来たばかりの頃。私を本当に記憶喪失なのかと最初に疑ったのは、彼女だった。
「聖女としての役目を放棄したから、お城から追放されました。その先で、真龍派の男に襲われて、いっぱい傷を負って…ハリーに助けられました」
ハリーは、ずっと私を助けてくれた。彼の記憶が失われた今も、その過去が消えることはない。
彼の手が力をくれる。私がぎゅっと手を握ると、しばらくして彼もそれを返した。
「…ここに連れてきてもらって、でも聖女だってバレたら追い出されると思って、記憶ないって嘘をつきました。クリスさんに君は何者だって聞かれた時、何も答えられませんでした」
現在クリスは私を邪魔しないよう、時折口を塞ぎながら極限の小ささまで声量を絞っている。
「こんな、どこの誰とも分からないのに、怪我を治してもらいました」
スタンリーは一線を引きつつも、医者として完治まで付き添った。
「屋敷に、置いてもらえることになって、穀潰しだって思われるのが嫌だって、それだけの理由で、仕事をしたいって言いました」
フレディはムッとした顔のまま、しかし何も言い出さない。
「ここの生活は、平穏で…ずっとこの時間が続けばいいと思いました。でも、ある日旦那様が帰ってきて、私を聖女だって見破りました。旦那様とは、お城で一度会ったことがありました」
ロバートの反応はない。彼は今も、俯きがちに一点を見つめている。
「でも、それでも、ここにいていいって言ってもらえました」
ヘレンが。彼女が、私をここに置いてくれると言ったから、私はここにいる。
今この瞬間も子の命を繋いでくれている彼女は、常よりはぎこちなくも穏やかな微笑みを保っている。
「幸せな時間を、過ごしました」
私は情緒不安定だから癇癪を起こしたり泣いたり落ち込んだり、色々あったけど、でも、平和な空間だった。
「…ハリーが好きで、結婚して、子供も生まれて、でも、その子は動かなくて。それは、今この世界に、異世界から来た人間が二人もいるから、そのせいで歪んでいるんです。奥様のおかげでこの子もまだ死んでないけど、それもいつまでも保っていられない」
ベッドの子供は。安らかな顔で、温かな体を投げ出して、何が起こっているのか知りもしないで、目を閉ざしている。
「この子を助ける方法は二つ。聖女が元の世界に帰るか…聖女で、なくなるか」
女神は言っていた。
この世界で「聖女として」生きるためには、膨大な魔力を使うのだと。
「私が今、母国語で皆さんと会話ができているのは…女神の仕業で、そこには魔力が使われているそうです」
本来、私と、世界の異なる彼らの言葉が通じるはずがない。それを女神が魔力で強引に捻じ曲げている。
もしあの城で、私がこの世界の文字を一つでも目にしていたら。声の言葉と同じように、何の問題もなく読み取りが可能になっていた、と女神は説明した。
だが私は当時城で文献に一つも触れることなく、何も見ず無為に時間を過ごしていた。
女神の監視下で完全な適応を果たす前に追放されたため、文字が読めなかった。
魔力の恩恵はそれだけではない。
病気や外傷で簡単に死なないようにタフに設定されていたり。
何か困ったことがあって女神像に祈れば、現地民よりも願いが聞き届けられる可能性が遥かに高かったり。
何よりも。
視覚、聴覚、味覚、嗅覚、触覚。五感の全てが、私の精神に悪影響を及ぼさないよう、魔力で保護されている。
つまり、私が見るもの聞くもの、全て違和感なく綺麗になるようフィルターがかけられているのだ。
だから。もしかしたら。
それを失ってしまえば、今ここにいる人たちの顔も、声も、料理も、身の回りにあるもの全部が、私にとって不快なものに変貌するかもしれない。
あるいは、本当は、この人たちは人じゃなくて、もっと違う形をした、怪物なのかもしれない。
以上の内容を女神の解説そのままに引用して語り、私は押し黙る。
聖女として呼び出され、魔力を身に宿している今の私には、真実の世界を覗き見ることはできない。
世界に残るとしてもせめて健康に生きるのに必要な魔力は残すべきだ、と女神は言って、私もそう思う。
けれど。
もし、多量の魔力を失って。フィルターが取り払われて。そこに広がっていたのが地獄だったら。私は。
「…私は、皆さんと一緒にいたい。この子とも一緒にいたい。でも…もし、どうしても耐えられなかったら、私は」
「だったらその時は帰ればいいじゃないか」
はっきりと遮ったのは、クリスだ。彼は声量を通常に引き戻し、なんてことないように告げる。
「別に、今は帰らないと決めたって、未来に気が変わることだってあるだろう。その時はまた女神に頼んで元の世界に帰してもらえばいい。君がそんなに辛い思いをしてまで滞在する必要はないさ」
「そ、そうだよ!正直、よく理解してないけど…アンが帰りたいなら、それを尊重するよ」
リオも手を挙げて言い募る。彼女らはいつも、私に親身になってくれる。私の本性を知ってなお、庇ってくれているのだ。恩が返し切れない。
「そう簡単な話じゃないだろう。お前さんが見る世界とオレたちの世界が違うとして…お前さん、子供のことはどうする気だ。自分の子が怪物だったら、置いて元の世界に帰るのか」
水を差したのはスタンリーだ。「そんな言い方ないじゃん!」とリオが激昂するが、正論だ。報告を聞いた時から彼は考えていたのかもしれない。
私も考える。
もしかしたらこの子も、本当は醜い姿をしているのかもしれない。見るに耐えない存在なのかもしれない。その時私はこの子を置いていくのか?
「…皆さんの目に、この子は、どう見えているんですか?」
「どうって、人間の赤ちゃんだろ」
「アンとお揃いの黒い髪を持った、とっても可愛い女の子」
フレディの端的な回答の後に、ヘレンがゆっくり答える。その言葉を信じたいが…そもそも、私の伝えたい内容と彼女たちの伝える内容は、寸分の狂いなく合致しているのか?私が勝手にそう聞き取っているだけの可能性は?
悲観的思考は一つ思い浮かぶと後が絶えない。
私が見ているもの、聞いているものは、本当に現実なのか?
私が理解できるものは、私のことを理解できるものは、この世界に存在しないんじゃないか?
孤独な世界でこの先、生き続けられるのか?
「…アン」
ハリーが、私を呼んだ。
「アンジェさん」じゃなくて、「アン」って、聞き慣れた私の名を。
「これを、読める?」
彼が片手で差し出してきたのは、紙切れだ。
変哲のない、紙片。今まで、何度も何度も受け取ったことのある、メモ。
「え…?」
「アンは、自分で文字を学んだ。フレディに教えてもらって、一つ一つ学んでいった。その時間は、確かにあった」
「あ…」
唯一、私が知っている、この世界の本当のもの。
そこには、よく見知った筆跡があった。
ずっと、彼が私にくれていたものがあった。
そこに書いてあったのは、
『アンは一人じゃない』
私が彼らに繋がっている、確かな証だった。
「…私は、私は帰りません。あなたたちと一緒にいたい。ここで生きていきたい。よろしく、お願いします…!」
滲んだ涙を振り払って、私は決意を、願いを口にする。
ハリーは、そんな私を見つめ、子供に視線を向けて。痛いくらいに繋いだ手を握りしめた。