「8」
もう一人の聖女、ミサキを殺す。
言葉に出すのは簡単だが、実行するのは容易ではない。
何しろ、彼女は王城で聖女として生活している。この間は普通に会えたが、次はそうもいくまい。
だって会えたのはロバートのツテがあったからだし。
ロバートが廃人になった現在、彼のコネは借りられないだろう。
…そう考えるとこの間会えたのってほんとに凄かったんだな。その時に殺しときゃ良かった。
なんて、軽々しく述べているが。
勿論。
私に殺人を犯す覚悟なんてない。
私が物騒なことを言えるのは脳内でだけ。
フレディを殺すとか、ミサキを殺すとか、実際に自分でやるとなると絶対に無理なことは百も承知している。既に私のせいで何百人死んでるとはいえ、死生観は変わらない。
私にそんな大それたことができるはずないのだ。
だから。
別の人に殺してもらう。
正直かなり後味悪いがもうそれしかない。
ちょうどいいことに、この世界には女神だの聖女だのを憎んでいる集団が存在しているのだ。
でも、それは最終手段。
ミサキにもう一度会いに行って、私の事情を懇切丁寧に説明し、私の子のために元の世界に帰還してほしい、と頭を下げて、それでも駄目だった場合に殺せばいい。
あの人かなりお人好しそうだったから、哀れっぽく訴えればお願いを聞いてくれる。なんてのは楽観的過ぎるだろうか。
この前。ミサキは「大切な約束があるから、それを果たすまで帰れない」と言っていた。そしてそれがいつ叶うか分からないとも。
約束を果たすなんて悠長な時間、こっちは待っていられない。
今この時にもヘレンは命を削り、私の子は死ぬかもしれないのだ。
一刻も早く、この世から聖女を抹殺しなければならない。
私は死ねなかった。死ぬのが怖かった。だから、もう死ぬ訳にはいかなかった。
ミサキを身代わりにしてでも、どれだけクズになっても、私は私と子を救う。
そう決めた。
ハリーは私を手伝ってくれると言った。
あの子の親として、あの子を守るためならなんでもする、と。
記憶喪失でも庇護欲って湧くんだろうか。そんな疑問を持つくらいには、彼は親身だった。
悩ましい。
ハリーが隣にいてくれる。こんなに心強いことはないが、彼は今記憶を失い、元々の倫理観を失っているように見える。
他の人を蹴落としても自分が幸せになればいい、なんて前のハリーは絶対に言わなかった。
その違いが、この先どう作用するか分からない。
あるいは彼自身がミサキを殺してしまうかもしれない。そんなのは絶対に認められない。
誰よりも優しい人が女に唆されて犯罪に手を染めるなどあってはならない。
故に悩んでいる。
ハリーについて来てもらうか、ここで待っててもらうか。
そもそも王都まで行くのにどうしたらいいのか分からんし。ロバートに全部やってもらっていたからな。
…今思うとロバートには本当に苦労をかけた。
口元を引っかいて傷を負わせたのも含めて諸々についても、ちゃんと謝罪しなければならない。
聖女がいなくなれば連鎖的に彼も正気に戻ると思うので、もう少し待っててほしい。
ハリーと本心を分かち、これからどうするか方針を定めた後。
私は一階へ降りてひとまず従業員の様子を伺いに行った。
大声も出したしもしかして何か邪推させてるかも、と不安に思っていたのだが、杞憂だった。
「だから!こうしてたって埒があかないから僕が行くと言っているんだ!室内でグズグズしてたって何の解決にもならないだろう!?少なくとも女神が旦那様をこんな風にしたっていうのは間違いないんだ!だったら女神に頼んで元に戻してもらうなり噂の聖女に頼むなり方法はあるじゃないか!」
「ク、クリスは女神教徒をよく知らないからそんなことが言えるんだよ!私用でそんなことを頼もうとしてるって知られたらどんな目に遭うか…!」
「女神教徒がなんだっていうんだ!病んだ人を助けようとしてるのを妨げるなんて慈愛のカケラもないじゃないか!そんな奴らが女神の使徒なんて名乗ってるとでも言うのか!」
大広間でリオとクリスの大喧嘩が勃発していた。勢いはクリスの方が強いが、リオも譲る気はないらしく絶対にやらせないという意志を感じる。
話の内容からするに、「旦那様を助けに女神に頼みに行こうとするクリス」を「女神教徒は危険だからそれは駄目だと主張するリオ」が止めているって感じだろう。
二人とやや離れた位置にはぼんやり立ち尽くしているロバートと、その手を握ってひたすら父親を見上げているフレディ。また別の位置に渋面のスタンリーがいる。
こっちはこっちで修羅場だったんだな…。
私はこっそりとスタンリーの近くに移動し声をかけた。
「これだけ騒いでも旦那様に変化はないんですか」
「ん、ああ…ないな。耳にも入ってないんだろう。おそらく奴の器官はもう…ただ一人の声しか反芻していないようだ」
女神様のASMRに骨抜きにされたみたいな言い方やめーや。
「…私もまた王都に行こうと思ってたんですけど。それを言ったらあの二人も落ち着きますかね」
「さあな…しかしお前さん、まだ行く気があったのか。聖女に子の救出を却下されてその埋め合わせにとばかりに女神に顔面を治療されそれで不承不承帰還したと推測していたが、外れたか」
顔治したのバレテーラ。
やっぱ医者に隠し事はできねえな…。
あと何だよその推測。現実の私より有能なのやめろ。
実際の私はハリーに惚れてもらうために顔を治してもらう目的で行って治してもらってそのまますぐ帰って来たからな…マジで無意味過ぎる。
帰り際に女神に何か言われたけど信用できんし。
「ヘレンのせいで子供があんな状態に陥った」とか言ってたもんなあいつ。本当はその真逆だったのに。
嘘つきは女神の始まり。
「まあ色々あったんですけど…もう一回行って、今度こそ旦那様の無念を晴らしてきます」
私と違ってロバートは初志貫徹していた。私の子を助けるために王都に赴き、聖女に「元の世界に帰ってほしい」と頼んでいた。
今度は私がそれをやるのだ。「あんたが帰らなきゃ子供は死ぬし私も自殺する」と涙ながらに脅迫すれば多少は聞き入れてもらえると思いたい。
「…しかしロバートがああなった以上、移動手段のあてはあるのか?」
医者は話が早くて助かる。
素直に「ないです」と答えれば、「そうか…」と顎に手を当てて考え込んだ後で、無愛想にスタンリーは告げた。
「分かった。オレが同行しよう」
「えっ」
「これでも元王室付きの医師だったんだ。多少の伝手はある」
そういう経緯で。
私は今度はスタンリーと共に王都に向かうことになった。
ハリーには結局留守番してもらうことになった。
私の子供を見守る役を任せたのだ。
口論していたクリスとリオにはそれぞれ「旦那様の代わりとして屋敷を管理する」「医者の代わりにロバートとヘレンの介護をする」という仕事が割り振りされた。ついでにフレディが二人の補佐に立候補した。
病人がいるのに医者を連れて行って大丈夫なのか?という気持ちもあるが、スタンリー以外に王城まで導いていける人がいないので仕方ない。リオも元々王都で働いていたらしいが流石に城へのコネはないし。
分担が終わった後、クリスにもリオと同じように先日の件を謝罪しに行ったら「君が僕らをどう思っているのかはよく理解したよ」と言われて肝が冷えた。
だが、「でもそれが普通の反応だ。僕が言ってるのは、わざと酷い言い方をして傷つけようとするなってことだ。それに、何を考えていようとわざわざ口に出さなければいいだけのことさ。君は僕じゃないんだからね」と付け加えられて、首の皮が繋がった。
「というかフレディなんかは君よりよっぽど僕に酷い印象を抱いているだろうし、「嫌な風に思ってしまう」といちいち気に病む必要ないぞ」
「な、なるほど…」
この人たちほんと度量が大き過ぎるな…。
「あの子をお願いします」
「何があっても守るよ」
ハリーは力強く頷いて約束してくれた。
彼は記憶喪失だ。だから、彼があらかじめ考えていたであろう子の名前も、今では分からなくなってしまった。
しょうがないことだ。この先二度と記憶が戻らないなんて想像したくもないけど、子供の名前、私も考えておこう。
「アンジェさんこそ、気をつけて。自分の命を軽く捉えないでほしい」
「…はい」
軽はずみに自殺しようとすんなってことだ。分かってる。
私が死ぬのが一番簡単だけど、それはもうできない。私もハリーを少しでも安心させるべく大きく頷いてみせた。
「じゃあ、行ってきます」
そうして私は再び王都へと旅立った。